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第1章
身ひとつで売られていく
しおりを挟む結婚式の翌日。 エリアスは、生まれた時から過ごした部屋で荷造りをしていた。
ベルク公爵家の屋敷の北側、日が当たらないその部屋は、冬場になれば吐く息が白くなるほど冷える。
年代物のトランクを広げたものの、中身はスカスカだった。
数着の着古したシャツと、簡素な平服。 それに、幼い頃に拾った鳥の羽根を栞代わりに挟んだ、数冊の詩集。
それが、経済的に落ちぶれた、名前だけの名門貴族の長男が持つ財産の全てだった。
(……これだけあれば、十分か)
エリアスは自嘲気味に口端を上げた。
ヴォルフ・ハルトマンから贈られた結納金は、目が飛び出るほどの額だったと聞いている。
傾きかけたベルク家の屋根を修繕し、さらに弟のヨハンのために新しい馬車を設えてもお釣りが来るほどだ。
それだけの巨額の金を受け取っておきながら、両親がエリアスに持たせた支度金は、平民の給金数ヶ月分にも満たないわずかな小切手一枚だった。
「エリアス、もう準備は済んだのか?」
ノックもなく部屋に入ってきたのは父だった。 エリアスは慌ててトランクを閉め、姿勢を正す。
「はい、お父様」
「向こうに着いたら、粗相のないようにしろよ。ハルトマン氏は商人で成り上がりだ。礼儀作法など知らぬ野蛮な男かもしれんが、金払いの良さだけは一流だからな」
父は鼻で笑った。
その言葉には、ヴォルフに対する明確な侮蔑があった。
金はむしり取るが、家柄としては認めていない。
そんな傲慢さが透けて見える。
「あの男も哀れなものだ。金を積めば高貴な血が手に入ると思ったのだろうが、まさかこんな陰気な男が来るとはな」
「……申し訳ありません」
「まあいい。向こうが返品すると言い出さない限り、お前はあっちの家の人間だ。二度と戻ってくるなよ」
父はそれだけ言うと、興味を失ったように部屋を出て行った。
「二度と戻るな」。
その言葉は、不思議とエリアスの心を軽くした。
ああ、これでやっと、この息苦しい家から解放されるのだ。
屋敷の玄関ホールに降りると、ヨハンが見送りに来ていた。
華やかなレースのついた服を着た弟は、エリアスの古びたトランクを見て、悲しげに眉を寄せる。
「兄さん……本当に行ってしまうの?」
「ああ。ヨハン、お前も元気でな」
「寂しいよ。僕、兄さんのこと大好きだったのに」
ヨハンの言葉に嘘はない。
彼は両親とは違い、純粋に兄を慕ってくれていた。
自分が兄の分まで全てを奪って生きてきたことに、無自覚なだけで。
エリアスは、弟の柔らかな髪を一度だけ撫でようと手を伸ばしかけ――やめた。
自分のような薄汚れた人間が触れていい存在ではない気がしたからだ。
「ヨハン、お前は良い家に嫁ぐんだぞ。お前を一番に愛してくれる人のところへ」
「兄さんもね。ハルトマン様と、幸せになってね」
無邪気なその言葉が、鋭い棘のように胸に刺さった。
幸せになれるはずがない。 あの男は、お前を見ていたのだから。
「……努力するよ」
精一杯の嘘を吐き出し、エリアスは迎えの馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出す。 石畳を転がる車輪の音が、今まで自分を縛り付けていた鎖を断ち切る音のように聞こえた。
窓の外を流れる景色を見つめながら、エリアスは膝の上で固く手を握りしめた。
実家を出られた喜びはある。 けれど、これから向かう先は「針のむしろ」だ。
(彼は私を見て、明らかに落胆していた)
莫大な金を払って手に入れたのが、欲しかった華やかな弟ではなく、地味で無価値な兄だったのだ。
商人の彼にとって、これは最悪の「誤算」だろう。 詐欺だと言われても仕方がない。
屋敷に着いたら、すぐに使用人の部屋を与えられるかもしれない。 あるいは、「騙したな」と罵られ、飼い殺しにされるのか。 どんな扱いを受けたとしても、実家に戻る場所はない。 エリアスは覚悟を決めるように、唇を噛んだ。
やがて、馬車は帝都の高級住宅街へと入っていった。 古くからの貴族が住む寂れた地区とは違い、そこには手入れの行き届いた街路樹と、新しいレンガ造りの屋敷が立ち並んでいる。
その中でも一際大きく、威圧感を放つ鉄柵の前で馬車が止まった。
『ハルトマン邸』
門柱に掲げられた真新しいプレートが、夕日を受けてぎらりと光る。 門が重々しい音を立てて開いた。 手入れされた広大な庭の向こうに、城のような屋敷がそびえ立っている。
歴史の重みでカビ臭かった実家とは違う。 富と力、そして野心によって築かれた、冷たくも強固な城。
「到着いたしました」
御者の声に、エリアスはトランクを握りしめた。 ここが、自分の新しい牢獄だ。 震える足を叱咤し、エリアスはハルトマン家の敷地へと一歩を踏み出した。
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