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第九章「海神編」
投げられた賽は戻らない
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「…………え?」
サークが目覚めた時、養父はもうこの王都にはいなかった。
驚きのあまりその意味が頭に入らない。
「何で……。」
「多分、お前関連だろ?じゃなきゃおじさんがそんな無茶苦茶する訳ねぇじゃん。」
暇そうに足をバタつかせながらアレックはそう言った。
ラニもリアナもまだ目覚めなくて暇を持て余しているようだ。
あれから丸一日たっていた。
ライオネル殿下は状況が落ち着いて、直ぐに王宮に戻られた。
当然お付きの魔法医達もそちらに移動。
バーバラメイド長とパスカル執事長も同じく。
一応この件の責任者はファーガスさんなので、俺がいなくても計画的には問題なく進んでいるようだ。
そして殿下が動いた事で警護部隊も陣を解き、いつも通りの警護体制となった。
魔術本部の皆はブラハムさんを残し、皆、ひとまず森の街に帰って行った。
とは言っても、俺ん家の隣の森からいつでも来れるんだけどさ。
俺は殿下の使っていたベッドに寝かされ、さっきまで眠っていた。
もちろん魔術でクリーニングしただけでなく、シーツやら何やらは変えられて、部屋の中もごちゃごちゃしていたので片付けが終わってから寝かされたのだけれども。
「………………。」
俺は目覚めるまで何度か魘されていたらしい。
理由はわかってる。
俺は眠っている間「アレ」と何度か対話した。
俺が名付けをした、もう一人の俺。
義父さんからの伝言で、「アレ」の名はできる限り呼ばない方が良いとの事だった。
名付けを使って別人格を作る話をした時、義父さんは何も言わなかった。
でも俺が「アレ」にその名をつけたら、途端、顔色が変わった。
それがどうしてなのかはわからない。
ただ、俺の思いついたその名は、選んでは不味かった名なのだろう。
俺は渡された手紙を開いた。
『サクへ
事情あって先に国に帰ります。でもできるだけ早く海神様を湖に還しておくれ。それからその後、東の国に一人で来て下さい。おそらく迎えがあると思います。
父より』
何かあるんだ。
俺に関係する何かが。
中央王国に義父さんが神仕えとして協力すると言っても連れ戻そうという動きはなかったし、義父さん自身、飄々としていた。
なのに突然、義父さんは俺が目覚めるのも待たず一人、東の国に帰った。
……自分が嫌になる。
額を押さえて俯いた。
俺は俺の事を何もわかっちゃいない……。
「……アレック、」
「ん。何かあったら呼べよ?」
俺が言いかけると、アレックはわかっていたように立ち上がった。
本当、察しが良すぎて俺は苦笑いする。
「……そういや、ピアは??」
「あ~、ごめん。義父さんが連れてる……。」
「ふ~ん。おじさんならまぁいいか。」
アレックはそう言うと、部屋を出て行こうとドアを開けた。
するとそこには意外な人が立っていた。
「わっ!!リゼットさん!!」
「おやおやごめんね、小さな魔法師さん。脅かす気はなかったんだよ。」
「いやいいよ。それ、サークの??」
「ええ、ええ。少しは食べておかんと、この先が持たないからねぇ。」
そう言ってアレックと入れ替わりに入ってきたのは、香を焚いてくれるリゼットさんだった。
気づけばこの部屋も、殿下は帰られたのにまだ香の薫りがしている。
「……あの?」
「驚かせてすまないねぇ。勝手にさせてもらってるよ?」
「はい……。」
「双子ちゃんも精霊の娘さんもダウンしとるからねぇ。家主が皆寝込んどるから、猫の坊やとアタシが残らせてもらったよ。」
「あぁ……。御面倒をおかけしてすみません。ありがとうございます……。」
「いや何、大した事はしてないよ。それより少しでもいいからお食べ。」
「はい……。ありがとうございます……。」
早く一人になりたかったが、確かに少しは何か口にした方がいい。
そう言ってリゼットさんからトレーを受け取る。
トレーにはスープとパン、そしてゼリー。
水は何か薬草を浸していたのか、ほんのりと味がした。
「……ふふっ。」
「え?」
「気に触ったならすまないねぇ。……聞いてはいたんだけど……ふふっ。食べてる様子が可愛らしくてねぇ。」
「…………。いえ、よく言われる事なので、お気になさらず……。」
どうやら無意識に「もっもっもっ」という食べ方になっていたらしい。
最近は気を付けていたんだけれども、寝起きのこの状態で、しかも頭の中ぐるぐるしていたので、何も意識せずに食べてしまった。
と言うか、いい歳の男がいつまでも「食べてる時が可愛い」と称されるのはどうなんだろう……。
一応爵位ももらって治める領地もあるというのに……。
恥ずかしくなって赤くなった俺の頭を、リゼットさんが節の目立つ皺くちゃな指で撫でてくれた。
「ええんよ。今は誰もおらんのだから楽にして。あんたはまだ小さい子なんだから……。」
「??」
どういう意味だろう?
そりゃリゼットさんから見れば、俺なんて人生経験の浅い赤子同然なんだろうけど。
「家の事や双子の姉弟の事は気にせんでえぇ。それだけじゃない。その他のすべての事、今は気にする必要はないよ。今、アンタは自分自身と向き合い、その心に正直に行動する時。それが抱えている問題の唯一の解決方法だから。それが何であれ感じたままに素直になりなさい。今はそうすべき時であり、そうしなければならない時だからね。でないと後々、遺恨を残す事になる。世間体や常識やモラル、そういうモノを気にする必要はないよ。だってそれらは、「人が勝手にそうだと思い込んでいるルール」に過ぎないのだからね……。」
「……それはどういう意味ですか?」
「ふふっ。今は子どもの頃のように、思うがままでいいって事。心に思い浮かぶまま、それに正直でありなさい。常識とか人目とかそんな小さな事に引け目を感じてはいけない。アンタは今、自分自身という最も大切で最もわかりにくいモノと向き合わなくちゃならない。そんな世間体だの常識だの、ちっぽけな価値観は無視していいって事だよ。」
「……ちっぽけ、ですか……。」
世間体や常識やモラルがちっぽけと言われてしまうと、それはそれでどうなんだろうと困る。
思わず苦笑いするとリゼットさんは静かに笑って頷いた。
そして空になったトレーを手に取る。
「迷いもあるだろう。でもね、そういう事を気にせずにいる事を許された時間というのは滅多にない。ごく僅かな限られた時だけなんだよ。後はずっと人の意識が生み出した「常識」等に縛られる。だからその時を、今という時間を大事にしなさい。悩むのは後でもできる。今は今を精一杯生きなさい。」
「……はい。」
リゼットさんはそう言うと、もう一度俺の頭を優しく撫でて出て行った。
それを見送ってから、パタン、とベッドに倒れ込む。
「……その心に正直に……素直に思うがまま……って……。」
目を閉じた。
腹が膨れたせいかスッと意識が遠退く。
ズルン……ッと意識が自分の中に滑り落ちた。
真っ暗なそこ。
いや、暗いんじゃない。
朔だ。
つまり新月。
俺自身。
全てが始まる前の場所。
新しい始まりのスタート地点。
「なら、始めようか?サク?」
「……お前。」
そこに光が顔を出す。
それを俺はキツく睨んだ。
「名前で呼んでよ、昔みたいに。」
「……昔?なんの事だ??」
「ふふっ。」
「惑わせようったって、そうはいかないからな。」
「惑わせるも何も、僕は君で君は僕だ。」
「違う。お前は海神との繋がり部分をあえて別人格として生み出しただけの存在だ。」
「そういう事になってるんだ?僕?」
「訳のわからない事を……。面倒臭い奴だなぁ……。黙って大人しくしてろよ。引っ込んでろ。」
「それは難しいなぁ。やっと君が思い出してくれたのに。」
「思い出す??何言ってんだ??」
「でも嬉しかったよ。無意識の部分では、ちゃんと僕を覚えててくれたんだね、サク。」
「………………。」
「ねぇ……サク……行こうよ……。」
「………………。」
「行こう……僕と君の本当の場所に……。」
「……何を言っているのかさっぱりわからん。」
「怖がらないで……僕に応えて……。」
「……よくわからないけれど、断る。」
「どうして?」
「……お前は純粋じゃない。純粋にお前じゃない。よくわからないけど、そんな気がする。」
「…………。」
「まぁそりゃそうか。半分は海神様からできてるんだもんな。」
「……そうかな?本当にそうかな?」
「そうだろ?」
そいつはまだ何か言いたげだったが、今日は珍しく引き下がった。
何だろ?いつもはいつまでもいつまでも、訳のわからない事を喋り倒すのに?
パチリ、と目が開く。
眠っていたのかそうでないのか自分でもよくわからない。
ただ気だるくて、はぁ……と息を吐き出した。
「とにかく……東の国に行かないと……湖に……義父さんに会わなきゃ……。」
海神はそこにはいるが大人しく眠っている。
でも意識はあって、俺の話と言うか俺と「アレ」の会話は聞いているし俺の状況も俺の目を通して見ている。
海神を受け入れた事で起きたのは、俺が名付けた「別人格」が好き勝手していると言う問題だ。
殿下の件であれだけの思いをした海神は何もせず、俺の奥の方でただ静かに傍観している。
「……海神様が静かになさってくれているからいいものを……。別人格と海神様の両方だったら……。」
殿下はよくこんな状況を耐えながら、普通の生活をしていたと思う。
そりゃベッドから起き上がれない日が続いて当然だ。
しかも海神の存在は大きい。
自分自身の存在が現実世界からブレる。
俺には長くは入れておけないと義父さんにもラニにも言われた意味がよくわかる。
目眩にも似たその激しいブレに耐えながら、海神と別人格に対応するなんて普通できない。
「……器の素質って……凄いな……。」
ぽわぽわのたんぽぽだと思っていたライオネル殿下は、実は物凄い事をしながら俺の前にいたんだなと改めて思う。
そんな人から頼られていたのに、俺は手助けしたり支えたりするどころか逃げ回っていたんだなぁと思うと申し訳なくなる。
殿下がどうされているのかは気になるが、俺はアンカーを任されたのだ。
とにかくやるべき事をやって、この件をきちんと終わらせなければならない。
「……でも……この状態で一人で行くのは……??」
そう考えてからハッとする。
何故、俺は一人で動く事を躊躇っている?
むしろおかしな状態だから、いつもの俺なら誰にも迷惑をかけないよう一人で行動しようとするはずだ。
「……チッ。」
頭の片隅で「アレ」が笑った。
それを苦々しく思いつつ、どうするべきかを考え始めた。
「……イヴァンッ!!」
そう呼びかけられ、イヴァンは振り向いた。
内心、面倒な事になったと思ったが、素知らぬ顔で笑いかけた。
「隊長、どうしたんですか?」
帰り支度をしている彼を呼び止め、必死な顔を向けるギル。
その思い詰めた表情に、この人、重症だなぁと思った。
「……休暇願……。」
「はい。突然すみません。暫く休ませて頂きます。」
「………………。」
「ええと??何か仕事に支障がありますか??一応、警護メンバーにもシフトを変わってもらう手配などはしたのですが??」
わざとすっとぼけてそう言う。
クーデターの件以降、他の面子が長期休暇を取る手前、何だかんだでイヴァンは休みが取り辛かった。
そこに今回の件が続き、負担の大きかったイヴァンは、この件が片付いたら長期休暇を貰う事になっていたのだ。
はっきりした日取りはまだだったが前々からその話は決まっていたし、だから明日から休みたいと申し出ても皆「あぁそういえばそんな話だったよなぁ」と快く受け入れてくれた。
ただ一人を除いては……。
にこにこと爽やかな笑顔を崩さないイヴァン。
それを世界の終わりに直面したような表情で見つめるギル。
「……どこか行くのか?」
「休暇の内容まで突っ込まれましても……。」
「………………。」
「まぁ、一応、行きますね。王都にはいません。」
「どこへ行く……。」
「さあ?今、僕が趣味で何にハマってるかは、隊長もご存知でしょう?」
「……冒険者ギルドか?」
「ええ。」
「……行くのは……東の国方面か?」
「…………。……さぁ?」
そこから無言のまま時間が過ぎる。
イヴァンは爽やかに笑みを崩さず、ギルは死相じみた表情のまま。
やがて諦めた様にイヴァンが大きくため息をついた。
「……そこまで勘付いているなら、黙って見送ってくれませんか?隊長?」
やれやれと言いたげに肩をすくめる。
それにギルの表情が更に硬化した。
そしてイヴァンに詰め寄ると、必死の形相で告げた。
「頼む……!俺に……俺に行かせてくれ……っ!!」
イヴァンはそれを黙って見つめていた。
思ったより動揺を感じたりはしなかった。
心のどこかでこうなる予測があったのかもしれない。
けれどそれに、何と答えていいのか、イヴァンにはわからなかった。
サークが目覚めた時、養父はもうこの王都にはいなかった。
驚きのあまりその意味が頭に入らない。
「何で……。」
「多分、お前関連だろ?じゃなきゃおじさんがそんな無茶苦茶する訳ねぇじゃん。」
暇そうに足をバタつかせながらアレックはそう言った。
ラニもリアナもまだ目覚めなくて暇を持て余しているようだ。
あれから丸一日たっていた。
ライオネル殿下は状況が落ち着いて、直ぐに王宮に戻られた。
当然お付きの魔法医達もそちらに移動。
バーバラメイド長とパスカル執事長も同じく。
一応この件の責任者はファーガスさんなので、俺がいなくても計画的には問題なく進んでいるようだ。
そして殿下が動いた事で警護部隊も陣を解き、いつも通りの警護体制となった。
魔術本部の皆はブラハムさんを残し、皆、ひとまず森の街に帰って行った。
とは言っても、俺ん家の隣の森からいつでも来れるんだけどさ。
俺は殿下の使っていたベッドに寝かされ、さっきまで眠っていた。
もちろん魔術でクリーニングしただけでなく、シーツやら何やらは変えられて、部屋の中もごちゃごちゃしていたので片付けが終わってから寝かされたのだけれども。
「………………。」
俺は目覚めるまで何度か魘されていたらしい。
理由はわかってる。
俺は眠っている間「アレ」と何度か対話した。
俺が名付けをした、もう一人の俺。
義父さんからの伝言で、「アレ」の名はできる限り呼ばない方が良いとの事だった。
名付けを使って別人格を作る話をした時、義父さんは何も言わなかった。
でも俺が「アレ」にその名をつけたら、途端、顔色が変わった。
それがどうしてなのかはわからない。
ただ、俺の思いついたその名は、選んでは不味かった名なのだろう。
俺は渡された手紙を開いた。
『サクへ
事情あって先に国に帰ります。でもできるだけ早く海神様を湖に還しておくれ。それからその後、東の国に一人で来て下さい。おそらく迎えがあると思います。
父より』
何かあるんだ。
俺に関係する何かが。
中央王国に義父さんが神仕えとして協力すると言っても連れ戻そうという動きはなかったし、義父さん自身、飄々としていた。
なのに突然、義父さんは俺が目覚めるのも待たず一人、東の国に帰った。
……自分が嫌になる。
額を押さえて俯いた。
俺は俺の事を何もわかっちゃいない……。
「……アレック、」
「ん。何かあったら呼べよ?」
俺が言いかけると、アレックはわかっていたように立ち上がった。
本当、察しが良すぎて俺は苦笑いする。
「……そういや、ピアは??」
「あ~、ごめん。義父さんが連れてる……。」
「ふ~ん。おじさんならまぁいいか。」
アレックはそう言うと、部屋を出て行こうとドアを開けた。
するとそこには意外な人が立っていた。
「わっ!!リゼットさん!!」
「おやおやごめんね、小さな魔法師さん。脅かす気はなかったんだよ。」
「いやいいよ。それ、サークの??」
「ええ、ええ。少しは食べておかんと、この先が持たないからねぇ。」
そう言ってアレックと入れ替わりに入ってきたのは、香を焚いてくれるリゼットさんだった。
気づけばこの部屋も、殿下は帰られたのにまだ香の薫りがしている。
「……あの?」
「驚かせてすまないねぇ。勝手にさせてもらってるよ?」
「はい……。」
「双子ちゃんも精霊の娘さんもダウンしとるからねぇ。家主が皆寝込んどるから、猫の坊やとアタシが残らせてもらったよ。」
「あぁ……。御面倒をおかけしてすみません。ありがとうございます……。」
「いや何、大した事はしてないよ。それより少しでもいいからお食べ。」
「はい……。ありがとうございます……。」
早く一人になりたかったが、確かに少しは何か口にした方がいい。
そう言ってリゼットさんからトレーを受け取る。
トレーにはスープとパン、そしてゼリー。
水は何か薬草を浸していたのか、ほんのりと味がした。
「……ふふっ。」
「え?」
「気に触ったならすまないねぇ。……聞いてはいたんだけど……ふふっ。食べてる様子が可愛らしくてねぇ。」
「…………。いえ、よく言われる事なので、お気になさらず……。」
どうやら無意識に「もっもっもっ」という食べ方になっていたらしい。
最近は気を付けていたんだけれども、寝起きのこの状態で、しかも頭の中ぐるぐるしていたので、何も意識せずに食べてしまった。
と言うか、いい歳の男がいつまでも「食べてる時が可愛い」と称されるのはどうなんだろう……。
一応爵位ももらって治める領地もあるというのに……。
恥ずかしくなって赤くなった俺の頭を、リゼットさんが節の目立つ皺くちゃな指で撫でてくれた。
「ええんよ。今は誰もおらんのだから楽にして。あんたはまだ小さい子なんだから……。」
「??」
どういう意味だろう?
そりゃリゼットさんから見れば、俺なんて人生経験の浅い赤子同然なんだろうけど。
「家の事や双子の姉弟の事は気にせんでえぇ。それだけじゃない。その他のすべての事、今は気にする必要はないよ。今、アンタは自分自身と向き合い、その心に正直に行動する時。それが抱えている問題の唯一の解決方法だから。それが何であれ感じたままに素直になりなさい。今はそうすべき時であり、そうしなければならない時だからね。でないと後々、遺恨を残す事になる。世間体や常識やモラル、そういうモノを気にする必要はないよ。だってそれらは、「人が勝手にそうだと思い込んでいるルール」に過ぎないのだからね……。」
「……それはどういう意味ですか?」
「ふふっ。今は子どもの頃のように、思うがままでいいって事。心に思い浮かぶまま、それに正直でありなさい。常識とか人目とかそんな小さな事に引け目を感じてはいけない。アンタは今、自分自身という最も大切で最もわかりにくいモノと向き合わなくちゃならない。そんな世間体だの常識だの、ちっぽけな価値観は無視していいって事だよ。」
「……ちっぽけ、ですか……。」
世間体や常識やモラルがちっぽけと言われてしまうと、それはそれでどうなんだろうと困る。
思わず苦笑いするとリゼットさんは静かに笑って頷いた。
そして空になったトレーを手に取る。
「迷いもあるだろう。でもね、そういう事を気にせずにいる事を許された時間というのは滅多にない。ごく僅かな限られた時だけなんだよ。後はずっと人の意識が生み出した「常識」等に縛られる。だからその時を、今という時間を大事にしなさい。悩むのは後でもできる。今は今を精一杯生きなさい。」
「……はい。」
リゼットさんはそう言うと、もう一度俺の頭を優しく撫でて出て行った。
それを見送ってから、パタン、とベッドに倒れ込む。
「……その心に正直に……素直に思うがまま……って……。」
目を閉じた。
腹が膨れたせいかスッと意識が遠退く。
ズルン……ッと意識が自分の中に滑り落ちた。
真っ暗なそこ。
いや、暗いんじゃない。
朔だ。
つまり新月。
俺自身。
全てが始まる前の場所。
新しい始まりのスタート地点。
「なら、始めようか?サク?」
「……お前。」
そこに光が顔を出す。
それを俺はキツく睨んだ。
「名前で呼んでよ、昔みたいに。」
「……昔?なんの事だ??」
「ふふっ。」
「惑わせようったって、そうはいかないからな。」
「惑わせるも何も、僕は君で君は僕だ。」
「違う。お前は海神との繋がり部分をあえて別人格として生み出しただけの存在だ。」
「そういう事になってるんだ?僕?」
「訳のわからない事を……。面倒臭い奴だなぁ……。黙って大人しくしてろよ。引っ込んでろ。」
「それは難しいなぁ。やっと君が思い出してくれたのに。」
「思い出す??何言ってんだ??」
「でも嬉しかったよ。無意識の部分では、ちゃんと僕を覚えててくれたんだね、サク。」
「………………。」
「ねぇ……サク……行こうよ……。」
「………………。」
「行こう……僕と君の本当の場所に……。」
「……何を言っているのかさっぱりわからん。」
「怖がらないで……僕に応えて……。」
「……よくわからないけれど、断る。」
「どうして?」
「……お前は純粋じゃない。純粋にお前じゃない。よくわからないけど、そんな気がする。」
「…………。」
「まぁそりゃそうか。半分は海神様からできてるんだもんな。」
「……そうかな?本当にそうかな?」
「そうだろ?」
そいつはまだ何か言いたげだったが、今日は珍しく引き下がった。
何だろ?いつもはいつまでもいつまでも、訳のわからない事を喋り倒すのに?
パチリ、と目が開く。
眠っていたのかそうでないのか自分でもよくわからない。
ただ気だるくて、はぁ……と息を吐き出した。
「とにかく……東の国に行かないと……湖に……義父さんに会わなきゃ……。」
海神はそこにはいるが大人しく眠っている。
でも意識はあって、俺の話と言うか俺と「アレ」の会話は聞いているし俺の状況も俺の目を通して見ている。
海神を受け入れた事で起きたのは、俺が名付けた「別人格」が好き勝手していると言う問題だ。
殿下の件であれだけの思いをした海神は何もせず、俺の奥の方でただ静かに傍観している。
「……海神様が静かになさってくれているからいいものを……。別人格と海神様の両方だったら……。」
殿下はよくこんな状況を耐えながら、普通の生活をしていたと思う。
そりゃベッドから起き上がれない日が続いて当然だ。
しかも海神の存在は大きい。
自分自身の存在が現実世界からブレる。
俺には長くは入れておけないと義父さんにもラニにも言われた意味がよくわかる。
目眩にも似たその激しいブレに耐えながら、海神と別人格に対応するなんて普通できない。
「……器の素質って……凄いな……。」
ぽわぽわのたんぽぽだと思っていたライオネル殿下は、実は物凄い事をしながら俺の前にいたんだなと改めて思う。
そんな人から頼られていたのに、俺は手助けしたり支えたりするどころか逃げ回っていたんだなぁと思うと申し訳なくなる。
殿下がどうされているのかは気になるが、俺はアンカーを任されたのだ。
とにかくやるべき事をやって、この件をきちんと終わらせなければならない。
「……でも……この状態で一人で行くのは……??」
そう考えてからハッとする。
何故、俺は一人で動く事を躊躇っている?
むしろおかしな状態だから、いつもの俺なら誰にも迷惑をかけないよう一人で行動しようとするはずだ。
「……チッ。」
頭の片隅で「アレ」が笑った。
それを苦々しく思いつつ、どうするべきかを考え始めた。
「……イヴァンッ!!」
そう呼びかけられ、イヴァンは振り向いた。
内心、面倒な事になったと思ったが、素知らぬ顔で笑いかけた。
「隊長、どうしたんですか?」
帰り支度をしている彼を呼び止め、必死な顔を向けるギル。
その思い詰めた表情に、この人、重症だなぁと思った。
「……休暇願……。」
「はい。突然すみません。暫く休ませて頂きます。」
「………………。」
「ええと??何か仕事に支障がありますか??一応、警護メンバーにもシフトを変わってもらう手配などはしたのですが??」
わざとすっとぼけてそう言う。
クーデターの件以降、他の面子が長期休暇を取る手前、何だかんだでイヴァンは休みが取り辛かった。
そこに今回の件が続き、負担の大きかったイヴァンは、この件が片付いたら長期休暇を貰う事になっていたのだ。
はっきりした日取りはまだだったが前々からその話は決まっていたし、だから明日から休みたいと申し出ても皆「あぁそういえばそんな話だったよなぁ」と快く受け入れてくれた。
ただ一人を除いては……。
にこにこと爽やかな笑顔を崩さないイヴァン。
それを世界の終わりに直面したような表情で見つめるギル。
「……どこか行くのか?」
「休暇の内容まで突っ込まれましても……。」
「………………。」
「まぁ、一応、行きますね。王都にはいません。」
「どこへ行く……。」
「さあ?今、僕が趣味で何にハマってるかは、隊長もご存知でしょう?」
「……冒険者ギルドか?」
「ええ。」
「……行くのは……東の国方面か?」
「…………。……さぁ?」
そこから無言のまま時間が過ぎる。
イヴァンは爽やかに笑みを崩さず、ギルは死相じみた表情のまま。
やがて諦めた様にイヴァンが大きくため息をついた。
「……そこまで勘付いているなら、黙って見送ってくれませんか?隊長?」
やれやれと言いたげに肩をすくめる。
それにギルの表情が更に硬化した。
そしてイヴァンに詰め寄ると、必死の形相で告げた。
「頼む……!俺に……俺に行かせてくれ……っ!!」
イヴァンはそれを黙って見つめていた。
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――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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