僕らの復活戦

GENSHOU MARUYAMA

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2話 土蔵造りの卓球道場

土蔵造りの卓球道場

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2話 土蔵の卓球道場

県新人大会で優勝して以来、県内のチームから次々と試合が申し込まれて、僕たちは引っ張りだこだった。けれど中村道場に通う時間が減った。するとオヤジさんは僕が顔を出せば、以前にも増してボール出しをしてくれた。
オヤジさんの名前は中村光二郎。僕を小学校4年の時に本格的な卓球へと導いてくれた師匠だ。

小学校に入学してすぐに、父の勧めで学童野球に入った。8歳年上の兄の頃は僕たちの「西幅」地区だけで野球チームができていたが、少子化で地区の男子小学生は4人だけになり、各地区の学童野球が統合されてその時は「常念少年野球」のチームになっていた。土日には地区ごとに最寄りの公民館に集まって、保護者会の当番の車が試合会場か、練習場所の通称「山麓スタジアム」に連れていく。
僕たちの集合場所は選果場近くの公民館だった。そこに卓球台があったのだ。雨で練習が中止になると、向かいの宅配取次所を兼ねた「精米屋のおばちゃん」が預かっている公民館の鍵を借りて4人で卓球をやった。4年の夏は梅雨明けが遅れていて練習中止が続き、夏休みに入ってしばらくは卓球をやっていた。
その日はリンゴの生産組合の会合があって、早く来たおじさんたちは野球ユニフォームで夢中で卓球をする僕たちをにこやかに見ていた。後から入ってきたおじさんが、一緒に来たおじさんを指さして、言った。
「おい野球少年!このおじさんの卓球はすごいんだぜ。」
 そのおじさんがオヤジさんだった。オヤジさんは笑ったままだ。1歳年上の哲ちゃんがすぐに、
「なら僕たちとやろう!」
 オヤジさんを誘い出した。
 オヤジさんは笑いながら公民館のテカテカ光る劣化したラバーのラケットで僕たちのラリーの相手をしてくれた。あの時は、卓球の達人だと判るはずがなかった。ただ、鮮明に覚えているのが、僕たちがいろんなところに気ままに打っても、いつも僕たちの利き腕を伸ばしたところでちょうど打ちやすいボールになってバウンドして返ってきたこと。それと僕たちの精一杯の打ち込みを、少しも慌てず、にこやかに、返し続けたことだった。
やがて会合が始まり卓球をやめなければならない時間になると、オヤジさんはたった一言、
「君たち、卓球好きか?」
 とだけ聞いた。うんと頷くと、親指を立ててにっこりと、それでよし!と笑った。
 あの日から雨の日曜日には不思議とオヤジさんが公民館の引き戸を開け、入ってきてはラリーの相手をしてくれた。雨の日の僕たちの習慣を知っているかのようだった。

 小4夏休み最後の日曜日も雨だった。オヤジさんがまた来た、その日はザックの中から何本かのラケットを出して、
「公民館のラケットはレクリエーション用。これはオリンピックでも使える競技用ラケット。これで打ってみな。」
 と僕たちに貸してくれた。
 雨の日の公民館に響くびっくりするほど乾いた打球音、相手コートにバウンドする硬質な音、二つの音が刻む心地よいリズム。僕たちはすっかり気持ちよくなって、たまっている宿題のことなんか忘れて夢中になってボールを打った。気がつけばアンダーシャツまで汗びっしょりになっていた。
哲ちゃんが、
「おれ卓球もやりてえ!」
 といった。哲ちゃん以上に僕はやりたくなっていた。
 オヤジさんは、掲示板に貼られた団員募集のポスターを指して、この地区で卓球をやりたい子のために、「アルプス少年卓球クラブ」がある。監督が知り合いでいい人だから入会してみてはどうか…と勧めてくれた。
 練習時間は月曜日と木曜日が19時から21時。土曜日は月1回で午前中9時から11時。場所は西部体育館サブアリーナとある。野球と重ならない。僕たちはやろうと思えば、卓球もできるんだ。

僕と哲ちゃんは2学期になると早速クラブに入った。クラブには元高校の先生をしていた松澤監督が代表をしていた。40人もいるクラブで、同学年の晋介と邦彦も入っていて、皆僕たちの入会を歓迎してくれた。松澤監督のことを、クラブ員や保護者は「松澤先生」と呼んでいた。
 僕は思い切り卓球ができることがうれしかった。野球でいえば大好きなバッティングばかりやっている気分だった。ボールに向かって体を近づけていくのには慣れていたし、打つという感覚も似ていたし、遠いボールに飛びつく時は守備の足の動きにどこか似ていた。松澤監督は僕たちを見て、コーチたちに、
「当て感が抜群だな。野球やっていたせいか、体幹がしっかりしているし、足腰の使い方がいい。」
と感心していた。

僕は夢中になってボールを打った。
5年になるとラリーでは6年生や中学生と対等にわたり合えるようになっていた。問題はサーブとレシーブだった。僕のサーブはみんな簡単に返される。レシーブはもっと苦手で、クラブコーチの子で東部中に通う彩華さんのサーブが全く取れなかった。上手な選手のサーブを真似ても、要領がわからない。松澤監督にも教わった。スピードロング、下回転、順横回転、逆横回転、教えられた通りやってみた。監督は、
「お前のように体が動くなら、基本打法やラリーは夢中になってやればやるだけ伸びる。だがな、サーブばかりは自分で努力しなければ身につかないぞ。サーブはたくさん身につけた方がいい。レシーブが苦手なのは誰も一緒だ。基本的に、レシーブ時に自分もできるサーブは返せる。できないサーブのレシーブは一苦労だ。サーブ練習はやれ、努力してな。」
努力?…5年の夏、僕もすごいサーブができるようになりたいと、この「努力」をしようと思った。野球の大会も練習のない日、雨の日は一人で公民館の卓球台でサーブ練習するようになっていた。

梅雨に入って間もなくの日曜日に公民館の玄関が開いた。オヤジさんが入ってきてにこりと話しかけた。
「野球と卓球の二刀流少年、どれくらい強くなった?おじさんと打たないか。」
乱打に誘われたのだ。僕は基本通りに打った。オヤジさんは初めて打ったときのように、いつも一点に返ってくる。僕は夢中になって打った。いくら強く打っても返されるので意地になって打ちまくっていた。クラブのコーチよりもさらにパワフルで、それでいて打ちやすいボールが…。
「うまくなったな、いいボールだ。…すごいな。」
 と感心してくれた。すると公民館で区の研修会があるらしくおばさんたちが集まってきた。僕はもっとやりたかった。その時、
「おじさんの家でも卓球がやれる。来るか?」
行く…という選択肢しかなかった。僕は初めて中村卓球道場に誘われた。
 屋敷林の中にある大きな土蔵に台は2台。奥の台で東京の大学に在学していた平田誠治さんが帰省し、道場の最長老、箕田宏道さんと打っていた。僕はオヤジさんに、
「ミノさん、誠治、チャンピオン候補生が練習に来たぞ。」
と変な紹介をされた。
「斎藤冬樹です。アルプス少卓に入っています。」
 僕は3人の道場の住人たちと打った。いくら強く打っても平然と打ち返される。だんだんムキになって打っても同じところに返されるのが気持よかった。気がつけばふらふらになるまで夢中になって打っていた。息が上がって疲れているのに、今までに味わったことのない充足感…。
自己紹介したその日から、僕はこの道場の一員になった。
 僕がオヤジさんの道場へ通いたいというと、父も母も、
「水車屋さんの所かい?」
とだけ言って「だめだ」とは言わなかった。聞けば水車屋とは中村光二郎家の屋号だという。

 以来西部体育館に行かない平日の夜、僕は中村道場の一員となった。
中村道場に集う人は、ローシックスティーのギター職人で、オヤジさんを「コウちゃん」と呼ぶ箕田宏道さん、フォーティーの市役所職員でオヤジさんと同級の塩澤和仁さん、東京の名門K大学に通い翌春から信州中央銀行に就職が内定している平田誠治さん、高校を卒業してすぐに地元の杉澤建設に入社した山浦太河さん。それにこの屋敷に住むオヤジさん、中村光二郎さんと僕の6人だけだった。
村の中で一番というくらい大きな土蔵。入り口の分厚い両開きの扉は常時開放されていて、後付けされた小さなキャビンにスロープの床と大きめの引き戸がついていた。熱い夏も中に入ればひんやりとした別世界があった。西部体育館とも公民館とも違う、僕だけが知る不思議な空間。そして道場に集う人々とボールを打つ特別な時間。僕の中に、ここで鍛えれば強くなるんだという根拠のない説明し難い確信が芽生えていた。

道場に通いだして間もなく、箕田さんが僕に言った。
「コウちゃんが松澤監督に、ここでもお前が練習することを認めてもらったそうだ。」
さらに続けて、
「この際、あらかじめ話しておくが、ここで練習していることはあまり大っぴらにはするなよ。お前はアルプス少卓が自分の帰るクラブ。塩澤は市役所クラブ、誠治も就職する銀行のクラブに所属する。おれと太河が常念愛卓会、二人だけのクラブだけれどな。みんなそこがメインで、ここで練習はしていないことになっている。」
 なぜですか?と聞きたくなる気持ちもあったが、言いだせなかった。箕田さんの職人気質独特の厳しい表情、ただ「聞け」という物の言い方…で。
 
道場に通うようになって3つのことが変わった。
一つ目は野球をやめたことだ。僕は雨の土日とクラブのない日だけ道場に通っていたが、卓球に専念したくなっていた。「僕がやりたいのは卓球だ。」と母に告げると、
「お前が言いだすんじゃないかと思っていたよ。」
母は僕の気持ちをとうに察知していたようだ。野球仲間も僕の気持ちが卓球に傾いているのを感じていたらしかった。関監督は、左投げはこのチームには貴重だから…と引き留めてくれたが、自分でもどうしようもないくらい卓球が好きになっていた。父は一言「なんだピンポンか?」と反応しただけだ。きっと野球を続けてほしかったに違いない。
二つ目は自分のことを自分でやるようになったことだ。野球の場合は親や保護者会に世話になることが多かった。卓球を選んだことで、親の負担を大きくしてはいけないと思った。親の機嫌を取っているわけではなかったが。自分の身の回りのことはもちろん、洗濯の取り込みやお米とぎ、掃除など家の中でやれることも、できるだけやるようにした。リンゴの時期には畑も手伝った。母は助かるといった。宿題も忘れることがなくなった。オヤジさんの顔に泥を塗りたくなかった、道場に通って成長したと言われたいこともあった。だが一番は、「心置きなく、せいせいとした気分で思う存分練習がしたい。」という、込み上げてきた思いだった。気がつけば、全部当たり前にできるようになっていた。6年になると、月曜、木曜の夜間クラブ練習2㎞強の道、道場練習の1㎞弱の道を自転車で往復した。平日は父が単身赴任で不在だし、リンゴで疲れている母には迷惑をかけまいと、自分が決めて実行した。
三つ目は試合で勝てるようになったことだ。オヤジさんは僕との練習の中で度々、「冬樹は目がいい。」「必ず強くなる。」と呟くように言った。そんな呟きに自分でもその気になっていた、乗せられていた。オヤジさんや他の4人も僕の相手をするときは、基本の反復練習が主だった。フォア打ち1000本とか、フォアブロック、バックブロックも1000本、切り替え500本、ツッツキ300本、連続ドライブ100本というような基本をミスなく続けることばかりやった。チキータとか逆チキータとかYGサーブとかの花形のテクニックや難しいことは教えてくれなかったし、やらなかった。単調な練習なはずなのにつまらないと感じたことはなかった。いつも夢中だった。そして不思議に強くなっていた。クラブで始めた頃はシェークハンドだったが、オヤジさんの勧めで裏面打法もできるペンホルダーに変えた。理由を聞くと、
「冬樹のフットワークは鍛えるだけ伸びるし、出したいサーブもペンホルダーの方がやりやすいし…、現在の日本ではペンホルダーの方が希少価値と意外性があるから…」
とのことだった。やってみたら面白かった。オヤジさんの指導には何でも応え、言うことを聞いていれば強くなれると信じるようになった。6年の初夏に行われた県ホープスの大会では男子67人中4位になった。神戸で行われた全日本ホープスにも出場することができた。結果は1回戦敗退だったけれども。神戸土産を持って母と報告しに行った。
「1回戦で負けてしまいました。」
と言ったが、餞別までいただきながら一勝もできなかったのが情なくて、小声になってしまった。
母は、
「この子がこの頃勝てるようになって、神戸まで全国まで行けたのは、中村さんに教えていただき、鍛えていただいたおかげです。」
と精一杯の感謝をすると、
「お母さん、卓球は教えるものでも教わるものでもないですよ。自分で努力し、自分自身を追い込むように鍛錬し、自分自身を成長させていくものですよ。師弟関係なんてありません。強くなった冬樹が、天狗にならずに、感謝の言葉を言ってくれるのは本当にうれしいけれども、勝てるようになったのは冬樹自身が成長したからですよ。」
 その言葉は、恩着せがましくなく、幼い僕でさえ品格をも感じさせた。少し間をおいてさらに続ける。
「今、これは卓球に限らないと思うんですがね。ホープス以下の幼い年代で、日本のトップも県のトップも皆、親が卓球選手をやっていた二世選手ばかりです。3歳にはもうラケットを握ってボール遊びを始めている…。そんな幼い猛者たちに対して、4年生から始めた冬樹が挑んでいる。私は、何とも爽快で、スカッとする気分です。」
 僕の活躍が、オヤジさんを喜ばせる?僕もそれに応えたかった。

中学生になると学校部活やクラブの大会がない日曜日は、この道場に集う人たちのネットワークをフルに使って、平田さんの車で太河さん塩澤さんと一緒に県内外、時には山梨へ、新潟へ、名古屋へ練習試合につれていかれた。オヤジさんは遠征には来なかった。
どこでも全国を知っている選手は強かった。勝てる試合などは全くなかった。自分がこんなレベルの高いところ練習するのは場違いだと思った。しかし行脚を重ねる中で、少しずつだけれども、ラリーになればカウンターが決められるようになっていった。遥かに格上の相手と無心で打ち合えることは大きな喜びになっていった。手ごたえらしきものを感じ始めてもいた。ほんのかすかな手ごたえではあったけれど。試合の後にはどの選手たちも、僕にアドバイスをくれた。
アドバイスをもらうたびに僕はノートした。言葉の一つ一つが輝いていた。

帰りの高速で平田さんのワゴン車に流れている土臭い二十世紀のカントリーロックを聴きながら、その日の試合を振り返る。平田さんたちはその中で考えることの大切さを僕に教えようとしていた。
著名な野球評論家の、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし。」が平田さんの口癖で、負けた試合の反省を求められた。敗因を聞かれて、ただの実力不足です…などとおぼろげに答えることなどでは解放してくれなかった。相手の弱点、自分が選択すべき戦術、技術的な反省と克服課題…、中でも一番考えなくてはならなかったのは、勝敗の分岐点をピンポイントで見つけ出し、状況の分析、自分自身のメンタルの状況、どういう戦術を選択し、それがどんな結果をもたらしたか、次、同じ状況が生まれたらどう対処するか、そのためにどんな練習をするか…の解答を探す時だった。しかも僕にとって苦手だったのは、「自分の言葉ではっきり説明しろ。」と要求されることだった。
僕は知識と言葉そのものの足りなさを痛感した。ワゴン車の中で少しでも説明できるようにするために、僕はネットで卓球の動画をあさった。同時に卓球の月刊誌や専門書も読み始めた。学校図書館にも結構あった。荻村伊智朗という伝説の卓球人の著作には特に教えられた。館内の専門書はひと月で読み終わっていた。読書に慣れていなかった僕にとっては、本を読むという感覚より、強くなるヒントを這いつくばって探し回っているという感覚だった。
こんなことが続いていた。中2の県新人戦の頃には、僕が振り返る勝負所と、平田さんたちが看破したポイントが重なることが多くなった。平田さんは僕が負けた相手と、直後に自身で対戦してみせたりもしていたので、それがヒントになっていたともいえる。
少しずつ考えることができるようになってきて、一度だけ褒められた。
岐阜の遠征の帰途、勝敗の分岐点を聞かれ、
「セカンドゲームを取って2-0とした直後、サードゲーム第1サーブの入り方が悪かった。意識に『勝てるんじゃないか』という自分でもどうしようもない予測というか余計な意識がどこかに芽生えて…。選手としてただ『勝つ』という意志だけが必要だったのに。あれからパンクした自転車みたいに前進できなくなり、得点できなかったです。」
と答えた時は、
「パンクした自転車か…。お前も少し成長したな。」
と感心された。だが、褒められた嬉しさはなかった。強くなるためにも言葉は大事だ…と重ねて言われても、語彙も貧困で、表現力も伝え方も稚拙な自分、平田さんや塩澤さんの明晰な頭脳、山浦さんの直感と動物的ともいえる嗅覚、それに比べて頭の悪い自分、鈍感な自分…能力のない自分に苛立ちと不満を感じるばかりだった。
僕は渇望していた、勝てるようになることに、強くなることに。中村道場の人たちは僕の渇望を埋めてくれる道を示してくれると信じていた。。
はるか先生に提出する「卓球振り返りノート」の記録にも「ワゴン車の教訓」が役立った。はるか先生は時に感心してくれた。

ワゴン車の中で試合の振り返りのから解放された後、僕は自分のことが話題になるのをあまり好まなかった。というよりは苦手だった。成人したばかりの山浦さんが思春期にはそっとしておいてほしいことを、面白半分に穿り出すように聞いてくるからだ。
「好きな子はいるか?」ぐらいは適当にごまかせるが、「朝勃ちは毎日あるんだろうな」「精通はいつだった。」「夢精の時には誰が出てくるんだ。」「どうやって処理しているんだ。」「女ってものはいいものだぜ。」「童貞はつらいな。」に至っては閉口というよりは絶句だ。僕は試合の振り返りが終わると眠ったふりをした。眠ったふりをしていると不思議なもので、3分もしないうちに本当に眠ってしまうことが多かった。
子守唄代わりになったのは、平田さんがリスペクトするボブディランやザ・バンド、デビットクロスビー、ニールヤングなどの前世紀アメリカのライブアルバムだった。平田さんもボブディラン/ザバンドの、「アイ シャル ビー リリースト」という曲になれば卓球の話もやめて歌う。無口な塩澤さんまで歌う。僕もこの曲に惹かれた。意味も解らないのに。
 
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