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その頃あなたはどうしてた?
セバスチャン・セーレ―の場合
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「今日からここがお嬢様のお部屋です」
「……わかったわ」
齢六歳の子どもが本館から離れた別棟へと住まいを移された。彼女が希望したことではない、主からの命だった。彼女はこれからここで英才教育を受けることになる。彼女の教育を受け持つことになったのは優秀な教育係、アネット・ベリス。ただ優秀ではあるけれど、その分彼女は厳しかった。
立派な淑女となるため当たり前のことだと思っていた彼女は反論することもなく、素直にその教育を受け入れた。毎日出される厳しい課題、上手く出来たとしてもアネットは敢えてそれを褒めはしない。六歳の子どもに少し厳しすぎるのでは、と一度アネットに苦言を呈したけれど彼女は毅然と答えた。
「社交界はそれ以上に厳しい世界です。あの子がそこで生きていけるよう、今厳しく教えなければならないのです」
例え私が嫌われようとも、と続けられた言葉に彼女には彼女なりの覚悟があるのだと気付かされた。確かにアネットの言うように社交界は生温い世界ではない。男子がいないフォルネウス家ではあの小さい子が次の当主になる可能性がある。それを思うと、厳しくをせざる得ないのだ。
「ねぇ、セバスチャン。お父様とお母様はいつ会いに来てくださるのかしら」
彼女が別棟で過ごすようになってから一年、窓から外を眺めていた彼女が小さくそう零した。視線の先には本館の入り口のほうで楽しげにしている当主とそして彼女の妹であるキャロル様。両親に挟まれているキャロル様は両手を繋いで笑顔で歩いている。
私の記憶でも、彼女が両親と手を繋いで歩いたことはない。それに、旦那様と奥方様は一度たりともこの別棟に顔を出してはいなかった。
「もっとお勉強したら、会いに来てくださるかしら」
「お嬢様……」
寂しげな横顔に、本当のことも慰めるための偽りの言葉も口にすることはできなかった。
それからその言葉通り、彼女はより一層勉学に励むようになった。アネットに厳しい言葉を言われても言い返すこともせず、自分の知識不足だと夜分遅くまで灯りをつけ机に向かう日々。いつかきっと旦那様と奥方様が来てくれる、そう信じて努力し続ける姿を見守ることしかできない。
けれど気丈に振る舞っていた彼女にも綻びが生じ始める。この国の社交界デビューは早く十歳の誕生日を迎えれば男子女子共々デビューを果たすのだが、その頃から本館から送られてくるメイドの質が徐々に落ちてきた。私のいないところでお嬢様に対して数々の無礼を働いているようだった。
「いい加減にして!!」
陶器の割れる音と共に聞こえる怒声。お茶の時間だと廊下を歩いているときに聞こえた音に急いで部屋へ駆け込む。緊急時ということで無礼を承知で返事を待つことなく部屋の扉を開ければ、床に散らばっている陶器とその傍で腰を抜かしているメイドの姿。
「私が何も言い返さないとでも思った? あなたみたいな人間は必要ないのよ! 出て行って!!」
「あ、はは……お、お嬢様私は何も……」
「私を嘲笑うのがあなたの仕事なんでしょう?!」
腰を抜かしていたメイドが私に気付き足元にしがみついてきた。まるで助けを乞うように見上げてくる。
「執事長! 私は何もしていないんです! お嬢様が勝手に怒って」
「出て行きなさい」
質の落ちたメイドと自身が仕えているお嬢様の言い分、どちらを信じるかと言われればそのようなもの比べるまでもない。足元にいるメイドを引き剥がし部屋の外へと引き摺れて行く。
「お嬢様の命令を聞いていなかったのですか。出て行きなさい。ここに貴女は必要ない」
「ちょっと、待ってください! 私はっ!」
「次の就職先の紹介状もなくて結構でしょう。貴女のような人間を雇う貴族はいませんよ。それでは」
扉を閉じれば耳障りな言葉の数々。もしやあのような醜い言葉が彼女の耳に入っていたのでは、と不安になる。けれどその不安は的中してしまった。
髪を乱し肩で息をしている彼女は近くにあった装飾品に手を伸ばし、そしてそれを私に向かって放ってきた。放られた装飾品は私には当たらなかったが壁に激突し、激しい音を共に床へと落ちる。
「お嬢――」
「来ないでよ!」
まずは落ち着かせよう、と声を押さえて彼女に手を伸ばすもまるでそれを拒絶するように大声で動きを妨げる。
「どうせあなたも私のこと早く消えろって思っているんでしょう?!」
まるで、鈍器で頭を殴られたようだった。これならばまだ飛んできた装飾品に当たっていたほうが痛くはなかっただろう。
執事長としての私は、常にお嬢様の傍にいれる立場ではない。別棟と、そして本館の管理を任され常に全体に目を向けなければならない。極力気を付けていたとしても、やはり直接接する時間の長いメイドに比べて共にいれる時間が少ない。そんな少ない時間の中でも彼女を支えることができるだなんて、おこがましい考えだった。
アネットの教育も終え社交界デビューを果たしそれでも顔を出さない両親。傍にいるメイドから言われ続けていたであろう言葉は徐々に彼女の心を蝕んだ。
「出て行って! 出て行ってよ!!」
振り乱す彼女を落ち着かせる手段を、今の私は持ってはいない。顔を手で覆い崩れ落ちたその小さな身体を支えることもできず、唇を噛み締め、一礼だけして部屋から出る。扉の向こうで、今まで聞いたことのない嗚咽をただ聞くことしかできなかった。
社交界ではアネットの教育もあって、彼女は強かに生きていた。悪い噂されようともそれを一蹴できる心の強さ。洗礼された佇まいは周りの目を惹いていた。
けれどまるでその反動のように、屋敷に戻った彼女は度々癇癪を起こすようになっていた。相変わらず不出来のメイドに苛立つ毎日。一度主に進言しても聞く耳を持たずまた似たようなメイドを送るだけ。恐らくこのメイドたちも本館で不要になったから別棟に送っていただけだったのだろう。
彼女は誰の言葉も聞き入れないようになっていた。周りに誰もいなくなった彼女ただひとりの屋敷。私の言葉も彼女には届かずただ生気のない目で一瞥するだけ。それでも私は彼女に食事を運び続けた。お茶を運び続けた。ここで私ですら手を離してしまったら彼女は本当に誰も、そして何も信じなくなってしまう。彼女の心に響かなくていい、ただ独りではないということだけは知ってもらいたかった。割れた破片は私が拾うからその綺麗な指を汚す必要はないし、荒れた部屋も私が元通りにする。
だからどうか、健やかであれと願う日々だった。
そうして日々を過ごし、一年、二年、時だけが経っていく。そして彼女が十四のとき事件は起こった。いつも通りに決まった時間に食事を運んでいたが扉をノックしても中からの返事がない。例え私の言葉を聞き入れなくても返事だけはしっかりしていた彼女だから、まずそこで違和感を覚えた。もしや風邪でも引かれたのだろうか、それとも具合悪くて起き上がれないのだろうか。
もう一度声掛けをし、返事がなかったため躊躇うことなく扉を開いた。
「――お嬢様?!」
いつものように荒れた部屋、だがいつもと違ったのはテーブルの近くで倒れている彼女の姿。急いで駆け寄り身体を起こしてみるも、顔色を悪くしてぐったりと力なく横たわっているだけ。急いで後頭部に触れてみれば熱を持っており、頭を強打したのだと知った。
急いで魔法具で執事を呼び出す。まだ見習いだが一番若いこともあって動きも早いはずだ。予想していた通り彼はすぐさま姿を現した。
「どうしました? 執事長」
「急いで医者の手配を」
「え? あっ、はい! わかりました!」
私が抱えているお嬢様の姿が目に入ったのだろう、彼は急いでこの場から去り私はゆっくりと彼女の身体をベッドへ運んだ。幸いにもベッドは荒れてはおらずそのまま横たわらせる。後頭部を打っているためそこを下にするわけにもいかない。
そして彼が呼んでくれたであろう医者をただじっと待っていたのだが、いくら待ってもその医者は現れない。懐中時計で時間を確認してみたがもう来てもおかしくない頃合いだというのに、一向に現れなかった。業を煮やしていると遠慮がちに声を掛けてきたのは手配を頼んだはずの執事見習いだった。
「どうしました。医者は?」
「それが、その……旦那様が」
「……旦那様が?」
「ヒッ……あのっ、旦那様が呼ぶ必要はない、と……」
彼が言うにはいつも通り旦那様に指示を仰ごうとしたところ、そんな言葉が返ってきたのだと言う。
声を荒げそうになるところを寸で止め、自身を落ち着かせるために細く息を吐き出す。急いだであろう執事見習いの彼に非はない。自分の仕事に戻るようにと告げれば彼は泣きそうな顔で頭を下げ、急いで本館へと戻っていった。
洗面器を手に取り水を入れに行き、清潔なタオルを持って部屋に戻る。ベッドの上ではまだ意識が戻っていない身体が小さく横たわっているだけ。そんな彼女の傍らに膝を付け頭に手を当てる。先ほどよりも熱を持っているが腫れてはきている。このまま脳に影響することもなく腫れだけで済めばいいのだが、と思い自分のできうる限りの手当てを済ませる。
自分の主に持つべきではないと思っていた感情が腹の底から湧き出て口から出てしまいそうだ。どうして、なぜ血の繋がった我が子のはずなのに。もうひとりの娘に注いでいる愛情をなぜ同じように彼女に注ぐことができないのか。
荒れた部屋を片付け破片ひとつも落ちていないことを確認し、そしてもう一度ベッドに視線を向ける。彼女が健やかに生きていくことすら許されないのかと奥歯を噛み締め、別棟をあとにした。
向かう先は主の書斎。奥方と妹のキャロル嬢と一緒にいないときは仕事部屋としても使っている書斎にいることが多い。ノックをすれば気怠げに返ってきた言葉に扉を開き、一礼した。
「旦那様、ひとつよろしいでしょうか」
「何だ? 問題でもあったか」
問題でもあったか、など。見習いの報告があったというのに。
「なぜソフィア様に医者を送ってくださらないのですか。後頭部を強く打ち付け今も意識が戻っておりませんぞ」
「おいセバスチャン。前にも言っただろ」
明らかに機嫌が悪くなった主は手元にあった紙を乱雑にまとめ、そしてこちらに投げてきた。
「アイツの報告をいちいちしてくるな。話しがそれだけならばもう出て行け」
吐き掛けるような物言いに、一礼だけして書斎から去る――期待した己が愚かだったのだ。貴族として何か功を成し遂げたわけでもなく先祖の威光だけで生きている男。ただ周りに同調することが上手く、それが社交界の中で生きていく手段としていてある意味強かな男なのだが。
すぐに彼女の元へ戻りたかったがまた別の仕事がある。出来ることなら早い段階で呼び出すための魔法具が反応してくれるようにと、常に魔法具に意識を向けつつ平常心を保ちながら仕事をしていた。
そして彼女が倒れて何時間経っただろうか。ふと目を向ければ淡く輝いている魔法具が目に入り、急いで通信を繋ぐ。
「お嬢様、ご容体は……」
「お願いセバスチャン! 今から私が言う条件に当てはまる人を探して呼んできてほしいの!」
予想だにしていなかった思った以上に元気なお声と、そして内容に思わず目を丸くした。
まずは言われたとおり条件に当てはまる人物を探すところからだった。植物に詳しい人、となると思い当たるのは魔法省にいる人間だ。食料が枯渇しないように常に管理されている野菜を扱う部署、そこにはより良い物をと研究している人間も複数いると言う。まずはそこを当たってみようと友人の伝手を借りて自ら赴いた。
「植物に詳しい人間? そりゃここにはたくさんいますよ。あそこにいる奴も、あとあっちで水撒きしている奴も」
担当者に案内を頼んだが教えてくれる人物はすべてどことなく覇気がない。というよりもやり甲斐を持って仕事に励んでいるという姿ではない。お嬢様の家庭教師としては如何なものかと別の人物も教えてほしいと告げれば僅かに顔を顰められた。
そうして色々と探しては見たものの、中々にお眼鏡に適う人物に巡り会えない。もしやこれは外に探しに行ったほうがいいかもしれない、そう思ったときだった。部屋からのっそりととある人物が現れ、大量の資料を抱えながら歩いて行く。
「彼は?」
「ああ、アイツはセイファー・オリアス。研究者でもありますがどっちかというとオタクに近いですかね」
「彼でお願いします」
「はい?」
研究に没頭しすぎて寝不足なのか、少しフラフラと歩いている姿は心配ではあるがなぜかピンと来た。執事の直感とでも言うべきか。彼ならば、お嬢様の期待に応えることができるのではないか。
家庭教師は断られるケースもあるが、恐らく彼は受けてくれるだろう。彼女が欲している知識を彼が与えてくれることを願って魔法省をあとにした。
お茶の時間になりノックをした扉。返事はなく構うことなく扉を開く。
まず視界に入ったのははためくカーテン。クローゼットの前へ移動し開けてみれば、そこには美しいドレスも輝く装飾品も何ひとつ残ってはおらず空になっていた。視線をベッド下に向ければ隠していたつもりでいたであろうトランクもなくなっている。窓に近付けば爽やかな風が頬を撫でた。
「お行きになりましたか」
もうこの場所に留まっておく必要はない。私の頼みを聞き入れてくれた彼は彼女を攫っていってくれた。口角を上げ踵を返すと机の上にある一枚のメモが視界に入った。何も残されていないこの部屋にそれだけがある、ということは何か意味があってのことだろう。手に取りそこにある文字を目で追う。
そこには何も言わず出て行くことへの謝罪と、そして今まで世話してくれたことへの感謝。最後に自分のことは気にせず本来の業務に集中してほしいと書かれていた。
「――ソフィア様」
私の気持ちが少しでも貴女に伝わっていたと、この小さな紙が教えてくれた。
「私はただただ、貴女が健やかに過ごせていればそれでいいのです」
どうか健やかに穏やかに、そして心もそのまま美しくあれ。
「……わかったわ」
齢六歳の子どもが本館から離れた別棟へと住まいを移された。彼女が希望したことではない、主からの命だった。彼女はこれからここで英才教育を受けることになる。彼女の教育を受け持つことになったのは優秀な教育係、アネット・ベリス。ただ優秀ではあるけれど、その分彼女は厳しかった。
立派な淑女となるため当たり前のことだと思っていた彼女は反論することもなく、素直にその教育を受け入れた。毎日出される厳しい課題、上手く出来たとしてもアネットは敢えてそれを褒めはしない。六歳の子どもに少し厳しすぎるのでは、と一度アネットに苦言を呈したけれど彼女は毅然と答えた。
「社交界はそれ以上に厳しい世界です。あの子がそこで生きていけるよう、今厳しく教えなければならないのです」
例え私が嫌われようとも、と続けられた言葉に彼女には彼女なりの覚悟があるのだと気付かされた。確かにアネットの言うように社交界は生温い世界ではない。男子がいないフォルネウス家ではあの小さい子が次の当主になる可能性がある。それを思うと、厳しくをせざる得ないのだ。
「ねぇ、セバスチャン。お父様とお母様はいつ会いに来てくださるのかしら」
彼女が別棟で過ごすようになってから一年、窓から外を眺めていた彼女が小さくそう零した。視線の先には本館の入り口のほうで楽しげにしている当主とそして彼女の妹であるキャロル様。両親に挟まれているキャロル様は両手を繋いで笑顔で歩いている。
私の記憶でも、彼女が両親と手を繋いで歩いたことはない。それに、旦那様と奥方様は一度たりともこの別棟に顔を出してはいなかった。
「もっとお勉強したら、会いに来てくださるかしら」
「お嬢様……」
寂しげな横顔に、本当のことも慰めるための偽りの言葉も口にすることはできなかった。
それからその言葉通り、彼女はより一層勉学に励むようになった。アネットに厳しい言葉を言われても言い返すこともせず、自分の知識不足だと夜分遅くまで灯りをつけ机に向かう日々。いつかきっと旦那様と奥方様が来てくれる、そう信じて努力し続ける姿を見守ることしかできない。
けれど気丈に振る舞っていた彼女にも綻びが生じ始める。この国の社交界デビューは早く十歳の誕生日を迎えれば男子女子共々デビューを果たすのだが、その頃から本館から送られてくるメイドの質が徐々に落ちてきた。私のいないところでお嬢様に対して数々の無礼を働いているようだった。
「いい加減にして!!」
陶器の割れる音と共に聞こえる怒声。お茶の時間だと廊下を歩いているときに聞こえた音に急いで部屋へ駆け込む。緊急時ということで無礼を承知で返事を待つことなく部屋の扉を開ければ、床に散らばっている陶器とその傍で腰を抜かしているメイドの姿。
「私が何も言い返さないとでも思った? あなたみたいな人間は必要ないのよ! 出て行って!!」
「あ、はは……お、お嬢様私は何も……」
「私を嘲笑うのがあなたの仕事なんでしょう?!」
腰を抜かしていたメイドが私に気付き足元にしがみついてきた。まるで助けを乞うように見上げてくる。
「執事長! 私は何もしていないんです! お嬢様が勝手に怒って」
「出て行きなさい」
質の落ちたメイドと自身が仕えているお嬢様の言い分、どちらを信じるかと言われればそのようなもの比べるまでもない。足元にいるメイドを引き剥がし部屋の外へと引き摺れて行く。
「お嬢様の命令を聞いていなかったのですか。出て行きなさい。ここに貴女は必要ない」
「ちょっと、待ってください! 私はっ!」
「次の就職先の紹介状もなくて結構でしょう。貴女のような人間を雇う貴族はいませんよ。それでは」
扉を閉じれば耳障りな言葉の数々。もしやあのような醜い言葉が彼女の耳に入っていたのでは、と不安になる。けれどその不安は的中してしまった。
髪を乱し肩で息をしている彼女は近くにあった装飾品に手を伸ばし、そしてそれを私に向かって放ってきた。放られた装飾品は私には当たらなかったが壁に激突し、激しい音を共に床へと落ちる。
「お嬢――」
「来ないでよ!」
まずは落ち着かせよう、と声を押さえて彼女に手を伸ばすもまるでそれを拒絶するように大声で動きを妨げる。
「どうせあなたも私のこと早く消えろって思っているんでしょう?!」
まるで、鈍器で頭を殴られたようだった。これならばまだ飛んできた装飾品に当たっていたほうが痛くはなかっただろう。
執事長としての私は、常にお嬢様の傍にいれる立場ではない。別棟と、そして本館の管理を任され常に全体に目を向けなければならない。極力気を付けていたとしても、やはり直接接する時間の長いメイドに比べて共にいれる時間が少ない。そんな少ない時間の中でも彼女を支えることができるだなんて、おこがましい考えだった。
アネットの教育も終え社交界デビューを果たしそれでも顔を出さない両親。傍にいるメイドから言われ続けていたであろう言葉は徐々に彼女の心を蝕んだ。
「出て行って! 出て行ってよ!!」
振り乱す彼女を落ち着かせる手段を、今の私は持ってはいない。顔を手で覆い崩れ落ちたその小さな身体を支えることもできず、唇を噛み締め、一礼だけして部屋から出る。扉の向こうで、今まで聞いたことのない嗚咽をただ聞くことしかできなかった。
社交界ではアネットの教育もあって、彼女は強かに生きていた。悪い噂されようともそれを一蹴できる心の強さ。洗礼された佇まいは周りの目を惹いていた。
けれどまるでその反動のように、屋敷に戻った彼女は度々癇癪を起こすようになっていた。相変わらず不出来のメイドに苛立つ毎日。一度主に進言しても聞く耳を持たずまた似たようなメイドを送るだけ。恐らくこのメイドたちも本館で不要になったから別棟に送っていただけだったのだろう。
彼女は誰の言葉も聞き入れないようになっていた。周りに誰もいなくなった彼女ただひとりの屋敷。私の言葉も彼女には届かずただ生気のない目で一瞥するだけ。それでも私は彼女に食事を運び続けた。お茶を運び続けた。ここで私ですら手を離してしまったら彼女は本当に誰も、そして何も信じなくなってしまう。彼女の心に響かなくていい、ただ独りではないということだけは知ってもらいたかった。割れた破片は私が拾うからその綺麗な指を汚す必要はないし、荒れた部屋も私が元通りにする。
だからどうか、健やかであれと願う日々だった。
そうして日々を過ごし、一年、二年、時だけが経っていく。そして彼女が十四のとき事件は起こった。いつも通りに決まった時間に食事を運んでいたが扉をノックしても中からの返事がない。例え私の言葉を聞き入れなくても返事だけはしっかりしていた彼女だから、まずそこで違和感を覚えた。もしや風邪でも引かれたのだろうか、それとも具合悪くて起き上がれないのだろうか。
もう一度声掛けをし、返事がなかったため躊躇うことなく扉を開いた。
「――お嬢様?!」
いつものように荒れた部屋、だがいつもと違ったのはテーブルの近くで倒れている彼女の姿。急いで駆け寄り身体を起こしてみるも、顔色を悪くしてぐったりと力なく横たわっているだけ。急いで後頭部に触れてみれば熱を持っており、頭を強打したのだと知った。
急いで魔法具で執事を呼び出す。まだ見習いだが一番若いこともあって動きも早いはずだ。予想していた通り彼はすぐさま姿を現した。
「どうしました? 執事長」
「急いで医者の手配を」
「え? あっ、はい! わかりました!」
私が抱えているお嬢様の姿が目に入ったのだろう、彼は急いでこの場から去り私はゆっくりと彼女の身体をベッドへ運んだ。幸いにもベッドは荒れてはおらずそのまま横たわらせる。後頭部を打っているためそこを下にするわけにもいかない。
そして彼が呼んでくれたであろう医者をただじっと待っていたのだが、いくら待ってもその医者は現れない。懐中時計で時間を確認してみたがもう来てもおかしくない頃合いだというのに、一向に現れなかった。業を煮やしていると遠慮がちに声を掛けてきたのは手配を頼んだはずの執事見習いだった。
「どうしました。医者は?」
「それが、その……旦那様が」
「……旦那様が?」
「ヒッ……あのっ、旦那様が呼ぶ必要はない、と……」
彼が言うにはいつも通り旦那様に指示を仰ごうとしたところ、そんな言葉が返ってきたのだと言う。
声を荒げそうになるところを寸で止め、自身を落ち着かせるために細く息を吐き出す。急いだであろう執事見習いの彼に非はない。自分の仕事に戻るようにと告げれば彼は泣きそうな顔で頭を下げ、急いで本館へと戻っていった。
洗面器を手に取り水を入れに行き、清潔なタオルを持って部屋に戻る。ベッドの上ではまだ意識が戻っていない身体が小さく横たわっているだけ。そんな彼女の傍らに膝を付け頭に手を当てる。先ほどよりも熱を持っているが腫れてはきている。このまま脳に影響することもなく腫れだけで済めばいいのだが、と思い自分のできうる限りの手当てを済ませる。
自分の主に持つべきではないと思っていた感情が腹の底から湧き出て口から出てしまいそうだ。どうして、なぜ血の繋がった我が子のはずなのに。もうひとりの娘に注いでいる愛情をなぜ同じように彼女に注ぐことができないのか。
荒れた部屋を片付け破片ひとつも落ちていないことを確認し、そしてもう一度ベッドに視線を向ける。彼女が健やかに生きていくことすら許されないのかと奥歯を噛み締め、別棟をあとにした。
向かう先は主の書斎。奥方と妹のキャロル嬢と一緒にいないときは仕事部屋としても使っている書斎にいることが多い。ノックをすれば気怠げに返ってきた言葉に扉を開き、一礼した。
「旦那様、ひとつよろしいでしょうか」
「何だ? 問題でもあったか」
問題でもあったか、など。見習いの報告があったというのに。
「なぜソフィア様に医者を送ってくださらないのですか。後頭部を強く打ち付け今も意識が戻っておりませんぞ」
「おいセバスチャン。前にも言っただろ」
明らかに機嫌が悪くなった主は手元にあった紙を乱雑にまとめ、そしてこちらに投げてきた。
「アイツの報告をいちいちしてくるな。話しがそれだけならばもう出て行け」
吐き掛けるような物言いに、一礼だけして書斎から去る――期待した己が愚かだったのだ。貴族として何か功を成し遂げたわけでもなく先祖の威光だけで生きている男。ただ周りに同調することが上手く、それが社交界の中で生きていく手段としていてある意味強かな男なのだが。
すぐに彼女の元へ戻りたかったがまた別の仕事がある。出来ることなら早い段階で呼び出すための魔法具が反応してくれるようにと、常に魔法具に意識を向けつつ平常心を保ちながら仕事をしていた。
そして彼女が倒れて何時間経っただろうか。ふと目を向ければ淡く輝いている魔法具が目に入り、急いで通信を繋ぐ。
「お嬢様、ご容体は……」
「お願いセバスチャン! 今から私が言う条件に当てはまる人を探して呼んできてほしいの!」
予想だにしていなかった思った以上に元気なお声と、そして内容に思わず目を丸くした。
まずは言われたとおり条件に当てはまる人物を探すところからだった。植物に詳しい人、となると思い当たるのは魔法省にいる人間だ。食料が枯渇しないように常に管理されている野菜を扱う部署、そこにはより良い物をと研究している人間も複数いると言う。まずはそこを当たってみようと友人の伝手を借りて自ら赴いた。
「植物に詳しい人間? そりゃここにはたくさんいますよ。あそこにいる奴も、あとあっちで水撒きしている奴も」
担当者に案内を頼んだが教えてくれる人物はすべてどことなく覇気がない。というよりもやり甲斐を持って仕事に励んでいるという姿ではない。お嬢様の家庭教師としては如何なものかと別の人物も教えてほしいと告げれば僅かに顔を顰められた。
そうして色々と探しては見たものの、中々にお眼鏡に適う人物に巡り会えない。もしやこれは外に探しに行ったほうがいいかもしれない、そう思ったときだった。部屋からのっそりととある人物が現れ、大量の資料を抱えながら歩いて行く。
「彼は?」
「ああ、アイツはセイファー・オリアス。研究者でもありますがどっちかというとオタクに近いですかね」
「彼でお願いします」
「はい?」
研究に没頭しすぎて寝不足なのか、少しフラフラと歩いている姿は心配ではあるがなぜかピンと来た。執事の直感とでも言うべきか。彼ならば、お嬢様の期待に応えることができるのではないか。
家庭教師は断られるケースもあるが、恐らく彼は受けてくれるだろう。彼女が欲している知識を彼が与えてくれることを願って魔法省をあとにした。
お茶の時間になりノックをした扉。返事はなく構うことなく扉を開く。
まず視界に入ったのははためくカーテン。クローゼットの前へ移動し開けてみれば、そこには美しいドレスも輝く装飾品も何ひとつ残ってはおらず空になっていた。視線をベッド下に向ければ隠していたつもりでいたであろうトランクもなくなっている。窓に近付けば爽やかな風が頬を撫でた。
「お行きになりましたか」
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そこには何も言わず出て行くことへの謝罪と、そして今まで世話してくれたことへの感謝。最後に自分のことは気にせず本来の業務に集中してほしいと書かれていた。
「――ソフィア様」
私の気持ちが少しでも貴女に伝わっていたと、この小さな紙が教えてくれた。
「私はただただ、貴女が健やかに過ごせていればそれでいいのです」
どうか健やかに穏やかに、そして心もそのまま美しくあれ。
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思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
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