鹿と森林

鹿ノ杜

文字の大きさ
上 下
26 / 34

鈴が鳴るように

しおりを挟む
 デミグラスソースの缶をきり、具材を煮込んでいたフライパンに流しいれるとかおりが立った。時おり、ふいに訪れる幸福の気分のようなすばらしいかおりだった。ダイニングキッチンと隣のリビングにまで広がっていき、かおりを追えば、窓の外には暮れかけたあわい明かりがあった。
 ベランダからは通りがのぞめた。向かいの一軒家は家人がイルミネーションのかざりにいそしんでおり、まるで夜にうかぶ光の船のようにうつくしかった。
 ぼくは恋人と食事をしているところを想像した。彼女は、いったいなんというだろうか。考えながら、煮立ちはじめたビーフシチューに意識をもどした。ひと足早く大学を卒業して勤め人となった恋人のために、料理をつくって待っていた。今夜はクリスマスなのである。
 彼女の好きなツナと水にさらしたオニオンスライスをマヨネーズであえながら、降りはじめた想像に、しだいにとらわれていった。ツナは細い綱(つな)、彼女が器用に結った三つ編みとなり、ぼくの目の前でゆれた。ぼくのこころもゆれはじめ、そうだ、ぼくと彼女の関係は海と陸のようなものだ、と思い至った。青い星の青ではない部分がぼくだった。彼女の部屋に転がりこんでいるぼくにとっては、彼女は海のように大きな存在で、あるいは、ぼくはちっぽけな一艘の小舟なのかもしれなかった。友人に、地主と小作人という古風なたとえ方をされたときには言い得て妙だと感心した。
 そんなことをいわれても、今夜はクリスマスなのである。凝ったものはつくれないが、できあいのものですませたくはなかった。材料だってバイト代で買ったものであるからして、友人のこころない指摘はあたらないのである。
 さみしさもあいまって、ほろりと泣けてきた。彼女の帰りを待ちわびていた。意を決して部屋を飛び出し、駅までの道を駆けた。色とりどりの光の船が視界の端をすべっていった。駅に近づくにつれ、人の奔流が住宅街へと流れていく。逆らおうとするぼくは、やはり小舟のようだった。
 人の波間に彼女がいた。ぼくが大きく手をふり彼女の名を呼ぶと、彼女は走りよってきて、ぼくをすくいあげてくれた。
「むかえにきてくれたの?」
 聖夜の鈴が鳴るように彼女はころころと笑った。自分のことは信じられないが、彼女の笑顔なら信じることができた。
 なにも返事をできないでいると、
「ねえ、どうしたの?」
 彼女がぼくの手を引いた。
「きみが笑ってくれたから、今夜は、いいクリスマスだと思ったんだ」
 と、ぼくがいえば、彼女はぼくの手を強くにぎりかえしてくれる。
しおりを挟む

処理中です...