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一章

純朴

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 もしかしたら言うまでも無いかもしれないのだが、俺は到底、特定の誰かと交際した事はない。彼女いない歴、イコール年齢だ。
 男の尊厳は一度も生産的に使用された事もなく理由もわからず死んでしまい、転生したら美少女だった俺はしかして未だ、当然のように自分の体に今ひとつ慣れを感じられずにいた。
 膨らんだ胸に気づいた当初こそ、その気になればいつでも揉める、なんて嘯いたものだが、いざとなると恥ずかしいやら虚しいやらで手をつけた事はないし、実際この服を与えられてから裸になったことすらない。トイレも、どうしていいかと四苦八苦しながら、極力何も見ないようにしながら済ませるような俺は、優しく言えばシャイであり、ぶっちゃけて言えば完膚なきまでに童貞だった。
 女になってしまったが心は男。自分とはいえ女性の体に容易に触れたり見たりなど、出来る訳もない。しかしそれでも困るまいと呑気に構えていたのだが──

「…………風呂?」
「はい、お風呂です。お好きな時に入って頂いて大丈夫ではあるのですけれど、フィリアさんはこの宿の事もあまりご存知ないでしょうし、説明もいるでしょうと思いまして」

 悪気のない屈託のない笑顔が俺を追い詰める。
 風呂。詳細は最早言うまでもない。
 問題はそれは、避けようもない未来をもたらしてしまうだろうということだ。
 即ち裸にならなければならない。しかも世界観が世界観だ。個別に風呂がぽんぽんあるとは考えにくい。まず間違いなく大勢で一つの風呂に入るタイプ。当方の被害は甚大である。しかも恐らく隠すものすら無いのでは無いだろうか。自分のを見るのでも恥ずかしいのに、他人に見られるとかもうプレイの域だろう。

「どうかなさいましたか……?」

 青い顔で冷や汗を流し放心している俺に、心配そうに上目遣いでナーミアが声をかけた。
 風呂は遠慮する、と断るのは簡単だが、幾つか断りにくい理由があるのも確かだった。
 まず、この体になってからロクに体を洗っていないということ。勿論川があれば多少は拭いたりしたし、見苦しくない程度には整えている。だがそれだけでは少し不衛生ではなかろうか、という気持ちはないでもない。それにこの街にもいつまで滞在するかわからない。一度は回避できても二度三度となれば怪しまれようし、なにより不潔だ。
 第二は気持ち的な面で、この先旅を続けるにあたって、風呂に入る機会なんてあるかわからないのに回避していいのか、後で後悔しないかという点だ。引きこもり時代にも風呂に入れなかったことが一二を争う苦痛だったほど、他の日本人の例に漏れず俺は風呂好きである。入れる時に入っておいた方がいいのではないか。

 メリットとデメリット。いい点と悪い点。それらを天秤に掛けて俺が出した結論は──

「……出来れば誰もいない時に入りたいんだけど、いいかな?」
「えっと、時間がかなり遅くなってしまいますけど……」
「それでいい。それで頼む」

 最終的には誘惑に負けた。
 だってこのファンタジー世界に風呂に思い切り入れる機会なんて今後あるかどうか。これは仕方ない。そう、仕方がないのだ。

「じゃあ、お風呂の様子も見て、大体大丈夫になりましたら呼びに行きますので、それまで部屋に居てもらってもいいですか?」
「わかった。……ありがとう」

 ナーミアは少し困惑したようだったが、俺は心底感謝の念に尽きなかった。

 いいようにのらりくらりと回避してきたが、とうとう俺にも来てしまったようだ。
 自分と向き合う時ってモノが。

 俺は決意と覚悟を胸に──取り敢えず、自分の部屋を見てみようかと鍵を手に宿内地図を広げたのだった。
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