鹿と森林

鹿ノ杜

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音楽室

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 その日、音楽室には誰もいなかった。
 放課後はたいてい、吹奏楽部のあふれんばかりの楽器の音が校舎のどこにいても聞こえていたけど、今は楽譜の中の休符みたいに、静かなものだった。
 僕とサクラコ先輩は自然と忍び足のまま、音楽室の床を踏みしめた。こげ茶とベージュのタイル地のカーペットは夕暮れのよく澄んだ赤い光を受けて、燃え上がるようだ。
 先輩は、音楽室の隅にあってもひと際、存在感を放っているグランドピアノに向かって座り、弾くふりをしてみせた。それから、いたずらっぽく笑って僕を見上げた。
 あ、今かも。
 僕がずっと言えないでいるこの気持ちを伝えるときは、今かもしれない。
 そんな錯覚すら覚えて、それは確かなことに思えて仕方がなかった。
「あの、先輩」
「誰か来た?」
 立ち上がって身構える先輩に、首を横に振る。
「あの……そういえば、この前読んだ雑誌である作家が言ってたんですけど。どんなときに話を考えるんですかって聞かれて、その人は、打鍵しているとき以外には何かを思いつくことはない、って答えてたんです」
「わかるなあ、私もそうかも」
 先輩はうなずきながら、続きをうながすような視線を僕に送る。
「で、ああこの人、小説を書く以外にもピアノも弾ける人なんだ、すごく、かっこいいなって、そう思ったんですけど。あれ、打鍵ってそういう意味だっけって思って調べたら、たぶん、パソコンのキーボードを打つことを言ってたんだなって……すみません、それだけです」
「言葉の意味を調べることは、いいことだよ」
 先輩は優しく言った。
 文芸部に所属している僕たちは来月に迫った文化祭を前に、部誌の締め切りに追われていた。僕はさっぱり原稿が進んでいなかった。最初の一行目すら、書けていなかった。息抜きだと言って先輩が連れ出してくれなかったら、今日だって部室の隅で息を詰まらせていたかもしれない。
 何でもいいのに、小説って、何を書いてもいいんだから、と先輩は励ましてくれた。その後で、あ、今のって、夕食何つくろうかって聞いてるのに、何でもいいって答える無神経な人みたい、と言って、一人で笑っていた。
 僕が書いたものを先輩に読まれるのだと思うと、どんな一行目だって書ける気がしなかった。あれ、去年はそんなこと、なかったのに。そうか、きっと、気づいてしまったからだ。
 そのとき、先輩がふいにからだを揺らし、ピアノの鍵盤をなでた。澄んだ音色が、響き始めた。音は透明だけど、美しい色で僕と先輩の間を流れた。
「この曲、よく部室でかかってる」
「そう、ビル・エヴァンスのワルツ・フォー・デビー」
 先輩は得意げに笑ってみせる。
「どう、かっこいい?」
「かっこいいです、とても。あと、好きです。先輩のことが、好きです」
 そうか、僕の一行目は、これでいいんだ。
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