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001 突発クエストの予感

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 カチッ、カチッ、カチッ。
 カーテンの閉め切った暗い部屋に響く、クリック音。
 デスクトップPCの放つ光が、俺の顔を照らしていた。
 ローテーブルの前に胡坐をかいた、二十九歳引きこもりの顔面。
 生え散らかした無精髭は、不潔感の象徴だ。

「あと五時間……。これが終わったら眠れる……!」

 今、俺は必死に、ネトゲで狩りを行っている。
 一週間限定の経験値三倍イベントが開催されているからだ。
 正確にはレアドロップ率も三倍の、超が付くほど熱いイベント。
 イベントが始まってから終了五時間前の今まで、不眠不休で戦っている。
 つまり、一六三時間ぶっ続けで狩りをしているわけだ。

 準備不足がたたり、二日目にして飲食物は底を尽いた。
 準備を怠ったのは、家の前に二十四時間営業のスーパーがあるからだ。
 それの存在が、「必要ならいつでも買える」という錯覚を抱かせた。

 実際、イベント中にPCの前を離れるなんてことはない。
 飲食はおろか、排泄さえ煩わしいのだ。
 そんな時間があれば、クリックして、クリックして、クリックする。
 画面に映る剣士とそれを操作する俺、どちらにも休むことなど許されない。
 おかげで、今の俺はミイラのように干からびている。
 口の中まで砂漠化していて、一滴の唾も湧かない。

 飲食を絶って苦しかったのは、最初の二十四時間だけだ。
 それ以降は、あっさりと無の境地に達した。
 今でさえ、手が震えているくらいで、大した問題はない。
 と、思いきや――。

「あ……れ……」

 眠気というより気怠さで半開きになっていた目が、緩やかに閉じていく。
 同じタイミングで、身体の感覚も消え失せた。
 マウスを一〇〇時間以上握っていた右手が、だらりと床に落ちる。
 キーボードに添えていた左手も同様だ。
 次いで、上半身が力なくテーブルへ崩れていく。
 結構な勢いで、顔面がキーボードに沈んだ。
 しかし、痛みはなく、衝突時の音も聞こえない。

 あ、これまずいやつだ。

 そう思った頃には既に遅かった。
 斎藤優斗、二十九歳引きこもりネトゲ廃人、無事死亡。

 死に行く中で、これまでの人生を振り返る。
 高校・大学と家でパソコン三昧。合コンなんて論外。
 就職活動は当然のように失敗。
 大学時代に借りたワンルームに居座り、親の仕送りに頼る日々。
 まともらしい恋愛経験はなく、唯一恋した相手はネカマときた。
 嗚呼、なんて虚しい人生なんだ。

「生まれ変わったら……リア充になりてぇ……」

 三十路を目前にこの世を去る。
 ――はずだった。

「あれ? ここは?」

 身体に力が蘇り、目が覚める。
 なぜか横になっていた上半身を起こし、目を開く。
 真っ白の何もない空間が無限に広がっていた。

「お主にやり直しのきっかけを与える部屋じゃよ」

 背後から声が聞こえる。
 老人の渋い声だ。
 慌てて振り向くが、誰も居ない。

「無駄じゃ、お主にワシの姿は見えない」

 再び背後から声がする。
 先程より素早く振り向く。
 しかし、誰も居ない。

「ワシの名は……いや、名などなんでもいい。ワシは神様じゃ」
「は、はぁ、神様?」

 何を言っているのだと疑問を抱く。
 しかし、疑問は一瞬でどうでもよくなった。
 疑問を抱けばキリがないからだ。
 声だけじゃない、この場所にしたっておかしい。
 だから、適当な理由を考え、強引に自分を納得させた。

「そうじゃ。お主の願いを聞き、異世界でやり直すきっかけを与えよう」
「本当か! それはありがたい!」

 適当に話を合わせる。

「それで、お主はどのような特殊能力が欲しい?」
「特殊能力?」
「引きこもりのお主がやり直すには、気持ちの強さだけでは無理じゃ。普通にやり直したところで、どうせまた落ちこぼれるだけ。だから、ワシの温情で特殊能力を付与してやろう。大体の能力は可能じゃ。さぁ、希望を言え」

 ズカズカと、問答無用で心を抉ってくる神様。
 ここまでハッキリ言われると、妙な爽快感さえある。

「じゃあ――」

 欲しい能力か。
 死ぬ直前を思い出し、能力を考える。
 一瞬で閃いた。

「飲まず食わずでも、死なずにネトゲを続けられる能力で頼む。出来れば、親の仕送りなしでも生活できるやつがいい。もっと言えば排泄機能も省いてくれ」

 神様は特殊能力があれば一発逆転が可能だというが、俺はそう思わない。
 仮に全ての女からモテる能力があったとしても、何も変わらないだろう。
 それが引きこもりネトゲ廃人、ついでにいえば童貞の斎藤優斗二十九歳だ。

「なっ!? お主、リア充になりたいのではなかったのか」
「そりゃなりたいけど、能力一個でどうこうなったりしないのが現実だよ。この齢になると、色々な要素が求められるわけ。顔、性格、金、それに肩書なんかも重要になる。特殊能力一個じゃ、リア充なんて不可能さ」
「経験豊富な者のように語るが、お主は童貞で、恋愛経験すらないじゃろう」

 ぐぬぬ、と押し黙る俺。

「そうは言っても、願いを最大限に叶えるのがワシの役目じゃ。だから、お主には異世界と現実リアルを往来できる能力をやろう。異世界ではリア充を目指し、リアルでは変わらずネトゲに耽っておけばいいだろう」

 勝手に折衷案を出す神。
 しかし、俺は駄々をこねた。

「異世界なんていらないから、これからもネトゲ廃人でいられる能力がいい」
「残念じゃが、それは無理じゃ。飲まず食わずでも死なないやら、親の仕送りなしでも生きていけるやらは、ワシでも不可能。ただ、排泄機能はオフにできる。それだけは叶えておいてやろう」
「いやいや、そんな中途半端な――」
「神様相手にゴネるな! 優秀なサポートも付けてやるからそれで満足しろ!」

 神が声を荒げる。
 姿は見えないが、キレていることは確実だ。

「これでお主との話はおしまいじゃ! あとは現地でリーネに教わってどうにかしろ! 分かったな! いや、分からなくてもいい!」

 神が勝手に話を終える。
 その瞬間、俺の瞼が、意思に反して閉じられていく。
 同時に、意識も急速に失われた。

「優斗さん、起きてください、優斗さん」

 女に名前を呼ばれ、目が覚める。
 身体を起こし、目を開く。
 先程とは違う場所だ。

「君がリーネ?」

 目の前に若い女が居た。
 齢は一〇代後半。
 長い黒髪は、光を反射するほどに艶やかだ。
 着ているのは制服……ではなく、なぜかメイド服。
 白と黒を主調とした一般的な物で、大きなフロントポケット付きだ。
 手を突っ込めば四次元に届くかもしれない、なんてふざけた思いを抱く。

「はい。神の使い『リーネ』と申します。これから優斗さんのサポートをさせていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
「え、あ、うん、よろしく」

 リーネは頷くと、フロントポケットに手を突っ込んだ。
 ガサゴソとした後、おもむろに一冊の本を取り出す。
 文庫本サイズのもので、表紙はリーネの手が邪魔で分からない。

「ふむふむ、なるほど、ふむふむ」

 リーネはブツブツ言いながら本を読む。
 その間、俺はリーネの胸を凝視していた。殺人的な巨乳だ。
 少しして、リーネはバタンと本を閉じ、ポケットに戻した。

こちらの世界異世界に、優斗という名前は適していません。ですから、まずは適した名前を考えましょう。そうですね、私は『ユート』が良いかと思うのですが、いかがでしょうか?」

 棒読みともとれる抑揚のない調子で、ペラペラ話すリーネ。
 俺は頭を掻きながら「なんでもいいよ」と答える。

「ではユートさんに決定ですね」
「大差ないしそれでいいよ。これからは斎藤ユートなわけだな?」
「いえ、斎藤も消します。ただのユートさんです」
「はいよ」

 こうして、よく分からないまま名前が変更となった。
 俺の名前はユートだ!
 うーん、なんだか馴染まない。
 せめてセカンドネームはないのか。
 ユート・サイトウみたいな。

「では改めまして、よろしくお願いします、ユートさん」
「こちらこそよろしく、リーネ。あ、呼び捨てでもいいの?」
「はい、かまいません」
「オーケー。それでリーネ、ここはどこなんだ?」

 周囲には、生い茂る木々が広がっているだけだ。
 分かるのは森の中ということだけ。
 木の葉の隙間より差し込む陽光が心地よい。

「えっと、確かここは……」

 リーネは再びポケットから本を取り出した。
 どうやら、あの本に情報が書いているらしい。

「ここは『平和の森』という場所です」

 俺の問いに答えると、リーネは本をポケットに戻した。
 平和の森……聞いたことがないな。
 本当に異世界へ来たようだ。

「俺達はどこに行けばいいんだ?」
「まずは北東にある街を目指しましょう」
「オーケー。で、北東ってどっち?」

 コンパスがないので、北が分からない。
 リーネは悩むことなく、俺の左前方を指す。

「あちらになります」
「了解。では行こうか」
「はい」

 俺達は横に並んで歩き出した。
 リーネは俺の右側を歩いている。
 歩き始めてすぐ、リーネが「あ、そうそう」と言う。
 歩調をそのままに、俺は「どうかした?」と尋ねた。

「平和の森という名前ですが、モンスターが出没しますのでご注意下さい」
「モンスターって、ゲームとかで敵として出てくるアレのこと?」
「ゲームとかに出てくるモンスター?」

 リーネは慌てて本を取り出し、ペラペラとページをめくる。
 どうやら、ゲームが何かすら分かっていないようだ。
 流石は神の使い。見た目はメイドコスプレの巨乳JKだが。

「想定問答一の八、斎藤優斗がモンスターの存在について疑問を抱いた場合。回答例『お主の大好きなゲームに登場する敵と同じ類のものじゃ。見た目も大差ないぞぃ』。ふむふむ、なるほど」

 ブツブツと読み上げた後、リーネは本を戻し、真顔で答えた。

「そうです、ゲームに出てくるモンスターです。見た目も大差ありません」
「そ、そうなんだ、ありがとう」

 思わず苦笑いを浮かべる俺。
 声に出して読んでいただろ、と突っ込むのは控えた。

「ゴブリンは雑魚モンスターですが、戦闘経験がなくて武器もないユートさんには辛い相手かと思います。ですので、街に着くまでの間のみ、代わりに私が戦わせていただきます」
「なんだかパワーレベリングっぽいな」
「パワーレベリング?」

 慌てて本を取り出すリーネ。
 俺は「調べなくていいから!」と止めた。

「今のはネトゲ用語だ。細かいことは気にしないでくれ」
「分かりました」

 リーネは本を戻すと、「もう一つありました」と人差し指を立たせた。

「私が神の使いであることは黙っていてもらえませんか? 人によって信仰するものが異なりますから、神がどうこうと言えば、トラブルが起きかねません」
「なるほど、宗教観の相違ってやつだな」
「そうです」
「じゃあ、神ではなく人間扱いすればいいんだな?」
「その通りです。よろしくお願いします」
「はいよ」

 俺は二つ返事で承諾した。
 リーネの見た目はただの人間だ。
 人間扱いすることなど、造作もない。

「それにしても木しか見えないな。この道であっているのか?」
「はい、このペースですと、あと一時間ほどで到着します」
「一時間!? 思ったより遠いな」

 そろそろ歩き出して一〇分が経つ。
 更に一時間も歩くというのは、二十九歳引きこもりには辛い。
 それに、変化のない周囲の景色にもそろそろ飽きてきた。
 木の枝からこちらを見下ろす猿や小鳥、その他小動物達。
 彼ないしは彼女らの表情も、どこか退屈そうだ。

「静かに歩いていても暇だし、この世界の話でも聞かせてよ」
「この世界の話ですか?」

 リーネが慌てて本を取り出そうとする。
 俺は「やっぱりいい!」と止めた。

「答えられない質問には、調べてまで答えようとしなくていいよ」
「分かりました」
「リーネもこの世界について詳しくないみたいだな」
「すみません」
「謝らなくていいよ。代わりに、俺がリアルの話をしようか」

 言った後に「といっても、ネトゲの話だけど」と付け加える。
 大学を卒業してからの七・八年、ずっとネトゲに耽っていた。
 だから、他の話題なんて何も分からない。

「はい! 聞かせてください! 興味があります!」

 予想外にも、リーネの反応は明るい。
 嬉しそうに声を弾ませ、目を輝かせている。
 リアルの女ならこうもいかない。流石は神の使い。

「よっしゃ! じゃあ語りまくるか!」

 気をよくする俺。
 ネトゲのことなら何時間でも話せる。
 これなら、街に着くまで退屈しないぞ。

「ネトゲっていうのは――」

 ウキウキで俺が話し始めた時。

「助けてなのー! 誰か助けてなのー!」

 女の悲鳴が轟いた。
 なんというタイミング。
 ゲーム脳全開の俺は察知した。

 これは、突発クエストのフラグだ!
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