よあけ

紙仲てとら

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本編

第231話

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 リビングのドアを開けると、タビトはソファに寝床を作っていた。
「俺はこっちで寝るから、ベッド使って」
 チカルはただ、首を横に振る。俯き、口数がめっきり少なくなっている彼女の顔は湯上りとは思えないほど白く、まぶしいほどだった。そのせいか肌に点在する痣の跡がなおさら痛々しく見える。
「遠慮しないで。ね?」
 彼は言い含めて、手の中のタオルケットを広げた。続いて枕がわりのクッションを掴み、慣れた様子でそれらしく整えると、チカルの方に向き直る。
「じゃ、俺もシャワー浴びてこようかな。もう遅いし疲れてるだろうから先に休んでね。――って、髪濡れてるじゃん」
「自然に乾くから……」
 めずらしく歯切れが悪い彼女に、タビトはぴしゃりと言う。
「あったかくなってきたからって油断すると風邪ひくよ」
 彼はすぐに洗面脱衣室からドライヤーとヘアオイルを持ってきた。チカルの肩を抱き寄せると有無を言わさずダイニングの椅子に座らせ、長い黒髪をコームで梳き始める。
「あの……、自分でやります」
「どうせ遠慮して、ササーッと風当てて生乾き状態で済ませるつもりでしょ。俺がやる」
 図星をつかれたチカルはぐっと息を詰めて黙り込んだ。ヘアオイルをつけながら、彼は言葉を継ぐ。
「ドライヤーとかスキンケア用品とか……必要なものぜんぶ、遠慮なく使ってよ」
「でも……」
「でも、は禁止」
 いつだったか同じことを言われたことを思い出し、チカルは下唇を噛んだ。
 髪に指を差し込み、ドライヤーの風を当てる。自分の使っているシャンプーの匂いが彼女からふわりと漂ってきて、タビトはなんとも幸せな気持ちになる。
 チカルの方はといえば、どこか落ち着かない様子だ。だぶつくTシャツの裾を指先でいじっている。
 そのしぐさを見た彼は申し訳なさそうに微笑んだ。
「男物だからちょっと大きいよね、ごめん。あとでチカルさんの部屋着も用意しとくよ」
「貸していただけるだけでありがたいです」
 消え入りそうな声でつぶやいたチカルが頭を垂れる。髪のあいだから透明感のあるうなじが覗き、タビトはごくりと喉を鳴らした。欲念に乱れた心をごまかすように小さく咳払いして、ゆるんだ表情を引き締める。
「風、熱かったらすぐ言ってね」
 かすかに頷いたチカルのやわらかい髪を、宝物を扱うようにやさしく指で梳く。こうしてまじまじ見ると、ところどころに白く光るものが混じっている。
 きれいだと彼は思った。
 チカルは滅多に歯を見せて笑わないが、稀に満面の笑みを浮かべてくれるときがある。彼女の目元や口元に小さな皺がいくつもできて、タビトはそれを見るのがたまらなく好きだった。彼女自身は年齢を重ねることで魅力が増すとは思っていないようだったが――彼にとっては白髪も皺も、チカルのチャームポイントなのだ。
 ドライヤーとブラッシングを終えると、タビトは名残惜しそうに髪から指を離した。そのタイミングで、チカルは彼の方を振り返る。
「ありがとう……」
「どういたしまして」
 はにかむような笑みは少年のそれだ。
 押しつけがましくない、さっぱりした彼の優しさがありがたかった。心が洗われるのを感じながらチカルは、肩に流れる髪に目をやる。毛先はきれいにまとまり、天井からの灯りを受けてつやつやと輝いている。あらぶる癖っ毛に悩まされてきた日々が嘘のようだ。
 信じられない気持ちで髪に触れていると、ドライヤーのコードを束ねながらタビトが言った。
「明日は朝から仕事でいないけど、冷蔵庫とかパントリーにあるものなんでも食べていいよ。映画を観たいときはそこにあるリモコンの――」
「あの……」
 小さく言葉を発し彼の声を遮った彼女は、これまで見たことがないほど恐縮した様子で言う。
「ごめんなさい。君を巻き込むつもりはなかったの……」
「巻き込まれたなんて思ってないよ。俺が勝手に首を突っ込んだんだから」
 さみしく笑って、タビトは続ける。
「チカルさんがナヴィスカフェにいることは、アコから聞いた。断りもなく居場所をバラされて不愉快だろうけど……悪いのはしつこく食い下がって無理に聞き出した俺だから、彼女を責めないであげてほしい」
「――妊娠のことも?」
 あの日、久々にうまい酒を味わい、見事に酔っぱらった。どこまで自分語りをしてしまったのかまったく覚えていないが、もしかしたらこれまでに起こった出来事をつらつらとしゃべってしまったのかもしれない。だとすれば、妊娠という言葉がタビトの口から出てきたのも納得できる。
 しかしタビトは首を横に振った。
「それはアキラから……」
「アキラさん?」
「菫谷マタニティクリニック、って……知ってるよね」
 反応を窺うような、恐る恐ると言った声で尋ねる。ややあって、チカルは怪訝な顔のまま頷いた。
「アキラはそこの院長夫婦の息子なんだ。すこし前に実家に寄ったとき、受付表にチカルさんの名前があるのを偶然見つけて、産科にかかったことを知ったらしい」
「でも……だからってなぜタビト君にその話を?」
「アキラは俺がチカルさんのこと大好きだって知ってるから……その、……」
 急に言い淀んで、彼は顔を俯ける。
「俺が手を出して妊娠させたんじゃないかって勘繰ったみたいで……心当たりがあるのかどうか訊かれたんだ。……それがきっかけでチカルさんのお腹に赤ちゃんがいるかもしれないことを知ったんだよ」
 最初こそチカルは目を丸くして聞いていたが、その表情はどんどん曇っていき、話し終わるころにはひどく険しいものになっている。
「――私に対するタビト君の気持ちをわかっていたとはいえ……妊娠したことに君が関わっているかもしれないだなんて、アキラさんはどうしてそんな思い違いをしたのかしら……」
 苦いものでも食べたかのような顔になった彼女は深く静かに息を吐いて、片手で額を覆う。
「まさか、体の関係があると勘違いさせるようなことを言ってしまったの?」
「言うわけないじゃん!」ぶんぶんと首を横に振って間髪入れずに否定し、「アキラの妄想だよ!勝手に“そういう関係”だって思っ……」
 声を詰まらせ、何度も空気を噛む。顔が真っ赤だ。うぶな反応を見せる青年を瞳に映し、チカルは眉間に入っていた力を抜く。
 それと同時に彼女は、菫谷マタニティクリニック医院長の柔和な笑みを脳裏に描いた。彫りの深い顔立ちや物腰柔らかな雰囲気をアキラの姿に重ねてみれば、確かに似ている。初めて会った気がしなかったのはそういうわけかと、妙に納得してしまう。
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