krystallos

みけねこ

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92.追想②

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「そういえば君の名前を聞いていなかったね。僕はクラルだ」
 歩けるようになって意思疎通が可能と思ったのか、部屋で休んでいるところやってきた眼鏡の男は突然聞いてきたかと思えば自分の名前を名乗った。
「……カイム」
 そういえば随分と自分の名前を名乗っていなかったし、呼ばれたこともなかったなとこの時ふと思い出した。そもそもその名前で合っているのかも怪しいところだ。ただクラルと名乗った男は嬉しそうに表情をパッと輝かせて俺の名前を復唱していた。
 そこでクラルと名乗った男とたまに一緒に入ってくる女が顔を出した。男が女に名前を教えてもらったのだと言うと、女もなぜか男と同じような表情になって俺のほうを見てくる。
「あたしはアマンダって言うんだ。ここじゃみんなのご飯を作ってるよ。よろしくね、カイム」
「……ああ」
「ところでカイム、君はそうだな……名前以外にわかることってある? 例えば、両親のこととか、住んでいたところとか」
「親の名前も顔も知らねぇ」
 俺の身辺調査か、クラル的には別に俺の正体を明かしてこの船から蹴り飛ばそうってわけじゃなさそうだが、取りあえず聞かれたことにはそのまま返した。すると二人の顔が強張り、何かを言い淀み互いに顔を見合わせている。
 一体なんなんだと訝しげたが、俺の表情に気付いたクラルの顔がパッといつもの穏やかなものに変わった。
「カイム、食事は取れるようになって動けるようになったけれど、君の身体はまだ細い。もう少しここでゆっくりするといい」
 そう言われたところで好き勝手に動ける身体じゃないってことは俺が一番わかっている。二人が何を考え何を思っているのか想像できないが、取りあえず適当に頷くことにした。
 普通に歩き回れるようになるまで、かなりの時間を要した。自分じゃそのつもりはなかったものの、やることがないからと歩いて回っていたことは治療をしていたクラルの目からしたらリハビリに見えたようだ。だが何日経ったのかまったくわからなかったが、時間がかかったことだけはわかる。
 しっかりと歩けるようになるまで船の中であちこちにいる人間の名前は知らないが、顔はだいぶ覚えてしまった。というのもイグニート国の兵士とは違ってここの人間はどれも顔が違う、というか区別がつきやすかった。ガタイがいいヤツもいれば、俺よりも小さくてひょろいヤツもいる。優男のようなヤツもいれば、豪快な女もいた。
 そんな様々な人間とこういう空間に一緒にいることが初めてだったせいか、とにかく見ていて飽きないものはなかった。向こうも俺が動けるようになったのは知ってはいるが安直に話しかけてくることはない。絶妙な距離感には大いに助かっている。
 落ちればあっという間だなと思っていた窓の外には、今のところ飛び出してはいない。そもそも窓はしっかりと固定されていてそれを開けるにはそれなりの力がいりそうだった。今のこの細い身体じゃ、魔術も使えない身体じゃどうにもできない。だからといって甲板に出てみれば危ないからとすぐに首根っこを掴まれて中に引っ張られてしまう。
 せめてもう少し肉がついて体力が戻れば、そう思いながら今日もただ船内を歩く。なんでそこそこ飯を食っているのに身体が元に戻らないのか不思議でたまらない。前にパン一つでも大丈夫だった身体は一体どこにいったのか。
 そんなことを思いながら壁に手をついて歩いている時だった。何やら入ったことのない部屋のほうで騒がしい音が聞こえる。顔を上げれば近くにいたヤツらも同じように部屋のほうに視線を向けていた。一体何だと音がよく聞こえるように少しだけ近寄ってみれば、暴れているような音と共に聞こえてきたのは人間の声だった。それも少し高い、子どもの声。
「やだ、やだ! お母さん、お父さん! どこにいるの⁈ やだやだ怖い! やめて近寄らないでよ! やだぁっ‼」
「大丈夫落ち着いて! ここにはもうあなたに怖い思いをさせる人はいないの! 大丈夫だから!」
「やだぁッ! 怖い、怖いぃッ」
「可哀想になぁ」
「目の前で親を殺されたんだろ? 一人生き残ったところを他の連中が見つけたらしいが……痛々しいな」
 突然誰かに肩を叩かれる。人の気配があったため特に驚くことはせず、顔を上げれば久しぶりに見たクラルの顔だった。
「あの子は心に深い傷を負っているんです。それはなかなか治療するのが難しい……ここには、ああいう子が多いんです」
「そうなのか」
「ええ……傷を癒すにはとても時間を要します。どうかそっと見守ってください」
 そう言われたところで俺にできることなんてない。見守るも何も関わらないことが一番いいんだろう。クラルの言葉に頷くとそっと息を吐き出したクラルはまた別の部屋に入っていく。アイツが看病しなきゃならない人間も多そうだ。この船には治癒魔術が使えるヤツがいない。だからそういう知識のあるクラルはあちこち看病して回っている。
 アイツのほうもそろそろ過労で倒れるんじゃないかと思いつつ、だからといって代わりになれる人間もいない。そこでアマンダみたいな人間がフォローに回っているんだろう。この船の中はそうやって動いている。
 取りあえずこの場所から離れるかと壁に手をつき歩き出す。
「ところでイグニート国のほうは今どうなってんだ。やけに大人しいような気がするけどよ」
「どうやら前線にいた『人間兵器』の姿が見えないらしいぜ。『人間兵器』に何かあったのか、もしくはイグニート国の連中が『壊した』のか」
「どっちにしろいなくなって清々すらぁ。あの兵器のせいで一体何人の人間が苦しんだってんだ。生きてるんなら同じように散々苦しんでほしいもんだぜ」
「俺はそれよかおっ死んでくれたほうがいいね。あんなもん同じ人間なんて吐き気がする」
 別に、ただ喋っていただけだろう。忌々しげに吐き捨てるかのように言っていた男たちの表情を、わざわざ振り返って見ることはない。声色だけでわかるような気がしたからだ。
 この船に来てから自分の教えられてきたものが如何に偏っていたのかを知った。俺が知らされていたのはイグニート国の連中にとって都合のいいものばかり。この船の連中の話し声やたまに聞いてもいないことを喋りだすクラルやアマンダの話しを聞いて、イグニート国の常識は他所とは全然違っていた。寧ろ、真逆なんじゃないかと思うほどだ。
「おっ、小僧。今日も元気に歩いているな」
 そう言いながら歩いてきたのはここにいる連中から「頭」と呼ばれている男だった。ガタイがよく、その身体つきに見合ったかのように豪快に笑う男。俺の頭に手を伸ばしてはぐしゃぐしゃに撫でてくるのは億劫だった。
 この男も顔を合わせれば一方的に色々と喋ってくる。この間は世界にとっての精霊の話しをしていた。精霊と人間は共存するものであり、精霊がいなければ人間は生きてはいけないしそもそも魔術も使えない、と。精霊は消耗品、そう言っていたイグニート国の連中にとっては、この男の言葉なんて鼻で笑うようなもんなんだろう。
「頑張るのはいいがちゃんと飯は食えよ? アマンダが心配してたぜ、お前の食が細いってな」
「ちゃんと食ってる」
「お前の年頃にしちゃ量が足らねぇのよ。まぁ、飯も歩くのも無理しない範囲でやれよ?」
 そう言って撫でてくる手を払い除けたかった。コイツは若干力が強くやや頭を押さえつけられるような形になる。まだ肉が戻らない身体にはその力がわりと厳しかった。
 どかされた手の下でぐしゃぐしゃになった髪を気にすることなくそのままにしていると、そのぐしゃぐしゃにした手が今度は髪を撫でつけてくる。そしてニッと笑うと気が済んだのかどこかに歩いていく。一体何がしたかったんだこのおっさんは。
 あのおっさんのせいで邪魔されたが、再び思考を戻す。教えられたのは一体どっちが正しいのか。俺が気に食わないのはイグニート国のほうだ。
 ただ、恐らくだが、『人間兵器』の認識はここにいる連中のほうが正しいんだろう。あちこちを破壊され奪われ、苦しめと死ねと思っているのはきっとこの世界に大勢いる。
 本当のことを言ったらこの船にいる人間たちの殺意を一気に向けられて、もしかしたら心臓一突きとかもあり得るのかもしれない。それもありだろう。ただまた別の考えもあった。
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