慶安夜話

MIROKU

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魔を斬る剣

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 忍足数馬は江戸で剣術道場を経営している。大阪の陣にも若くして参加しているほどの剛の者だ。江戸では名の知れた剣客である。

  しかし世は泰平である。幕府の徳川将軍も四代目である。剣術道場は流行らずに廃れていた。

  それに将軍家剣術指南・柳生新陰流や小野派一刀流もある。数馬の戦場兵法を習おうという者も最近ではほとんどいない。

  数馬の髪も白い毛が多く混じるようになった。己の天命も尽きるか、と思い始めた。

  しかし、数馬は、この世に未練はなかった。戦場を潜り抜け、生き延びてきた。苦しい事も多々あった。その事が妙に懐かしくも思えてくる。

  そんな時、江戸に奇妙な噂が流れ始めた。死者の行列が出るという。それも江戸の各地に出る。

  数が多い訳ではない。話によれば全て同じ内容なのだ。行列は武士の行列である。

  人数は少ないが、馬があれば、槍に鉄砲、長指物まで持っていて、まるでどこかの大名が登城でもするかのような仰々しさだという。

  彼らは特に何かするわけでもないらしい。行列は夜に突然現れて、人々の見守る中を通り過ぎていくだけだ。

  多くの人達が固唾を飲んで見守る中で、ふっと消えてしまう。

  そして、その行列を見た者は、大半が病や何かしらの不幸に遭うのである。

  人々は、恐いもの見たさに囁きあって、江戸に噂はどんどん広がっていく。

  また、行列に話しかけた者もいる。
  この行列は何だ、と聞くと大納言忠長様の行列である、と虚な言葉が返ってきたらしい。

  大納言忠長様といえば、先の三代将軍の弟ではないか。
  駿河五十五万石の大名が、最後には僅かの共を連れて高崎に赴き、そこで切腹したという。

  その大納言様が今頃になって現世に戻ってきたのか。幕府への怨みを秘めて。

  その怨みの深さこそ、江戸の民は恐れた。
  それ以上に幕府は震えあがった。
  そして、数馬の廃れた道場に幕府からの使いの者が現れたのだ。

  この怪異を鎮めるか、この行列の者達を斬り捨ててくれ、と。報酬に数馬を三百石で召し抱えるという。

  数馬は承知した。欲が出たのでない。数馬は戦場を渡り歩いてきた者である。

  死ぬのなら戦場で、と思っただけだ。その日は珍しく、愛用の二刀を丁寧に手入れした。
   
  ◆
 
  夜空に星が出ていた。月も出ている。明るい夜であった。

  数馬は袖無し羽織で町中を歩く。死者の行列を歩いて探せるわけなどないが、うろつかなければ遭遇などする訳がない。

  夜通し徘徊して、疲れを感じた数馬は足を止めた。路傍の切り株に腰を下ろす。

  夜は深くなっていた。ここはどこだ、と辺りを見回すと、なんと墓場の側であった。
  町中から、町外れの墓場へと続く道にいたのである。

  さすがの数馬も恐怖を感じ、町中に引き返そうとした時、背後に近づきつつある馬蹄の音を聞いた。

  数馬は立ち上がった。背後に振り返る。右手は腰の二刀に伸びる。夜の闇を凝視する。

  その闇の中から馬の蹄の音がする。
  数馬は思わず道端に寄った。そして膝まずいた。心の底から沸き上がる恐怖に屈した。

  顔は伏せた。顔を上げる気にはなれない。未知への恐怖に数馬の魂は震えあがっていた。
  戦場で命のやり取りをしていた時ですら、このような恐怖を感じた事はない。

  馬蹄の音が近づいてくる。数馬はますます深く顔を伏せた。
  鼻につく異臭。腐った水のような匂い。
  数馬は吐き気にも耐えねばならなかった。

 「……何者か」

  問われる声に数馬の心臓が飛び上がる。死者の行列は、あまりにも数馬の近くを通過していたのだ。

 「……武芸者のようだが」

  行列の先頭で騎乗した侍が、数馬に呼びかけてきている。声に生気がない。やはり死者なのか。

  数馬は唇を噛む。己の使命を思い出したのだ。この怪異を解決するのが、数馬の使命だったのだ。

 「……大納言様が興味を持たれたようだ、名乗られよ」

  馬上の侍が声をかけるのに構わず、数馬は立ち上がった。瞬時に右手で刀を抜いた。
  馬上の侍の、鐙に乗せた右足に斬りつけた。手応えはあった。

  馬上の侍の右足が、膝から下を切断されて地に落ちた。だが叫び声一つ上がらない。

  騎馬の後から人影が飛び出してきた。二人の侍である。二人共、刀を抜いていた。
  数馬は刀を右に寄せた。右から左に薙ぐ。侍の腹を裂く。裂きながら前へ踏み込んでいく。

  数馬の前に二人目の侍がいた。声もなく切りつけてくる。数馬はその太刀を避ける。
  避けながら侍の首筋に横薙ぎに切りつけた。侍の首が宙を飛ぶ。だが血は流れない。
  首は道の脇の草むらに飛んでいく。

  数馬は後方に跳んだ。そして左手で脇差しを抜いた。
  この間、数秒であった。

  ほんの僅かの間に二人を切り捨てた。数馬は呼吸すら乱していない。
  戦場で培った刀術である。並たいていの腕ではなかった。

  だが、数馬の顔はひきつっていく。
  騎乗した侍は右足の膝から下を切断されているのに、呻き声すら立てていない。

  腹を裂いた侍は、腰を両断されていた。数馬の一刀は腰を横一文字に両断していたのだ。
  だが、斬られた侍は上半身だけで地を這っている。その光景に数馬は吐き気がした。

  首をはねた侍だけは地に倒れた。死者でも首を切り落とせば死ぬらしい。
  首のない侍の死体が、急激に塵となって消えていく。

  数馬の二刀を握る両手が震える。目の前の怪異に魂が怯えているのだ。
  胴を両断された侍が地を這いながら数馬に近寄ってくる。その光景に数馬は狂いそうになる。

  かつて戦場で見た地獄絵図。死そのものを象徴した幾多の骸。それを見た時、数馬の心は泣いていた。
  だが、目の前の死を超越した現象には、人の心が崩壊して狂いそうになる。

  数馬は夢中で雄叫びを上げた。刀を握った右手を振り上げた。
  そして地を這う侍の頭に切りつける。二度、三度。ようやく侍の動きが止まった。
  数馬は呼吸を乱して、がっくりと両膝を突く。体中の力が抜ける。

 「……なかなか見事であった」

  数馬は顔を上げて見た。行列の真ん中から騎乗した人影が近づいてくるのが見えた。
  明らかに身なりが違う。高貴な印象を受ける。

  数馬には余力はなかった。立ちあがる事もできず、二刀を握りしめるだけである。

 「……余の臣下に取り立ててやりたいものよ」

  人影はすでに数馬の目の前にいた。人影が馬から降りる。両膝ついた数馬の前に立った。
  数馬は全身の力を振り絞った。勢いよく立ち上がる。

  二刀を突き出す。眼前の人影の胸に、二刀の切っ先が深々と突き刺さる。
  だが人影は声も出さない。何もなかったかのように立っている。

  戸惑う数馬の右手に手を添える。氷のような冷たさに数馬は全身が硬直した。

 「……お主、名は何という」

 「……忍足数馬」

  人影の問いに数馬は素直に応じた。敗北感からである。この世には、人間が太刀打ちできない、人智を越えた存在がある事を、数馬は悟った。 

 「……気に入ったぞ」

  人影は更に言う。

 「余は大納言忠長である。数馬よ。その絶妙なる剣術、余の元で存分に振るうがいい」

 「……承知」

  数馬は従った。大納言忠長を名乗った人影の言葉に、心が歓喜している。
  己に相応しい主と戦場を得た、という喜びだ。

  たとえ相手が死者であろうと、数馬には関係なかった。
  初めて自分を必要としてくれる主にめぐり合えたのだ。

  もはや、命は捨てるのだ。文字通りに。
  数馬と大納言忠長の頭上で、月光が静かに輝いていた。 
   
  ◆◆◆
 
  蘭丸は浪人である。二十二歳である。
  江戸で遊女屋の用心棒をしている。店で起こる揉め事をあらかた処理している。

  今夜は、難癖をつけてくる客がいた。金の持ち合わせもないくせに、欲求だけは人一倍。
  遊女達も嫌気がさして近寄らない。俺の家は名門旗本だぞ、と酔ったせいか大きな事をほざく。

 「出番ですよ」

  店の番頭が蘭丸を促す。口調は丁寧である。もっとも、腹の底で蘭丸をどう思っているのか、わからない。

 「……なんだ、お前は!?」

  蘭丸が部屋に入ると、旗本風の男が酔って暴れていた。
  蘭丸は男に近づいていく。右手は腰の刀に伸びていた。

 「話は聞きました」

  蘭丸は抜刀した。男の顔がひきつった。
  蘭丸は有無を言わさず斬りこんだ。一太刀で男の右腕を斬り落とす。
  畳の上に切断された男の右腕が転がった。

 「……良家の旗本だそうで」

  蘭丸は男の悲鳴を無視して言葉を紡ぐ。

 「……金は払っていただけるんでしょうな」

  蘭丸は畳の上で転げ回る男に向かって言った。男は畳の上を転げ回りながら、違う、嘘なんだ、と泣き叫ぶ。
  本当は禄高百石の貧乏旗本なんだ、と右腕を押さえながら謝罪した。

 「……最初に言えばいいものを」

  蘭丸は懐から懐紙を取り出して刀を拭う。拭いながら部屋を出る。
  あとは、他の者が上手に後始末するだろう。
  男がどうなるかはわからない。また、興味もなかった。

  蘭丸は店を出た。春である。着流しに春の夜風は少々肌寒い。
  町中を歩く。左右に女郎部屋が並んでいる。顔見知りの女郎や客引きが声をかけてくる。

  それに軽く会釈して、蘭丸は歩み去る。美男子の蘭丸は、女郎達に人気がある。
  男達からは人斬りとして蔑まれている。その人斬りの腕だけを頼りにされている。

  その剣の腕が用済みになった時は、容赦なく見捨てられ、殺されるだろう。
  蘭丸にとっては、毎日が生きるか死ぬかの日々であった。

  死ぬ事は怖くない。すでに、この世に未練はなかった。
  蘭丸は懐に手を入れる。指先に触れた物を固く握りしめる。

  それは、いつか川辺で拾った十字架である。
  キリスト教は禁止されている時代に、なぜ十字架が川辺に落ちていたのか、蘭丸にはわからない。

  十字架は銀製で、作りは粗っぽい。どうも日本人の手で作られたものらしい。
  懐の十字架の経緯などどうでもいい。ただ、この十字架は蘭丸の心を鎮めてくれるのだ。

  女の柔肌とは違う、心地よい感覚。蘭丸の心は穏やかになる。
  この十字架を作ったものは、平和への祈りをこめて製造したのではないか、と蘭丸は考える。

  もっとも、人斬りである自分には相応しくない一品だとは思う。
 
  ◆
 
  蘭丸は遊女屋に戻った。二階の一室に入る。顔見知りの遊女がいた。
  その遊女は、今夜は暇である。その遊女の膝を枕に横になる。

  部屋は六畳だ。寝具は敷いてある。が、まだ女には手を出さない。
  襖一枚隔てた隣室からは、三味線の音と遊女の謡が聞こえる。

 「……いいもんだな」

  蘭丸は欠伸をする。いつ死ぬかわからない用心棒生活の中で、つかの間の憩いを楽しんでいた。

 「何がです」

  遊女のお咲が聞いてくる。それに対して「お前の膝枕が」と蘭丸はうそぶいた。
  途端に、お咲が屈託のない笑いを見せた。

 「せっかく今日は客も取りませんのに」

  お咲が苦笑するのを見上げて、蘭丸は身を起こした。

 「……まあ、いつ仕事になるかわからんしな」

  蘭丸の仕事は用心棒である。揉め事、切り合いを意味している。
  いつ死ぬかわからないのだ。

 「……楽しむか」

  蘭丸はお咲を抱き寄せた。寝具の上に押し倒す。お咲の襟を開いた。
  ひどく痩せている。肋骨が肌に浮き出ている。なのに乳房は大きい。

  客に人気があるわけだ、と蘭丸は苦笑する。
  お咲をうつぶせにする。服を脱がせながら、お咲の背中を見る。
  蘭丸の視界に、お咲の背中が入る。色鮮やかな赤、青、黄色、緑。お咲の背中には鯉の彫物があった。

  元々、お咲は旗本の娘らしい。石高もそれなりの。だが五女であった。
  長女はともかく、五女など父親が相手にしない。
  好きにしろ、と扱われて育ち、流れ流れて遊女になった。
  お咲の背中の鯉は、浮世との決別の際に彫ったものだという。

 「……恥ずかしい」

  背中に蘭丸の視線を感じてなのか、お咲のうなじが赤くなる。

 「いいじゃないか」

  蘭丸は咲のうなじにそっと口づけする。
  お咲が甘く切ない吐息を吐いた次の瞬間、部屋の行灯の光が唐突に消える。
  部屋の中は暗くなり、隣室からの三味線の音も止んだ。

 「……なんだ」

  蘭丸は身を起こす。隣室でも何か騒いでいる。
  同じように行灯の火が消えたらしい。早く火を、と男の客が叫んでいる。
  蘭丸は障子窓を見た。窓に寄って障子を開く。

  部屋は二階にある。二階から通りを見下ろす。隣にお咲が服の襟元を押さえて馳せ寄ってきた。
  夜空には満月が輝いている。雲一つない夜空だ。今夜は、それが不気味ですらある。

  蘭丸とお咲は、二人で通りを眺める。道の行灯の火が全て消えていた。
  遊女達も客引きの声を止め、不安げに震えていた。

  その時、蘭丸は馬の蹄の音を聞いた。視線を移す。
  通りの向こうから、馬を先頭に行列がやってくる。
 
  ◆
 
  噂に聞いた死者の行列か。通りの向こうからやってくる行列に蘭丸は見入っていた。
  隣ではお咲が息を飲んでいる。遊女屋の二階からは行列の全貌がよく見える。

  噂の通り、一行の数は少ない。十二、三人の行列だ。
  行列の中央には身なりの高貴な人物が騎乗している。

  すぐ隣では武芸者と思われる男が馬を並べていた。
  髪には白髪が多く混じっているのが、不思議と夜の闇の中でも良く見えた。

  通りを黙々と進んでくる行列に、客引きの男や遊女達が道を空ける。
  遊女屋が立ち並ぶ通りを死者の行列が寡黙に進んでくる。

 「蘭丸様……」

  お咲が蘭丸に抱きついてきた。
  蘭丸はお咲の細い腰に左腕を回す。
  そして「お前だけは俺が守るから落ち着け」と、お咲の耳元で囁いた。

 「……聞け、苦界に生きる者達よ」

  行列の先頭で、乗馬した侍が顔を見回しながら叫び始めた。

 「おぬしらは幕府が憎くないのか! 今の生に満足なのか! お前達に苦しみの生を与えているのは幕府なのだぞ!」

  侍が演説を始めた。誰もが静かに聞き入っていた。
  死者の行列にたまげているせいかもしれないが、皆、胸の内では幕府に怒りや恨みを持っているからかもしれない。

 「我らは幕府を打倒する。その為に冥府より舞い戻ってきたのだ」

  侍の演説は続く。もっともだな、と蘭丸も思う。
  蘭丸自身、浪人である。父の代から浪人である。
  かつての主が誰なのか、それすら知らぬ。今は流れに流れて、遊女屋の用心棒だ。

  まともな精神ではつとまらぬ仕事に就いた。
  いつ死ぬかわからない。そんな日々が続く内に、蘭丸の心も渇いた。
  今では、刹那的な生き方に身をゆだねるばかりである。それは、命がけの勝負と女。

  確かに、誰かを憎んだ方が気楽に生きられるような気もする。
  蘭丸がふと自分の事に思いをめぐらせた時、隣室が騒々しくなった。

 「……出たぞ例の」

 「まさか幕府を批判するとは」

 「我らが天に変わって成敗してくれよう」

  ドタドタ、と階下に去っていく足音。十人ほどか。
  隣室の大広間は、今夜は貸し切りで宴会だとは聞いていたが。

 「……蘭丸様」

 「今夜はどこの客が来ていた?」

 「……何でも道場を持っているお武家さんだとかで、随分羽振りがいいとは聞いていますが」

  お咲にもよくわからないらしい。わからないまま、蘭丸は通りを見下ろす。
  遊女屋の入り口から人影がバラバラと出てきた。隣室で騒いでいた連中であろう。
  身なりは良く、年も若い。良家の旗本の長男か、と思われる。

 「出たな妖怪め」

 「我らと出会ったのが、運の尽きよ」

 「我ら榊田流の刀法、見せてくれるわ」

  男達が次々と刀を抜く。数は十数人だ。死者の行列の前に躍り出る。
  榊田流とは、江戸では高名な剣術道場の名だった。とすると、この男達はその門下か。

  剣を構える姿に怯えがない。それなりに剣を使うと見える。
  が、真剣を扱った事はなさそうだな、と蘭丸は思った。

  死者の行列は驚いた風もない。
  ただ、一人の人物が馬から降りただけである。

 「数馬よ」

  行列の中央で、騎乗した人影が叫ぶ。

 「お主の忍足流兵法、天下に見せる時ぞ」

 「承知」

  数馬と呼ばれた男が行列の前に出た。
  榊田流の男達が刀を抜いて数馬を囲む。
  それを見下ろす蘭丸は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

  数馬が刀を抜いた。抜くと同時に斬りつける。
  横に薙いだ。榊田流の男が一人、斬られていた。その男の首が宙を飛ぶ。
  見つめる野次馬の間から、女の悲鳴が起こる。

  女郎屋の二階から見ている蘭丸には、数馬の剣筋が見えなかった。
  まるで稲妻のようだった。

  蘭丸の隣でお咲が小さく悲鳴を上げて、蘭丸の肩に顔を押し付けてくる。
  蘭丸は力強くお咲の腰を抱きしめた。
   
  ◆
 
  数馬の動きは早い。太刀筋も。
  刀を左に寄せる。左から右へ薙ぐ。
  男が一人、刀を握った右手首を斬り落とされた。
  刀を握った手首が地に落ちる。その男は悲鳴を上げて地面を転がった。

 「……未熟」

  数馬は呟いて左手で脇差しを抜いた。両手に刀を握ってダラリと提げ、周囲を見回した。

  榊田流の男達は硬直して動けない。
  数馬は男達に向かって踏み込んだ。

  右手の刀を左下から右上に斬り上げる。鮮血が飛ぶ。
  更に左足を踏み込む。左手の脇差しが右下から左上に斬り上がる。
  その一刀は男の首筋を裂いていた。鮮血が噴水のように噴出した。

  数馬は舞うように斬る。刀は大振りである。それでいて隙がない。二刀は休みなく、右に左に閃く。
  白光が見えた瞬間に、誰かが斬られて鮮血が飛ぶ。

  蘭丸は遊女屋の二階から数馬の斬り方を見ていた。
数馬は、一人で榊田流の男達を斬り捨てていく。

  最初の一刀で一人の男の首をはねた。その光景に他の男達は竦み上がってしまった。
  その隙に二刀で斬り込む。尋常な腕ではない。

  ……百数十秒ほどで、榊田流の男達は全滅していた。  
  数えてみると十一人が地に伏していた。全て数馬が斬り捨てたのだ。

 「……見事なり、数馬」

  行列の中央で、騎乗した人影が叫んだ。惚れ惚れした調子である。数馬は背後に振り返り会釈した。

  路上の人々はただ呆然と行列一向に見入っていた。或いは恐怖の為に動けないのか。
  路上を濡らす血の匂いも人々を麻痺させるに充分であった。

  蘭丸は二階から行列を見下ろしていた。隣でガクガク震えるお咲を安心させようと力強く抱きしめる。
  蘭丸の瞳は、路上の数馬に釘付けになっている。

  不意に、数馬が視線を上げた。
  蘭丸と目があった。
  幽鬼のような青白い顔の真ん中で、赤い瞳が輝いて蘭丸を見た。

 「……面白い」

  数馬は呟いた。そして背後に振り返る。

 「……遊女屋の二階だ」

  行列の中から侍が三人、飛び出してきた。数馬の命に従って、侍達が遊女屋の入口に入っていく。

  数馬は再び蘭丸を見上げた。笑っているのが蘭丸に見えた。
  そして、蘭丸は聞いた。階下で遊女達が悲鳴を上げている。
  死者の行列から抜け出た侍が遊女屋に侵入してきたからだ。

  蘭丸はお咲を見た。不安げな瞳が蘭丸を刺す。

 「お咲、ここを動くな!」

  蘭丸はお咲から身を離した。
  廊下に出ると、腰の刀に手を伸ばす。侍三人が階段を昇ってくるのが見えた。

  蘭丸は小走りに刀を抜いた。父の形見である。
  父も祖父から受け継いだという。戦場を潜り抜けた一刀である。

  侍達は、すでに刀を抜いていた。先頭の侍が無言で刀を薙いでくる。
  蘭丸は一歩引いてかわす。同時に刀を振り上げる。
  侍の頭上に打ち下ろす。蘭丸の一刀が侍の頭を半ば以上、断ち割った。
  力を失って、侍の身体が横倒しになる。

  二人目の侍の首に斬りつける。刃が侍の首に入る。そして抜けた。
  薙いだ勢いを制しつつ、刀を頭上に振り上げる。

  三人目の侍の頭上に刀を振り下ろした。
  頭蓋骨を断ちつつ、砕いた。三人目の侍も力無く廊下に倒れた。

  蘭丸は振り返る。首を薙いだ侍が立っていた。首は切断されて廊下に転がっている。
  遊女達が恐る恐る、襖を開けて廊下に顔を出す。
  お咲もだ。その顔が蘭丸の姿を見つけて、パッと輝くように笑った。

  ようやく首なしの侍が廊下に倒れた。
  蘭丸や遊女達が見守る中で、侍三人の体が塵に変わっていった。
  後には服と刀だけが残った。
 
   ◆
 
  蘭丸の足元で斬り捨てた侍達の体が塵になっていく。
  その光景に遊女達が悲鳴を上げた。

  やはり、あの行列は死者の群れなのだ。この世の者ではない、と皆が思った。
  蘭丸はお咲を見た。お咲は蘭丸と目が合うと、微笑した。

  蘭丸はお咲の笑顔を見ると安心する。刀を右手に提げ、階段を降りていく。
  蘭丸は用心棒である。こんな時は、先頭に立たねば皆に示しがつかないのだ。

 「だ、旦那あ」

  遊女屋の番頭が声をかけてくる。

 「た、頼みますぜ」

  番頭の声は震えていた。顔は蒼白だ。生きた心地もしないのだろう。

  だが蘭丸とて恐ろしい。
  『人斬り』とこの界隈で忌み嫌われてはいるが、蘭丸とて人間だ。
  恐怖を感じないわけではないのだ。

  蘭丸は遊女屋の入口を潜る。路上に出て行列の方を向く。
  視線の先に、大柄な男の背が見えた。刀を抜き、行列の前に出ている。

 「……何者」

  行列の先頭から数馬の声が聞こえる。二刀は鞘に納めてはいない。

 「わ、わしは榊田平四郎だ」

  大柄な男が刀を垂直に立てる。数馬を斬ろうというらしい。

 「門弟はわしが旗本様方からお預かりした者達…… わし一人生きて、旗本様方に顔見せなどできるか!」

  榊田は門弟を死なせた事に負い目を感じているらしい。そのくせ、最後に遊女屋を出ている。
  自分は安全な所にいて、門弟達に斬りこませているのだ。

  その結果、十一人が数馬に斬られている。
  己の振る舞いを、門弟が死んだ事によって恥じたらしい。
  蘭丸には榊田の背中しか見えないが、殺気全身に満ち、一分の怯えもない。ここで死ぬ気なのだ。

 「……よかろう」

  数馬が二刀を両手に提げた。刀は八の字に構えられている。榊田が雄叫びを上げて数馬に斬りこむ。

  勝負は一瞬だった。
  蘭丸の目には光が二条、横に走ったように見えた。

  鮮血が宙に舞った。
  榊田の体が三つになって地に落ちた。
  首、上半身、下半身である。

  数馬の一刀は横薙ぎに榊田の首をはねていた。
  もう一刀は榊田の胴体を横に斬り裂いていた。

  水平抜き二連とでも呼ぶべきか。
  数馬の左右どちらの刀が首をはね、どちらの刀が胴体を斬り裂いたかわからない。
  それほどの神速の太刀筋だ。蘭丸は目を剥いた。

 「……面白い」

  数馬の赤く輝く両目が真っ直ぐに蘭丸を見た。

 「……優男に思えたが、豪胆にして、腕も立つか」

  数馬は淡々と言う。褒めているのかもしれない。

 「……どうだ、我らの仲間にならぬか」

 「……断る」

  蘭丸は正眼に刀を構えて、数馬に向かって突きつける。
  すでに無心であった。
   
  ◆
 
  雲一つない夜空に満月が輝いていた。
  風は肌に冷たい。春のはずが、秋の怜悧な風のようだ。

  蘭丸は刀を構える。切っ先を数馬に突き付ける。距離は十歩ほど開いていた。

  蘭丸の精神は研ぎ澄まされていく。恐怖も不安もない。
  捨身必倒、己諸共に敵を断つ。
  用心棒稼業で身につけた覚悟である。その覚悟で敵を制する。
  蘭丸の捨て身の気迫は、いつでも相手を圧倒してきた。

  だが眼前の相手に、その気迫は通じるのか。
  蘭丸の眼前では数馬が二刀を両手に提げていた。八の字に刀が構えられている。
  隙だらけなようで、どこにも隙がないように見える、不可思議な構え方。
  だが、こちらが踏み込めば、数馬の二刀が自在に閃くのだ。

  蘭丸は動かない。数馬もだ。互いに相手の虚をうかがっている。

  そして周囲は騒がしくなる。

 「……そうだ幕府が悪い!」

 「私達がこんなに苦しい思いをしているのに!」

 「この苦界から連れ出してくれ!」

  行列に人々が群がっていく。この遊女屋の界隈に住む人々だ。
  多くの遊女達が行列に群がっていく。
  遊女屋で働く男達も。
  路上生活を営む汚れた浪人も。
  老いも若きもなく、死者の口上に賛同して、通りは人で埋まっていく。

  行き交う人々の中で、刀を構えて対峙する蘭丸と数馬は妙に浮いた存在だった。
  やがて数馬の方が構えを解いた。右手の大刀を地に突き刺すと、懐紙を取り出して脇差しの血を拭い始める。

 「……今日は命を預けておこう」

  数馬は脇差しを鞘に納めながら言った。右手は地に刺した大刀を引き抜いている。
  蘭丸は動かない。数馬は隙だらけである。
  だが斬りこめない。心も体も硬直していた。

 「……斬るには惜しい」

  数馬の赤い瞳が蘭丸を見た。

 「……名を聞いておこう」

  数馬が言った。
  蘭丸は刀を構えたままだ。じっと数馬を見据えて、小さく「蘭丸」と呟く。

  数馬は薄く笑って歩み去っていく。その背を蘭丸は静かに見送った。

  騒ぐ群衆。
  妖気をはらんだ冷たい風。
  通りに立ち込める血の臭い。
  足元に横たわる幾つもの死体。
  夜空に輝く、静かな満月……

  それら全てが現実感を失っているようで、蘭丸には夢を見ているようにしか思えない。
  歩み去っていく数馬の背が霞んでいく。行列も。不意にそれら全てが消えた。

  死者の行列も、それに群がる群衆も、全てが幻のように一瞬で消失した。
  同時に、蘭丸の足元に転がっていた榊田流の男達の死体も消えていた。

  あの十二人も、死者の行列の仲間に迎えられたのかもしれない。
   
  ◆
   
  その夜から、江戸は空気が変わった。
  もうこの世は終わりだ、という風聞が流れる。

  町人も真面目に働く事を放棄して、川に身投げした者もいるし、犯罪に走った者もいる。

  蘭丸の身辺は一変した。遊女屋でも、遊女の半分ほどが死者の行列に加わった後、行方不明になったために、商売が成り立たない。
  もっとも、遊女を求めてくる客も激減したが。

 「……俺も少し欲を出すか」

  蘭丸は怪異の夜など気にせぬようであった。己の用心棒家業で稼いだ金を整理する。百五十両ほどであった。

  この時代、贅沢さえしなければ一両で一ヶ月は生活できた。
  大金ではあるが、蘭丸には命を懸けて稼いだ金にしては安い、と思えた。

  そして蘭丸は、遊女のお咲を身請けした。遊女屋の支配人の老婆は、眉を寄せた。こんな時期に、と感じたに違いない。

  足元を見て、三十両もふっかけてきた。それでも蘭丸は動じない。了解してお咲を身請けした。
  お咲はそんな蘭丸の行いをどう見たのか。身請けした時、お咲は「うれしい」と微笑していた。

  蘭丸は住処を変えた。遊女屋に近い貧乏長屋から遠ざかり、江戸の麹町に長屋を借りて、お咲と共に移り住んだ。
  近所の人間の顔は明るい。まだ、死者の行列の噂は、知らないのだろう。

  この世の終わりの時が来た、とは少しも思っていないようである。
  蘭丸はお咲と一緒に住み始めた。そして、何事もなく、三日が過ぎた。三日しか経っていないのに、蘭丸はもう何年もお咲と一緒に住んでいる気分になる。

  お咲の膝枕で蘭丸は昼寝する。お咲は蘭丸の頭に手を添える。添えながら、話す。

 「近所の方も優しい方ばかりです」

 「……そうか」

  蘭丸はお咲の膝の心地よさに、うとうとしている。

 「ずっと、こうやって住んでいたいものですね」

 「……そうしたいな」

  蘭丸は呟いた。どうせこの世が終わるなら、惚れた女と共に過ごしたいと思ったからだ。
  同時に、脳裏に閃くものがあった。死者の行列に加わっていた武芸者の事だ。

  十一人の旗本を斬り捨て、一瞬で榊田を両断した魔の二刀を振るう男。名は確か、数馬と呼ばれていた。
  数馬も生者ではないのだろう。青白い顔に真っ赤な瞳。すでにこの世のものとは思えない。

  あの夜より何日か前に、一人の武芸者が行方不明になったと聞いた。それが数馬ではないのか。
  数馬個人の事など蘭丸にはどうでもいいのだ。だが、心に数馬の二刀の術が刻まれてしまって消えてくれない。

  また対峙する時があるのか。その時が来たら、果たして自分はどうなる、と思う。

 「どうかしましたか」

  お咲の声はどこまでも優しい。その声に蘭丸は癒される思いがする。

 「……いや、別に」

  蘭丸は呟いた。右手を懐中に差し込む。触れたのはいつか川辺で拾った十字架だ。
  蘭丸は初めて異教の神に祈る気持ちになった。

  そして、あの数馬を斬るための技が欲しいと切に願った。
  魔を断つ技が。そして心が。
  お咲の笑顔のために死ぬ事は、蘭丸には怖くないのだ。

  お咲の手が頭を撫でるのを感じながら、蘭丸は懐中の十字架を力強く握り締めた。
   
  ◆
 
  遊女屋通りの怪異の夜から三日後である。
  ある旗本屋敷に、来訪する者があった。深夜である。
  門を叩く音に起こされて使用人が門内から呼びかけた。

 「……私の声を忘れたか」

  と、門前から聞こえてくる声。
  それは、三日前に死者の行列と遭遇し、斬りあって死んだはずの長男の声である。
  使用人が驚いて主人を起こした。
  主人は、長男が死んだと思っていた。死者の行列に参加していた武芸者に斬られたと聞いた。

  そして、死体は消えてしまったのだ。死者の行列と共に。
  弔う事もできずに嘆いていたところに、長男が帰ってきたのだ。

  しかも、こんな深夜に。
  使用人が恐る恐る門を開けた。
  主人は息を飲んだ。
  門前に立っていたのは、まぎれもなく長男であった。

  榊田流の剣術道場で剣を学ばせた長男である。
  その長男の顔は夜目にも青白く、両の目は真っ赤に輝いていた。


  ……翌朝、その旗本の屋敷から全ての人間が消えていた。
  屋敷内は、血によって、壁も廊下も塗りつぶされるように真っ赤に染まっていたという。
   
  ◆
   
  蘭丸は、町中を散策した。お咲を伴って。今までの生活ではありえなかった。
  それは、お咲も同じであった。中天から降り注ぐ陽光に、困ったような微笑を浮かべている。

  二人揃って夜の仕事だった。蘭丸は用心棒、お咲は遊女。夜の仕事である。
  必然、昼に眠る生活だった。陽光の下を二人で並んで歩くと妙にこそばゆい。

 「まるで夫婦になったようですね」

  お咲の微笑に、蘭丸は顔が熱くなるのを感じた。こんな生活もいい、と思う。
  町中は活気がない。元気がありそうなのは子供くらいであった。
  死者の行列の噂は、どこまで広がっているのだろう、と思う。

  幕府でも対策を練っているらしい。江戸中の剣術道場に幕府の使いが走った。
  なんとか怪異を鎮めてほしい、と。
  だが、誰もが断った。当たり前だ。人知を越えた存在に誰が立ち向かえるというのか。
  幕府は、そんな事もわからない。

  蘭丸は、どこに向かうという当てもない。お咲は黙ってついてくる。
  途中で、風車売りを見かけた。子供達が何人か群がって買っている。
  お咲が欲しいと言うので買い与えると、子供のように無邪気な笑顔を見せた。

 「ふう~……」

  と息を吹きかけて風車を回すお咲を見ていると、蘭丸は妙な気持ちになってくる。
  自分は用心棒であった。人斬りでもある。あの遊女屋の界隈では忌み嫌われていた。
  蘭丸の剣の腕だけが必要とされ、利用されていた。

  信じるものは何もなかった。
  周囲の悪意ある視線も気にしてはいなかった。
  斬られて死ぬ事も恐ろしくはなかった。
  そんな生活を気に病むでもなく過ごしてきた日々を思う。

  今更になって心が重くなる。
  自分が斬った人間が、あの行列に加わってやってくるのではないか、という漠然とした不安に襲われる。

  傍らのお咲を見る。美しいだけでなく穏やかな女だ。自分はお咲の為に死なねばならぬ、と蘭丸は決意した。
   
  ◆
 
  夜である。蘭丸は長屋にいた。お咲と二人、寝具の中にいた。
  お咲は寝息を立てていた。安らかそうな表情で眠っている。
  寝ている時に人間の本性が出ると、どこかで聞いた。お咲の本性は優しいのだろう。

  その時、馬蹄の音を聞いた。蘭丸は緊張した。身を起こし、背中の半ばほどまである髪を無造作に束ねた。
  目を閉じて呼吸を整える。傍らの刀に手を伸ばした。
  馬蹄の音は、次第に近づいてくる。

  蘭丸は刀を鞘ごと抱き寄せた。耳を澄ませる。馬蹄の音が聞こえる。
  蘭丸は全裸だった。さっきまで、お咲と交わっていたからだ。そのお咲は静かに眠っていた。

  暗い部屋の中で下帯をつける。腹には、さらしを巻く。
  着流しを羽織る。刀の鞘を帯に差し、蘭丸は長屋の外に出た。

  蘭丸は外に出た。何か異様な感じがする。
夜空には月もない。明かりもないのに、よく見える。黒い紙の上に浮かぶ白線のように、何もかもが輪郭をはっきりとさせていた。

  長屋の立ち並ぶ小路を馬が一頭進んでくるのが見えた。
  馬蹄の音が、蘭丸の耳に響いてくる。

  蘭丸は白刃を抜き放って、馬を待つ。
  やがて蘭丸の前に馬が進んできた。誰かが騎乗していた。
  白髪の混じる頭髪を後に撫で付けた武芸者風の男。
  死者の行列に参加していた数馬であった。

 「……また会ったな蘭丸」

  数馬の真っ赤な双眸が蘭丸を刺してくる。吹きつけてくる妖気に蘭丸は背筋が凍える思いがした。

 「何しに来た」

  蘭丸は刀を提げたまま言う。眼前の数馬を見据えながら、周囲に気を配る。耳が異音を拾っていた。

 「……我らの仲間になれ。その剣の腕、失うは惜しい」

  数馬は馬から降りた。二刀を抜く気配はない。蘭丸は一歩下がる。

 「……この江戸に、お前ほどの男がどれだけいると思う?」

 「……知らん」

  蘭丸は素っ気なく答える。

 「俺はただの人斬り」

  蘭丸は刀を上げた。両手に刀を握って、峰を右肩に乗せる。
  この構えから渾身の力を込めて振り下ろすのが蘭丸の得意技だ。

 「買い被りすぎだろう」

 「……どうかな」

  数馬は青白い幽鬼のような顔に笑いを浮かべた。どこか楽しげで嬉しげでもある。

 「……悪い事は言わぬ。我らの仲間に」

 「仲間になってどうする」

 「幕府を打倒するのだ」

 「……死者となれば、それができるのか」

 「無論だ」

  数馬は疑いもなく信じているようだった。
  蘭丸はそんな数馬から目を離さず、長屋の屋根の上を、何かが移動している音に耳を澄ませる。

 「……剣と共に生きてきた」

  数馬がボソリと呟いた。

 「……己の剣を存分に振るう戦場が欲しい」

  そのために数馬は生きながら死者の行列に加わったのか。

 「……蘭丸よ、同志と成れ!」

  数馬の叫びと同時に、長屋の屋根の上から、二つの小さな影が飛んだ。
   
  ◆
 
  屋根の上から二つの影が空中に踊り出た。
  その影が蘭丸に飛びかかる。

  蘭丸は肩に乗せた刀を振り上げた。
  ヒョウ、と刃が空を裂く。
  蘭丸の刀の軌跡は大きな半円を描く。

  蘭丸の両手に肉を裂く手応えが伝わった。
  影の一つが、空中で真っ二つになって地に落ちた。
  もう一つの影は蘭丸の一刀から逃れて、数馬の方へ着地した。

  蘭丸は再度、刀を右肩に乗せた。
  数馬と影を、蘭丸は厳しく睨み据える。

  影は数馬の足元で身を震わせる。吠えて威嚇する。
  屋根の上から飛来したのは犬だった。

  しかし、ただの犬ではない。毛が黒く、真っ赤な目に、狂った殺意を浮かべた魔犬だ。

  この魔犬も死人の仲間なのだろう。
  地面の上では、真っ二つにされた犬がもがいていた。胴体を両断されて苦しいのか。
  それには構わず、蘭丸は数馬を睨み据えた。

 「……なかなかやるな」

  数馬は目を細めた。

 「……ますます仲間に欲しいものよ」

  数馬は腰を捻って刀を抜いた。
  蘭丸は思わず硬直した。脳裏に数馬の二刀が閃いた。
  十一人をあっという間に斬り捨て、榊田平四郎を一瞬で両断した、数馬の魔の二刀が。

  ……が、予想に反して数馬が抜いたのは脇差しのみであった。
  少々、呆気に取られた蘭丸を嘲笑うかのように、数馬は脇差しを突き付けてくる。

 「……まずは、これにてお相手しよう」

  内面の怯えを悟ったような数馬の行動に、蘭丸は歯痒い思いがする。

 「……なめるな!」

  蘭丸は大きく踏み込んだ。
  犬が一際大きく吠える。
  数馬は歓喜の雄叫びを上げた。
   
  ◆
 
  江戸城の門番は生きた心地もしない。
  死者の行列の噂は聞いていた。率いているのは、先の三代将軍の弟・大納言忠長である事も聞いていた。

  現世に幕府への怨みを持って現れたのだ、と幕府の要人が怯えているのも知っている。
  夜空には月もない。暗い夜である。こんな夜に城勤めなど嫌だなあ、と思っていれば……

  門番は隣の同僚の肩を揺さぶる。どうやら、同僚は立ちながら眠っていたらしい。
  肩を揺さぶられて、目をこすりながら何だ、と呟く。

 「……あれを見ろよ」

  門番は冷や汗をかいていた。真っ直ぐに前を見つめている。
  視線の先には、騎乗した人影を先頭に行列が並んでいた。
  その数は二百程か。まるで合戦に臨むかのような仰々しさである。

  門番は息を飲んだ。江戸城前の大橋の向こうに、いつの間にか二百人余りの人間が並んでいたのだ。

  先頭には、騎乗した人物がいる。身なりがよい。大名のようでもある。
  行列の中から、数十の槍の穂先が天を衝いていた。
  それに混じって、鉄砲の筒先も見える。

 「ひょっとして、あれが……」

  門番は同僚に振り返る。

 「大納言様の行列……」 

  同僚も蒼白な顔で、行列に見入っている。
  春だというのに風は木枯らしのように冷たく、腐った水のような匂いを運んでくる。

 「ど、どうする」

 「な、何が」

 「あれを……」

 「どうすると言っても、どうにかなるか!」

  同僚は怒鳴った。内心、恐怖に怯えているのだろう。
  門番の心臓は早鐘のように鳴る。

  殺されるかもしれないという恐怖よりも、人知を越えた存在に対する未知への恐怖の方が強かった。
  夜空に月もないのに、行列の姿は、夜の闇の中で鮮明に浮かび上がっている。

 「……お、おい」

  門番は見た。行列の先頭、騎乗した人影の隣で、侍の一人が大きな弓を引いている。
  弓は、こちらに向かって引かれていた。
  ヒョオ!、と空気を裂く音が聞こえた。矢が放たれた音だ。

 「わあ!」

  門番は悲鳴を上げた。同僚もだ。頭を抱えてしゃがみこむ。
  矢は二人の頭上を越えて、門に突き刺さった。
  刺さったまま、ビィンと小刻みに揺れた。

  二人が顔を上げて恐る恐る矢を見ると、文が結びつけられていた。
  矢を引き抜くべきか、と門番は恐怖に震えながら立ち上がった。

  隣では同僚が小さく悲鳴を上げる。
  行列の中から、馬が飛び出してきたのだ。背に人を乗せて。
  動きが早い。真っ直ぐに門の方へ突っ込んでくる。
  門番も同僚も、息が止まった。馬が荒々しい蹄の音をたてて近づいてきた。
  馬は門番の前、一間(約一・八メートル)のところで止まった。

 「……将軍様に伝えるがよい」

  騎乗した侍の野太い声がした。かなりの大柄だ。七尺(約二百十センチ)はあるだろう。
  ちなみに、この時代の成人男性の平均身長は、五尺二寸(約百五十六センチ)程である。

 「大納言様からの宣戦布告だ」

  侍はあごをしゃくった。矢に結ばれた文の事らしい。
  門番は慌てて首を縦に振る。

 「……ついでだ」

  侍が馬から降りた。そして腰の刀を抜いた。

 「戦の前に景気づけだ」

  白刃が光を発して輝いた。
   
  ◆
 
  蘭丸は数馬に向かって踏み込んだ。
  刀を振り上げ、打ち下ろす。

  数馬は右手の脇差しを横に薙いだ。
  刃と刃が激突し、ガアン!と金属音を立てて、火花を散らす。

  蘭丸の一刀は容易く、数馬に打ち払われた。
  蘭丸は舌打ちしながら体を引いた。素早く後方へ飛びのく。

  数馬は動かない。右手の脇差しを突き出して構えている。
  隙がない。余裕すら感じられる。その足元では犬が低く吠えたてる。

  蘭丸は嫌な汗をかいていた。脇差しで応戦する数馬につけいる隙がないのだ。
  力の差を感じて愕然とする。
  数馬は蘭丸の心境を読んだか、薄ら笑いを浮かべている。

 「まだやるか」

  声がどこか楽しげだ。虚仮にしているのか、と蘭丸は歯軋りする。
  しかし、不思議に殺気は感じられない。
  まるで蘭丸相手に稽古でもつけているかのような調子である。

  蘭丸は呼吸を整える。心を静め、刀を正眼に構える。
  じっと数馬を見据えた。ほんの僅かな動きにも反応できるように。

  数馬の足元で犬が低く唸った。
  赤い瞳が殺意を浮かべている。

  蘭丸の精神は白紙となっていた。
  一切の雑念のない無の境地に。

  犬が動いた。姿勢を低くした後、蘭丸に向かって飛びかかる。

  蘭丸には、その動きがゆっくりに見えた。
  意識は驚くほど集中している。
  蘭丸は極限の集中力を発揮していた。

  犬の体が宙に飛んでいる。
  蘭丸は体を右に寄せる。刀を握る両手が動く。
  僅かに切っ先が揺れた。
  刃先が空中の犬の首を一刀で切断した。

  ……犬の悲鳴と共に、蘭丸は我に返った。
  犬の首と胴体が地に落ちた。
  首のない胴体が地面でもがく。
  すぐにそれも静かになる。

  蘭丸の視線の先で数馬が「ほう」と小さくつぶやいた。
  
  ◆
 
  江戸城の門番は、目の前で同僚が斬られるのを見た。
  真っ向から一刀で唐竹割りにされた同僚が、地面の上に転がっている。

 「お前は生かしておいてやろう」

  身の丈七尺(約二百十センチ)の巨人が笑った。
  振るう刀も刃渡り四尺(約百二十センチ)はあろうかという長大な刀だ。その刀身が血に濡れている。

 「将軍様に伝えておけ」

  巨人は刀を肩に担いだまま、馬に飛び乗った。

 「合戦の日時は明日の夜だとな」

  巨人が馬に乗って遠ざかるのを門番は腰を抜かして見送った。途中で、巨人が馬上から振り返って叫ぶ。

 「ワシは榊田平四郎だ、大納言様の将として、明日は屍の山を築いてみせるぞ!」

  榊田平四郎は大柄ではあった。だが、七尺に及ぶほどの巨体ではなかった。
  門番には見えなかったが、榊田の首にはグルリと一周する傷跡が残っていた。

  首から下は新しい体を与えられたのだ。
  そして、かつて旗本の子弟相手に剣を教えた武芸者たる面影は残っていなかった。
  あるのは血に飢えた餓狼のごとき猛々しさである。
   
  ◆
 
  蘭丸は両手で刀柄を握り、刃の峰を右肩に乗せていた。刃は上を向いている。そして前方の数馬をきっと見据える。

  数馬は動じた風もない。右手の脇差しを持ち上げて、蘭丸の方へ突き付けている。

 「……ワシは」

  数馬は一歩を踏み込んでくる。ゆっくりと。蘭丸は刀柄を力強く握りしめる。

 「……貴様に会う為に生きてきたのかもしれぬ」

 「……何?」 

  蘭丸は緊張を解かずに呟く。

 「……幾多の戦場をくぐり抜けてきた」

  数馬の気は蘭丸の方に向いていない。独り言のようにも聞こえる。

 「……大坂の陣でも、貴様のような奴に巡り会えなんだ」

  今、数馬には眼前の蘭丸が見えていないのかもしれない。
  心は常に、若い頃から渡り歩いてきた戦場の中にいるに違いない。

  生と死が常に隣り合わせの世界。
  数馬はそんな青春を送っていたのだろう。
  その青春に、一片の悔いがあったのだ。

  主の存在と、己の誇りをかけた一戦。
  その欲求が満たされなかったがために、数馬は死者の群れに加わったのだ。

  以上は蘭丸の推測である。剣を交えて伝わってきた数馬の思いである。間違っているかもしれない。
  だが、そんな事は数馬自身が気付いていないかもしれないし、真実は誰にもわからない。

  数馬の独り言も終わる。蘭丸の推考も数秒である。
  数馬が脇差しを左手に持ち替えた。
  そして右手で腰の刀を抜いた。二刀流である。
  二刀を握った数馬の両手がダラリとぶら下がる。

  蘭丸には八の字に構えているように見えた。
  数馬は動かない。蘭丸も、また。
  互いに必殺の瞬間を逃さぬように集中しながら対峙した。

  蘭丸のこめかみを汗が一筋、流れ落ちる。
  心臓が早鐘のように鳴り響いた。
  ジリ、と数馬が足を擦る。蘭丸ににじり寄ってくる。

  蘭丸は体の力を抜いた。意識は数馬にのみ向けられている。
  一刀に全てを込める。その心で数馬の動きを待つ。
  勝敗は刹那の瞬間に決するはずである。

  蘭丸が呼吸するのも忘れて数馬の動きに見入っていた時、何かが視界の隅に入った。
  長屋の屋根の上に青白い炎が浮かび上がった。
  その炎が人の形になっていく。蘭丸の意識が逸れた。

  それは数馬もだった。首を動かし、屋根の上見つめている。
  舌打ちすると、「姫!」と小さく叫んだ。

 「……姫だと?」

  今や長屋の屋根の上に、美しくも青白い女の姿が現れていた。
   
  ◆
 
  屋根の上で燃えていた炎から、女の姿が浮かび上がる。
  細身の長身に青白い肌。その肌が透けるような半透明の衣をまとい、唇だけが妙に赤い美女だ。

 「……姫」

  数馬が二刀を構えたまま口を開く。珍しく感情が揺れているようだ。

 「……何故、何故に、勝負の邪魔を致すのか!?」

 「無礼であるぞ数馬!」

  屋根の上で女が叫んだ。数馬を恐れぬ金切り声。思わず蘭丸は苦笑した。

 「お主ごときの言など聞かぬぞ、控えよ!」

 「く……」

  数馬が悔しそうに舌打ちする。その様を見て、この女が数馬の主なのか、と蘭丸は思う。

 「数馬よ、明日こそ己の待ち臨んだ合戦ぞ」

  女は蘭丸など眼中にないかのように、数馬と話を続ける。

 「! おお、では……」

 「江戸城に攻めこむ。布告の矢文も放った。こんなところで時を無駄にするな!」

  女の金切り声に蘭丸は頭痛がしそうになる。
  数馬はといえば、すでに心が蘭丸を離れているのか、呆然とした様子で女を見上げていた。

 「……蘭丸」

  数馬は二刀を鞘に納めながら蘭丸を向く。すでに戦意はないようだ。

 「……お主と楽しむのもこれまでだ」

  数馬は蘭丸に背を向けて馬に騎乗する。

 「……せいぜい命を大事にしろ」

 「ま、待て!」

  一人置き去りにされたような気がして、蘭丸は叫ぶ。

 「江戸城? 合戦? 何の事だ」

 「幕府を討つのだ」

  馬上から数馬が真っ赤な瞳で蘭丸を見た。

 「その時が来たのだ。世を苦しめる諸悪の根源を討つ時が。わしは忠長様の侍大将として働かねばならぬ」

  数馬の口調は滑らかだ。合戦と聞いて、感極まったと見える。

 「……お主とは生きている時に会い、剣を交えてみたかった……」

  数馬は馬を駆って、長屋の小路を走り去る。蘭丸は構えを解いて、ただ呆然と数馬を見送った。

  視線を移す。女を見た。闇の中に浮かぶ青白い女体。
  豊かな肉体を半透明の衣が包んでいる。ひどく悩ましい姿である。

 「は、お主が数馬お気に入りの蘭丸とやらか」

  女は蘭丸を眺め、ほうと嘆息したように言う。

 「蘭丸、お主も我らと共に来い。この夜叉姫が許す。いつでも仲間にしてやる」 

  そう言って夜叉姫の姿は青白い炎に包まれ、そして消失した。
 
  ◆
 
  蘭丸が体験した事は、夢か現実か。
  お咲は眠っていたので馬蹄の音など、わからなかったらしい。
  お咲に頼んで近所の人間に聞いてもらったが、やはり馬蹄の音など聞いていないと言う。

  だが昨夜の死闘は現実だ。
  蘭丸の刀には、黒い血のような物がこびりついている。あの犬を斬った跡だ。

  外に出る。地面を見回すと黒い染みのようなものができていた。近所の子供達が不思議そうに、それを見ていた。
  蘭丸は部屋で横になる。懐中の十字架をまさぐる。気持ちは落ち着かない。

 「どうかしましたか?」

  お咲は、そんな蘭丸を見て、不思議そうに尋ねてくる。

 「……四日前の夜の事、どう思う」

  遊女屋通りに現れた死者の行列の事である。お咲が蘭丸の隣に来て正座する。

 「わかりません」

  と、お咲は言った。確かに、蘭丸にも人知を越えた出来事としか思えなかった。

 「……ですが」

  お咲は言葉を続けた。

 「今は幸せです」

  そう言うと、お咲は豊かに微笑した。

 「……そうだな」

  蘭丸もそう思った。お咲の笑顔に心も晴れた。
 
  ◆
 
  昼になって蘭丸の元に訪問者があった。幕府からの使いである。
  部屋に上げると、蘭丸とお咲の前で土下座する。

 「何卒、力をお貸しくだされ……」

  使いの者は、歳は四十ほど、後で聞いたが知行二千石の旗本だった。それほどの者が、一介の浪人である蘭丸に何の用だというのか。

 「……話を聞きましょう」

  蘭丸は不安げなお咲を横目で見ながら使いの者に優しく言った。
 
  ◆
 
  幕府では昨晩現れた死者の行列の件で大騒ぎになっていた。
  老中、家老と言った要職の者達は朝から討議を続けている。

 「……自分は見ましたぞ、門番の死骸を。凄い切り口でした」

 「生きていた門番の話だと、そやつ榊田平四郎だというのだ」

 「馬鹿な、榊田は斬られたはず」

 「大納言様の臣下に加わったという事か…… 忍足数馬といい、ええい、忌ま忌ましい!」

 「合戦の準備は?」

 「朝から鉄砲奉行を動員させて、鉄砲も弓も用意させておるが……」

 「夜までに、人員はいかほど配置できる?」

 「今、城内に入った者が三百という事だ。旗本め、火急に用を為さぬ武士がどこにおるのだ!」

 「死者相手では逃げたくもなりましょう……」

  一人の家老の言葉が場に静寂をもたらした。
   
  ◆
 
  蘭丸は長屋を後にした。お咲を抱きしめ、「必ず生きて帰ってくる」と、お咲に接吻しながら強く言い残す。

  蘭丸は幕府の使者・村井小十郎と共に江戸城に向かった。
  四日前の夜、死者の行列と斬り結んで生き延びた浪人がいる、という評判が幕府の耳に届いていたのだ。

 「何卒、力をお貸しくだされ」 

  長屋に来た時、村井は蒼白な顔で語った。今夜、死者の行列は江戸城に攻めこむらしい。
  だが、蘭丸には関係ない。幕府で処理すればよいではないか、と思う。

  蘭丸とて、気にならぬでもない。数馬と夜叉姫の事だ。
  自分は死者の行列に関わり過ぎて引き返せないのではないか、逃れられぬ運命なのではないか、と蘭丸の心は大いに乱れている。

  結局、蘭丸が江戸城に向かった最大の理由は、お咲の事だった。

 「蘭丸様……」

  村井の話を聞く内に、お咲の顔はどんどん蒼白になっていった。どんな心境になったのか。

 「……お咲、安心しろ」

  蘭丸はお咲の肩に手を置いて、安心させるように笑った。

 「俺がやつらを斬る。そうすれば、明日からは安心して眠れる」

  蘭丸の言葉に、お咲は笑った。顔は蒼白のままではあったが表情は明るい。

  こうして、蘭丸は決意して、村井に従って江戸城に向かった。
  善でもなく義でもない。ただ、お咲が安らかに眠れるように。

  それだけで、蘭丸には剣を振るう理由になるのだ。
 
  ◆
 
  夜が来た。江戸城内は騒がしい。門前では篝火が燃えている。
  見張りは外にいない。全ての旗本は武装して城内で身構えている。

  城に集まった旗本達は皆若く、全員が戦を知らない。
  刀を扱える者も少ない。そんな烏合の衆が城を守っていた。

 「……出たぞ!」

  石垣の上で見張りの侍が叫んだ。指指す方向を見て、皆が唖然とした。
  城前にかかる大橋の向こうに、いつの間にか数百人もの人間が出現しているのだ。

  城門前の篝火の明かりが、彼ら死者の軍団を闇夜に浮かび上がらせる。

 「……鉄砲だ!」

  物見櫓の上から誰かが叫んだ。城内の侍達が鉄砲を次々に構えた。

  だが、結果は惨憺たるものだった。旗本達は鉄砲奉行から指導を受けていたが、ほとんどが鉄砲を撃つ事もできない。
  銃身が暴発して死亡する者までいた。

  城内が混乱に陥っている間に、死者の軍団は橋を渡って城門に達しようとしていた。
 
   ◆
 
  数馬は失望を隠せなかった。
  江戸城に攻めてきたというのに、城内の旗本達はまともに応戦する事もできないのだ。
  こんな戦を臨んで、生者から死者になったのだろうか?

  数馬は傍らで騎乗する忠長を見る。その無表情な青白い顔には何の感慨もない。
  ただ、真っ直ぐに江戸城を見つめているだけだ。

  数馬が不満を隠せず、夜空を見上げながら馬上で嘆息した時、前線から使者が駆け込んできた。

 「……どうした」

  数馬は聞いた。駆けてきた侍が膝まずきながら言う。

 「……榊田様が斬られました」

 「何?」

  数馬には信じられなかった。榊田は数馬に斬られた後、死者の軍団に加わった。
  首から下は新しい体を与えられ、数馬にも匹敵する力を得たのに。

 「……何者に討たれたか」 

  数馬の問いに、使者は経緯を語る。

  ……破壊槌を手に、城門に到達した榊田と榊田の門弟達は、城壁から降り注ぐ弓矢などものともせずに、城門の破壊を始めた。

  彼らは死者である。頭を破壊されるか、首を切断しない限り、黄泉に向かう事はない。それゆえの蛮勇であった。

  榊田の七尺の巨体から繰り出される破壊槌が城門を半ば以上、破壊したところで門が内から開いた。

  そして人影が門から飛び出した。
  城門の破壊に集中していた榊田は、咄嗟に反応できなかったらしい。
  応戦する間もなく、門内から飛び出した浪人の一刀が、榊田の首を斬り落とした。

  城内の旗本達は、その浪人の活躍に触発されたか、死者を相手に一歩も引かず、現在、徹底抗戦になっているという。

 「……何者だ、その浪人?」

  すでに数馬には、その浪人が誰なのか見当はついていた。
  まさか、と思いつつも期待に胸が騒ぎ出す。

 「そ、それが例の女郎屋にいた……」

 「蘭丸か!」

  数馬の声は歓喜に弾む。
 
   ◆
 
  城門は開かれていた。中からは武装した旗本達が飛び出してきていた。
  死者の軍団と斬り結んでいる。鉄砲も刀も扱った事がないとは思えない勇ましさだ。

  『死者の行列』の怪異は、江戸市民に「もうこの世は終わりだ」という絶望を与えた。

  だが、どうせ死ぬのであれば——

  ある者は大義の為、ある者は家族の為、ある者は己の誇りの為に、生きる事を決意したのだ。

  この場にいる旗本達もそうだった。死者の軍団という脅威の前に、文字通りの死力を発揮している。その勢いが死者の軍団を押している。城内に入った旗本は五百以上、数の上でも死者の軍団を上回っている。

  だが、その勢いも前線に赴いてきた数馬の出陣によって止まる。
 
  ◆
 
  城門前に赴いた数馬によって、戦況は流れを変えた。

 「……忠長様の侍大将、忍足数馬参る!」

  数馬が旗本達に斬り込んだ。両手の二刀が空を斬る。
  右手の太刀が旗本の首をはねる。左手の脇差しが旗本の首を裂く。血が噴水のように吹き出した。

  たちまちの内に、十人ばかりが斬り捨てられた。悲鳴を上げて、旗本達が逃げ惑う。

 「蘭丸よ、出てきて我と立ち会え!」

  数馬は咆哮する。そして左右の旗本達を斬り捨てていく。
  白刃が閃く。旗本の顔が半ば程で両断されて宙を飛ぶ。

  二刀が同時に動いた。動いた瞬間、数馬の前にいた旗本が首と胴体を両断されていた。
  旗本達が悲鳴を上げて四方に散る。

  返り血を浴びて、全身を真っ赤に濡らしている数馬は、地獄の鬼のような凄まじさだ。正に悪鬼羅刹である。

  その時、バアン!と銃声が夜空に響いた。鉄砲の射撃音だ。
  轍鮒の弾丸が、数馬の右耳を吹き飛ばした。さすがの数馬も、態勢を崩して片膝つく。
  数馬は、弾丸の飛んできた方向に顔を向ける。鉄砲を構えた、一人の浪人の姿が見えた。

 「……蘭丸!」

  数馬は傷をものともせずに立ち上がった。 右耳から血を噴出させたままで。

 「……皆、下がれ!」

  数馬は周囲の死者達に向かって叫ぶ。

 「この男は、ワシが斬る!」

  数馬は、左右に居並ぶ死者の軍団から、両手に二刀を握って、前に進み出た。
 
  ◆
 
  蘭丸は白装束に身を包んでいた。襷をかけ、額には鉢金をつけている。

  手にした鉄砲は投げ捨てる。同時に腰の刀を抜く。
  祖父から父へと受け継がれ、父から蘭丸へと受け継がれた、戦場をくぐり抜けてきた一刀を。

 「……奴は俺が斬る!」

  蘭丸は、背後に控える旗本達を制しながら叫ぶ。
  そして、二刀を提げた数馬に向かって、ゆっくり歩を進めた。

  蘭丸の動きに合わせて、数馬が前に進んでくる。
  蘭丸は更にゆっくりと歩を進めた。

  一歩詰める度に、蘭丸の心は白紙になっていく。目の前の数馬に恐怖を感じない。
  ただ、『斬る』という意思が体を動かしている。

  蘭丸は両手で刀を握る。刃を上にして峰を肩に乗せる。その姿勢で前に飛び出した。

  夜空に雄叫びを上げる数馬に向かって、蘭丸は渾身の一刀を振り下ろした。
 
  ◆
 
  忠長は馬上から江戸城を見つめていた。
  死者の軍団が撃ち込んだ火矢によって、あちこちから火の手が上がっている。

  燃える江戸城を見つめながら忠長は静かに時を過ごす。

 「……空しいのか、忠長よ」

  忠長の隣で青い炎が燃え上がった。その中から妖艶な女が姿を現す。夜叉姫であった。

 「……」

  忠長は何も答えない。無表情な顔に、何の感動も浮かんでいない。

 「お主の怨念、もっと根の深いものと思っていたが」

  夜叉姫は右手をゆっくりと上げた。その手の平に青い炎が燃え上がる。

 「……もはや用済みか」

  夜叉姫の手の上で、青い炎が火柱となって燃え上がった。
 
  ◆
 
  蘭丸が刀を打ちおろす。
  ヒョウ、と風を切り裂く音がする。

  その一刀を数馬は難なく避ける。避けながら脇差を横に薙ぐ。
  刀の切っ先が蘭丸の腹部をかすめた。蘭丸は一歩引いていた。
  引いていなければ、腹を切り裂かれていたはずである。

  両者、飛び退く。そして刀を構える。
  蘭丸は刀を上段に構えた。

  数馬は右手の刀を、頭上をよぎるように水平に構える。
  左手と左足を前に出し、脇差を目の高さに、水平に構えた。二刀流独特の構えである。

  旗本達も、死者の軍団も、蘭丸と数馬の一騎打ちに見入っていた。

  蘭丸が再び踏み込む。
  振り下ろした一刀を、数馬は二刀を交差させて受け止めた。

  ガギィ! と鋼鉄の打ち合う音が響く。
  そして鍔迫り合いになる。
  両者、渾身の力を振り絞って、鍔迫り合いを続ける。

  そして、誰もが数馬の動きが鈍っている事に気づいていた。

 「……何をした、蘭丸?」

  鍔迫り合いの姿勢から、数馬は声を振り絞る。
  だが、蘭丸には意味がわからなかったに違いない。

  蘭丸は、先ほど鉄砲で数馬の頭を吹き飛ばそうとした。
  だが、それは失敗した。弾は、数馬の右耳を根元から吹き飛ばしただけである。

  そのせいなのか、数馬の二刀が勢いを欠いている事に誰もが気づいていた。
  そして、数馬自身、体の平衡感覚が鈍っている事に気づいていた。

  右耳を失ったせいで、数馬の神妙なる刃筋は、かなり鈍っている。その体力までも……

  蘭丸が押した。数馬が二、三歩後退した。
  その隙に蘭丸の刀が横に一閃した。
  数馬の左手首が切断されて地に落ちた。

 「……蘭丸!」

  二刀を封じられた数馬は、雄叫びを上げて右手の刀を薙いだ。
  刃先が蘭丸の腹に斬りこまれた。

  ガギィ! と、金属がぶつかりあう音がした。
  蘭丸の白装束は、細かい鎖を編みこんであったのだ。

  だが、それだけではない。
  いつも蘭丸が忍ばせている十字架が、数馬の一刀を受け止めていたのだ。

  数馬のほんの一瞬の動揺。蘭丸は、その間隙を突く。
  横に薙ぐ。刃先が数馬の首筋に入った。そして抜ける。

  数馬の首が宙を飛んでいた。

 「……見事だ!」

  と、断末魔の叫びを上げて。
  蘭丸は、宙に飛んだ数馬の首が満足したように笑ったのを見た。
 
  ◆
 
  蘭丸は重症を負った。
  数馬の一撃は白装束の鎖を断ち切り、懐の十字架に止められたが、その衝撃で吐血するほど、内臓を痛めたのだ。

  旗本達が蘭丸を城内に引き込む。蘭丸は激痛に意識を失った。
  ……蘭丸が目覚めた時、朝だった。死者の軍団は朝日を浴びて塵になってしまったという。
  何とも呆気ない幕切れに、蘭丸はただ呆然とした。

  そして、懐中の真ん中からへし折れた十字架を握り締めた。鍛冶屋にでも直してもらうか、と思った。

  だが、怪異の中心にいた忠長はどうなったのだろう。それは誰も知らない。
  蘭丸だけは知っている。死者の行列には夜叉姫という女がいた事を。
  その女こそが、きっと怪異の張本人であったのだ。
  それが姿を消したのはなぜだろう、と思う。

  ……一日、城で休んだ後、蘭丸は長屋に戻った。
  長屋ではお咲が笑顔で欄丸の生還を迎えてくれた。
 
  ◆
 
  それから三日後。蘭丸は長屋にいた。
  すでに夜であった。お咲が夕食の準備をしてくれていた。

  ふと、妙な気配を感じて蘭丸は立ち上がった。
  刀を腰に差して、長屋の外に出る。

 「どうしました、蘭丸様?」

 「なに、すぐ戻る」

  答えて、蘭丸は長屋の外に出た。
  風は肌寒い。まだ腹部の痛みもおさまらない。

  夜空を見上げる。美しい三日月が輝いていた。
  その時、蘭丸は女の高笑いを聞いた。どこかで聞いた覚えがある。

 「……忠長は愚かであったわ」

  その女の声を探して、蘭丸は左右を見回す。
  長屋の屋根の上に、妖艶な女の肉体があった。

 「せっかく、黄泉から連れてきたのに、江戸城に火を点けただけで満足してしまうとは…… ゆえに、無用と処分したわ」

  蘭丸は目を見開いていた。女は夜叉姫であった。

 「人間とは、それほど欲のない生物なのかえ? わからぬわ」

 「……人間でなければ、人間などわからぬよ」

  蘭丸は刀を抜いた。
  抜いた瞬間、腹部に痛みが走った。
  この体で刀を振れるのか、と思う。

 「……まあよい」

  夜叉姫の体が宙を飛んだ。舞うように、蘭丸の前に降りてきた。
  肌が透けるような半透明の衣。その妖しいまでの美しさ。正に魔性であった。

 「次はお主じゃ」

  夜叉姫の手の中で、青い炎が燃えあがる。

 「我と共に来い。我らと結び、生者の世界を支配しようぞ。我は、そなたの妻となろう」

 「……断る」

  蘭丸は刀の峰を右肩に乗せた。

 「……惚れた女がいるんでな」

  蘭丸は刀柄を両手で握り締める。
  真っ直ぐに夜叉姫を見据える。
  一打必倒の気迫である。

  蘭丸を見つめる夜叉姫が、妖艶な笑みを浮かべた。
 
〈了〉
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