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本編
第254話
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「ただいま!」
ふんわりとやわらかい光が、玄関ドアを開けたタビトを迎える。
「おかえりなさいませ」
姿を現したチカルは、エプロン姿だ。開け放たれた扉の向こうから、なにやらいい香りが漂ってくる。
「もしかしてなにか作ってくれてるの?」
「豚肉の生姜焼きと、野菜スープを……」
「うれしい!どっちも大好物だよ。ありがとう」
破顔するタビトに違和感を感じてよくよく見れば、深く被ったキャップからのぞく髪の色が変化している。
「髪色、黒に戻したのですね」
チカルの言葉に照れたように笑ってキャップを外すと、前髪を指で乱暴に掻き上げる。さらりと流れる美しい髪に、彼女は思わずみとれてしまう。
「ピンクの方がよかった?」
「どの色でも素敵です」
「ありがと」
いつもの、キツネのようなかわいらしい笑顔を見せるタビトに、チカルの心は甘く締めつけられる。
「ねえ、タビト君……」
「ん?なあに?」
「――あの……実はね……」
チケットを手に入れることができたと報告したときのタビトは、驚きのあまり言葉が出ないようだった。自室から持ってきたそれを見せると、彼はさらに目を丸くしてようやく驚嘆の声をあげる。
「ほんとだ……すごい!どうやって手に入れたの?!」
「レコードショップの店員さんがチケットを分配してくださったの。リセール?……で手に入れることができたからどうぞ、って」
「わあ……よかったね!」チケットをまじまじと見つめたタビトは、その場で飛び跳ね子どものようにはしゃぐ。「チカルさんが来てくれる!やったあ!」
頬を染めて彼女はほほえむ。タビトはその小さな手をきゅっと包み込むと、力強い声で言った。
「絶対かっこいいステージにするからね!期待してて!」
――その翌日。
タビトは浮かない顔でオフィスウイルドに現れた。事務所奥にある会議室に入ると、そこには朝食のサンドイッチを齧っているアキラがいる。
「おはよー」
声を掛けつつ雑誌から目を上げた彼はタビトを見るなりぎょっとして、思わず叫んだ。
「うわ、顔色わるっ」
「一睡もできなかった」
長机にぐったりと突っ伏し、深い溜息をつく。
「どしたの」
アキラは雑誌に目を落としたまま問うた。尋ねてきたわりに興味なさそうだ。
「レコードショップの店員……」
「は?」
「――レコードショップの店員だよ……」
「だからあ……なんなのそれ?」
組んだ両腕に埋めていた顔をわずかにあげて、湿った視線をアキラに投げる。
「チカルさんの知り合い……友達かな……?……の、レコードショップの店員のことが気になって眠れなかった」
「男かも、って?」
タビトは再び突っ伏して、うんともすんとも答えない。
「くだらなすぎ……。てかおまえ、そんなに嫉妬深かったっけ」
「付き合ってた彼女が男友達と遊んでてもなにも思わなかったのに……こんな気持ちになったことないからどうしたらいいかわかんないよ……」
「チカルさん、恋人と同棲してんでしょ?その事実は受け入れてんのになんでそんなことでやきもきしてるわけ?」
「今はもう、状況が違う」
「理解できないな」雑誌のページを繰りつつ、「その店員さんのこと、チカルさんに詳しく聞かなかったの?」
「聞けなかった。話を切り出したら根掘り葉掘り聞いちゃいそうで……」
「そんなに病むくらいなら聞いときゃよかったのに」
「……面倒な男って思われたくなかったんだもん」
「そういうとこがめんどくさいんだよ」
「その店員に5月1日のフェスのチケットを譲ってもらったんだって。待ち合わせて、一緒に会場に行くんだって……。男かな……男かもしれない……男だったらどうしよ……」
「ま、どうしようもないね。タビトはただの友達だし。異性との交友関係に口出せるとしたらチカルさんの恋人だけだよ」
軽い口調で言い放ち、サンドイッチの最後のひとかけらを口に押し込む。
「そういえば、チカルさんのお腹の子の話……あれからなんか聞いた?」
「赤ちゃんはいなかった。……あと……彼氏とは別れたって」
「――そうだったんだ」
しんみりとアキラが言う。
「同棲解消か……家探しとかいろいろ大変だっただろうね。で、今どのあたりに住んでるの?」
ぎょっとした顔で声を詰まらせるタビト。そんな彼を見て、アキラは首を傾げつつさらに問う。
「聞いてないの?その辺の話。だめだよちゃんとしないと……交通費とかの関係で月額が変わるなら雇用契約書を書き直したりしないといけないでしょ?」
「あー、……それは、そうか……そうだよねえ……」
「もしかしたらチカルさん、住所が変更になったことを会社に伝えるのを忘れてるのかな。このままじゃまずいし、ホズミさんから連絡してもらいなよ」
「えっ」
「事務所が支払いしてんだからホズミさんを通した方がいいでしょ?」
「たっ、たぶん住所は変わらないんじゃないかなー……?相手の方が出ていったってチカルさんが話してたような気が……」
「……。ほんとに?」
アキラの声のトーンが低くなる。
「銀行員の彼氏と目黒区のタワマンに住んでるってホズミさんから聞いたよ。あのあたりの家賃ってどこも数十万はかたいよね……。そうなると非正規雇用のチカルさんじゃなくて銀行員の彼の方が契約者って考えるのが自然だと思うんだけど」
タビトの目が泳いだ。それをアキラは見逃さない。
「おまえの言う通り相手の方が出ていったなら……名義変更も難しいだろうし、彼が契約者になってるまま住み続けることになるね。――元カレとの繋がりが残る部屋で月数十万払いながら暮らす……チカルさんがそんなことするかな」
「……アキラ……お願いだからそんな怖い顔しないでよ、……ね?」
タビトは引きつった笑みを顔に貼り付け、震え声で言う。
アキラも口角に笑みを刻んだが、目が笑っていない。がたと大きな音を立てて立ち上がったかと思うと、タビトの背後に回り込み首根っこを掴む。そして冷たい表情を浮かべた顔を近づけた。
「タビトくーん……。この俺に隠し事するなんていい度胸してんじゃん……」
これ以上嘘をついたら、バレたとき血を見ることになるかもしれない――タビトは背筋を震わせ、青褪めた顔でアキラを凝視する。やがて彼は弱々しく両手をあげて降参のポーズを取り、言の顛末を包み隠さず話した。
ふんわりとやわらかい光が、玄関ドアを開けたタビトを迎える。
「おかえりなさいませ」
姿を現したチカルは、エプロン姿だ。開け放たれた扉の向こうから、なにやらいい香りが漂ってくる。
「もしかしてなにか作ってくれてるの?」
「豚肉の生姜焼きと、野菜スープを……」
「うれしい!どっちも大好物だよ。ありがとう」
破顔するタビトに違和感を感じてよくよく見れば、深く被ったキャップからのぞく髪の色が変化している。
「髪色、黒に戻したのですね」
チカルの言葉に照れたように笑ってキャップを外すと、前髪を指で乱暴に掻き上げる。さらりと流れる美しい髪に、彼女は思わずみとれてしまう。
「ピンクの方がよかった?」
「どの色でも素敵です」
「ありがと」
いつもの、キツネのようなかわいらしい笑顔を見せるタビトに、チカルの心は甘く締めつけられる。
「ねえ、タビト君……」
「ん?なあに?」
「――あの……実はね……」
チケットを手に入れることができたと報告したときのタビトは、驚きのあまり言葉が出ないようだった。自室から持ってきたそれを見せると、彼はさらに目を丸くしてようやく驚嘆の声をあげる。
「ほんとだ……すごい!どうやって手に入れたの?!」
「レコードショップの店員さんがチケットを分配してくださったの。リセール?……で手に入れることができたからどうぞ、って」
「わあ……よかったね!」チケットをまじまじと見つめたタビトは、その場で飛び跳ね子どものようにはしゃぐ。「チカルさんが来てくれる!やったあ!」
頬を染めて彼女はほほえむ。タビトはその小さな手をきゅっと包み込むと、力強い声で言った。
「絶対かっこいいステージにするからね!期待してて!」
――その翌日。
タビトは浮かない顔でオフィスウイルドに現れた。事務所奥にある会議室に入ると、そこには朝食のサンドイッチを齧っているアキラがいる。
「おはよー」
声を掛けつつ雑誌から目を上げた彼はタビトを見るなりぎょっとして、思わず叫んだ。
「うわ、顔色わるっ」
「一睡もできなかった」
長机にぐったりと突っ伏し、深い溜息をつく。
「どしたの」
アキラは雑誌に目を落としたまま問うた。尋ねてきたわりに興味なさそうだ。
「レコードショップの店員……」
「は?」
「――レコードショップの店員だよ……」
「だからあ……なんなのそれ?」
組んだ両腕に埋めていた顔をわずかにあげて、湿った視線をアキラに投げる。
「チカルさんの知り合い……友達かな……?……の、レコードショップの店員のことが気になって眠れなかった」
「男かも、って?」
タビトは再び突っ伏して、うんともすんとも答えない。
「くだらなすぎ……。てかおまえ、そんなに嫉妬深かったっけ」
「付き合ってた彼女が男友達と遊んでてもなにも思わなかったのに……こんな気持ちになったことないからどうしたらいいかわかんないよ……」
「チカルさん、恋人と同棲してんでしょ?その事実は受け入れてんのになんでそんなことでやきもきしてるわけ?」
「今はもう、状況が違う」
「理解できないな」雑誌のページを繰りつつ、「その店員さんのこと、チカルさんに詳しく聞かなかったの?」
「聞けなかった。話を切り出したら根掘り葉掘り聞いちゃいそうで……」
「そんなに病むくらいなら聞いときゃよかったのに」
「……面倒な男って思われたくなかったんだもん」
「そういうとこがめんどくさいんだよ」
「その店員に5月1日のフェスのチケットを譲ってもらったんだって。待ち合わせて、一緒に会場に行くんだって……。男かな……男かもしれない……男だったらどうしよ……」
「ま、どうしようもないね。タビトはただの友達だし。異性との交友関係に口出せるとしたらチカルさんの恋人だけだよ」
軽い口調で言い放ち、サンドイッチの最後のひとかけらを口に押し込む。
「そういえば、チカルさんのお腹の子の話……あれからなんか聞いた?」
「赤ちゃんはいなかった。……あと……彼氏とは別れたって」
「――そうだったんだ」
しんみりとアキラが言う。
「同棲解消か……家探しとかいろいろ大変だっただろうね。で、今どのあたりに住んでるの?」
ぎょっとした顔で声を詰まらせるタビト。そんな彼を見て、アキラは首を傾げつつさらに問う。
「聞いてないの?その辺の話。だめだよちゃんとしないと……交通費とかの関係で月額が変わるなら雇用契約書を書き直したりしないといけないでしょ?」
「あー、……それは、そうか……そうだよねえ……」
「もしかしたらチカルさん、住所が変更になったことを会社に伝えるのを忘れてるのかな。このままじゃまずいし、ホズミさんから連絡してもらいなよ」
「えっ」
「事務所が支払いしてんだからホズミさんを通した方がいいでしょ?」
「たっ、たぶん住所は変わらないんじゃないかなー……?相手の方が出ていったってチカルさんが話してたような気が……」
「……。ほんとに?」
アキラの声のトーンが低くなる。
「銀行員の彼氏と目黒区のタワマンに住んでるってホズミさんから聞いたよ。あのあたりの家賃ってどこも数十万はかたいよね……。そうなると非正規雇用のチカルさんじゃなくて銀行員の彼の方が契約者って考えるのが自然だと思うんだけど」
タビトの目が泳いだ。それをアキラは見逃さない。
「おまえの言う通り相手の方が出ていったなら……名義変更も難しいだろうし、彼が契約者になってるまま住み続けることになるね。――元カレとの繋がりが残る部屋で月数十万払いながら暮らす……チカルさんがそんなことするかな」
「……アキラ……お願いだからそんな怖い顔しないでよ、……ね?」
タビトは引きつった笑みを顔に貼り付け、震え声で言う。
アキラも口角に笑みを刻んだが、目が笑っていない。がたと大きな音を立てて立ち上がったかと思うと、タビトの背後に回り込み首根っこを掴む。そして冷たい表情を浮かべた顔を近づけた。
「タビトくーん……。この俺に隠し事するなんていい度胸してんじゃん……」
これ以上嘘をついたら、バレたとき血を見ることになるかもしれない――タビトは背筋を震わせ、青褪めた顔でアキラを凝視する。やがて彼は弱々しく両手をあげて降参のポーズを取り、言の顛末を包み隠さず話した。
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