今は亡き君へ

梅酒ソーダ

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病床のオルゴール

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 余命一ヶ月。そう医者から告げられた時の衝撃は今まで味わったことがなかった。とはいえ私自身ではなく、私の兄がだけど。
 兄は癌と記憶障害を併発した。なんの癌だったかは忘れた。とりあえず進行が進んでて、もうあとは死を待つことしか出来ない状態なのは理解した。残された時間を大切にしたいと辛うじて思ったけど、兄は記憶がどんどん崩れ落ちてきている。ぼろぼろぼろぼろ、完成したパズルをひっくり返して落とすみたいに。私のことももう少しで忘れるのかと思うと、胸が痛くて会うのが辛い。
 と思いながら、日がよく入る角部屋の病室で今日も兄に会う。晴天の曇りなき空とは相反して、土砂降りの中に一人取り残された気分だ。兄は管で繋がれた両手で、ルービックキューブを解いていた。カチカチカチカチ。キューブを合わせる音がよく聞こえる。
「そういえばさ、探して欲しいものがあるんだけど」
 兄は唐突にお願いする。私は面食らったが何か聞いた。
「俺の部屋にオルゴールがあるんだけど、どこに置いたか忘れた。明日持ってきて」
 兄は風に吹き飛ばされそうな枯葉のように乾いた嘲笑をする。
「ほら、俺もう記憶なくなるからさ」
 なぜオルゴールなのかもわからないけど、とりあえず記憶を無くす前に大切なものを身近に置いておきたいのだろう。私は静かに頷いた。

 私は実家を探した。だけど棚やクローゼットを開けてもそれらしきものは見つからない。ベッドの下? 机の裏? 血眼になっても見つけ出せず、結局あの日から三日後にして漸く見つけた。
 木製の箱に子供が描いた、いや、幼き頃の私が描いた兄の似顔絵がでかでかと存在感を放っている。箱を開けると『月の光』が流れた。今の今までこんな贈り物をしたこと自体忘れていたが、兄が最期に選んでくれたものなのならば責任もって渡さなければ。
 
 私は兄に渡した。兄は不思議そうな顔をして管だらけの両腕で受け取った。その顔を見て悟った。
「どうも……。それで、貴方はどちら様ですか?」
 見たくなかった未来を目の前にして、私は目が潤む。それでも私は聞いた。
「そのオルゴール、見覚えないですか?」
 兄は余所行きの表情で答えた。
「あぁこれ、喧嘩ばかりしていた妹が初めてくれたプレゼントなんですよ。いやぁ、探していたから良かった。ところでどうして君が?」

 数日後兄は亡くなった。病室には解きかけのルービックキューブと、開かれたままのオルゴール。ゼンマイを回して流れた金属的な音は、心の傷を抉った。
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