居酒屋ぼっちゃん

梅酒ソーダ

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居酒屋ぼっちゃん

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 夜十時、東京の夜は眠らない。俺はとっくに連日の残業とクソ上司との飲みで疲れているのに、「まだまだこれからだ」と言わんばかりの光を放ち続ける。ブルーライトとドライアイにやられている俺の瞳にはあまりにも眩しいものだった。
 こうして荒んだ気持ちになった時は、あそこへ行くしかない。京成立石駅にある「居酒屋ぼっちゃん」。下町ならではの風情と人情が残る場所で、駅前は飲み屋街になっている。会社から帰る時、最寄り駅の一つ前ということもあり時々一人飲みをすることが多かった。ある日たまたま入った店のもつ煮込みが絶品で忘れられなかった。それがぼっちゃんだ。
 考えただけでヨダレが垂れそうな俺はそそくさと電車に乗り、立石へ向かった。平日の夜でもオッサン達で賑わっている。赤ら顔の彼らを横目に、ぼっちゃんの戸を開けた。
 
「あいよ! いらっしゃい」
 やけに声の通る親父に出迎えられ、カウンター席に座る。席に着くなりいつものビールと、極厚タン塩、もつ煮込みが置かれた。
「今日あたり、アンタが来ると思って取っといたよ」
 ヤニで汚れた黄色い歯をニッと見せて、親父は背を向けた。そう、人気メニューだからもつ煮込みは仕込んである量がなくなれば売り切れるし、タン塩も数量限定の品。俺は何故かこの親父に気に入られ時々こうやってご贔屓にしてもらってるんだ。
 ほんと、これだからこの店に通いたくなる。俺は割り箸をパキンと割って、早速孤独のグルメを始めた。
 現代社会という砂漠に注ぎ込まれるオアシス。そこへ、もつ煮込みの大根ともつを一気にかきこむ。アツアツで舌が温度差で火傷しそうになる位がちょうどいい。ビールがオアシスなら、もつ煮込みはなんなのだろう。慣れない比喩をするもんじゃないが、とにかく美味い。牛タン塩も最高だ。牛とのディープキスがこんなにも甘美なものなのは、親父の丁寧な下処理と味付けのお陰だろう。
 
「今日も美味かった、ごちそうさんです、また来ます」
 俺は店じまいを始めている親父にそう言った。客は俺以外残っていない。
「おうよ、またな」
 親父はいつになく寂しそうにそう言った。不思議と親父を照らす暖色の照明が、幕を閉ざすように暗くなっていくような気がした。
 
 数日後、京成立石駅は再開発のため飲み屋街が取り壊されることを知った。一部取り壊されるまで営業する店もあるようだが、そのリストには「ぼっちゃん」の名前はなかった。
 俺は時折親父の言葉を思い出す。不思議とまたどこかで会える気がしているが、会った時にはヤニだらけの笑顔を見せてくれるだろうか。
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