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本編
第356話
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「セナ!」
タビトの声に、彼はゆっくりと顔を上げる。
「――タビ、ト……」
名を口にした瞬間、大きな瞳から安堵の涙がこぼれ頬を伝った。弾かれたように駆け出したタビトは、男を押しのけてセナを抱きかかえる。彼の唇や胸元が嘔吐物で汚れているのを見て、タビトは蒼白の顔で問うた。
「セナ……セナ、大丈夫?!なにがあったの……」
「それ、返してくれないか」
優雅な足取りで歩いてきたサシャがセナを指差して言う。その声は穏やかでありながら、拒否することを許さないという響きがあった。
肩越しに振り返ったタビトは目線をきつくし声を低める。
「絶対に渡さない」
怒りに満ちた瞳に睨み据えられるも、サシャは薄く笑っている。手のなかのグラスを揺らしながらセナに視線を移し、よく通る声で命じた。
「おい。俺を見ろ」
誰に言っているのかすぐにわかって、セナはゆっくりと面を上げた。
「戻って来い」
短いその言葉に胸を冷たく貫かれ、震えながら背中を丸めたセナはタビトにすがりつく。
黙ってセナを見つめているサシャの前に立ちはだかったアキラは、小柄な彼を見下ろして言い放った。
「これでも、誰の恨みも買ってないって言えるんですか?」
サシャは表情を変えずアキラを見遣って、それから再びセナを見た。
「――なんて恩知らずな子だろう。あんなによくしてやったのに」
そっと目を上げて声の方を見遣ったセナは、表情をなくしたまま口を開く。
「僕……あなたのファンだったこと、後悔してます。我を忘れるくらい夢中になって、サシャがロールモデルだなんて周りに言ってた自分が恥ずかしい」
落ち着いた静かな声だった。その白い頬には涙の跡があるだけで、今はもう、泣いてはいない。
「ファンでいたことを後悔されるって……それ、アイドルとして終わってますよ」
そう言った彼はもう二度と、サシャの方を見なかった。
「終わってる、だって?」サシャがつぶやく。「キミは俺を怒らせるのが本当にうまいな。それだけは認めてやる」
このとき初めて彼の顔に表情らしい表情が浮かんだ。それは、憎悪に歪む悪鬼の形相であった。
「このままで済むと思うなよ。おまえたちだけは必ず消す。覚悟しとけ」
メンバーを乗せた車は、アキラの実家に向かった。
それぞれの家に帰ろうと誰も言い出さないのを見た運転手のアキラが自ら提案し、彼らを連れていった。ふだん実家を避けているのにそうしたのは、アキラもまた、今夜はこの4人と別れ難かったからである。5人で宿泊できる場所を考えたとき、ここしかないと考えたのだった。
突然現れた若者らを迎えたのはアキラの母だ。
「ごめんね母さん。こんな時間に」
アキラは顔を下に向けたまま、そっけない口調で言う。
「セナの足の怪我、手当てしてくれたんだって?……ありがとう」
彼女はかすかに笑って、首を横に振った。
その夜、タビトたちはセナになにも聞こうとしなかった。
ゲストルームを貸してもらい各々そこで休んだ。眠りに落ちるまでのあいだ、セナはデビューする前からこれまでのことを、延々と考え続けた。
――アキラに初めて会ったのはオフィスウイルドの練習室だ。
オーディションに合格し晴れてアイドル候補生となってから、セナはダンスレッスンやボイストレーニングに明け暮れる日々を送っていた。そんなある日、いつものように練習室を訪れると、アキラの姿があった。容姿に優れた男たちをオーディション会場で何十人と見たが、アキラは彼らと比較にならないほど美しかった。内側から光るような美貌は、まさしくスターであった。
ウル・ラドがバンドではなくアイドルグループとしてデビューすると決まったとき、10人近くいる候補生の中からセナを選抜したのはアキラだ。社長から話があるより前に、メンバーになってもらいたいと彼から直接言われ、二つ返事で頷いたことをセナは今でも鮮明に覚えている。
それからヤヒロとも知り合いになり、3人は仲を深めていった。ヤヒロのモデル仲間であったユウと親しくなりアイドルの道に彼を誘って――そして、最後のメンバーとしてタビトが仲間に加わった。
これまで実にいろいろなことがあった。デビュー前から数年間……笑って泣いて、ときにはけんかもしながら、ひとつ屋根の下で肩を寄せ合い暮らしたことを懐かしく思い出す。もっとも印象深く忘れられないのは、出演を熱望していた地上波の有名音楽番組で初めてステージを披露した夜のこと。初出演を祝してホズミが買ってくれたホールケーキを、切り分けもしないで、フォークで直接、豪快に食らった。
あの頃のような関係には、もう戻れない。
口元をクリームだらけにして無邪気に笑う4人の顔がはっきりとまぶたの裏に浮かんで、涙がとまらなくなった。
タビトの声に、彼はゆっくりと顔を上げる。
「――タビ、ト……」
名を口にした瞬間、大きな瞳から安堵の涙がこぼれ頬を伝った。弾かれたように駆け出したタビトは、男を押しのけてセナを抱きかかえる。彼の唇や胸元が嘔吐物で汚れているのを見て、タビトは蒼白の顔で問うた。
「セナ……セナ、大丈夫?!なにがあったの……」
「それ、返してくれないか」
優雅な足取りで歩いてきたサシャがセナを指差して言う。その声は穏やかでありながら、拒否することを許さないという響きがあった。
肩越しに振り返ったタビトは目線をきつくし声を低める。
「絶対に渡さない」
怒りに満ちた瞳に睨み据えられるも、サシャは薄く笑っている。手のなかのグラスを揺らしながらセナに視線を移し、よく通る声で命じた。
「おい。俺を見ろ」
誰に言っているのかすぐにわかって、セナはゆっくりと面を上げた。
「戻って来い」
短いその言葉に胸を冷たく貫かれ、震えながら背中を丸めたセナはタビトにすがりつく。
黙ってセナを見つめているサシャの前に立ちはだかったアキラは、小柄な彼を見下ろして言い放った。
「これでも、誰の恨みも買ってないって言えるんですか?」
サシャは表情を変えずアキラを見遣って、それから再びセナを見た。
「――なんて恩知らずな子だろう。あんなによくしてやったのに」
そっと目を上げて声の方を見遣ったセナは、表情をなくしたまま口を開く。
「僕……あなたのファンだったこと、後悔してます。我を忘れるくらい夢中になって、サシャがロールモデルだなんて周りに言ってた自分が恥ずかしい」
落ち着いた静かな声だった。その白い頬には涙の跡があるだけで、今はもう、泣いてはいない。
「ファンでいたことを後悔されるって……それ、アイドルとして終わってますよ」
そう言った彼はもう二度と、サシャの方を見なかった。
「終わってる、だって?」サシャがつぶやく。「キミは俺を怒らせるのが本当にうまいな。それだけは認めてやる」
このとき初めて彼の顔に表情らしい表情が浮かんだ。それは、憎悪に歪む悪鬼の形相であった。
「このままで済むと思うなよ。おまえたちだけは必ず消す。覚悟しとけ」
メンバーを乗せた車は、アキラの実家に向かった。
それぞれの家に帰ろうと誰も言い出さないのを見た運転手のアキラが自ら提案し、彼らを連れていった。ふだん実家を避けているのにそうしたのは、アキラもまた、今夜はこの4人と別れ難かったからである。5人で宿泊できる場所を考えたとき、ここしかないと考えたのだった。
突然現れた若者らを迎えたのはアキラの母だ。
「ごめんね母さん。こんな時間に」
アキラは顔を下に向けたまま、そっけない口調で言う。
「セナの足の怪我、手当てしてくれたんだって?……ありがとう」
彼女はかすかに笑って、首を横に振った。
その夜、タビトたちはセナになにも聞こうとしなかった。
ゲストルームを貸してもらい各々そこで休んだ。眠りに落ちるまでのあいだ、セナはデビューする前からこれまでのことを、延々と考え続けた。
――アキラに初めて会ったのはオフィスウイルドの練習室だ。
オーディションに合格し晴れてアイドル候補生となってから、セナはダンスレッスンやボイストレーニングに明け暮れる日々を送っていた。そんなある日、いつものように練習室を訪れると、アキラの姿があった。容姿に優れた男たちをオーディション会場で何十人と見たが、アキラは彼らと比較にならないほど美しかった。内側から光るような美貌は、まさしくスターであった。
ウル・ラドがバンドではなくアイドルグループとしてデビューすると決まったとき、10人近くいる候補生の中からセナを選抜したのはアキラだ。社長から話があるより前に、メンバーになってもらいたいと彼から直接言われ、二つ返事で頷いたことをセナは今でも鮮明に覚えている。
それからヤヒロとも知り合いになり、3人は仲を深めていった。ヤヒロのモデル仲間であったユウと親しくなりアイドルの道に彼を誘って――そして、最後のメンバーとしてタビトが仲間に加わった。
これまで実にいろいろなことがあった。デビュー前から数年間……笑って泣いて、ときにはけんかもしながら、ひとつ屋根の下で肩を寄せ合い暮らしたことを懐かしく思い出す。もっとも印象深く忘れられないのは、出演を熱望していた地上波の有名音楽番組で初めてステージを披露した夜のこと。初出演を祝してホズミが買ってくれたホールケーキを、切り分けもしないで、フォークで直接、豪快に食らった。
あの頃のような関係には、もう戻れない。
口元をクリームだらけにして無邪気に笑う4人の顔がはっきりとまぶたの裏に浮かんで、涙がとまらなくなった。
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