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全ては神の導きのままに

第13話

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 内臓を掻き回されるような不快感をひたすら耐えていると唐突にふっと身体が軽くなり薄っすらと目を開ける。確かに先程まで居た部屋ではなく、一通りの調度品は揃っているが彼から見れば手狭な部屋の真ん中に立っていた。今居る部屋は上級使用人の部屋の一つであるのは間違いない。アレクサンドラはルールを守ってくれたのだろう。
 取り敢えず安心したレオナルドはドアに耳を付けて廊下の様子を窺い、何も聞こえないのを確認すると音を出さないよう少しだけドアを開けて周囲を見回す。頭の中の見取り図と実際の光景を照らし合わせれば3つ先の斜向かいの部屋が家政婦長の部屋の筈だ。
 目的地を確認した所で彼の耳が誰かの話し声を拾う。ドアを閉めて通り過ぎるのを待とうとしたが運悪くメイドらしき彼女達は彼の潜む部屋と家政婦長の丁度真ん中あたりで何やら作業を始めてしまった。

(マズいぞ、このまま居座られたら時間がかなりシビアになる……)
 
 焦れる気持ちを抑えて外の様子を窺っていると、突如として鼻を刺す強力な悪臭に思わず呻きそうになるのを咄嗟に耐える。鼻を摘まみながら悪臭の元を探ると部屋の隅から不気味な黒い煙が立ち上っていた。
 黒い煙はまるで意思を持っているかのように蠢き、徐々に集まりだして何かしらの形を取ろうとする。その煙はやがて質量すらまとい始め、レオナルドに嫌な予感が過る。リスクを承知で部屋を出るべきかとドアノブに手を掛けたが遅かった。彼よりも一瞬早く煙は悪臭を撒き散らしながらその全貌を顕にしたのだ。
 
 それは酷く歪んだ形の獣のような世界の全ての邪悪を煮詰めた姿をしていた。青みがかった膿のような粘液に覆われた輪郭は常に揺らめいていて一向に掴めない。どこもかしこも角ばっていて違う次元の存在を思わせる。この世全ての生き物の特徴を一つとして持たないその獣はまさしく不浄そのものであった。

「あ…………あ…………」

 叫びたかったのか、助けを求めたかったのか、レオナルドは声にならない声を出す。それが彼の最後の呼吸だった。
 獣から放たれた針のような長い舌が彼の胸に深く突き刺さる。1つビクンと大きく揺れると急速に彼の端正な顔は目が落ち窪みミイラのように痩せこけ始める。内側から吸い取っているのか若々しさに溢れていた身体は目に見えて細くなり、骨と皮だけになると今度は体積自体が縮んでいく。
 やがて人間としての形を保てなくなった死体は次第に崩れ、ただの肉の塊と成り果てる。そして獣の針と同じ位の大きさになると全て吸い込まれて獣の胃袋に収まった。彼を喰らった獣は満足したのか、また煙のような状態に戻ると姿を現した時と同じように部屋の隅から出て行った。
 
 後にこの部屋は謎の悪臭事件として王宮内を少しだけ困惑させ、周囲の部屋に住む使用人は悪臭が取れるまで部屋移動を余儀なくされるのだが、当時のレオナルドにとっては頭の片隅に入れる程度の些細な話である。


 
 宙に浮いた砂時計の砂が全て落ちる。これは過去へと渡ったレオナルドが帰ってくるまでのタイムリミットを表しており、これが全て落ちても帰ってこなかった場合は即ちすり替えの失敗を意味する。

「ふむ、どうやら彼は失敗してしまったようですね」
 
 どこか楽し気なアレクサンドラとは対照的に残された彼等の表情は悲壮だった。レオナルドが失敗してしまった以上もう彼等に打つ手は無い。
 そもそも彼がすり替えに見事成功していればタイムパラドックスが発生して民衆の襲撃自体も無かった事になる。彼等がこうして身を寄せ合っている時点でレオナルドの失敗は決まっており、要はこの提案自体が彼女の罠だったのである。
 
「ひっ!ひぃいいいい!」
「助けてくれぇ!」
 
 付き人達は此処に居続ければ殺されるかもしれない恐怖に堪らず逃げ出す。扉の向こうは危険だが化け物みたいな女に弄ばれるよりは遥かにマシだ。そう思い公爵夫妻を見捨ててドアに駆け寄る。アレクサンドラは彼等の背中を見て目を細めるばかりで追いかけてこようとする素振りすら無かった。
 奇妙な事にドアの向こうは時が止まったかのように自分達以外の全ての人間が動きを止めていた。国王軍も革命軍も通り抜ける自分達に視線すら寄越さない。今思えばあれだけ大きかった戦いの音がアレクサンドラが侵入してからはやけに静かだった。
 これなら逃げられると悟った付き人達は醜く破顔して足を速める。もうこの国は終わりだ、こんな事なら貴族共みたいにさっさと金持って逃げ出せば良かった。今なら金も宝石も取って行っても誰にも分かりはしない。粗方盗んだら他国へ亡命してそれで金を元手に高利貸しを始めれば人生は安泰だ。
 アハハと人前では出せないような笑い声が出る。革命軍などもう怖くはなく、堂々と王城の正門を抜けてまずは教会を目指す。あそこには価値の高い儀式用具が無造作に置かれているし、上層部の部屋には高価な装飾品がわんさかあるのだ。詰めれるだけポケットに詰めて逃亡しようそうしよう。
 輝かしい未来を想像していた2人だが、ふとある違和感を覚え動かしていた足を止める。今は国王軍と革命軍が衝突している真っ最中だ、それなのに人っ子一人居ないとはどういう事だ。子どもと老人は避難しているにしても街に誰も居ないのはどう考えてもおかしい。それどころか鳥も犬も猫すら見当たらない。全ての生き物の気配が消えてしまっていた。
 不安に駆られた2人は急いで王城へと引き返す。しかしそこでも誰も居なかった。出る際はそこかしこで戦っていた筈の国王軍や革命軍もおらず、戦いで付着した床の血も壁の傷も無い。
 
 「何なんだよ!何が起きてるんだよぉ!」
 「俺が知る訳無いだろ!」
 
 こんなおかしな事が起きるのはアレクサンドラの仕業に違いない。そう思った2人はどうにかしてもらおうと逃げ出した部屋まで戻って来た。だが無情にも彼女は居らず、その所為で完全に恐慌状態に陥った2人は成るべく遠くに行けばこの変な空間から出られるのではという発想に従って王都の郊外を目指して走り出した。理性や平静さを失った彼等にとって根拠など塵に等しかった。
 当然がむしゃらに足を進めても王都からは一向に出られなかった。同じ景色ばかりが続いて精神的にも肉体的にも疲れ果てた2人はとうとう地べたに座り込んでしまう。あれから数時間は経った筈なのに腹はちっとも空いていなかった。
 自分達以外の生き物が居ない空間で彼等は途方に暮れる。1つはっきりとしている事と言えば命は助かったという点である。

 
 付き人達には逃げられ最後に彼女の前に立っているのは公爵夫妻のみとなった。アレクサンドラが夫妻にかけていた金縛りの術を解いてやればその瞬間に喧喧囂囂と騒ぎ立てるのだから元気を通り越して恐れ知らずである。神の領域の魔術を扱ってみせようが、夫妻にとっては見下して支配出来る娘でしかない。掌を返して媚びる必要は無いとある意味考えが一貫しているのだ。
 その為他の者達が薄々覚えていた彼女の人智を超えた存在感を目が曇った彼等は最期まで気付けないでいた。
 
「よりによって親を麻痺させるとはどういう事なの!?本当に生意気ね!」
「寧ろ都合が良い、さっさとその力を使ってこの国を征服しろ。そうすればまた娘に迎えてやる」
 
 殆ど聞き流しているが大体夫妻が言っているのは先程の行為への口汚い罵倒や、その力を使って育ててもらった恩を返せだの身勝手極まりない内容だ。声高に親の立場を振りかざす夫妻に彼女はさも驚いたとでも言うように目を向けた。

「知らなかった。貴方達ってそんなに親になりたかったのね。放置気味だったからつい子育てに興味ないものだと思っていたけれども」

 は?と眉を寄せる夫妻を無視して「もっと早く言ってくれれば良いのに」とにこやかにアレクサンドラは腕を振る。その瞬間から体中をこねくり回されるような痛みと気持ち悪さ、強烈な吐き気が引っ切り無しに夫妻に襲い立っていられなくなる。
 老いても今だ健在だった美貌は爛れ、髪はすべて抜け落ち、腹や背中などの肉体の一部が異様に膨らんで服を突き破る。肌も青白くポコポコと泡立ち大きく長くなり過ぎた腕が歪な体格を形作る。
 それに連れて夫妻の精神もボロボロとあえなく瓦解していく。止めろと叫びたくても口が動けずに上手く叫べないと苦しんでいた筈なのに何故自分は止めてほしいのか急速に分からなくなる。痛みも苦しみも感じなくなり彼等を彼等たらしめていた自我すら薄れ消えていく。
 
 自分は誰?じぶんはだれ? じぶんは…… じぶん……? じぶ ん って な に ?
 
 そうして出来上がった元夫妻の怪物にアレクサンドラは満足げに見遣ると明後日の方向に手招きする。空間を歪めながら現れたのは以前山賊達を持て遊んだ人の3倍以上はある触手に覆われた化け物だ。興味深げに元夫妻の周りに群がる化け物達を撫でながら彼女は紹介する。

「可愛いでしょう?私と王女達との間の子どもよ」

 自我を失った夫妻には彼女の言葉の意味が分からない。単に攻撃されないから大人しくしているだけだ。
 彼等を取り囲む化け物達はアイラが以前見た教会地下の壁画が上描きされる前のものである。本来はあの部分は当時の王女とアレクサンドラがまぐわい、悍ましい神の子を産んだという事を示唆していたのだ。
 ナイアトの本質は慈悲だけではない。神らしく傲慢で魔術や戦力を与える代わりに惨い対価を求める事も度々あった。その1つが王女達とのまぐわいの末に生まれた触手の化け物である。化け物はかつての祖国との戦争でも類まれなる怪力と魔術をもって敵兵を蹂躙せしめた後に、神と共に姿を消したと原初の歴史書では綴られている。
 当然化け物を産んだ王女達は無事では済まず、1人残らず発狂してしまい以前とはかけ離れた身内の様子に耐えきれなくなった父親が一思いに殺してあげたそうだ。そんな闇の部分も正しく神を恐れ敬えるようにと当初の神官達は全て余す事無く記録に残していた。
 ところが何代目かの大司教が自分達が崇める神の悍ましい面から目を背けるように、化け物の絵を神々しい翼の生えた蛇の絵で上描きしてしまったのである。我々が崇める神は慈悲深く、常にこの国の人間を助け恵みを与えてくれる者でなくてはならない。神と我等の物語は美しいものなければならないと、闇の部分が綴られた記録を全て封印し代々の大司教だけに密かに伝えられる禁忌としてしまった。
 理想の神ではない現実に打ちひしがれたからなのか、支配の為に都合の良い物語に仕立て上げる必要があったからなのか、当時の大司教がどのような意図でナイアトを歪めたのかは今となっては定かではない。しかしどんなに目を逸らそうが隠していようが存在しているものを無かった事には出来ないし、神にとって人間の事情など些細な問題である。
 
「今の貴方達ならこの子達と子作り出来るから子どもを産めば晴れて王族の親になれるわ」

 「とっても素敵ね」その声を合図に化け物達は夫妻を抱えると出て来た場所から我先にと立ち去る。早速兄弟達と子づくりに励むのだろう。
 
 そうして1人の死体だけが残った部屋を無機質に眺めた彼女はアダムの真っ赤に染まった背中に手を添わせ、頭の方から足の方へと手を滑らせる。夥しい血も刺さった痕も無くなったのを確認すると今度は指をパチリと1つ鳴らす。
 レオナルド、アイラ、侍女、付き人の偽物の死体を作り出した後、更にそれぞれの傍に毒杯を設置する。飲み残しの毒を演出しておくのも忘れない。
 そうしてこの場に居た人間の死を偽装したアレクサンドラは悠々と姿を消した。途端に喧騒は再度起き、兵士達が守っていたレオナルドの部屋のドアが破られる。荒々しく入って来た革命軍の目に飛び込んで来た光景は何かの液体を飲んで倒れた高貴な身分の者達の姿であった。その中には王太子や聖女も居る。
 
「まさか毒を飲んだのか……?」

 革命軍の誰かが愕然と呟いた言葉に皆が力を落とす。自分達は確かに既存の政治体制の打倒を掲げていたが、彼等に対し死をもって責任を取らせる気は全く無かったのだ。

 「行くぞ………」
 
 革命軍のリーダーが引き上げの号令を掛ける。誰一人として異を唱えずぞろぞろと緩慢に立ち去る様は、突入する直前の勇ましさとはかけ離れたものだった。
 歴史の表では為政者達の毒を用いた自殺でこの革命は幕を閉じるのであろう。彼女の仕掛けた工作に誰も気付く事なく。



 
 場所は変わり彼女との取引で革命騒ぎから脱出したアイラは無事に家に帰れたのかというとそうではなかった。日本の何処かだと分かる街並みに喜んだのもつかの間、一歩路地を抜ければ全然見た事もないような光景が広がっていた。
 馴染みではない外観の自動車に少々前衛的なファッションスタイル。SF物の創作物で見たような近未来的な光景に嫌な汗が伝う。慌てて近くの通行人に今は西暦何年かと尋ねれば、その人は不思議そうにしながら2158年と答えたのだ。
 100年以上も先の数字に愕然とするアイラに通行人は「何かのコスプレ?似合ってるよ」と少々の賛辞を送るものの、余所余所しさを隠し切れない様子で立ち去る。今の自分はドレス姿なのだ、これ以上変な目で見られないよう人気の無い所へ移動し途方に暮れた。
 次元の穴から見た馴染みのある街並みは平成令和の光景を残そうと市長の提案で整えられた区画である。アレクサンドラは取引を持ち掛けた際、日本に帰すとは言ったが彼女の住む時代や彼女の家に帰すとは一言も言っていなかった。アイラもまた彼女の罠に引っかかってしまったのだ。
 もし次元の穴が開かれた時に年代が違うと見破っていれば彼女はその抜け目のなさを賞賛して元の時代の家に近い場所に帰していた。勿論アイラにはそのような事知る由もない。
 家族も友人も既に亡くなっていて戸籍でも死亡扱いとなっている。その事実に心が折れかけた時。

「みゃあ」

 足元からの猫の鳴き声にそちらへと見遣る。灰色とキジトラの2匹の猫が彼女の脚にすり寄り、元気を出せとでも言うようにもう一度「みゃあ」と鳴いた。
 アイラは猫を抱き上げる。猫は逃げるどころか涙が滲む顔を舐め、彼女の腕の中に居るのが幸せだと言いたげな顔をしていた。

「……まずは髪飾りとか売れば服とホテル代くらいは作れるよね」
 
 同意するような鳴き声にやっと笑みを零したアイラは今度は前を向いて歩き出した。
 
 彼女は今後どうやって生きて行くのだろうか。もしかしたら優しい人に拾われるかもしれないし、現代の浦島太郎としてマスコミに出演しギャラを稼げるかもしれない。あるいはホームレスになるかもしれないし犯罪者まがいのことをして生きて行くかもしれない。
 全ては彼女の知恵と巡り合わせと運次第である。
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