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慶安編
死に場所へ
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島原の乱の頃、七郎はその地にいた。
幕府隠密たる彼は現地へ飛び、一揆衆に混じって、情報を集めていた。
島原の乱鎮圧の兵に軍監として参加していた宮本武蔵は、罪のない農民を討つ事を拒み、怪我を理由に戦線離脱していた。後世に醜聞として伝えられても構わぬ覚悟であった。一揆の鎮圧は、それほどに痛ましい事なのだ。
七郎は首謀者を探る途中で、ウルスラという少女に出会った。彼女は宣教にやってきた異国の者と、日本人女性との間に産まれた混血児であった。
「十とは聖なる印です。ましてや衛る兵となれば、それは聖なる印を持つ衛兵という意味でしょう」
ウルスラはそう言った。十兵衛という名前には、そのような意味があるのだと。聖なる印を持つ守護者だと。だが、その時の七郎には、わからなかった。
そしてまた七郎は宮本武蔵とも会い、ただ一手の指南を受けていた。
――参る!
七郎はただ一手に全てをこめて打ちこまんと、愛刀の三池典太を八相に構えた。鋭い切っ先が天を衝く。
――未熟。
武蔵の一声に七郎は激昂した。頭が真っ白になり、冷静さを失った。
七郎は三池典太で武蔵に斬りかかった。
武蔵は右手に握った刀で、七郎の打ちこみを横に薙ぎ払った。
そして素早く踏みこみ、左手に握った小太刀の切っ先を七郎の首筋に突きつける。
二人の対決は一瞬で決していた。
七郎は宮本武蔵の前に終始、翻弄されていた。
仏陀の手の平で暴れていた孫悟空、七郎はそんな気分だった。武蔵は怪我などしておらぬし、七郎を前にして闘志を燃え上がらせる事もなく、挑発して冷静さを失わせた。
――天下一兵法とは……?
七郎は宮本武蔵との対決を経て、大いに考えが変わった。目指すべき道を見出したとでもいうのか。
七郎は剣から離れ、無刀の道を――
無刀取りの道を歩み始めた。
ただ単に技を極めるのではない、無刀の道とは真なる兵法の道であった。
そして今も七郎は無刀の道を歩んでいる。
由比正雪と丸橋忠弥とは命のやり取りに及んだが、彼らの命を奪わずして、その心を制した。
心を制す兵法こそ平和の法。
七郎には、そんな信念がある。
七郎は湯屋の娯楽室にいた。
湯から上がった後は、娯楽室で茶を飲んだり、知り合いと世間話をしたり、将棋や碁を指すなどできる。
湯屋の娯楽室は当時の人々にとって、憩いの場の一つだった。
「あちきは、しょうぎって知らないでやす」
その娯楽室には新顔がいた。七郎と蘭丸を追って異世界からやってきた黒夜叉という娘だった。
湯上がりの黒夜叉は幼さを残した顔つきだが、体つきは成人女性のものだ。
「では俺が教えてやろうか」
「七郎さんより蘭丸の旦那がいいでやす」
「ふっふっふっ、なるほどな」
七郎は苦笑する。黒夜叉のそういう純朴さが良い。
「あら、では、わたくしが教えてあげるわ」
娯楽室には湯上がりのねねもいた。黒夜叉を見つめるねねは笑顔だが、その全身からは鬼夜叉のような気迫が発されていた。
「お願いするでやす」
「おっほっほっほ、手加減しないわよ、覚悟なさい」
「おいねね、飛車角金銀は抜け、駒は黒夜叉にやれ」
「蘭丸様、なんて事を! わ、わたくしにどうしろと!?」
「負けてやれ」
「ぬ、ぬはー! 正室が側室に負けろとおっしゃるの!?」
などと蘭丸、ねね、黒夜叉の三人が漫才のようなやり取りをするのを、娯楽室にいる人々が微笑ましげに見ていた。
気づけば七郎の姿は娯楽室にはなかった。湯屋からも去っていた。七郎はすでに外に出ていた。
(ありがとうよ)
七郎は心中に蘭丸らへ感謝していた。彼らのおかげで、七郎の魂の重荷はスッと軽くなった。
(あとは死に花を咲かせるのみだ)
七郎は通りを進む。江戸に住む人々は足早に進んでいた。
七郎のみならず、行き交う人々もまた旅人のごとく。
七郎は死に場所へと進んでいった。それは人生いつ現れてもおかしくなかった。〈了〉
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