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18:抱くか抱かれるべきか、それが問題だ
抱くか抱かれるか。
その突拍子もない二択が頭に居座ったまま、ギデオンはしばし完全に固まっていた。
「……その、今日はやめておこうか。ほら、体調とか、準備もまだ完全じゃないし……」
未知のものは得てして恐ろしい。
ようやく絞り出された声は、驚く程、弱々しかった。胸に抱いていた屈服させてやろうという気概は、初めて聞いた言葉ひとつで跡形もなく飛んでいったらしい。
しかし、リネアは逃げ場を与えなかった。
ここで退散するなど失礼だと言わんばかりに、一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。
「大丈夫よ。何も問題ないわ」
「いや、今日は月の位置が悪いというか……。そう、気圧もね!」
「気圧?」
「ほら、こう……頭がぎゅっと締め付けられる感じがするの、分からない?」
言い終える前に、視界がふっと傾いた。
花弁が床にはらり、と舞い落ちる。押し倒されたのだと気づいたのは、背中がシーツに沈み込んだ後だった。
さっきまで完璧だと思っていた導線は跡形もなくひっくり返され、気づけばリネアが馬乗りになっている。
こうして見上げるのは悪くない、むしろ絵になるほどだ……。などと自分を励ましてみるが、状況改善にはまったく至らない。
「ま、待て、リネア。話を……」
「あとで聞くわ」
聞く気がまるでない返事と同時に、衣服の留め金が一つ外れる音がした。
ギデオンは反射的に手を伸ばし、脱がせされまいと抵抗する。しかしリネアの動きは妙に手際がよく、気づけばギデオンの上半身はあっさりと露わにされていた。
「……ま、待ってっ……!」
思わず漏れた言葉は、生娘みたいに可憐だった。
その自覚が胸のどこかに刺さり、ギデオンは反射的に咳払いで誤魔化す。しかしリネアは、まるで面白い宝物でも見つけたかのように目を細めている。
「今の声、すごく可愛かったわ」
リネアが楽しそうに言う。
その一言で、ギデオンは頭のどこか大事な歯車が、かたん、と外れた気がした。
本来なら「君も可愛いよ」とでも囁き返すのだが、この状況ではそこまで思考が至らない。
(……これは、あれか。世の中で噂に聞く、そういう趣向の一種なのか?)
耳にしたことはあった。
女が男を主導し、翻弄する関係もあるのだと。それでもギデオンは、主導するのは男で、甘く崩されるのは女だと信じてきた。
ナルシストで放蕩で、女遊びも酷いくせに、性癖だけは妙に常識の範囲に収まっていたのだ。
リネアの指先が、露わになった胸の上をすっと滑った。
冷えた空気と、温かい皮膚の境目をなぞるような、妙にゆっくりとした動き。こそばゆさと、聞き慣れない感覚が一度に押し寄せてきて、喉の奥から変な息が洩れる。
「……っ」
自分でも耳を塞ぎたくなる声が漏れ、ギデオンは唇をかすかに噛んで、どうにか立て直そうと必死に思考を巡らせた。
(主導権を取り返すべきか……? いや、ここからどうやって?)
押し返そうにも、リネアは意外なほど体幹が安定している。
肩越しに見える二の腕は、ふくよかというより、余分なものを削ぎ落した引き締まり方をしていた。
掌が鎖骨のあたりを滑った刹那、ギデオンは今度こそ空気を噛み損ねた。
「……っ、ん……」
「いい子ね、ギデオン……」
耳元に落ちる声は、妙に甘くて柔らかかった。
ギデオンは真っ赤な顔をしたまま、必死になってリネアを睨みつける。
「ど、どこでそんな真似を覚えてきたんだ……っ!?」
混乱の勢いで口をついたそれは、まるで親が子を問いただすときの調子だった。リネアは唇に拳をあてがい、くすっと笑う。
「修道院の花嫁修業で教わるの。どうやって相手の理性を外すか、とか。どうやって、もう離れられないって所まで追い込むか、とか」
(そんな訳あるかっ!)
喉まで出かかった突っ込みを、ギデオンはぎりぎりのところで飲み込んだ。
常識的に考えて、そんな花嫁修業を施す修道院など、存在していい筈がない。いい筈がないのだが、目の前の女は、あまりにも落ち着いてそれを口にする。
「今、心の中で、そんな訳があるかって叫んだでしょう?」
見透かしたように、リネアが笑った。
指先が、胸から腹へとすべり落ちる。その軌跡を追うように、ぞわりとした感覚が遅れてやって来た。
リネアは、ふと動きを止めた。そして、なんの前触れもなく、自分の服へと手をかける。
「ちょ、ちょっと待て。別にそこまでしなくても……」
制止の声など聞こえていないらしい。
布がするりと落ちる音が、ギデオンの言葉より先に部屋の空気をさらっていった。
一枚。間を置かず、もう一枚。
脱ぐというより、不要な飾りを静かに払い落とすような動きだった。リネアの指先は妙に迷いがなく、留め具の位置も、布の落ちる角度さえ心得ているように見える。
それがまたギデオンの不安を煽った。
気付けば彼女は薄い下着一枚になっている。視線を逸らそうとして、逆にどこへ置けば正解なのか分からなくなる。
だが、否応なく目に入ったのは、思っていた以上に整った身体の線だった。
柔らかさはあるのに、ただ甘いだけでは終わらない。
日常のどこかで鍛えているとしか思えない筋肉が、腰回りや腹のあたりにさりげなく影を作っている。
数多の女を抱いてきたギデオンだが、リネアのような体つきの女性には出会ったことがない。
未知のものを前に、思わず喉の奥が鳴った。自慢の経験値が役に立たないと思い知らされる。どう構えればいいのか分からず視線を彷徨わせた、そのとき。
ふと、彼女の肩口のあたりに目が止まった。
「……リネア。それは」
上腕から肩にかけて、大きな痕が残っていた。
古い傷跡だが、形ははっきりしている。鋭い歯型が、皮膚に深く食い込んだまま、時間だけが過ぎたような跡だった。
「あぁ、これ?」
リネアは自分でも見慣れているのか、軽く視線を落とすだけで特に隠そうともしない。
「犬に噛まれたの。ダメな子を躾けてる時に、ちょっと本気を出されてしまって」
「……犬?」
予想外の単語に、ギデオンは間抜けに復唱をした。
「ええ、噛み癖がものすごい酷い子だったの。でも、そこがすごく良かったのよね」
声だけ聞けば、可愛いペットの思い出を語っているようにも聞こえる。しかし、語彙の選び方が絶妙におかしい。
何と答えれば良いのか分からず固まるギデオンに、リネアは少しだけ身を屈めた。唇が触れ合う至近距離で、微笑みが深くなる。
「ギデオンにだけ教えてあげる。私、犬を躾けるのが好きなの。ダメならダメなほど、尚更ね。……もし、従わせることができないなら、噛み殺されるかもしれない。そのぎりぎりの所での駆け引きが、たまらないのよ」
囁きは甘く、内容はまるで甘くない。
ぞわりと背筋を走った感覚は、冷たいものか熱いものか、自分でも判断がつかなかった。ギデオンは反射的に言葉を探す。
「……なっ、なんだよ、その趣味……。噛まれても……殺されてもいいって言うのか?」
「ええ」
即答だった。リネアは笑う。
その笑みは、いつも見せている柔らかなものと異なり、うっすらとした狂気めいた色が滲んでいた。
「私の周りの人は、誰もこのことを知らないの。両親も兄も、知り合いも。みんな、リネアは天使みたいに良い子だと言うわ。私が笑っていれば、何を考えているかなんて誰ひとり気づかない。でも、ギデオン。あなただけは違った。……前に言ったでしょう? 「君の兄たちは、リネアの本当の顔を知らないだけだ」って」
その時のことを思い出したのか、リネアの目が少しだけ細められた。
「驚いたのよ。血の繋がった家族ですら知らない場所まで、あっさり辿り着く人がいるなんて思っていなかったから。私の歪みに一番近い所まで来たのは、あなただけ」
「あなただけ」。
その一言だけなら、ギデオンは軽く髪をかき上げて「当然だ」と言えただろう。
だが本来は甘く受け取るべき台詞のはずなのに、歪みという単語がすべてを台無しにする。
ギデオンは記憶を手繰り寄せる。
双子の兄、セシルとルシルに出会った時。
彼らは口を揃えてリネアを天使だと崇めていた。
しかしギデオンの目には、リネアは最初から天使などとは映らなかった。
初対面で股間を握られた、という決定的な理由が九割を占めるのはさておき、彼女の奥にある温度差には、気づいていた。
笑っているのに、目の奥だけが不意に静まり返るとき。丁寧な言葉の端に、ほんのわずかに別の色が沈んでいるとき。
その小さな違和感の積み重ねこそ、いま彼女が語った家族も知らない場所の気配だったのだろうと思い知る。
「ギデオン……。あなたは嚙みついてくる子かしら……。それとも良い声で鳴いてくれる子?」
無邪気な笑みを見せるリネアに、ギデオンは返すべき言葉を探しあぐねる。困惑だけが静かに広がり、その表情は彼にしては驚くほど真面目だった。
常識人と非常識人の座は、これまでずっと固定されていた。それが今は逆転してしまい、常識の側に立っているのは、どう見てもギデオンのほうだった。
その突拍子もない二択が頭に居座ったまま、ギデオンはしばし完全に固まっていた。
「……その、今日はやめておこうか。ほら、体調とか、準備もまだ完全じゃないし……」
未知のものは得てして恐ろしい。
ようやく絞り出された声は、驚く程、弱々しかった。胸に抱いていた屈服させてやろうという気概は、初めて聞いた言葉ひとつで跡形もなく飛んでいったらしい。
しかし、リネアは逃げ場を与えなかった。
ここで退散するなど失礼だと言わんばかりに、一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。
「大丈夫よ。何も問題ないわ」
「いや、今日は月の位置が悪いというか……。そう、気圧もね!」
「気圧?」
「ほら、こう……頭がぎゅっと締め付けられる感じがするの、分からない?」
言い終える前に、視界がふっと傾いた。
花弁が床にはらり、と舞い落ちる。押し倒されたのだと気づいたのは、背中がシーツに沈み込んだ後だった。
さっきまで完璧だと思っていた導線は跡形もなくひっくり返され、気づけばリネアが馬乗りになっている。
こうして見上げるのは悪くない、むしろ絵になるほどだ……。などと自分を励ましてみるが、状況改善にはまったく至らない。
「ま、待て、リネア。話を……」
「あとで聞くわ」
聞く気がまるでない返事と同時に、衣服の留め金が一つ外れる音がした。
ギデオンは反射的に手を伸ばし、脱がせされまいと抵抗する。しかしリネアの動きは妙に手際がよく、気づけばギデオンの上半身はあっさりと露わにされていた。
「……ま、待ってっ……!」
思わず漏れた言葉は、生娘みたいに可憐だった。
その自覚が胸のどこかに刺さり、ギデオンは反射的に咳払いで誤魔化す。しかしリネアは、まるで面白い宝物でも見つけたかのように目を細めている。
「今の声、すごく可愛かったわ」
リネアが楽しそうに言う。
その一言で、ギデオンは頭のどこか大事な歯車が、かたん、と外れた気がした。
本来なら「君も可愛いよ」とでも囁き返すのだが、この状況ではそこまで思考が至らない。
(……これは、あれか。世の中で噂に聞く、そういう趣向の一種なのか?)
耳にしたことはあった。
女が男を主導し、翻弄する関係もあるのだと。それでもギデオンは、主導するのは男で、甘く崩されるのは女だと信じてきた。
ナルシストで放蕩で、女遊びも酷いくせに、性癖だけは妙に常識の範囲に収まっていたのだ。
リネアの指先が、露わになった胸の上をすっと滑った。
冷えた空気と、温かい皮膚の境目をなぞるような、妙にゆっくりとした動き。こそばゆさと、聞き慣れない感覚が一度に押し寄せてきて、喉の奥から変な息が洩れる。
「……っ」
自分でも耳を塞ぎたくなる声が漏れ、ギデオンは唇をかすかに噛んで、どうにか立て直そうと必死に思考を巡らせた。
(主導権を取り返すべきか……? いや、ここからどうやって?)
押し返そうにも、リネアは意外なほど体幹が安定している。
肩越しに見える二の腕は、ふくよかというより、余分なものを削ぎ落した引き締まり方をしていた。
掌が鎖骨のあたりを滑った刹那、ギデオンは今度こそ空気を噛み損ねた。
「……っ、ん……」
「いい子ね、ギデオン……」
耳元に落ちる声は、妙に甘くて柔らかかった。
ギデオンは真っ赤な顔をしたまま、必死になってリネアを睨みつける。
「ど、どこでそんな真似を覚えてきたんだ……っ!?」
混乱の勢いで口をついたそれは、まるで親が子を問いただすときの調子だった。リネアは唇に拳をあてがい、くすっと笑う。
「修道院の花嫁修業で教わるの。どうやって相手の理性を外すか、とか。どうやって、もう離れられないって所まで追い込むか、とか」
(そんな訳あるかっ!)
喉まで出かかった突っ込みを、ギデオンはぎりぎりのところで飲み込んだ。
常識的に考えて、そんな花嫁修業を施す修道院など、存在していい筈がない。いい筈がないのだが、目の前の女は、あまりにも落ち着いてそれを口にする。
「今、心の中で、そんな訳があるかって叫んだでしょう?」
見透かしたように、リネアが笑った。
指先が、胸から腹へとすべり落ちる。その軌跡を追うように、ぞわりとした感覚が遅れてやって来た。
リネアは、ふと動きを止めた。そして、なんの前触れもなく、自分の服へと手をかける。
「ちょ、ちょっと待て。別にそこまでしなくても……」
制止の声など聞こえていないらしい。
布がするりと落ちる音が、ギデオンの言葉より先に部屋の空気をさらっていった。
一枚。間を置かず、もう一枚。
脱ぐというより、不要な飾りを静かに払い落とすような動きだった。リネアの指先は妙に迷いがなく、留め具の位置も、布の落ちる角度さえ心得ているように見える。
それがまたギデオンの不安を煽った。
気付けば彼女は薄い下着一枚になっている。視線を逸らそうとして、逆にどこへ置けば正解なのか分からなくなる。
だが、否応なく目に入ったのは、思っていた以上に整った身体の線だった。
柔らかさはあるのに、ただ甘いだけでは終わらない。
日常のどこかで鍛えているとしか思えない筋肉が、腰回りや腹のあたりにさりげなく影を作っている。
数多の女を抱いてきたギデオンだが、リネアのような体つきの女性には出会ったことがない。
未知のものを前に、思わず喉の奥が鳴った。自慢の経験値が役に立たないと思い知らされる。どう構えればいいのか分からず視線を彷徨わせた、そのとき。
ふと、彼女の肩口のあたりに目が止まった。
「……リネア。それは」
上腕から肩にかけて、大きな痕が残っていた。
古い傷跡だが、形ははっきりしている。鋭い歯型が、皮膚に深く食い込んだまま、時間だけが過ぎたような跡だった。
「あぁ、これ?」
リネアは自分でも見慣れているのか、軽く視線を落とすだけで特に隠そうともしない。
「犬に噛まれたの。ダメな子を躾けてる時に、ちょっと本気を出されてしまって」
「……犬?」
予想外の単語に、ギデオンは間抜けに復唱をした。
「ええ、噛み癖がものすごい酷い子だったの。でも、そこがすごく良かったのよね」
声だけ聞けば、可愛いペットの思い出を語っているようにも聞こえる。しかし、語彙の選び方が絶妙におかしい。
何と答えれば良いのか分からず固まるギデオンに、リネアは少しだけ身を屈めた。唇が触れ合う至近距離で、微笑みが深くなる。
「ギデオンにだけ教えてあげる。私、犬を躾けるのが好きなの。ダメならダメなほど、尚更ね。……もし、従わせることができないなら、噛み殺されるかもしれない。そのぎりぎりの所での駆け引きが、たまらないのよ」
囁きは甘く、内容はまるで甘くない。
ぞわりと背筋を走った感覚は、冷たいものか熱いものか、自分でも判断がつかなかった。ギデオンは反射的に言葉を探す。
「……なっ、なんだよ、その趣味……。噛まれても……殺されてもいいって言うのか?」
「ええ」
即答だった。リネアは笑う。
その笑みは、いつも見せている柔らかなものと異なり、うっすらとした狂気めいた色が滲んでいた。
「私の周りの人は、誰もこのことを知らないの。両親も兄も、知り合いも。みんな、リネアは天使みたいに良い子だと言うわ。私が笑っていれば、何を考えているかなんて誰ひとり気づかない。でも、ギデオン。あなただけは違った。……前に言ったでしょう? 「君の兄たちは、リネアの本当の顔を知らないだけだ」って」
その時のことを思い出したのか、リネアの目が少しだけ細められた。
「驚いたのよ。血の繋がった家族ですら知らない場所まで、あっさり辿り着く人がいるなんて思っていなかったから。私の歪みに一番近い所まで来たのは、あなただけ」
「あなただけ」。
その一言だけなら、ギデオンは軽く髪をかき上げて「当然だ」と言えただろう。
だが本来は甘く受け取るべき台詞のはずなのに、歪みという単語がすべてを台無しにする。
ギデオンは記憶を手繰り寄せる。
双子の兄、セシルとルシルに出会った時。
彼らは口を揃えてリネアを天使だと崇めていた。
しかしギデオンの目には、リネアは最初から天使などとは映らなかった。
初対面で股間を握られた、という決定的な理由が九割を占めるのはさておき、彼女の奥にある温度差には、気づいていた。
笑っているのに、目の奥だけが不意に静まり返るとき。丁寧な言葉の端に、ほんのわずかに別の色が沈んでいるとき。
その小さな違和感の積み重ねこそ、いま彼女が語った家族も知らない場所の気配だったのだろうと思い知る。
「ギデオン……。あなたは嚙みついてくる子かしら……。それとも良い声で鳴いてくれる子?」
無邪気な笑みを見せるリネアに、ギデオンは返すべき言葉を探しあぐねる。困惑だけが静かに広がり、その表情は彼にしては驚くほど真面目だった。
常識人と非常識人の座は、これまでずっと固定されていた。それが今は逆転してしまい、常識の側に立っているのは、どう見てもギデオンのほうだった。
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