その角はやわらかな

鹿ノ杜

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 また、夜が明けて、朝露で濡れた草木に日が差し始めた。いつもの大岩に身を横たえていた(水滴の一つひとつが空に還っていく静かな音が耳に触れた)。今がずっと続けばいいのに……昨夜のゆき先輩の話を思い返した。
 湿った岩肌の感触。背中がコケに触れてすっかり濡れてしまった。岩には一部分だけ、深緑色のコケが生えていた。私の手の中に収まってしまうほどの小さな平面。私によって押しつぶされていた。よくよく見るとコケの中に小さな花が一輪、咲いていた。チリかほこりのように吹いたら飛んでいきそうな白い花。花弁が五枚(つぶされて、生気を失っていた)。
 茂みの中から物音がした。起き上がって視線を向けた。木立の足元、青々とした茂みを通って何かが一直線に私の方に向かっていた。
 緑の中から身を躍らせて現れたのは一匹の猫だった。私と目が合うと「やっと見つけたよ」と言って高く跳躍した。着地したのは私の腹の上だった。小さなからだから意外なほど強い衝撃があった。「うっ」とうめき声が口から漏れた。
「ようやく会えたね」
 猫がまたしゃべった。五歳くらいの、少女のような声だった。
 しま模様が入った額に小枝がついていた。薄茶色のやわらかな毛並み。奔放に伸びた白くて細いひげ。小柄な子猫だった。
(私、あなたと似たにおいを知っているよ)
 気づいたときには、私は彼女を抱きしめていた。
「なんだ、意外と優しいんだね」
 彼女に言われて、私は我に返った。
「あの、あなたは誰?」
「カナデだよ。あなたはカエデでしょ? 私はあなたに会いに来たんだよ」
 彼女は私の腕の中に丸く収まって、満足そうに目を細めた。
「あなたのイトコってものになるのかな。あなたのお父さんの妹の子どもが私、私のお母さんのお兄さんの子どもがあなた。それってイトコでしょ?」
 彼女を抱いた私の腕に彼女のしっぽが触れて、少しずつすり寄ってきた。独自の意思を持って私の様子を探っているようでもあった。
「顔をよく見せてよ」と彼女は言った。「……私たちって全然似てないね。ねえ、ついてきてよ。ここに来る途中でいい場所を見つけたんだ」
 カナデは私の腕から跳ね上がり、身を低くして茂みの中にもぐっていった。
「ちょっと待ってよ」
 慌てて追いかけた。
「早くおいでよ」
 カナデはわずかな間に驚くくらい遠くまで進んでいた。
 茂みを前にして立ち止まった。誰も通っていないから道なんてなかった。一歩目を迷ったが、勢いをつけて適当な場所に突っ込んでいった。私のひざに触れるくらいの背の低い草葉が遠浅の海のように広がっていた。
 私たちは森の中を駆け抜けていった。森が目を覚ましたのか、せみしぐれが降ってきた。空気が震えた。たくさんの産声のようでもあった。
「うるさいなあ」とカナデは声を張り上げた。
 朝露で濡れた緑の深い色が、時間が経つにつれて薄まっていった。森の水分が蒸発を始めていたからだ。
 私たちはやがて木の実をつけた木々の前にたどり着いた。キイチゴやグミの実がたわわに実っていた。地面には熟した実がいくつも落ちていた。森のいのちのような濃い赤色の実だった。
「ね? すごいでしょ?」
 カナデは地面に落ちた実を食べ始めた。
 スニーカーの薄い靴底越しに何かを踏み割る感触があった。足の裏から、ぱきき、という音が聞こえた。足を上げて地面を見るとまだ青い実が割れていた。黄緑がかった果肉とその中の白い種があらわになっていた。
 手近な岩に上がって、枝を揺らした。甘酸っぱいにおいを放ちながら実が次々に落ちてきた。
「すごいすごい」とカナデが声を弾ませた。「カエデも食べて」そう言われたからキイチゴを口に含んだ。においと同じ甘酸っぱい味が口の中にさらさらと広がった。
「おいしい?」
「おいしいよ」
 カナデの小さな口の周りが赤く汚れていたからティーシャツのすそでぬぐってあげた。
「ありがとう。ねえ、私、のどかわいちゃった」
 彼女はそう言ってまた駆け出した。追いかけながら、小さな妹がいたらこんな感じなのかな、と想像した。
 川に出るとカナデは水面をなめた。川の上流には滝があって、のどをうるおした彼女は滝の裏側に進んでいった。岩場を伝っていくと、滝の裏には濡れた砂地が広がっていた。カナデは砂地を駆け回った。小さな足跡が彼女の後をついて回った。
 彼女のからだは音を奏でていた。皮膚の下の筋肉や骨、関節がぐりぐりと脈動している音が、滝が水面に降り注ぐ轟音とは別に私の耳に届いた。
「ねえ、カエデ。あなたって変だよ」と彼女が言った。「猫なら誰にでも話しかけてさ。みんな、びっくりしたって言ってたよ」
「そうなんだ。ごめん」
 私たちの声は空間に響いた。
「いいのいいの。だから私は会いに来れたんだから」
「なんで私に会いに来たの?」
「なんで? なんでってどういうこと? 誰かに会いに行くのに理由なんて必要なの?」
 水しぶきが私たちに降り注いだ。水の中にいるみたいに涼しかった。水のカーテンの向こうから日が差して、水流越しの青や緑の光景が立体感をもって浮かび上がっていた。
「じゃあ、私、ちょっと眠るから」
 カナデが足元に寄ってきて、私を見上げた。
「ばいばい」
 そう言った彼女に何と返せばいいのかわからなかった。急に現れて急に去っていくのだから、ちょっとあんまりではないか。
「私が、ばいばいって言ったら、ばいばいって言ってよね」
 カナデは不満げに鼻を鳴らした。私はしゃがんで彼女の顔をのぞき込んだ。彼女は目を閉じて少し顔を上げた。首筋のかすかなしま模様がかわいかった。そして、耳から伸びた白い毛。その向こうに透けて見える桃色の毛細血管。両耳が私を急かすようにひくひくと同じ動きをした。私は彼女の眉間を人差し指でこすってやり、それから、頭をなでた。手のひらの中で小さな頭が嬉しそうに揺れた。
「ばいばい」
 私がつぶやくと、カナデは満足そうにうなずいて走り去っていった。
 滝の裏から出るとウルがいた。水しぶきを避けるように、川にせり出した木の幹に留まっていた。
「かわいらしい方が来ていましたね」とウルが言った。「動物たちは慎重ですから。滅多なことでは人間の前で言葉を話そうとはしません。あの方は、モリカさんにとって特別な存在であるようですね」
 私は気が抜けて、川べりの濡れた岩に腰をかけた。
「特別……じゃあ、ウルはどうして?」
「フクロウは古来より人間を導く存在だという自負があるからです」
 ウルがからだをふくらませた。大きく息を吸い込んで、胸を張っているようでもあった。
「そうじゃなくても、私たちにとって、相手を見定め、つながりを持ちたいと思うときが来る。それは、あるいは恋や愛と呼ばれるものになるかもしれない。わかりますか?」
「私には、まだわからなそうです」と私は素直に答えた。
「まだ、というのがとてもいいですね」そう言ってウルは目を細めた。
「……ウル、眠いんですか?」
「いいえ、笑っているんです」
 ふ、ふ、ふ、と彼のふくらんだからだから声がした。
 森を歩きながら今朝のできごとを部長に伝えた。今日のペアは彼だった。
「そっか。じゃあ、わざわざ会いに来てくれたんだ。彼女はいいやつだね」
 部長は嬉しそうに微笑んだ。私たちはハイキング用に整備された道をのんびりと歩いていた。木板が敷かれた道だった。大木に合わせるように蛇行を繰り返し、森の中をどこまでも続いていた。整備されたのはずいぶん昔のようで、木板は枯れた灰色だったし、大きくひび割れてもいた。下草でおおわれている箇所もあった。それでも穏やかなハイキングだった。私たちの足音が森の中に響いていた。
「せっかくだから、今日は大事な話をしようか」と彼が切り出した。「僕は父からきみのことを聞いていたから、きみに会えるのをずっと楽しみにしていたんだ。僕の父には会っているはずだよ。何度かきみの家を訪ねていたから」
 私たちは同じペースで歩き続けた。
「どこまで話していいのかわからないけど、きみは知っておくべきだと思う。その方が自分自身に向き合えるだろう? 実はね、アスチルとしての発現はいつ起こるかわからない。成人してから異常が出るケースもある。ただ、乳幼児健診だったりで異常数値が出ると行政機関から情報が入るようになっている。つまり、きみは生まれたときから発現した状態だったといえる」
 部長が私を見つめた。黒いふちの眼鏡の奥で瞳が小さくなっていた。
「悲しいんですか?」
「悲しい?」
 私の言葉に彼は驚いたようだった。
「いや、悲しくなんかないよ」と彼は私に強く言った。「僕は、悲しんでいない」
 私は余計なことを言ってしまったようだ。
「どこまで話したかな……僕の家系には昔からアスチルがいた。祖父の代から医療機関を立ち上げて、研究を進めた。動物の遺伝子を持っていても発現しない場合がほとんどだということがわかった。発現しなければ、ただの人と区別がつかない。僕の父も薬で発現が抑えられている。だから父にはアスチルとしての自覚があまりないと思う」
 部長は二度、うなずいて、それから話し続けた。自分に言い聞かせているようでもあった。
「自分の意思に反した強制的な変幻、つまり、暴走を抑える治療や薬の開発も行われているけど、実用化には至っていない。なにせアスチルは存在自体がレアケースだ。ただ、医療機関や学園は三年前から方針を変えた。対象の観察から保護へ。本当は僕だって、保護だとか、検査だとか、そういったことにはもううんざりなんだ。僕たちはただの研究対象じゃない。生きているんだから。でもね、誰かがやらなくちゃいけない。そうだろう? 僕は、僕たちを救いたいんだ」
 沢が見えた。私たちは岸辺に降りていった。部長は眼鏡を取って顔を洗った。首にかけた真っ白なタオルで彼は顔をぬぐった。いつの間にか顔に砂ぼこりでもついていたのか、タオルの生地に茶色い汚れが残った。
「僕ばっかりしゃべって、ごめんね」
「私はやっぱり、部長をすごい人だと思います」
「きみは僕をすぐにすごいやつ扱いするね。言ったでしょ? みんな特別だって」
 彼は眼鏡をかけ直した。頑丈そうな太いつるを持ち上げて、ぎゅっと目を閉じた。そうした後で、口角が上がった。こらえきれないで自然に浮かんでしまった笑顔のようだった。
「モリカにだけは白状するよ」
 部長は顔を背けながら話し出した。彼にしては珍しいことだった。
「本当にすごいのは茜だよ。僕は特別にそう思う。知ってる? 茜は学校や部活の合間に時間をつくってアルバイトをして、それで、ひとり立ちする準備をしている」
「言ってました。自分のことを全部自分でやりたいって」
「そう。僕はすべてが用意された環境だったから。僕にとっては、彼女はとてもまぶしい存在だ」
 渓流の中に飛び石があったから、私たちは岸から石に飛び移って川を渡った。水流に洗われ続けた飛び石は丸みを帯びていた。ゆっくりで大丈夫、と部長が言うから、足を滑らせないように一つずつ飛んでいった。
 夕食を前に葉月先生からふもとにあるスーパーまでおつかいを頼まれた。私たちが降りた駅の近くにチェーン店のスーパーがあったから三十分もあれば行って帰ってこれるはずだった。
 荷物持ちとしてナガトもついてきた。私たちは石段を下り、参道を抜けた。土産物屋が並んでいた。疎らな観光客。夕日を浴びたアスファルトから立ち上がるほこりっぽいにおい。軒先に積み上がった蒸しまんじゅうのせいろは、どれも空っぽだった。
「お兄さんのこと、何か聞けた?」
 私が聞くと、ナガトはうなずいた。
「ウルは兄貴を覚えてた。頭のいい少年だったって」
 いつものようにぼそぼそと話し始めた。どこか喜んでいるようでもあった。
「兄貴もここに来たんだ。この道を、きっと歩いたんだ。ウルは、迷うことがあれば、また来いって言ってくれた」
「自分は導く存在だって?」
「そう、かっこいいよな」
 軒を連ねていた商店が絶えて、川沿いの道に出た。「山ノ寺共同浴場」と書かれた大きな看板があった。対岸の民家や小さな宿に明かりが灯り始めた。空には薄い雲がかかっていた。赤や青の色の層が幾重にも重なって淡くかき混ぜられていた。
「お兄さんってどういう人だったの?」
「兄貴は俺にいろんなことを教えてくれた。変幻だって兄貴に教わったんだ。それで、兄貴は俺が追いつけないくらい高く飛ぶのが好きだった」
「じゃあ、空を飛ぶのってどういう感じ?」
「どういう感じって言われてもな」
 そう言って頭をかいた。今になって話し過ぎていたことが照れくさくなったのか、黙り込んでしまった。
 ようやくスーパーに着いた。ナガトの家の近くにあったスーパーと同じチェーン店だった。店内は冷房が強くきいていて、寒いくらいだった。
 渡されたメモを頼りに店の中を進んでいった。
「しょうゆはこっちかな」
「なんでわかるんだ?」
「スーパーってだいたい物が置いてある場所って決まってるから」
「こんなに種類があるのかよ。どれを選んだらいいんだ?」
「んー、これかな」
「減塩じゃなくていいのか」
「いいんだよ。これで」
「お前、すごいな」
「すごくないよ。さっき、台所に置いてあったのが、これだったから」
 ナガトは目を見開いて私を見た。それから、「いや、すごいよ」とつぶやいた。
 残りの商品もナガトが持った買い物かごにさっさとつめてレジに向かった。レジには列ができていたから最後尾に回り込んだ。ちょうど、アイス売り場の前だった。
「アイスも買っちゃおうか」と提案した。ナガトがあずきバーを取ったから、私も同じものを選んだ。
 外に出るとぬるい外気がまとわりついて冷えたからだを温めた。まちを囲む山々から届くひぐらしの鳴き声。ナガトが肩に背負ったエコバックの渦巻き柄。あずきバーが口の中でがりがりとくだける感覚。空を見上げるナガトのつんつんと逆立った髪が風に揺れた。
「兄弟ってどういう感じ?」
 私が聞くとナガトは考え込んだ末にゆっくりと話し始めた。
「テレパシーって信じるか? 昔は、以心伝心っていうのかな、話さなくても、何を考えているのか何となくわかった。信じなくたってかまわないけど」
 頭の中で言葉を一つずつ選び取っているみたいだった。
「今も、ほんの少しだけ感じるんだ。兄貴のこと。だから、この世界のどこかで確かに生きてるんだ。でも、だんだんわからなくなってる……明日、変幻をしてみるんだろ? 自分のからだに起こることから目をそらさないこと。それが大事なんだ。俺は兄貴にそう教わった」
 信号のない交差点を渡った。私たちの影法師が細く、長く、どこまでも伸びていた。影を追いかけて歩くように帰路についた。
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