看守の娘

山田わと

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Echo7:刻まれた傷

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 翌日の朝。塔の裏手、平らな石敷きの一角に、アリセルとユーグは簡素なかまどをこしらえた。

 地面に散らばる平たい石を拾い集めて土台にし、風を遮るよう三方に積み上げる。
 中心には乾いた薪を井桁に組み、隙間に小枝と枯葉を挟み込んで焚き付けとした。

 ユーグが火打ち石を取り出し、打ち金とともに打ち鳴らす。

 鋭い音とともに、石の隙間から火花がこぼれ落ち、ほどなくして枯葉の先に小さな火がついた。やがて乾いた音を立てて火が燃え広がり、薪の表面を舐めるように炎が立ち上った。アリセルがそばに用意しておいた鉄製の鍋を三脚に吊るし、ユーグは皮袋で汲んできた水を慎重に注ぎ入れる。

「これ、この後ルネ様の所まで運ばないといけないんだよね。重くて、嫌だなぁ」
 ポツリ、と本音を零すと、視界の隅でユーグが微かに笑う。
「なんで水ってこんなに重いんだろう。形がなくて、手をすり抜けて、地面に染みて、蒸発して消えてしまうのに」
「粒がびっしり詰まってるからだよ」
 ユーグは鍋の傍らで薪を足しながら答えた。
「粒?」
「そう。目に見えないけど、水ってのは小さな粒の集まりなんだ。それが詰まってるから、見た目よりずっと重い」
「へえ……。ユーグは物知りだね」
 火の上で揺れる鍋を見つめながら、思わず呟くアリセルに、ユーグは軽く肩を竦めて「まぁな」と気のない返事をする。

 やがて湯がぐらぐらと煮立ちはじめる。
 かまどの傍には分厚い革でできた皮袋がいくつか置かれていた。両手で抱えるほどの大きさで、縦に長く、形を定めずたわんでいる。内側には松脂と蜜蝋で防水の処理が施されており、表面は濃い茶色に鈍く光っていた。

 ユーグはそのうちのひとつを手に取り、慎重に鍋の縁に傾ける。
 湯をこぼさぬよう柄杓で少しずつ注ぎ入れ、ある程度湯がたまった所で、冷ました水を加える。水が注がれるごとに、革が膨らんで形を変えた。
 アリセルは湯を詰めた袋の一つを抱えようとした。だが思いのほか重く、よろけて倒れかけた。その瞬間、背後から腕が伸び、しっかりと身体を支えられる。
「大丈夫か?」
 低く抑えた声が頭上から落ちてくる。抱き留められたと知り、アリセルは慌てて身を起こした。
「ごめんね、ありがとう」
「気にするなって」
 ユーグはアリセルの頭に、ぽすっと手を置いた。
 そのまま彼は、先程アリセルがよろけた袋を片手で引き寄せると、何でもない事のように軽々と持ち上げた。骨格のしっかりした手に掴まれた袋は、頼りなくたわみながらも、彼の肩にすっとおさまった。

「こっちは俺が持つ。アリセルはあっち」

 顎で指されたのは、ひと回り小ぶりな袋だった。
 アリセルは頷いてそれを両腕で抱える。さっきまで、自分の体を傾がせたほどの重さの袋を、ユーグは何でもないように運んでいる。

 それを目にした瞬間、胸のどこかが、妙にそわそわと落ち着かなくなった。

「変なの」
 突然湧いて出てきた感覚に、そんな言葉がポツリと落ちた。
 無意識に胸元に提げた紐を探り、先に結びつけられた木の指輪を撫でる。指輪の温かな質感が、胸の奥のざわめきを、ほんのわずかに和らげてくれる気がした。



 牢獄の小部屋で、ルネは今日も変わらず膝を抱えて顔を伏せたままだった。

 いつもは部屋に入ったら、まず彼を気に留めるアリセルだが、今日は背に食い込む皮袋の重みで、それどころではない。しかも螺旋の階段を何度も往復したのだ。最後の袋を運び込み、地面に下した途端、口をついて出たのは情けない呻き声だった。深く息を吸う気力もなく、その場にしゃがみ込む。脚の感覚がほとんどなかった。
 太ももの奥がじんと熱を持ち、膝は抜けるように重い。肩に食い込んだ革紐の跡が、まだ火照っている気がする。
「アリセル、よく頑張ったな。えらいえらい」
 腕で額の汗を拭いながらユーグが笑う。アリセルは恨みがましい目を向けた。
「ユーグはなんでそんな涼しい顔しているのよ」
「それは日頃の鍛錬が違うから」
「ずるい」
 何がずるいのか自分でもよく分からないが、そんな言葉が飛び出した。
 呻くアリセルの頭を一撫でして、ユーグは部屋の隅にあった木桶を中央に運ぶ。
 彼は木桶の脇にしゃがみ込み、革袋の口をほどき、ゆっくりと湯を注いでいった。アリセルは鉛のように重たい脚を奮いたたせ、立ち上がる。ユーグの手元にまわり、注ぎ口が安定するよう袋の下を両手で押さえた。
 いくつもの袋の中の湯を桶に注ぎ、やがて十分に溜まった所で彼は手をとめる。
「よし、こんなもんかな」
「うう、ありがとうユーグ。貴方がいなかったらここまで出来なかった。なんてお礼したら良いか分からない位、本当に感謝している。私にできる事だったら何だってするから…あ! これから毎日ユーグの食事と洗濯と掃除するってのはどうかな」
「これで終わりじゃないのに、何、感傷にひたってるんだよ」
 若干暴走しかけるアリセルの言葉を、ユーグは冷静に制する。
 アリセルは、ふるふると頭を振って、めぐるめく想いを払った。そうだ、これまでの作業はただの支度に過ぎない。問題はここからなのだ。木桶の湯の加減を確かめようと、ユーグが手を入れてみせる。彼が軽く頷いたのを見届け、アリセルはルネの目の前にしゃがみ込んだ。

「ルネ様、お風呂に入りましょうね」

 ルネは頭を伏せたまま動かない。だが、ほんのわずかに肩が強ばるのが見えた。
 それが拒絶なのか、恐怖なのか、それとも戸惑いなのか。意味することは分からないが、自分の声は確かに届いている。どう言葉を繋げれば良いのかと逡巡していると、ユーグが傍らに来て膝をつく。
「ルネ、嫌かも知れないけど、俺たちも汗水垂らしてここまで湯を運んできたんだ。この苦労に報いるためにも、少し我慢してくれよ」
 ユーグはあっけらかんと言って、蹲るルネの腕を外し、抱えていた膝をゆっくりと下ろさせた。
 俯いていた頭を軽く支えて姿勢を整えると、その襟元に手をかけた。あまりの思い切りの良さに、アリセルがはらはらと見守る中で、そのままあっさりと、ぼろ布のようなシャツの前を開いていく。
 布はすっかり色を失い、乾いた血と汚れで硬くなり、肩口では皮膚に貼りついていた。
 引かれた布に瘡蓋が引き剥がされたのだろう。ルネの肩がビクリと大きく震えた。
「……悪い」
 ユーグは小さくそう呟いたが、手を止めることなくシャツを脱がし続けた。
 布が床に落ちると、そのまま腰元へと手を移す。腰から下を覆う粗末なトラウザーズの裾をめくり、紐を解いて脱がせていった。その下には布きれを巻きつけただけの簡素な下着があった。
 ユーグの指が下着にかかった瞬間、アリセルは反射的に立ち上がり、くるりと背を向けた。

 顔を上げたまま、どこを見ていいのか分からず、ぎこちなく視線を宙に泳がせる。
 背中越しに伝わる布がほどかれる気配に居心地の悪さを感じ、両手の指を絡めてはほどき、そのまま立ち尽くす。
「アリセル」
 ユーグに呼ばれて、アリセルは後ろを向いたまま「なぁに」と返事をする。
「ちょっと手伝ってくれ」
 そう言われて恐る恐る振り返れば、ルネの片腕を肩に乗せて抱きかかえるユーグの姿が目に映った。
 ルネの腰には新しい布が巻かれ、全裸ではなかった事に安堵を覚える。

 だが同時に露わになった身体の惨状にアリセルは言葉を失った。

 あばらの浮いた胸元には、焼け跡のような斑点が散らばり、腹には青黒い痣が深く沈んでいた。
 背中を斜めに横切る痕は、爪で引き裂かれたように荒く、縫われることもなく閉じきっていない。
 乾いた瘡蓋のまわりにはひび割れが走り、手首と足首は擦過によってできた輪が赤黒く刻まれていた。まるで無邪気な子どもが悪戯に絵の具を散らすように、傷は無秩序に交錯し皮膚を刻んでいた。

 酷い、と思った。
 人はこうも残酷になれるのだろうかと、心が揺れそうになったが、ぐっとこらえて感情を押しとどめた。
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