《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール

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8話

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 日が落ちかけ、庭の噴水が夕陽を受けて淡くきらめいていた。
 水音は穏やかで、昼間のざわめきが嘘のように、侯爵邸は静けさに包まれている。

 その静寂の中、ルカはわたくしに声をかけるため、何度も足を止め、ようやく覚悟を決めたように近づいて来た。

「ジョアンナ……少し、お話があります」

 わたくしは、たった今気づいたかのように振り向き、少し疲れた笑みを浮かべた。
 それは、今日一日、侯爵とクリスティアナの振る舞いに晒され、心が張りつめていたせいでもあった。

「ルカ。今日は、本当にお疲れさまでした。貴方まで巻き込んでしまって……」

 そう言った瞬間、胸の奥に、ほんのわずかな弱さが滲んだのを、自分でも感じた。
 それを隠すようにわたくしはルカを見た。

「巻き込まれたなんて思っていません」

 ルカは、はっきりとそう言った。

「寧ろ、当事者なのですから」

 その声は、いつもの穏やかさとは違い、芯の通った強さを帯びていた。
 それだけで、わたくしは思わず息を飲む。

 ルカは一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
 夕暮れに照らされたその横顔には、迷いも、遠慮も、もうなかった。

「ジョアンナ。僕は……ずっと、貴女に伝えたいことがあったんです」

「……ルカ?」

 名前を呼び返したわたくしの声は、かすかに震えていた。

「僕は、貴女を愛しています」

 その言葉が放たれた瞬間、風が止まったように感じた。
 噴水の水音さえ遠くなり、時間そのものが止まったようだった。

 それは、衝動的な告白ではなかった。
 何年も、何年も胸の奥で育て、抑え、守り続けてきた想いが、ようやく形を持った声だった。

「初めてこの屋敷に来たときのこと、覚えていますか」

 ルカは、視線を逸らさずに続ける。

「本来なら、憎まれても仕方のない僕に、貴女は感情を押し殺して、当たり前のように接してくれた。優しくて、静かで、決して弱さを見せないその姿に……僕は救われました」

 彼の声は、次第に熱を帯びていく。

「貴女が笑うたびに、この家が少し明るくなる気がして。貴女が悲しむたびに、胸が締めつけられた。何もできない自分が、情けなくて」

 ルカは、震える指先で、そっとわたくしの手を包んだ。
 その温もりは、あまりにも真っ直ぐで、逃げ場がなかった。

「父のことで、貴女が誰かに傷つけられるたびに、守れない自分が悔しかった。それでも……」

 一瞬、彼は言葉を詰まらせ、それから正直に続けた。

「白い結婚だと知ったとき、僕は……正直、嬉しかった。最低だと思われても構いません。でもその時、心のどこかで誓ったんです。いつか、必ず僕が貴女を幸せにすると」

 わたくしの瞳に、静かに涙が滲んだ。

「ジョアンナ。貴女を愛しています。誰よりも、何よりも。だから……」

 彼は、少しだけ声を落とした。

「貴女が解放されるその日まで、僕は待ちます。何年でも。せめて今だけは……貴女の、本当の気持ちを聞かせてください」

 沈黙が、優しく、しかし重く流れた。

 わたくしは、深く息を吸い、ゆっくりと顔を上げた。
 涙で視界は揺れていたが、心は不思議なほど澄んでいた。

「……ルカ。わたくし……わたくしも、貴方を愛しています」

 言葉にした瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

「けれど、わたくしは貴方よりもずっと年上ですし、立場も、状況も……。心ない者は、必ずそのことで、わたくしたちを傷つけようとするでしょう。それでも貴方は……」

 そこまで言って、声が詰まった。

 ルカは、そんなわたくしをまっすぐに見つめ返す。

「そんなことで、僕は傷つきません」

 きっぱりと言ってくれる。

「もし貴女が傷つくのなら、その全てを引き受けます。だから……どうか、僕の気持ちを受け止めてください」

 その瞬間、堪えていた涙が溢れ落ちた。

「ルカ……」

 わたくしは、震える声で言葉を紡ぐ。

「貴方が側にいてくれたから、わたくしは、この家で孤独を感じずに済みました。貴方が笑ってくれたから、わたくしも笑えた。貴方が守ろうとしてくれたから……わたくしは、この侯爵邸で頑張ることが出来た。そう、いつか恥じない侯爵家を貴方に渡せるように」

 涙は止まらなかったが、顔は悲しみに歪んでいなかった。
 そこにあったのは、長い葛藤の末に得た、温かな幸福だった。

「ルカ。わたくしも、貴方を心から愛しています。身分も、年齢も、婚姻の枷も……すべてを越えてしまうほどに」

 ルカは、繋いだ手を強く、しかし大切そうに握った。

 二人は、夕暮れの庭で、寄り添うように立ち尽くす。
 沈みゆく太陽が、二人の影を長く地面に落としていた。

「……ありがとう、ジョアンナ」

 ルカの声は、とても嬉しそうだった。それがわたくしの心を温かくした。

「その言葉だけで、僕は何年でも待てます。いつか、堂々と貴女を迎えに行ける日まで」

 わたくしは、そっと微笑む。

「わたくしは、ずっと待っています。今までだって……心のどこかで、ルカを待っていたのかもしれません。貴方の言葉は、わたくしを強くします」

 ルカは、その言葉を、宝物のように胸に刻んでいるようだった。

 夕暮れの噴水は、変わらず静かに水を落とし続けていた。
 そしてその水音はいつまでも穏やかだった。
 
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