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「……嘘だ。何かの間違いだ。イーズが、僕を置いて逃げ出すはずがない!」
王都の喧騒から一夜明けた、公爵邸のイーズの自室。
第一王子ヴィルフリードは、昨日から一睡もしていないクマの浮き出た目で、窓から垂れ下がった「シーツの紐」を握りしめていた。
その背後では、男爵令嬢のララが、困り果てた顔でハンカチを握っている。
「ヴィル様、もう現実を見てください。イーズ様のクローゼット、宝石箱もドレスも、換金できそうなものは綺麗さっぱり無くなっています」
「そんなバカな! あいつはいつも僕の背中を追っていたじゃないか! 僕が少し冷たくすれば、必死になって気を引こうと空回りしていた……あの愛らしいイーズが!」
「……ヴィル様、それを世間では『パワハラ婚約者からの逃走』と呼ぶのですよ?」
ララの冷ややかなツッコミは、今の王子の耳には届かない。
彼は、手の中にクシャクシャになった紙束を広げた。
それは、彼が昨夜の断罪イベントのために、三日三晩寝ずに書き上げた『イーズを改心させるための完璧な台本』だった。
「見てくれ、ララ。この台本の後半を! 『お前の罪を許す代わりに、今日からは僕の言うことを何でも聞くのだぞ』と言って、特注の指輪を渡すはずだったんだ!」
「……あの、ヴィル様。それ、プロポーズというよりは、ただの隷属契約の勧誘に見えますが」
「愛ゆえの独占欲だ! あいつが有能すぎて、僕の入る隙がないのがいけないんだ! だから、少しだけ失敗させて、僕がそれを助けるという構図を作りたかったのに……!」
ヴィルフリードは、膝から崩れ落ちて床を叩いた。
彼にとって「断罪」は、あくまでイーズとの仲を深めるための「ドッキリ」に過ぎなかった。
しかし、仕掛けられた側にとっては、ただの「理不尽な社会的抹殺の危機」でしかない。
「あいつ……窓から逃げるなんて、危ないじゃないか! もし足を滑らせていたらどうするんだ! それに、外は雨だったんだぞ! 風邪を引いたら……!」
「今更心配しても遅いですわ。イーズ様は今頃、自由を謳歌していらっしゃることでしょう。……あ、閣下がいらっしゃいましたよ」
部屋の扉が開き、ラングマイヤー公爵が悠然と姿を現した。
彼は、床に這いつくばる王子を、ゴミを見るような……いや、珍しい深海魚を見るような目で見下ろした。
「殿下、まだ娘の部屋に居座っておられたのですか。そろそろ捜索隊の指示を出していただかないと、娘は隣国どころか、海の向こうまで行ってしまいますぞ」
「公爵! なぜもっと早く止めなかった! イーズが荷造りをしている時、気づかなかったのか!?」
「おやおや。あの子は昔から隠密行動が得意でしてね。それに、娘の手紙にはこうありました。『お父様、バカに付き合うのはもう疲れました。私は私を大切にしてくれる筋肉と肉の楽園へ行きます』と」
「筋肉と肉の楽園……!? なんだそれは! まさか、僕よりガタイのいい男と駆け落ちしたのか!?」
ヴィルフリードの顔が、絶望に染まる。
公爵は、肩をすくめて窓の外を指差した。
「おそらく、南の港町ポート・サウスのことでしょう。あそこは美味しい肉料理が多いですからな。……ああ、そういえば殿下。例の『日記帳』ですが」
「な、なんだ。あれがどうした」
「娘の部屋のゴミ箱の奥に、殿下の自筆で『イーズ、大好きだ、愛してる、結婚してくれ』と千回ほど書き殴られた練習ノートが落ちておりましたよ。娘はこれを『呪いの魔導書』だと思って、気味悪がって捨てたようですな」
「……っ!!」
ヴィルフリードは、顔面を真っ赤にして絶句した。
彼が「盗まれた」と主張していた日記帳の正体。
それは、イーズへの愛が暴走して書き綴った、あまりにも痛々しい「愛の告白練習帳」だったのだ。
「それを……あいつ、読んだのか……?」
「ええ、しっかりと。その後に『生理的に無理』という付箋が貼ってありました」
「うわああああああああああ!」
王子の絶叫が、公爵邸の廊下に響き渡った。
ララは耳を塞ぎ、公爵は満足げに懐中時計を確認した。
「さて、殿下。泣いている暇があるなら、追いかけてはいかがですかな? まあ、今のあの子なら、殿下を見つけた瞬間に全力で逃げるか、あるいはフライパンで殴りかかってくるでしょうが」
「……追う。どこまでも追ってやる! 捕まえて、誤解を解いて、あの『呪いの魔導書』はただの情熱の産物だったと説明するんだ!」
「……ヴィル様、それは火に油を注ぐだけのような気がいたします」
ララの忠告を無視し、王子は立ち上がった。
目は血走り、髪はボサボサ。
もはや高貴な王子の面影はない。
「全騎士団に通達! イーズ・ラングマイヤーを保護せよ! ただし、彼女を怖がらせるな! 美味しい肉と、最高の胃薬を用意して、丁重に……いや、僕が直接行く!」
ヴィルフリードは、風のように部屋を飛び出していった。
後に残されたララと公爵は、顔を見合わせて深いため息をついた。
「……公爵閣下。本当によろしいのですか? あんな状態で追いかけさせて」
「構いませんよ。イーズなら、あのバカ王子をあと三ヶ月は撒き続けるでしょう。……その間に、あの子が外の世界で少しでも逞しくなってくれれば、親としては本望ですからな」
公爵は、娘が残した「バイバイ!」という手紙を愛おしそうに撫で、小さく微笑んだ。
一方、逃亡中のイーズは、まだ知らない。
自分を追う「呪いの主」が、執念のストーカーと化して背後に迫っていることを。
王都の喧騒から一夜明けた、公爵邸のイーズの自室。
第一王子ヴィルフリードは、昨日から一睡もしていないクマの浮き出た目で、窓から垂れ下がった「シーツの紐」を握りしめていた。
その背後では、男爵令嬢のララが、困り果てた顔でハンカチを握っている。
「ヴィル様、もう現実を見てください。イーズ様のクローゼット、宝石箱もドレスも、換金できそうなものは綺麗さっぱり無くなっています」
「そんなバカな! あいつはいつも僕の背中を追っていたじゃないか! 僕が少し冷たくすれば、必死になって気を引こうと空回りしていた……あの愛らしいイーズが!」
「……ヴィル様、それを世間では『パワハラ婚約者からの逃走』と呼ぶのですよ?」
ララの冷ややかなツッコミは、今の王子の耳には届かない。
彼は、手の中にクシャクシャになった紙束を広げた。
それは、彼が昨夜の断罪イベントのために、三日三晩寝ずに書き上げた『イーズを改心させるための完璧な台本』だった。
「見てくれ、ララ。この台本の後半を! 『お前の罪を許す代わりに、今日からは僕の言うことを何でも聞くのだぞ』と言って、特注の指輪を渡すはずだったんだ!」
「……あの、ヴィル様。それ、プロポーズというよりは、ただの隷属契約の勧誘に見えますが」
「愛ゆえの独占欲だ! あいつが有能すぎて、僕の入る隙がないのがいけないんだ! だから、少しだけ失敗させて、僕がそれを助けるという構図を作りたかったのに……!」
ヴィルフリードは、膝から崩れ落ちて床を叩いた。
彼にとって「断罪」は、あくまでイーズとの仲を深めるための「ドッキリ」に過ぎなかった。
しかし、仕掛けられた側にとっては、ただの「理不尽な社会的抹殺の危機」でしかない。
「あいつ……窓から逃げるなんて、危ないじゃないか! もし足を滑らせていたらどうするんだ! それに、外は雨だったんだぞ! 風邪を引いたら……!」
「今更心配しても遅いですわ。イーズ様は今頃、自由を謳歌していらっしゃることでしょう。……あ、閣下がいらっしゃいましたよ」
部屋の扉が開き、ラングマイヤー公爵が悠然と姿を現した。
彼は、床に這いつくばる王子を、ゴミを見るような……いや、珍しい深海魚を見るような目で見下ろした。
「殿下、まだ娘の部屋に居座っておられたのですか。そろそろ捜索隊の指示を出していただかないと、娘は隣国どころか、海の向こうまで行ってしまいますぞ」
「公爵! なぜもっと早く止めなかった! イーズが荷造りをしている時、気づかなかったのか!?」
「おやおや。あの子は昔から隠密行動が得意でしてね。それに、娘の手紙にはこうありました。『お父様、バカに付き合うのはもう疲れました。私は私を大切にしてくれる筋肉と肉の楽園へ行きます』と」
「筋肉と肉の楽園……!? なんだそれは! まさか、僕よりガタイのいい男と駆け落ちしたのか!?」
ヴィルフリードの顔が、絶望に染まる。
公爵は、肩をすくめて窓の外を指差した。
「おそらく、南の港町ポート・サウスのことでしょう。あそこは美味しい肉料理が多いですからな。……ああ、そういえば殿下。例の『日記帳』ですが」
「な、なんだ。あれがどうした」
「娘の部屋のゴミ箱の奥に、殿下の自筆で『イーズ、大好きだ、愛してる、結婚してくれ』と千回ほど書き殴られた練習ノートが落ちておりましたよ。娘はこれを『呪いの魔導書』だと思って、気味悪がって捨てたようですな」
「……っ!!」
ヴィルフリードは、顔面を真っ赤にして絶句した。
彼が「盗まれた」と主張していた日記帳の正体。
それは、イーズへの愛が暴走して書き綴った、あまりにも痛々しい「愛の告白練習帳」だったのだ。
「それを……あいつ、読んだのか……?」
「ええ、しっかりと。その後に『生理的に無理』という付箋が貼ってありました」
「うわああああああああああ!」
王子の絶叫が、公爵邸の廊下に響き渡った。
ララは耳を塞ぎ、公爵は満足げに懐中時計を確認した。
「さて、殿下。泣いている暇があるなら、追いかけてはいかがですかな? まあ、今のあの子なら、殿下を見つけた瞬間に全力で逃げるか、あるいはフライパンで殴りかかってくるでしょうが」
「……追う。どこまでも追ってやる! 捕まえて、誤解を解いて、あの『呪いの魔導書』はただの情熱の産物だったと説明するんだ!」
「……ヴィル様、それは火に油を注ぐだけのような気がいたします」
ララの忠告を無視し、王子は立ち上がった。
目は血走り、髪はボサボサ。
もはや高貴な王子の面影はない。
「全騎士団に通達! イーズ・ラングマイヤーを保護せよ! ただし、彼女を怖がらせるな! 美味しい肉と、最高の胃薬を用意して、丁重に……いや、僕が直接行く!」
ヴィルフリードは、風のように部屋を飛び出していった。
後に残されたララと公爵は、顔を見合わせて深いため息をついた。
「……公爵閣下。本当によろしいのですか? あんな状態で追いかけさせて」
「構いませんよ。イーズなら、あのバカ王子をあと三ヶ月は撒き続けるでしょう。……その間に、あの子が外の世界で少しでも逞しくなってくれれば、親としては本望ですからな」
公爵は、娘が残した「バイバイ!」という手紙を愛おしそうに撫で、小さく微笑んだ。
一方、逃亡中のイーズは、まだ知らない。
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