正しい駄犬のしつけ方〜浮気性な放蕩夫と没落令嬢の新婚譚〜

山田わと

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19:森羅万象

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 館はどこか落ち着かない気配が漂っていた。
 使用人たちは掃除の手を止め、廊下の向こうを歩く主の姿をそっと目で追う。

「……ねえ、あれ。ギデオン様、なんだか、ふわふわしてない?」
「してるわね。というか、素直すぎる。熱でもあるのかしら」

 普段なら、尊大さと見栄を詰め込んでいる主が、どこかおぼつかない足取りで歩いているのだ。
 挙げ句の果てに、何もされていないというのに「ありがとう」などと漏らし、呼ばれれば即座に「はい」と応じる従順ぶりだ。日頃、「使用人風情の分際で」などと口を尖らせていた彼が、である。

 もとより正気を期待されていない主ではあった。
 とはいえ、今回はさすがに「本当に大丈夫なのか」という空気が、使用人たちの間に流れていた。

 しかしギデオンは自分の様子がおかしい事にすら、気づいていなかった。

 胸の奥に、もやのような熱がまだ残っている。
 昨夜の感覚が皮膚の裏側に入り込んで、そのまま抜けずにいるようだった。

 何がどうして、あんなふうになったのか。

 思い返すだけで、喉の奥が熱を帯びた。
 リネアに焦らされて追い詰められて、最後にはもう、どうしようもなく縋ってしまった。
 あれは果たして甘えたのか、それとも懇願したのか……。いや、どちらにしても恥ずかしいには違いない。

「……僕は、なにをしてるんだろう……」

 自分で呟いて、自分で答えられない。だがひとつ、否応なく実感していることがあった。

 案外、悪くなかった。

 認めたくはない。認めたくなど、断じてない。
 それなのに身体は正直で、歩くたび、衣服のわずかな擦れにさえ神経が引き戻される。

 あれは不可抗力だったと、そう自分に言い聞かせ、ギデオンはなんとか自尊心を繋ぎ止めようとした。
 悪いのはリネアだ。心の奥底まで見透かすような真っ直ぐな目と、意図的か無意識かも分からない手つきと、そして意地の悪い言葉とで……。

 ……思い出すな。そう言い聞かせたそばから、脳裏の映像が勝手に色を取り戻す。

 理性でどうにか出来る段階は、とうに過ぎていた。
 唇がひとりでに歪む。何もかも、悔しい。それなのに悪くなかった、寧ろ良かったと、どこかで認めてしまっている自分がいて、その事が一番悔しかった。

 その時、不意に背後から肩を叩かれた。ギデオンは振り返る。

「おはよう、ギデオン」
 そこには、何事もなかったような顔のリネアが立っていた。
 昨夜あれだけの事をしておきながら、よくもまあ平然と挨拶などできるものだと、感心を通り越して恐ろしくなる。だがリネアは涼しい顔で言葉を継ぐ。

「あの後、よく眠れた?」
 ギデオンは言葉に詰まる。何か言わなければと頭では分かっているのに、舌が言うことを聞かない。そんな彼に、リネアはそっと眉を寄せた。

「もしかして嫌だった?」
 あっさりした問いには責める調子も、刺々しさもなく、事実を確認したいだけという風だ。だからこそ、余計にやりにくい。

「べ、別に……」
「別に?」
 リネアが首を傾げる。続きの言葉を詰められ、ギデオンはますます喉を詰まらせた。

「……嫌、では……なかった」
 ようやく絞り出したのは、その程度の言葉だった。本当のことを口にした途端、何かが取り返しのつかない方向へ転びそうで、「すごく良かった」と認める手前で、意地が口を固く閉ざした。

「そう。良かった」
 リネアは、追及も勝ち誇った様子もなく、軽く受け取る。それがまた、ギデオンの落ち着かなさに拍車をかけた。

「……と、とにかく。今日は僕は仕事をするから。書類が山積みだし、色々と整理しなくてはならないし」

 ギデオン自らが「仕事をする」などと言い出すのは、彼を知る者からすれば、十分に事件だった。
 それを知っているリネアは、ぱちぱちと瞬きをしてから、小さく笑った。

「偉いわね」
 彼女の口調は、子どもか犬を褒めるときの調子に少し似ていて、何だか悔しい。悔しいのに、その一言が胸の奥に温かいものを落としていく。

(なんで、これで少し嬉しくなるんだよ、僕は。情緒どうなってんだよ……)

 自分の心が自分のものではないような、初めての感覚だった。昨夜から続く混乱に、また一つややこしい要素が加わっていく。
 逃げるように踵を返しかけたところで、リネアが思い出したように口を開いた。

「そう言えば、今度ギデオンのご両親と、お兄様方がいらっしゃるんですってね」
「ああ。……一応、そういうことになっている」

 婚約を決めたとき、両家の親同士では挨拶を済ませている。だが、ギデオンとリネアは互いの両親と顔を合わせる機会を持っていなかったのだ。

「ご家族はどんな人たちなの?」
 問いかけに、ギデオンは、ほんの少しだけ考え込んだ。自分の家族をどう形容するのが一番自分に都合が良いか、という打算が先に立つ。

「うちの両親は、君の親みたいに場当たり的じゃない。ちゃんと資産も管理しているし、由緒も守っている。立派な父と母だよ」

 言葉に少し力が戻る。昨夜からずるずると崩れていた自尊心の破片を、ようやく拾い集められた気がして、わずかに胸が楽になる。ギデオンはリネアを見つめ返し、ニヤリと笑った。

「ただ、僕の結婚相手に、君みたいな奴を選ぶあたりで、見る目を疑わざるを得ないけどね」
 最後に棘を忍ばせて、ようやく気持ちの釣り合いが取れた気がした。だが当のリネアは、まったく動じない。

「そうかしら。あなたのご両親なら、きっと良い目を持っていると思うけれど」

 さらりと言って肩をすくめる。煽っても揺れないのはいつものことだと受け止め、ギデオンは溜め息を胸の内に押し込み、話題を切り替えた。

「兄たちのことは知っているだろう。領主で騎士だというのは」
「うん、それは知っている。でも、どんなお兄様たちなの?」

 真正面からの問いかけられて、ギデオンは、少し長めの沈黙を挟んだ。
 脳裏に浮かぶのは、いつもきちんとした姿勢で馬にまたがる、年の離れた兄たちの背中だった。
 無駄のない動きに、人前で崩れることのない物腰は、絵画から出てきた英雄の姿そのものだった。しかしそれを素直に口にするのは、ギデオンの劣等感とプライドが許さなかった。

「……ふつうの兄だよ」
 絞り出された声に、リネアは何も言わない。ただ、じっと彼を見つめる。ギデオンは視線を逸らし、廊下の窓へ目を向けた。

 外には、雲の切れ間から薄い陽が差し込んでいる。
 兄たちは、このような光の下を歩くのがよく似合う男たちだった。

 長男は、大人びていて、父のやり方を自然に身につけていった。次男は、戦で武勲を立て、若い騎士たちの目標になっている。
 二人とも領主としても騎士としても申し分がなく、家の誇りであり、親族の自慢の種だった。と、そこまで考えて、それ以上先へ思考が進む前に、ギデオンは強引に意識を引き戻す。

「とにかく。兄たちは真面目で、優秀で、退屈なほど模範的だ。だから、君みたいなのを見たら、きっと頭を抱えるだろうね」
「楽しそうね」
「余裕ぶってないで、自分がどう見られるか、気にしたらどうだ?」

 リネアは即答しなかった。考えるように視線を上げ、それからごく自然に微笑む。

「私が結婚した相手はギデオンよ。ご家族にどう見られようと、関係ないわ」

 理屈としては、当たり前の話だ。それなのに、その一言は、思っていた以上に深く踏み込んできた。
 ギデオンは、返す言葉を探して黙り込む。胸の奥で、何かが小さく跳ねたのが分かる。痛みではない。ただ、予想外の位置を叩かれたような感覚だった。

 本来なら、ここで軽口のひとつも差し込めたはずだ。家柄だの立場だのを持ち出して、嫌味を言ってやっても良かった。だが、どういう訳か、それができなかった。心臓の鼓動が、わずかに早い。

「……随分、割り切っているな」
 ようやく出た言葉は、いつもより角がない。それを自覚して、内心で舌打ちする。

「割り切りじゃないわ。単に、順番を間違えていないだけ」

 リネアはそれ以上は何も言わない。だが、ギデオンには十分だった。
 自分がどこに置かれているのか。それを説明されるまでもなく、理解させられてしまった気がして、妙に落ち着かない。
 誇らしいような、居心地の悪いような、そのどちらともつかない感覚を抱えたまま、ギデオンは曖昧に話題を切り上げることにした。
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