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本編
第263話
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「ヤスケ先生の次男が本部を東京に移すことに反対してるんだ。どうしてもトキワには任せたくないらしくてな……」
「トキワ先輩に引き受ける意思はあるのですか?」
「それがなあ……トキワの方も嫌がってるんだよ。あいつは責任を背負わされるのが大っ嫌いだからさ。重鎮の爺さん連中が、後継にふさわしいのはトキワしかいないと騒いでるだけなんだ」
彼の言う重鎮とは、ヤスケと共に道場を支えてきたメンバーである。ヤスケの同窓や後輩で構成されたOB会は今も銀湾会全体にかなりの影響力を持っている。
「俺は就任に反対してるわけじゃないが……あいつにそういう立場は向かないだろうとは思う。人に教えるのは性に合わないって愚痴ってたくらいだし、仙寿道場のトップにすらなりたくなかったみたいだから。爺さんたちもトキワのそういう性格は知ってるだろうけどさ……あいつはとにかく顔がいいし、ご婦人やお嬢さん方に大人気だからね。指導力よりもその集客力をあてにしてんだろう」
チカルもおおむね同じ意見だ。トキワに銀湾会を牽引する人間力があるとは思えない。なにせ、稽古の最中にしょっちゅう道場を抜け出していたし、ナルカミと共に下級生の指導を任されたときも協力しようとせず道場の隅に寝転がって本を読んでいたくらいだ。気が乗らないといって昇段試験に来なかったこともある。
周囲は彼のことを自由人だと笑っていたが、彼の自由気儘な行動に翻弄され、ときに割を食うこともあったナルカミを間近で見ていたチカルには、我儘で自分本位な男に映った。
「ヤスケ先生はチカルさんに継いでもらいたいと今も強く願っているようだし、この話し合いはまだ長引きそうだな」
ヤスケが自分の後継として望んでいる人物のことを、OB会の者たちがどう考えているのか……チカルにそれを聞く勇気はなかった。
「そんな暗い顔をするなよ」心中を察したか、軽やかに笑いかけたナルカミは自分の席に座ってチカルを見上げる。「大丈夫、いつかは丸く収まるさ」
「――そうですね」
「さて、チカルさんも元気になって戻ってきてくれたことだし、また道場に活気が戻るな。今日は指導担当の日じゃないがどうする?俺と一緒に高学年の子たちを――」
「先輩」表情を硬くしたチカルは、ごくりと喉を鳴らしたのちに続ける。「今日はお話があって来ました」
「なんだ、改まって。どうした?」ナルカミが真剣な顔になった瞬間、表が騒がしくなった。見れば、生徒たちが子犬のようにじゃれ合いながら出入口のガラス扉を押し開けて入ってくる。
「場所を変えようか」
2階のミーティングルームに移動したチカルとナルカミは、長テーブルを挟んで向い合わせに座る。
「話って?」
重い空気を掻き消そうとするようにことさら明るく問うたナルカミは、紙カップの中身を飲む。チカルは目を伏せ、一心に手元を見つめていたが――やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「指導員を辞めようと思っています」
予想外の言葉に吃驚してコーヒーが気道に入り、ナルカミは盛大に噎せた。
「やっ、辞める?!」
目を白黒させながらそう叫んだきり絶句している彼に、チカルは静かに言葉を継ぐ。
「少し前に家事代行会社の社長が、正社員登用の話を持ち掛けてくださったのです。そのときはお断りしたのですが……やはり引き受けようかと……」
「そうか……」
小さくつぶやいて、彼は顎に薄く生えた無精髭をさすりながら沈黙する。ゆっくりと紙カップをテーブルに置いた彼は、ひどく悲しそうな顔で言った。
「もう決めたんだな」
先ほどの、コハラとマミヤの嬉しそうな顔が脳裏にちらつく。胸が痛むのを感じながらも、チカルは頷いた。
「正社員になると副業は禁止なので、ボランティアで指導員を続けることも考えたのですが」
「ボランティア?それはだめだ。やりがい搾取はしたくない」
「そう言われると思いました……」
椅子に凭れたナルカミは天井を仰ぎ、難しい顔で唸る。
「一度は断ったのにどうして今になって正社員になろうと思い立ったんだ?」
「――実は……シュンヤと別れて、一緒に暮らしていたマンションを出たんです」
ナルカミはわずかに目を瞠ったが、言及することはせず黙ってチカルの話を聞いている。
「ホテルやネットカフェを転々としながら新居を探したのですが、非正規雇用者なうえに保証人も立てられないとなるとなかなか良い物件が見つからず……まだ家が決まっていない状態で……」
連帯保証人を親族に頼まない理由は聞かなくてもわかっていた。チカルの母と祖母が彼女にしてきた仕打ちを知りながら、頼んでみたらどうかなどと言葉を掛けられるはずもない。ナルカミは、未だに彼女を苦しめ悩ませる心の傷を見たような気がした。
「いろいろあって今は、家事代行の仕事関係でお世話になっている方の家に居候させていただいています。いつまでもお世話になるわけにいきませんし、なるべく早く住まいを見つけないとなりません。かんなぎ道場を離れたくない気持ちはありますが、正社員になれば今よりも部屋を契約しやすくなるので……やむなく道場を去る選択をした次第です」
「話はわかった」
ナルカミはめずらしく沈鬱な面持ちで目を伏せる。
「うちで正社員として雇えればよかったんだが……すまない」
込み上げてきた感情に胸がつまり、チカルは膝の上に置いた手を固く握りしめて頭を下げた。
「私の方こそ……突然、ごめんなさい」
彼は華奢な腕を組み、しばらく沈黙のなかで考え込んでいたが、やがて目を上げチカルの顔を覗き込むように見た。
「ひとつ提案があるんだけど、いいか?」
「はい」
「俺の隣の部屋に住む浪人生がちょっと前に、大学入試に落ちたから近々田舎に帰ると言っていたんだ。本気かどうかはわからんが、それからどうなったか大家に聞いてみるよ。もし話の通りに部屋が空いたら、そこに入居するというのはどうだ」
チカルの表情は冴えない。不安と期待に揺れている彼女を見つめていたナルカミは表情の強張りを解いて続けた。
「身よりのない老人から苦学生、俺みたいな低所得の男やもめまでいろんな人間が住むアパートだし、入居審査はそれほど厳しくないはずだ。雇用形態関係なくきちんと働いて収入があれば問題ないと思うよ。そこに住むことができれば、今まで通りふたつの仕事を両立できるんじゃないか?指導員の仕事を続けたいと思ってるなら、考えてみてくれ」
チカルは以前、コハラとマミヤと一緒にナルカミの家に遊びに行ったことがある。6畳一間、バストイレ付き。駅まで歩いて10分で、この道場まではたったの5分だ。
よくあるこぢんまりとした木造アパートで、オートロックや防犯カメラなどのセキュリティシステムはない。建物は年季が入っているもののすっきりと美しく、垣根もきちんと手入れされていた。
「築50年以上の古いアパートだけど住み心地の良さは保証する。チカルさんは妹同然だ……もし保証人がいなければ貸せないと断られたら、俺がなってやるから安心しな」
「――先輩……私、なんと言ったらいいか……」
「指導員を辞めても、合気道の道が絶たれるわけじゃないぞ。生徒として道場に入門するっていう手もある。チカルさんがそれで納得できるなら正社員になるべきだよ。社会的信用度が高いのは確かだし、給与も安定してるからな。重要なのはチカルさんが、合気道に今後どう関わっていきたいか……生徒として修行を積めればいいのか、指導者として後進を育てたいのか、そこだと思う」
ナルカミによって言語化された選択肢は、チカルに強い衝撃をもたらした。絡まっていた思考の糸をほどいてもらったかのような気持ちで、目の前の兄弟子を見つめる。
「どういう選択をするにせよ、アパートのことは大家に聞いておくからさ。もし当てが外れても、まあ、なんとかなるだろ。――いや、絶対になんとかするさ」
「トキワ先輩に引き受ける意思はあるのですか?」
「それがなあ……トキワの方も嫌がってるんだよ。あいつは責任を背負わされるのが大っ嫌いだからさ。重鎮の爺さん連中が、後継にふさわしいのはトキワしかいないと騒いでるだけなんだ」
彼の言う重鎮とは、ヤスケと共に道場を支えてきたメンバーである。ヤスケの同窓や後輩で構成されたOB会は今も銀湾会全体にかなりの影響力を持っている。
「俺は就任に反対してるわけじゃないが……あいつにそういう立場は向かないだろうとは思う。人に教えるのは性に合わないって愚痴ってたくらいだし、仙寿道場のトップにすらなりたくなかったみたいだから。爺さんたちもトキワのそういう性格は知ってるだろうけどさ……あいつはとにかく顔がいいし、ご婦人やお嬢さん方に大人気だからね。指導力よりもその集客力をあてにしてんだろう」
チカルもおおむね同じ意見だ。トキワに銀湾会を牽引する人間力があるとは思えない。なにせ、稽古の最中にしょっちゅう道場を抜け出していたし、ナルカミと共に下級生の指導を任されたときも協力しようとせず道場の隅に寝転がって本を読んでいたくらいだ。気が乗らないといって昇段試験に来なかったこともある。
周囲は彼のことを自由人だと笑っていたが、彼の自由気儘な行動に翻弄され、ときに割を食うこともあったナルカミを間近で見ていたチカルには、我儘で自分本位な男に映った。
「ヤスケ先生はチカルさんに継いでもらいたいと今も強く願っているようだし、この話し合いはまだ長引きそうだな」
ヤスケが自分の後継として望んでいる人物のことを、OB会の者たちがどう考えているのか……チカルにそれを聞く勇気はなかった。
「そんな暗い顔をするなよ」心中を察したか、軽やかに笑いかけたナルカミは自分の席に座ってチカルを見上げる。「大丈夫、いつかは丸く収まるさ」
「――そうですね」
「さて、チカルさんも元気になって戻ってきてくれたことだし、また道場に活気が戻るな。今日は指導担当の日じゃないがどうする?俺と一緒に高学年の子たちを――」
「先輩」表情を硬くしたチカルは、ごくりと喉を鳴らしたのちに続ける。「今日はお話があって来ました」
「なんだ、改まって。どうした?」ナルカミが真剣な顔になった瞬間、表が騒がしくなった。見れば、生徒たちが子犬のようにじゃれ合いながら出入口のガラス扉を押し開けて入ってくる。
「場所を変えようか」
2階のミーティングルームに移動したチカルとナルカミは、長テーブルを挟んで向い合わせに座る。
「話って?」
重い空気を掻き消そうとするようにことさら明るく問うたナルカミは、紙カップの中身を飲む。チカルは目を伏せ、一心に手元を見つめていたが――やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「指導員を辞めようと思っています」
予想外の言葉に吃驚してコーヒーが気道に入り、ナルカミは盛大に噎せた。
「やっ、辞める?!」
目を白黒させながらそう叫んだきり絶句している彼に、チカルは静かに言葉を継ぐ。
「少し前に家事代行会社の社長が、正社員登用の話を持ち掛けてくださったのです。そのときはお断りしたのですが……やはり引き受けようかと……」
「そうか……」
小さくつぶやいて、彼は顎に薄く生えた無精髭をさすりながら沈黙する。ゆっくりと紙カップをテーブルに置いた彼は、ひどく悲しそうな顔で言った。
「もう決めたんだな」
先ほどの、コハラとマミヤの嬉しそうな顔が脳裏にちらつく。胸が痛むのを感じながらも、チカルは頷いた。
「正社員になると副業は禁止なので、ボランティアで指導員を続けることも考えたのですが」
「ボランティア?それはだめだ。やりがい搾取はしたくない」
「そう言われると思いました……」
椅子に凭れたナルカミは天井を仰ぎ、難しい顔で唸る。
「一度は断ったのにどうして今になって正社員になろうと思い立ったんだ?」
「――実は……シュンヤと別れて、一緒に暮らしていたマンションを出たんです」
ナルカミはわずかに目を瞠ったが、言及することはせず黙ってチカルの話を聞いている。
「ホテルやネットカフェを転々としながら新居を探したのですが、非正規雇用者なうえに保証人も立てられないとなるとなかなか良い物件が見つからず……まだ家が決まっていない状態で……」
連帯保証人を親族に頼まない理由は聞かなくてもわかっていた。チカルの母と祖母が彼女にしてきた仕打ちを知りながら、頼んでみたらどうかなどと言葉を掛けられるはずもない。ナルカミは、未だに彼女を苦しめ悩ませる心の傷を見たような気がした。
「いろいろあって今は、家事代行の仕事関係でお世話になっている方の家に居候させていただいています。いつまでもお世話になるわけにいきませんし、なるべく早く住まいを見つけないとなりません。かんなぎ道場を離れたくない気持ちはありますが、正社員になれば今よりも部屋を契約しやすくなるので……やむなく道場を去る選択をした次第です」
「話はわかった」
ナルカミはめずらしく沈鬱な面持ちで目を伏せる。
「うちで正社員として雇えればよかったんだが……すまない」
込み上げてきた感情に胸がつまり、チカルは膝の上に置いた手を固く握りしめて頭を下げた。
「私の方こそ……突然、ごめんなさい」
彼は華奢な腕を組み、しばらく沈黙のなかで考え込んでいたが、やがて目を上げチカルの顔を覗き込むように見た。
「ひとつ提案があるんだけど、いいか?」
「はい」
「俺の隣の部屋に住む浪人生がちょっと前に、大学入試に落ちたから近々田舎に帰ると言っていたんだ。本気かどうかはわからんが、それからどうなったか大家に聞いてみるよ。もし話の通りに部屋が空いたら、そこに入居するというのはどうだ」
チカルの表情は冴えない。不安と期待に揺れている彼女を見つめていたナルカミは表情の強張りを解いて続けた。
「身よりのない老人から苦学生、俺みたいな低所得の男やもめまでいろんな人間が住むアパートだし、入居審査はそれほど厳しくないはずだ。雇用形態関係なくきちんと働いて収入があれば問題ないと思うよ。そこに住むことができれば、今まで通りふたつの仕事を両立できるんじゃないか?指導員の仕事を続けたいと思ってるなら、考えてみてくれ」
チカルは以前、コハラとマミヤと一緒にナルカミの家に遊びに行ったことがある。6畳一間、バストイレ付き。駅まで歩いて10分で、この道場まではたったの5分だ。
よくあるこぢんまりとした木造アパートで、オートロックや防犯カメラなどのセキュリティシステムはない。建物は年季が入っているもののすっきりと美しく、垣根もきちんと手入れされていた。
「築50年以上の古いアパートだけど住み心地の良さは保証する。チカルさんは妹同然だ……もし保証人がいなければ貸せないと断られたら、俺がなってやるから安心しな」
「――先輩……私、なんと言ったらいいか……」
「指導員を辞めても、合気道の道が絶たれるわけじゃないぞ。生徒として道場に入門するっていう手もある。チカルさんがそれで納得できるなら正社員になるべきだよ。社会的信用度が高いのは確かだし、給与も安定してるからな。重要なのはチカルさんが、合気道に今後どう関わっていきたいか……生徒として修行を積めればいいのか、指導者として後進を育てたいのか、そこだと思う」
ナルカミによって言語化された選択肢は、チカルに強い衝撃をもたらした。絡まっていた思考の糸をほどいてもらったかのような気持ちで、目の前の兄弟子を見つめる。
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