鹿と森林

鹿ノ杜

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レイトショー

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 もう、まもなく、レイトショーがはじまる。
 その頃、新宿の映画館では真夜中に、洋画や邦画を問わない古い映画の三本立てというムチャなことを平気でしており、僕はそれをふと思い立って見に行くのが好きだった。映画館を出る頃には明け方近くになっているから、大学の友人たちには物好きなやつだと笑われたものだった。
 だから、僕がその夜、ファミレスのアルバイトの帰りがけに、「これからレイトショーでも見に行こうかな」とほとんどひとり言のように言ったら、「わたしも行きたいです」と後輩の女の子が言ったのにはけっこうびっくりして、思わず、「うん、いいよ、行こうか」と気づけばこたえていた。
 ひと月くらい前から働き始めたその子はホールを担当しており、店が混み合ってくると小さなからだを目いっぱいに動かして、くるくると駆け回った。キッチンから様子をうかがう僕と目が合えば、次の休けいのときに、「さっきわたしのこと見てました?」と必ず聞いてきた。飲み込みが早く、仕事はすぐに覚えたけれど、時おり、「サラダ油とオリーブオイルってちがうものなんですか?」とか、「鷹の爪って本当に鷹から取れたものじゃないですよね」とか、まじめな顔をして聞いてくるから、どう返せばいいのか迷ったものだった。
 映画館に着き、僕はジンジャーエールを、彼女はオレンジジュースを買った。
「ねえ、知ってた? ジンジャーエールって生姜からできてるんだよ」
 僕が言うと、
「えー、うっそだあ」
 その子は笑って、僕もあきれて笑ったから、はたから見れば仲むつまじく笑い合う恋人同士に見えたかもしれない。
 彼女は僕の持っていたカップのストローをくわえ、頬をすぼめた。
「生姜の味なんてしないですよ」
 そう言って、また、笑った。レイトショーがはじまる前のロビーは薄暗く、観客たちはひそやかに身を寄せ合っていた。ショップのあかりだけが煌々と僕らを照らし、彼女の、まだあどけない笑顔を照らした。
 そんな学生時代の淡い思い出がよみがえったのは妻とショッピングモールを歩いていたときにシネマコンプレックスの前を通りかかったからだった。ジンジャーエールって生姜からできてるんだよ、と妻に言うと、妻は、そんなのあたりまえじゃないといった表情で、不思議そうに首をかしげた。
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