よあけ

紙仲てとら

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本編

第374話

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 ムナカタと食事を共にしてから数週間後、ホテル生活から解放されアパートに戻ったチカルは、一通の手紙を書いた。
 それからさらに時は流れ、12月。
 用意しておいた手紙を長年愛用しているボストンバッグに入れてファスナーを閉め、彼女は静かに立ち上がった。そして、家具家電のなくなったがらんどうの空間に佇む。
 手に提げた鞄は、ずしりと重い。これまでボストンバッグ1つ分以上のものは持たずに生きてきたのに、いつのまにか大切なものが増えていたようだ。
 ぱんぱんに膨らんだ古い鞄を片手に小さな住まいに別れを告げ、チカルは人々が忙しなく行き交う街を歩き出す。コートのポケットの中には、タビトからもらったモニピポのキーホルダーが入っており、チカルが歩くたびにかすかな音を立てていた。
 目黒駅で新幹線のチケットを購入してから、ホズミに電話をかける。恵比寿駅前で待ち合わせ、彼の運転する車でタビトの元へ向かった。
 彼の住むマンションに行くのはあの事件が起こって以来初めてだ。かつてあちこちに潜んでいた報道関係者の姿はなく、マンション周辺はすっかり静まり返っている。
 車は地下駐車場に入った。運転中ずっと黙っていたホズミはエンジンを切ってようやく唇を開く。
「本当にタビトとの関係を終わりにするつもりですか?」
 感情の見えない、平坦な声で問う。しかしその横顔には明らかな悲しみがあった。
 チカルは斜め後ろの席から彼を見つめて、浅く頷く。
「ホズミさん……今まで本当にお世話になりました。埜石様としあわせな時間を過ごせたのは、ホズミさんのおかげです」
 ありがとうございました。そう続け、彼女は深々と頭を下げる。
 ホズミはかすかに首を横に振った。
「――チカルさんの考えは、タビトに伝えてあります。納得してるかどうかはわかりませんが……」
 言葉を切って、彼は握りしめたままのハンドルに視線を落とす。
「俺はここで待ってます。……部屋で話をしてくるつもりなら、時間はお気になさらず」
「ホズミさん」
 呼ばれて肩越しに振り返った彼に、チカルは一通の手紙を差し出した。
「アイドル人生最後の日、埜石様に……――タビト君に、渡していただけませんか」
 上質な白い封筒だ。受け取ったものの、ホズミは困惑の色を隠せない。
「ウル・ラドはまだまだこれからです。マネージャーが途中で変わるかもしれませんし、タビトはあなたを忘れて恋人をつくるかもしれない。渡せる保証はありませんよ?」
「ホズミさんがマネージャーではなくなってしまったら、渡していただかなくて構いません。タビト君に、恋人や大切に思う人ができていた場合もです。そのときは破って棄ててください」
 チカルはそう言い残すと、会釈し車を降りた。
 タビトの部屋に続く内廊下まで来ると、あの日の記憶が鮮明によみがえる。手のひらを刺し貫く銀の刃の感触はまだ生々しく残っていた。絶望に染まったタビトの顔がちらつき、めまいを起こしそうになりながら、彼女は扉の前に立つ。
 指を開いて手の中の鍵を見つめ、ぶら下がっているモニピポのキーホルダーを外す。それをポケットに押し込んだ彼女は無意識に唇を噛み締め、蒼白の頬を手の甲でひと撫ですると、覚悟を秘めた目を上げた。
 ゆっくりと施錠を解いて部屋に入る。
「タビト君。チカルです」
 リビングのドアは開け放たれており、間接照明が灯っているのが見える。室内はしんと静まり返り、人の気配は感じられない。コンソールテーブルの上に鍵を置いたチカルは呼吸をとめて耳を澄ませた。すこしのあいだ待ったが物音ひとつしないので、室内奥に向かってもう一度声をかける。
「タビト君……?」
 上がり框にはチカルのスリッパがきちんと揃えてある。これを見る限り、ホズミはちゃんと今日のことを伝えてくれているようだが――
 靴を脱いでスリッパに爪先を入れ、リビングに入った。厚いカーテンが半分ほど引かれた室内は薄暗く、ソファの上にはブランケットが雑に放り投げられている。チカルがもういちど窓の方に目を遣ると、レースのカーテンがかすかに揺れているのに気づいた。
 導かれるように歩み寄った彼女は大きく窓を開く。
 タビトはバルコニーの手すりに腕をついて、光と闇に満たされた東京の街を見下ろしていた。
「行きましょう」
 吹き込んでくる強い風に目を細めながらチカルが声をかけると、首を回らせ肩越しに振り向く。
「この日が来るのがずっと怖かった」
 タビトは小さく言って、儚い笑みをその口元に浮かべた。


 古いセダンは、深い夜に紛れて東へとひた走る。後部座席のふたりはひとことも言葉を交わさず互いの体にもたれ寄り添い合い、悪夢を見ている子どものような顔で目を閉じている。哀愁を帯び、色をなくした彼らの美しいかんばせを、月だけが見ていた。
 ホズミもまた重く押し黙り、表情を厳しく引き締めたままハンドルを握っている。音楽もラジオもかかっていない車内は、深夜特有の物悲しい空気に満たされていた。
 東京を離れると、車の数は目に見えて少なくなっていった。気付けばもう一台もいない。まるでこの車だけが世界に取り残されてしまったかのように静かだ。
 孤独な車は、冷たく広がる闇をヘッドライトで切り裂きながら滑るように走っていく。そうしてただひたすらに夜道を駆け抜けていくと――やがて、黒い海が彼らの目の前に現れた。
 スピードを落とし、海に面した路肩に停車する。道沿いに点々と街灯があるだけで、他に灯りはない。
 コールタールのような色をした海の上を、月明かりが照らしている。浜に打ち寄せる銀波を車窓から眺めていたふたりは、どちらともなく深い息をついた。
「海が見たいって、私が頼んだの」
 チカルはタビトの肩に頭を乗せたまま、ぽつりと言う。彼は奥歯をきつく噛み締め、苦しげに眉根を寄せた。
「――これで最後なの?」
 チカルの肩を抱く手に力が籠る。それ以上言葉が続けられず、ただかすかにかぶりを振った。
「殺害予告が届いたあの日……必ず君を守ると約束したわね」彼女は吐息のようにか細い声で続ける。「今が、その約束を果たすときよ」
 喉の奥に声を詰まらせ、タビトは深くうつむく。その横でチカルは、絶え間なく揺れ動く黒い海を見つめている。
 やがてタビトは静かな声で言った。
「俺にあなたを守れるくらいの強さがあったら、こんなことにはならなかったのかな……」
「いいえ……。君がアイドルである以上、私たちはいずれこうなる運命だった」
 彼女はそっとまぶたを閉じて、言葉を続ける。
「ファンのみなさんは私の存在をご存知よ。君の私生活に私が関わっていたら、どうしたって仲を疑われてしまう……もう、これまで通りの関係を続けるわけにはいかないわ」
「……やだ……、そんなこと言わないでチカルさん……!」
「多くのファンが、君と私の熱愛を疑ってアンチ化したと聞きました。私が傍にいることで君を危険にさらしてしまうなら……離れなければいけないの……」
「過激な思想の子がいるのはわかってる……でも、それでも俺……チカルさんと離れたくない。一緒にいたい」
「私の決意を鈍らせないで。お願いよ」
「離れるなんてやだ!……やだよ、……――チカルさん……」
「聞き分けてちょうだい、タビト君……愛する人を危険な目に合わせたくないの」
 その言葉に、タビトは息を呑み大きく目を瞠る。
 涙に震える彼を抱きしめ前髪に唇を寄せたチカルは、目を上げてバックミラーを見遣った。
「すこし、波打ち際を歩いても?」
 鏡の中のホズミに訊ねると、彼は腕時計を見て静かに頷く。
 ふたりは砂浜へ降りた。肩を寄せ合ったまま、誰もいない海を横目にゆっくりと歩みを進める。すこし行ったところに階段があり、そこに腰掛けて波の音に耳を澄ませた。
「11月16日……」
「……え?」
「23歳の誕生日だったでしょう?おめでとう」彼女はかなしい微笑を浮かべる。「盛大にお祝いしてあげたかったけれど……」
「いいんだ……。そんなことより」
 タビトはチカルの左手を見つめて、
「傷、順調に治ってる?」
 彼は掠れた声で問い、それからすぐに言葉を続ける。
「俺……あのときなにもできなくて、ごめん……」
「謝るべきは私の方だわ。信じるなという忠告を聞いていれば、君は傷を負わずに済んだ……。すべては甘さを見せた私のせいよ。本当にごめんなさい……」
 タビトは勢いよくかぶりを振る。
「チカルさんは俺とミツキの問題に巻き込まれただけだし、なにも悪くないよ。危険な目に合わせてごめんね……俺がミツキに対してもっと毅然とした態度を取ってればあんなことには――」
「あの日の話はもうやめましょう。謝ってほしくないの」チカルはやわらかな声で遮り、言葉を続ける。「君は私を守ろうとしてくれた。私も君を守ろうとした。血は流れたけれど……私たちは生きてる」
 唇をぎゅっとつぐんだタビトは、涙をいっぱいに溜めた目を伏せた。
「――アイドルと家政婦が恋に落ちるだなんて……まるで、フィクションね。君と過ごした日々は映画みたいに美しくて、かなしくて……しあわせだった」
「チカルさん……」
「この結末を悲劇だとは思わない」
 チカルはぽつりと言葉を続けて、タビトの肩に触れる。
「笑って、タビト君……。君の笑顔を目に焼きつけておきたいの……」
 その言葉に促され、タビトは顔を上げる。薄闇のなかの瞳がまっすぐに自分に向けられるのを見たチカルは、彼の白磁のような頬に指を伸ばした。
 タビトは懸命に笑おうとしたが、瞳に溢れた熱い雫はその意思を裏切って頬を次々と伝っていく。ほほえむチカルのまつげにも涙が光っているのを見て、彼はせつなさに震えながら彼女を抱きしめた。腕の中でまぶたを閉じたチカルは、彼の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「チカルさんにプレゼントがあるんだ」
 彼はそっと力をほどいて、洟をすすりながらジャケットのポケットを探った。
 差し出されたのは、澄んだ空を写し取ったような青い布に月桂樹の葉と星のモチーフが刺繍がされたお守りだ。チカルは驚きと喜びを顔いっぱいに満たして、銀の糸で施された小さな星をなぞる。
「怪我が無事に治りますように……指がちゃんと動くようになりますようにって……願いを込めて作ったよ」
「ありがとう……」
 チカルは潤んだ目を指先でぬぐいながら、口の端に笑みを浮かべる。
 その儚い笑顔を見た彼は、おもむろにチカルを抱き寄せた。目を閉じ、濡れたまつげを彼女の肩に押し付ける。
「連絡するよ。毎日必ず」
 ささやくような声に、チカルは伏せていた視線を上げた。そして体を離し、真剣な表情でタビトを見つめる。
「――いつかの“お願い”……覚えている?」
「うん……覚えてる」
「私の連絡先は消して。これが“お願い”よ」
 彼は一瞬凍りついたが、すぐに首を左右に振る。
「そのお願いは聞けない」
 必死の形相で、チカルを覗き込む。
「会いたいとか、わがまま言わないよ。声聞くだけで我慢するから……」
「だめよ……消してちょうだい」
「どうして……」
「……本当に、声を聞くだけで我慢できるというの?」
 問われたタビトは深く頷く。
「私が電話口で会いたいと泣いても断ることができる?私がいきなり部屋を訪れたとして、会わずに追い返すことが、できるの?」
 今度は、頷けなかった。悲痛な表情でチカルを見つめるばかりだ。その顔を見つめ返したチカルは弱々しくほほえんだ。
「もし私がタビト君に同じことをされたら……断ることも追い返すこともできないわ」
 そう言って、彼の髪をやさしく撫でる。
「たとえ君が会うことを我慢できたとしても、私には無理よ……。君からのメッセージを見たら、私の名を呼ぶ声を聴いたら、触れてほしくてたまらなくなってしまうわ……そのくらい、君を、愛してしまったの……」
「――チカルさん……」
 タビトはチカルの右手を両手で包み込み、震える息を吐いた。彼の額に額をつけたチカルは、ひそめた声で告げる。
「私は東京を離れます。君の傍から私の存在が消えればファンのみなさんは安心なさるでしょうし……アンチも攻撃するネタが尽きてなにも言えなくなるはず」
 失った信頼を取り戻し、悪意ある言葉で追い詰めてくるアンチの気勢を殺ぐ……すべては「UR・RADのタビト」のために、チカルは本気で、一切の繋がりを絶つつもりなのだ。その強固な意志を目の当たりにしたタビトは、ただ涙をこぼすことしかできなくなっていた。
 チカルは彼の頬の涙を指で拭うと、胸の中に抱き入れる。そうしてふたりはしばらくのあいだ、波の音だけを聴いていた。この世界でふたりぼっちになったかのようだった。黒かった海は白み始めた空の色を映し、細かい波が光に縁取られきらきらと揺れているのが見える。
 冷たい潮風の中……すすり泣く彼の髪を指で梳いてやりながら、チカルは歌を小さく口ずさむ。今年10月にデジタルシングルとしてリリースされたタビトのソロ曲「Moonlit Night」だ。
 ひとしきり歌ってから、彼女は言った。
「人が人を忘れるとき、いちばん最初に忘れるのは声なんですって……でも、話す声は忘れても、歌声ならいつまでも覚えていられると誰かが言っていたわ」
 その言葉に、タビトはゆっくりと顔を上げチカルを見つめた。星を撒いたようにきらめく瞳を覗き込み、彼女はほほえむ。
「私の歌声を、どうか覚えていて。私も――」
 ふいに声が途切れた。チカルの頬に、ひとすじの涙が流れる。
「君を忘れない……」

 月が沈んでいく。
 彼らのちいさな背中を見送りながら。
 濃紺のベールがゆっくりと西へ流れていき、チカルとタビトは涙に濡れた瞳を海に向けた。12月の寒風に髪を弄ばれつつ、煌々と燃える地平線を遠く眺める。
 見つめるその先に、ひときわ輝く星がひとつまたたいていた。オレンジとブルーで彩られた大空は一切の濁りなく澄み渡り、凪いだ海はどこまでも果てしなく広がっている。
 やがて金色に輝く太陽が空と海の境目からあらわれ、ふたりの清らかな顔を照らし出した。
 黄金に染めあげられながら、チカルは彼の眉山に残る傷痕にくちづける。タビトも傷ついた彼女の左手を取り、手の甲にやさしく唇を押しつけた。
 つないだ手のかすかな温もり。うまれたての今日がもたらす清潔な光の中、互いの愛を永遠に繋ぎとめようとするかのように……彼らは指を絡めたままいつまでも寄り添っていた。
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