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72、平穏な日常(1)
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シルヴェストを無事見送り、クリスティーナとアレクシスは執務室に戻った。
部屋に入る前、アレクシスが扉を開ける。そこまではいつもと同じだった。
ところが、そこでアレクシスは扉に背をあずけるように体を横にした。まるで、誰かのために扉を開けたかのようにみえる。
クリスティーナは立ち止まった。
アレクシスは動かない。
もしかして、クリスティーナが部屋に入るのを待っているのだろうか。
アレクシスくらいの立場なら、従者が先に扉を開けて主を通すのが普通だろうが、アレクシスの場合はどんどん自分から扉を開けてしまう。半歩後ろについているクリスティーナは、その空いた扉から、あとから入るのが定着していた。
アレクシスの行動が読めず、棒立ちしていると、アレクシスが首だけ動かした。
「どうした? 入らないのか?」
口調もなんだか、いつもより柔らかく感じられる。
クリスティーナはわけがわからず、しかしせっかく開けてもらったのと、これ以上アレクシスを待たせるのも気がひけて、おとなしく扉をくぐった。
あとからアレクシスが続き、その口元に嬉しげな笑みが広がった。
クリスティーナは内心首を捻った。
それからも、アレクシスはクリスティーナと話すたび、落ち着いた柔らかな口調を崩すことはなかった。一度、部屋の外に出たが、そこでも同じことが起こった。
一度ならただの気まぐれと済ませるが、二度目なら、そうはいかない。
クリスティーナは執務室に戻ると、怪しむような目つきで、アレクシスを見つめた。
「なにか、変なものでも食べたの?」
アレクシスが執務机から顔をあげる。
「変なもの? そんなもの食べた覚えはないが」
「じゃあ、今日はなんで、いつもとそんな違うの?」
「違わないだろう? いつもと同じだろう」
アレクシスが微笑み、幾分甘さを含んだ声音で言う。
「それだよ。なんだか気味が悪い」
「気味が悪いだって――?」
アレクシスが急な痛みに襲われたように胸を押さえた。
倒れ込むように、机に寄りかかる。
(俺の今までの行動は紳士失格だ。でも、紳士的に振る舞ったら、気味が悪いだなんて)
衝撃を受けて、顔を覆う。
(なぜだ。女はみんな、優しい男が好きじゃないのか?)
そんな心中も知らず、クリスティーナは胸と顔を押さえたアレクシスを見て、勘違いした。
「やっぱり、変なもの食べたんだ。気分が悪い? 待ってて、急いで医者を呼んでくる」
急いで部屋を出て行こうとするクリスティーナを慌ててとめる。
「ま、待て。そうじゃない。行くな」
気を取り直して、咳払いをする。
「クリスは、その、こういう俺は嫌いか?」
「嫌いじゃないけど、なんか変だし」
「――へ、変……」
アレクシスが頬を引きつらせる。
「落ち着かなくて困るっていうか」
「――困る……」
顔色が悪くなる。
「それより、いつものアレクシスのほうが好きだよ」
クリスティーナはにっこり笑った。
「好き!?」
アレクシスの肩がはね、その顔が徐々に赤く染まっていく。
「うん。だから、いつものアレクシスに戻ってよ」
「そ、そうか。『好き』か。じゃあ、今までの態度のほうがいいのか?『好き』なんだよな?」
「うん!」
「くっ――!」
クリスティーナが満面の笑みで答えれば、アレクシスが手で顔を覆って、天を仰いだ。
(駄目だ! 勘違いするな! クリスの『好き』は特別な意味なんてないんだ! 子供の時から知ってるだろう!? 大したことでもないことにも、大袈裟に喜ぶやつなんだから。今の笑顔にだって、なんの意味もないはずだ!)
興奮して、理性を捨ててはいけないと、アレクシスが深呼吸して執務机に向かっている間に、手は勝手に仕事をこなしていたらしい。
机の上の書類仕事がほぼ終わっていた。
時計を見れば、終業時間である。
隣を見れば、クリスティーナも仕事を終えたようで、二人で机の片付けにはいった。
それも終わると、クリスティーナが一礼する。
「それでは今日も一日、お疲れさまでした」
「ああ、お疲れさま」
一緒に部屋を出るのだが、アレクシスは途中で重大なことを思い出した。背を向けるクリスティーナに呼びかける。
「――ちょっと待て!!」
クリスティーナが振り返る。
「なに?」
アレクシスは恐る恐る口を開いた。
「ま、まさか、騎士の宿舎に帰るのか?」
「うん。そうだよ」
アレクシスが目を見開いた。
「駄目だ!! 狼の群れじゃないか! そんな危険な場所に帰せるか!」
「狼の群れ?」
クリスティーナは首を捻った。確かに宿舎は王宮でも外れのほう、森に近いと言えば近いが狼が出るなんて、聞いたことがない。
「狼なんて出たことないけど。それに出たって、騎士のみんながいるから大丈夫だよ」
「その騎士が大丈夫じゃない!」
アレクシスが叫んだ。それからしばらく考える素振りを見せたあと、何か閃いたようにはっとして顔をあげる。
「今日からこっちで暮せばいい」
「ええ!? そんな突然言われても。宿舎で平気だよ」
「騎士でもないのに、いつまであそこにいるなんて変だろう? クリスは俺の従者なんだから、王宮で暮らしたほうが良い」
いつにもなく、力を込めた声音である。
(困ったな)
こちらにはお風呂事情というものがある。使用人たちと一緒に暮らすようになれば、ばれるのはきっと時間の問題である。クリスティーナは焦った。
「で、でも部屋空いてるかな? 突然、人数増えたら困るんじゃない?」
「俺は何も困らないぞ」
「アレクじゃなくて、一緒に暮らすひとのこと言ってるんだけど」
「一緒に暮らすひと?」
「侍従とか給仕人とかだよ」
「ほかの男の側なんて、俺が許すわけないだろ!」
「え?」
「い、いや」
アレクシスが咳払いをする。
「俺が言ってるのは、そこじゃなくて、内廷だよ」
「内廷?」
クリスティーナは目を丸くした。
内廷といえば、王族専用の生活区域である。
「そうだ。俺がいる三階に来ればいい」
「そんな、駄目だよ」
クリスティーナは首を振った。内廷の三階はアレクシス以外は住んでいない。そのためアレクシスの私室をのぞき、あとの部屋は全てがら空きだった。
本来は王族の親類縁者、未来においては王太子妃やその子供たちが住む場所である。
一介の従者に与える部屋には恐れおおすぎる。
「俺がいいと言ってる。あの階は俺が自由に使っていいことになってるんだから、気にする必要ない」
「気にするよ。そんな特別扱い駄目だよ。周りだって変に思うよ」
「じゃあ、特別な理由があったらいいんだな?」
「え?」
「今日から、着替えを手伝ってくれ。それなら、近い位置に移動した理由にもなるだろ」
「そ、そんな――」
ほぼ無理矢理のこじつけだが、アレクシスが決定を覆したことは今まで一度としてない。誰にも止める術はないのである。
(こうなったら、ひとの言うこと、絶対聞かないんだから)
諦めの境地である。
「そうと決まれば、クリスの部屋の荷物を移動させないとな。侍従に頼もう」
「いいよ! それくらい自分で持ってくるよ!」
「駄目だ。あんな危険なところに、もう行かせられない」
何がそんなに危険なのかわからないまま、クリスティーナは、お風呂備え付けの王族専用の豪奢な部屋に強制的に移り住むことになったのであった。
部屋に入る前、アレクシスが扉を開ける。そこまではいつもと同じだった。
ところが、そこでアレクシスは扉に背をあずけるように体を横にした。まるで、誰かのために扉を開けたかのようにみえる。
クリスティーナは立ち止まった。
アレクシスは動かない。
もしかして、クリスティーナが部屋に入るのを待っているのだろうか。
アレクシスくらいの立場なら、従者が先に扉を開けて主を通すのが普通だろうが、アレクシスの場合はどんどん自分から扉を開けてしまう。半歩後ろについているクリスティーナは、その空いた扉から、あとから入るのが定着していた。
アレクシスの行動が読めず、棒立ちしていると、アレクシスが首だけ動かした。
「どうした? 入らないのか?」
口調もなんだか、いつもより柔らかく感じられる。
クリスティーナはわけがわからず、しかしせっかく開けてもらったのと、これ以上アレクシスを待たせるのも気がひけて、おとなしく扉をくぐった。
あとからアレクシスが続き、その口元に嬉しげな笑みが広がった。
クリスティーナは内心首を捻った。
それからも、アレクシスはクリスティーナと話すたび、落ち着いた柔らかな口調を崩すことはなかった。一度、部屋の外に出たが、そこでも同じことが起こった。
一度ならただの気まぐれと済ませるが、二度目なら、そうはいかない。
クリスティーナは執務室に戻ると、怪しむような目つきで、アレクシスを見つめた。
「なにか、変なものでも食べたの?」
アレクシスが執務机から顔をあげる。
「変なもの? そんなもの食べた覚えはないが」
「じゃあ、今日はなんで、いつもとそんな違うの?」
「違わないだろう? いつもと同じだろう」
アレクシスが微笑み、幾分甘さを含んだ声音で言う。
「それだよ。なんだか気味が悪い」
「気味が悪いだって――?」
アレクシスが急な痛みに襲われたように胸を押さえた。
倒れ込むように、机に寄りかかる。
(俺の今までの行動は紳士失格だ。でも、紳士的に振る舞ったら、気味が悪いだなんて)
衝撃を受けて、顔を覆う。
(なぜだ。女はみんな、優しい男が好きじゃないのか?)
そんな心中も知らず、クリスティーナは胸と顔を押さえたアレクシスを見て、勘違いした。
「やっぱり、変なもの食べたんだ。気分が悪い? 待ってて、急いで医者を呼んでくる」
急いで部屋を出て行こうとするクリスティーナを慌ててとめる。
「ま、待て。そうじゃない。行くな」
気を取り直して、咳払いをする。
「クリスは、その、こういう俺は嫌いか?」
「嫌いじゃないけど、なんか変だし」
「――へ、変……」
アレクシスが頬を引きつらせる。
「落ち着かなくて困るっていうか」
「――困る……」
顔色が悪くなる。
「それより、いつものアレクシスのほうが好きだよ」
クリスティーナはにっこり笑った。
「好き!?」
アレクシスの肩がはね、その顔が徐々に赤く染まっていく。
「うん。だから、いつものアレクシスに戻ってよ」
「そ、そうか。『好き』か。じゃあ、今までの態度のほうがいいのか?『好き』なんだよな?」
「うん!」
「くっ――!」
クリスティーナが満面の笑みで答えれば、アレクシスが手で顔を覆って、天を仰いだ。
(駄目だ! 勘違いするな! クリスの『好き』は特別な意味なんてないんだ! 子供の時から知ってるだろう!? 大したことでもないことにも、大袈裟に喜ぶやつなんだから。今の笑顔にだって、なんの意味もないはずだ!)
興奮して、理性を捨ててはいけないと、アレクシスが深呼吸して執務机に向かっている間に、手は勝手に仕事をこなしていたらしい。
机の上の書類仕事がほぼ終わっていた。
時計を見れば、終業時間である。
隣を見れば、クリスティーナも仕事を終えたようで、二人で机の片付けにはいった。
それも終わると、クリスティーナが一礼する。
「それでは今日も一日、お疲れさまでした」
「ああ、お疲れさま」
一緒に部屋を出るのだが、アレクシスは途中で重大なことを思い出した。背を向けるクリスティーナに呼びかける。
「――ちょっと待て!!」
クリスティーナが振り返る。
「なに?」
アレクシスは恐る恐る口を開いた。
「ま、まさか、騎士の宿舎に帰るのか?」
「うん。そうだよ」
アレクシスが目を見開いた。
「駄目だ!! 狼の群れじゃないか! そんな危険な場所に帰せるか!」
「狼の群れ?」
クリスティーナは首を捻った。確かに宿舎は王宮でも外れのほう、森に近いと言えば近いが狼が出るなんて、聞いたことがない。
「狼なんて出たことないけど。それに出たって、騎士のみんながいるから大丈夫だよ」
「その騎士が大丈夫じゃない!」
アレクシスが叫んだ。それからしばらく考える素振りを見せたあと、何か閃いたようにはっとして顔をあげる。
「今日からこっちで暮せばいい」
「ええ!? そんな突然言われても。宿舎で平気だよ」
「騎士でもないのに、いつまであそこにいるなんて変だろう? クリスは俺の従者なんだから、王宮で暮らしたほうが良い」
いつにもなく、力を込めた声音である。
(困ったな)
こちらにはお風呂事情というものがある。使用人たちと一緒に暮らすようになれば、ばれるのはきっと時間の問題である。クリスティーナは焦った。
「で、でも部屋空いてるかな? 突然、人数増えたら困るんじゃない?」
「俺は何も困らないぞ」
「アレクじゃなくて、一緒に暮らすひとのこと言ってるんだけど」
「一緒に暮らすひと?」
「侍従とか給仕人とかだよ」
「ほかの男の側なんて、俺が許すわけないだろ!」
「え?」
「い、いや」
アレクシスが咳払いをする。
「俺が言ってるのは、そこじゃなくて、内廷だよ」
「内廷?」
クリスティーナは目を丸くした。
内廷といえば、王族専用の生活区域である。
「そうだ。俺がいる三階に来ればいい」
「そんな、駄目だよ」
クリスティーナは首を振った。内廷の三階はアレクシス以外は住んでいない。そのためアレクシスの私室をのぞき、あとの部屋は全てがら空きだった。
本来は王族の親類縁者、未来においては王太子妃やその子供たちが住む場所である。
一介の従者に与える部屋には恐れおおすぎる。
「俺がいいと言ってる。あの階は俺が自由に使っていいことになってるんだから、気にする必要ない」
「気にするよ。そんな特別扱い駄目だよ。周りだって変に思うよ」
「じゃあ、特別な理由があったらいいんだな?」
「え?」
「今日から、着替えを手伝ってくれ。それなら、近い位置に移動した理由にもなるだろ」
「そ、そんな――」
ほぼ無理矢理のこじつけだが、アレクシスが決定を覆したことは今まで一度としてない。誰にも止める術はないのである。
(こうなったら、ひとの言うこと、絶対聞かないんだから)
諦めの境地である。
「そうと決まれば、クリスの部屋の荷物を移動させないとな。侍従に頼もう」
「いいよ! それくらい自分で持ってくるよ!」
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