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(83)許婚王子と双子の姉弟
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ラピスの双子の姉であるマリンは、結婚式を前に自殺を図る。ラピスはその真意を探るべく、マリンに扮し、許婚の王子の元へ潜入し……。
双子の弟×姉の許婚である王子
受けっぽい方が攻めなのが好きです!(知ってた)
ラピス:双子の弟。マリンのことが好き。
ラズワルド:隣国の王子。マリンの許婚。
マリン:双子の姉。ラズワルドに愛されないが故に死ぬ。
名前の由来はラピスラズリとアクアマリン。ラズワルドは空って意味です。
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「マリン、どうしてこんなことを……!」
血に濡れた双子の姉が、動揺する僕に向かって微笑む。
「ごめんね。でも、もうこうするしかなかったの……。結婚したって、彼の心がワタシに向くことはないんだもの……! だから、ワタシは……。もう、生きてはゆけない……!」
「マリン!」
「ラピス。出来の悪い姉でごめんね。でも、どうか許して……。いえ、許さなくてもいいわ」
「マリンっ――!」
腕の中で力尽きた姉に、僕は叫んだ。でも、その美しい水色の瞳は僕がどれだけ叫ぼうとも、二度と開くことはなかった。
「どうして……」
頬を伝う涙が零れ、瓜二つの姉の瞼に落ちる。
僕は恨んだ。何も話してくれなかった姉を。姉を救えなかった自分の無力さを。そして何より。彼女を死に追いやった隣国の王子様を――。
双子の姉であるマリンは明後日、隣国に嫁ぐ手筈になっていた。
この世界では、どういう訳か女が生まれにくかった。いつからそうなったのかは僕にはわからない。僕が生まれるずっと昔から、女性の存在は珍しかったらしい。そして、それは悪化の一途を辿るばかりで、今じゃ女性を見ることなく死んでゆく男がほとんどだ。そのせいで、人間の数はあっという間に減り、土地はすっかりと余ってしまった。
ある神父は呪いなのだと語り、ある学者は人類の進化段階なのだと語った。僕には正直、どれが正しいのかわからなかった。そして、どれだけ論を尽くそうとも、誰もが解決策を見出せないでいた。
そんな中、奇跡的に生まれたのがマリンだった。
マリンは生まれたときから、隣国に嫁ぐことが決まっていた。隣国の王はマリンの噂を聞き、早々に金をチラつかせて両親を納得させたのだ。
今の時代、女性はほぼ貴族の結婚相手として、赤子の頃から買収される。
何も知らない奴は、生まれたときから成金確定のいい人生だとか、俺も女に生まれたかっただとか、女は楽でいいなどとほざく。実際、マリンが幾度となくそういう言葉を投げかけられていたのを知っている。
だが、彼女は本当に幸せだっただろうか?
確かに、彼女は隣国の王子ラズワルドと上手くいっているように見えた。彼の容姿はとても美しかった。世の女性たちが太ったへちゃむくれ王子や歳のいった髭面王子なんかと無理やり結婚させられている中で、ラズワルドと結婚できることは、恐らく幸福だ。彼女自身、彼を気に入っているように見えた。だから僕も、彼女は幸せなんだと思っていた。思っていたのに。
「幸せな人間がどうして自殺など図るだろうか……」
マリンの腹に刺さったナイフを引き抜き、その赤い色を見つめる。
思い返してみると、確かにマリンは僕を見て時々悲しそうな表情を浮かべていた。あれは、僕に助けを求めていたのではないだろうか。彼と何かあったのではないだろうか。
情けない。双子だというのに、僕は全くもって彼女の気持ちに気づけなかったのだ。
『おい、どうするんだ! 代わりの女なんて早々見つからんぞ』
『このままじゃ、マズイ! 下手すりゃこの国が滅ぼされちまう!』
この国でたった一人の女性であるマリンは、この国にとっての希望でもあった。ラズワルドはマリンを大層気に入り、両親だけでなく、この国の安寧までもを約束してくれていた。
正直、この国は強くない。だから、ラズワルドの申し出は大いに皆を安心させた。だからこそ。マリンは言えなかったのではないだろうか。結婚したくないという自分の意志を。そして、耐え切れなくなって、自ら命を絶ってしまったのではないだろうか。だったら。
「僕が、僕が行きます」
『あ?』
パニックに陥った男たちの中、僕は静かに進み出る。
「僕はマリンと似ている。カツラでも被れば瓜二つ。バレることはないはずだ」
『お前、そんなんで誤魔化せるわけが……』
「時間稼ぎだよ。それまでに他に女性を連れて来ればいい」
『お前、簡単に言うがなぁ……』
「でも。今ここでラズワルド王子にマリンの死を悟られるわけにはいかない。そうだろう?」
『そ、そりゃそうだな……。もうそれしかねえよな……』
『よし、わかった。オレたちはなんとか女を攫ってくる。だがラピス。お前は無茶をするんじゃないぞ?』
こうして、僕は皆を丸め込み、マリンと成り替わった。何も、国の為ではない。僕にとって、マリンを生贄にしたこの国がどうなろうとも構わない。ただ。
「……僕は知らなくちゃならない」
誰にも聞こえない小声でぽつりと漏らし、決意を固める。
僕は彼女の死の真相を知らなければならない。そして。もしそれが彼のせいだったのだとしたら。愛しいマリンの片割れとして、彼に一矢報いなければならないのだ。
「ああ、愛しのマリン。私は心配したよ。実家に荷物を取りに行ったっきり、戻ってこないのかと思ったよ」
「すみません。久しぶりの実家に、ついゆっくりしてしまいましたの」
「そうか。でも、勘弁してくれ。明日は待ちに待った挙式なのだから。今日はお互いゆっくりしないと」
「はい……」
ゆったりと微笑んだラズワルドは、ウイッグをつけてドレスに身を包んだ僕を疑う様子もなく、自室へと導く。
僕とマリンは声質も似ていた。顔程ではないにせよ、少し意識して高い声を出せば大抵の人間は騙せた。男としては微妙な気持ちだったのだが、こうして今、目の前の男を騙せたことでその気持ちも帳消しだ。
とにかく、何が何でもコイツの裏を探ってやる。その美しい顔の裏に、一体どんな狂気を秘めていることか……。
「さ。入って?」
「え……? こ、これは……?」
促されるままに部屋に入った僕は、その光景を見て立ちすくむ。
「ああ。君は会うのが初めてだったかな。僕の玩具たちに」
「玩具って……」
彼が指し示した方向、ベッドの上には、数人の女たちが裸で寝そべっていた。
「嫉妬しなくてもいい。ただの玩具さ。君が来るまでのほんの退屈しのぎだよ」
肩に置かれた手を今すぐにでも振り払いたい衝動に駆られながら、僕は女たちから目を逸らす。
「どうして、こんなに女の人たちを……」
「あはは。勿体無いって言われちゃうね、きっと。でもさぁ……」
僕の傍を離れたラズワルドが一人の女の近くに行き、その長い髪を梳き始める。女はそれを至極当たり前のように受け入れた後、嬉しそうに身を捩る。
「狂ってる……」
ぼそりと言葉を零してから、慌てて口を噤む。が、ラズワルドには聞こえてしまったらしく、彼は手を止めずに意味深な微笑みをこちらに向けた。
「でもね。私は子どもを産むだけが女じゃないと思うんだ」
「……そんなの、当たり前です」
「おや。今のこの世の中、男はみんなそうだと思ってるよ。男だけじゃない、女だって、そう教え込まれて育つんだから、君のその反論は全く珍しいものだよ」
「狂ってる。こんな世の中、悪夢だ」
「そうさ、全くこの世は歪んでいる」
再び近づいて来た彼が僕に手を伸ばす。
「……」
その美しい指が僕に触れるより前に、僕は後ろに下がり、彼を拒絶する。
「そう警戒しないでおくれ。君は大切に扱う。約束しよう」
小指を立ててこちらに指切りを促す彼の瞳は、無邪気な子どものようにも見えた。でも。
「そんなもの、信用できるわけがない」
「おやおや。すっかり嫌われてしまったみたいだねぇ。でも、本当だよ。マリン。私は君を正式な妻として迎え入れる。わかるだろう? 末長く付き合うんだから、君に嫌われては困る」
「こっちは望んでもいないのに?」
「そこは、言いっこなしさ」
「貴方は結婚することについて納得しているんですか?」
「拒否権など私たちに与えられていない。 君もわかっているはずだ」
「……」
「まあ、私は君のように可愛らしい子を妻にできることを喜ばしく思っているがね」
嘘つきめ、と心の中で悪態を吐く。彼はマリンを見ていなかったはずだ。マリンは、そのことに憤り、自らの命を捨てた……のだと思う。でも。頬を撫でる彼の指は酷く優しい気がして。僕は少しだけ、今からやろうとしていることに後ろめたさを感じたのだった。
城の食事は、それはもう美味しかった。魚をまるごと蒸したものや、香草で味付けされた子羊のステーキ。そして、瑞々しい野菜のサラダ。熱々のポタージュも忘れてはいけない。とにかく、どの具材も新鮮で、いつも食べている食事なんかとは比べ物にならないぐらい完璧だった。
ああ、これがいわゆる最後の晩餐ってやつか。
そう思った途端、手に持ったフォークが動きを止める。
「口に合わなかった?」
長いテーブルを挟んだ正面で、優雅に笑ったラズワルドが僕を見つめる。
「いや。美味しいけど……。見られてちゃ食べ辛い」
「それはすまない。さ、たんとお食べ。見つめないようにするから。君は細すぎる。もう少し太った方がいい」
「それはアンタの方だろ?」
自分より身長があるというのに、ラズワルドの腕は僕の腕よりもずっと白く細かった。先ほどの女性たちよりも細いかもしれない。だけど、眼光の強さなのか、かっちりと着込んだ服のせいなのか、不思議と今まで気づかなかった。
「私はいいんだよ」
投げやりに呟いた彼がワイングラスを呷り、目を伏せる。その一瞬見せた愁いの表情に息を飲む。
「どうして……?」
「さてね。機械なのかも」
「……」
肩を竦めてみせた彼に、機械であってくれたらどんなに楽かと心底思う。何がって? そりゃあ勿論。殺すのが、ね。
夕食を終えた後、てっきりそういうことをするのだろうと身構え、その時に殺す算段だったのだが。
「それじゃあマリン、明日に備えて早くお眠り」
そう言って、僕の手の甲に口づけたラズワルドは、振り返ることもせずに自室へと消えた。
「まあ、アイツの部屋、女でいっぱいだったし。そういうことには困ってないってことか」
呟いて、ラズワルドの悍ましさに寒気が走る。あんな顔して罰当たりなほどに女を己の私欲のために使っているのだ。今の世の中、人類の敵と言っても過言ではない。ならば。
「殺した方が世界のためだ」
自分に言い聞かせるように呟き、時間を見計らうと、僕は彼の寝室に忍び込んだ。が。
あれ……?
てっきり、女を侍らせながら眠りについているのだろうと思っていたのだが、部屋に女の影はなく、彼は一人、音も立てずに豪華なベッドの上で安らかに眠りについていた。
何はともあれ、これはチャンスだ。
整った顔から目を逸らし、心臓に向かってマリンの形見であるナイフを振りかざす。
やった。これで僕は彼女の無念を晴らせる――。
勝利を確信した刹那。ラズワルドが既の所で僕の手を受け止め、跳ねのける。
「ああ、君は人魚姫なのかな?」
「くそ!」
全てを見透かしていたかのような余裕の笑みを浮かべるラズワルドに向かって、もう一度ナイフを振りかざすが、それも難なく受け止められてしまう。
「う~ん。情熱的なひと突きだね」
「……お前」
殺意を込めて睨んでやるが、やはりラズワルドは動じない。
「可愛い顔が台無しだよ? マリン姫」
「チッ。食えない野郎だ」
まるで猫でも可愛がるように僕の頬を撫で回したラズワルドが、目を細めて僕を見つめる。
「はて。なんのことやら」
「しらばっくれなくていい。僕はマリンじゃない。弟のラピスだ」
ウイッグを外し、ドレスを脱いで普段着に着替えた今の僕は、どう見てもマリンにしては不自然だ。顔色一つ変えない彼は恐らく、僕の正体に気づいていたのだろう。
「ああ。自分からバラしてしまうなんて。君は本当に可愛らしい」
「黙れ」
人を小馬鹿にしたような態度を取るラズワルドの首にナイフを押し当て、刃をそのまま肌に食い込ませる。
「ラズワルド、お前がマリンを殺したんだ。だから僕は、お前に復讐しなければならない」
「それは酷い言い掛かりだなあ」
「お前がマリンを傷つけたんだろ! マリンはお前が好きだったのに。お前ときたら、このご時世に女を侍らせて! お前はマリンを裏切ったんだ! お前はマリンの恋心を踏みにじったんだ!」
「おや。私がいけないのかい?」
「そうだ。お前はマリンの許婚なのに!」
「浮気したから殺すって? まさか! そんな古典的な!」
「僕は本気だ!」
大袈裟に驚いてみせる彼に苛立ち、ナイフを更に食い込ませる。
「っ……」
「はは。アンタのその白い肌には真っ赤な血がよく映えるな」
痛みに歪んだ彼の表情を見て、ようやく心に余裕ができる。
所詮は籠の中の鳥。そのプライドを限界までズタズタにして甚振り殺してしまえばいい。
「まぁ待て。ここで私を殺したら、君は生きては帰れない」
「それでいい。マリンのいない世界なんて――」
「生きていても意味がない?」
「……そうだ」
夜空を思わせる黒い瞳は、静かにこちらを見据えていた。から、僕は思わず目を逸らした。ずっと見つめていたら、きっと戦意を失ってしまう。それほどまでに僕はその色が好きだった。
「君にとっての世界は、お姉さんだけなのかい?」
「あ?」
「すごい兄妹愛だね。君のそれは恋なのかな」
「……お前には関係ない」
「そうだね。死んでしまった子を相手に恋も何もないよね」
「ッ!」
跳ね上がった怒りの衝動のままに、彼の胸目掛けてナイフを突き刺す。が。
「だから。やめろって言ってるんだ。君はこんなことで死ぬべきではない」
ひらりと躱した彼の瞳が僕を捕らえる。
やめろ。僕はお前を殺したいんだ。ただ、僕は、マリンのために、ラズワルドを、殺す……!
「僕じゃない。お前が死ぬんだラズワルド!」
「それは、お断りだよ、ラピスくん!」
かんっ。壁に飾ってあった剣を手にした彼が、僕のナイフを弾き飛ばす。
「馬鹿な真似はやめなさい。君がここで大人していれば、私は君を悪いようにはしない」
慈悲深いラズワルドの言葉に吐き気がする。冗談じゃない。僕は、やらなきゃならないんだ。
「悪いようにしてくれて構わない。例え僕がここで終わろうと、お前だけは道連れにしてやるから!」
隙を突き、壁に飾ってあるもう一本の剣に手を掛ける。すらりと抜いたその剣は、僕の中の狂気を映し出す。
「ああ。君は本当に馬鹿な子だ。わかったよ。付き合ってやろうじゃないか。君の気が済むまで、ね」
すい、と彼の瞳が鋭い光を帯びる。綺麗だ、と思った刹那、激しい斬撃が襲い来る。
「チッ。ただの小鳥じゃないってわけか」
細長い腕から放たれているとは思えない剣の重さに手が痺れる。恐らくは魔術の類で力を増強しているのだろう。
「はは。貴族はね、ダンスが得意なものさ!」
まるで本当に踊っているかのような華麗なステップで、彼はこちらの動きを翻弄する。
「クソが!」
繰り返される斬撃を受け止める度に、狂気の刃が削がれてゆく。ああマリン、僕は一体どうして戦っているんだっけ。
「ラピスくん。馬鹿なことはやめて、君はマリンを演じるべきだ。そうすれば私も君の正体がバレないように、魔術をもってフォローしよう」
「そんでそのままマリンとして、アンタと結婚しろってか? それこそ馬鹿なことだろうが」
「……君にとってはそうかもしれないが、私にとってはそうでもないさ」
ぼそりと呟いた彼の瞳が僅かに揺らぐ。初めて聞いた弱い声音に、攻撃の手を止める。
「は?」
「……正直に言おう。私は君が好きなんだ。だから、私が君を殺すことはできない」
ため息交じりにそう呟いた彼は、するりと剣を床に落とす。
「笑えない冗談だな」
「冗談だったらどんなにいいことか。私とて笑えないさ」
本気の憂いに冗談でないことを悟る。でも。目の前のこの綺麗な男が、本気で僕なぞに惚れているだなんて。そんなこと……。,
「あるわけがない。そもそも僕はアンタとまともに話したことがないはずだ。好きになる理由がわからない」
マリンと瓜二つである僕は、男からそういう目で見られたことはまあある。が、コイツはマリンをないがしろにしていたはずだ。わざわざ僕をマリンの代わりに据える意味もない。それに、侍らせるほど女がいる彼には、わざわざ男を好きになる理由はないはずだ。ならば何故……。
「やっぱり忘れていたんだね」
「あ?」
悲し気に笑った彼は、その白い指で赤く染まったシャツをずらし、はだけてみせる。
彼の肩には、斜めに走る傷跡が残っていた。それを見た瞬間、僕は心臓を掻き毟りたい衝動に陥った。
「これは昔、森で狼に襲われた跡なんだ」
「狼……」
痛い。頭が。心臓が。どうしてかはわからない。でも。聞こえる。声が。女の子のか弱い悲鳴が。これは、なんだ? 何の記憶だ? 僕は……。
「僕は、何か、忘れているっていうのか……?」
「……」
黒い瞳が静かに閉じる。白い指がシャツを元通りに整えてゆく。そして、その赤い唇がゆっくりと真実を紡ぎ始める。
「私はね、とある少年に命を救われたんだ。そのときから、私の心はこの傷と共に疼くのさ」
*
今よりも昔。僕がほんの十歳だった頃の話。とある貴族のパーティーにマリンの付き添いとしてついでに呼ばれた僕は、その煌びやかな空間に若干の嫌気が差していた。
マリンは本当に希少な同世代の女の子と出会い、おしゃべりに花を咲かせていた。勿論、僕にはその中に入っていく勇気もなく、かといって一人で会場内をうろつく度胸もなく。早々に居場所を失った僕は、外に出て当てもなく彷徨っていた。
「あ~あ。早く終わんねえかな……」
欠伸を噛み殺して、遠くを見つめる。と、一人の少女が僕の目に止まった。
暗闇でも分かる整った顔立ち。そして白い肌。細い手足。腰辺りまで伸びた黒い髪は、彼女が動くたびに誘うように揺れて……。
なんて綺麗な子だろう。
気づいたら僕は、森へと走る彼女の後を追いかけていた。
ああ、彼女の瞳を覗いてみたい。彼女の声を聞いてみたい。
まるで熱に浮かされたみたいに、僕は出会ったばかりの彼女に思考を犯されてしまった。
しかし、願いは最悪な形で叶ってしまった。
『あああああッ!』
「!?」
悲鳴の聞こえた方に駆けると、少女は狼に襲われいた。
「よくも!」
マリンの護衛用にと持っていたナイフを握りしめた僕は、狼に向かってがむしゃらに振り回した。今思うと、かなり無謀だったと思う。でも、奇跡的にその攻撃は狼に当たり、見事、狼を追い払うことに成功した。が。
『ひっ……』
僕の顔を見た途端、少女は怯えて後ずさる。
「あ、怖がらないで。僕は君の味方だよ?」
少女を安心させるべく微笑んでみせると、彼女はハッとしたように顔を上げ、気まずそうに視線を漂わせた。そして。
『そうか。君は……。あ、待って。怪我を……してる……』
僕の額の怪我に気づき、その綺麗な顔を歪めながら心配そうに瞳を揺らす。その瞳はまるで、夜空のように美しく、僕は心臓の高鳴りをついに抑えることができなくなってしまった。
ああ、確か、ナイフを突き刺した瞬間、狼が僕の頭を引っ掻いたんだっけ……。でも。
「ああ、でも! 僕なんかよりも、君の怪我の方が酷いじゃないか!」
その色白い肩には、斜めに走る狼の爪痕が痛々しく残っていた。
『私は、いいんです。こうなることを、見越してここに来たんですから……』
「そんな。どうして……?」
確かに、この森は凶暴な狼が棲むと聞いた。だから、決して足を踏み入れてはいけないと言い聞かされていたのだ。
『私は、死んでしまいたいのです』
「やめてよ……」
痛みに耐えながらも、彼女は微笑んでそう言った。
どうしてこんなに綺麗な少女が、死ななければいけないのか。
『私は、生きている限り、操り人形なんです。私だって自由がほしい。どうして、私たちは早くから結婚相手を決められて、それに向かって生きていかねばならないのでしょう。こんな世の中ならば、私は死んだ方がマシなのです』
「そうか。君も、親に勝手に決められてしまったんだね、自分の人生を」
目の前の少女と姉であるマリンの境遇はきっと同じものなのだろう。ああ、どうしてこの世界はこうも少女たちにとって辛く苦しい世界なのだろうか。
でも。
「死んだら駄目だ」
『え?』
「君が今死んでしまえば、僕は悲しい。お願いだから生きてくれよ。こんなのは僕のわがままだけど、でもね、僕は君に死んでほしくないんだ」
『やめてください。君にはきっとわからない。無責任に優しい言葉を投げることは救いではありません。君は黙って私を見捨てるべきなのです』
「だったら。僕は君を迎えに来る。成長して、強くなって、僕は君を苦しい世界から連れ出してみせるよ。だから、ね? 今は僕を信じて?」
『……』
差し出した手に、少女の手が静かに重なる。華奢な彼女が折れないように、優しく抱きかかえて森を抜ける。
僕はその時、確かに誓った。己の人生を掛けて彼女を守ると。きっと彼女に相応しい男になって、彼女を助けるのだと。
『あのさ。君、名前は……?』
頬を染めた彼女が、遠慮がちに僕に向かってはにかんだ。
「ラピス」
『ラピス……。ふふ。君の青い瞳にぴったりの名前だね』
「君は?」
『私は――』
「ラピス!」
「マリン?」
森を抜け、彼女がその名を告げようとした瞬間、マリンがこちらに駆けてくる。
ああ、マリンめ。マリンのせいで彼女の名前を聞きそびれたじゃないか!
「あ、貴方は……!」
「あれ。もしかして、知り合い?」
「あ、いや。ええと……」
目を丸くして少女を見つめたマリンに問うが、どうしてなのか、マリンはこちらを睨み、黙り込んでしまった。
『いや。少し、ね。それよりラピスくん。私はもう大丈夫だから』
そう言って、彼女は僕の腕から抜け出した。そして、後から来た大人たちに連れていかれて……。結局、僕は彼女に再会することも、彼女の名前も知ることもできないまま、城を後にした。
「ねえ、マリン。あの子、誰なのか教えてよ」
「気になるの?」
「いや、その……」
自分でもどうしてこんなに胸が熱くなるのかわからなかった。でも、どうしたって僕は彼女のことが忘れられなかった。たとえそれが叶わぬ恋だと気づいていても、その想いを消すことなどできなかっただろう。
「ラピス、貴方は忘れるべきよ」
マリンはただ、僕に向かって冷たく言い放った。そのとき、マリンの態度に疑問を覚えはしたけれど、自分のことでいっぱいいっぱいだった僕は、結局マリンの気持ちを考えることをしなかった。
それから。それから僕は、どうしたんだっけ。
確か、ある日、マリンに呼ばれて……。
「ラピス。貴方は忘れなくてはいけないわ。あの方のこと。あの日の出来事を」
「うう……」
「貴方はあの方を好きになってはいけないの。貴方が好きなのはこの私。貴方は姉である私に恋心を抱いているのよ?」
「僕は……」
暗闇の中、いくつかの魔法陣の上で、僕はマリンに術を施された。
ぼんやりとする瞳で見たマリンは、あの少女のようにも見えた。
あれ。僕が好きなのは、あの子じゃなくてマリンなんだっけ……?
「そうよラピス。貴方が好きなのは私。貴方の心は私に囚われているのよ」
そうして。僕はマリンの催眠術にまんまと引っかかり。長いこと記憶と恋愛感情を操作されていたわけで……。
*
「まさか、あの時の少女が……ラズワルドだって、いうのか……?」
彼の話を聞くうちに、長い時を経て薄れつつあったマリンの催眠が完全に解ける。
「はは。やはり君は、私を女と勘違いしていたんだな」
「いや。だって。あんな可愛いの、間違えて当たり前というか……」
「言ってくれるじゃないか。でもまあ、当時はよく間違えられていたからね。無理もない。君には悪いことをしたね」
「ほんとに……。僕の初恋、どうしてくれるんだよ……」
「初恋なんて叶わないものさ。それに君、人のことは言えないだろう? 私も初めはマリンが来たのかとびっくりしたよ。双子の弟がいると聞いてなかったら、君だと気づかなかっただろう」
「なんだ。じゃあアンタは僕が男だと気づいた上で惚れたって言うのかよ」
「そうなるね。むしろ、自分の婚約者の弟君とわかった上で、私は君に惚れてしまったんだ。最低だろう? でも。だって。あんな言葉、貰ったら。忘れられるわけがないじゃないか……」
「あんな言葉って……」
「ふふ。君は、私を連れ出してくれるんだろう? この薄汚れた鳥籠の中から」
目を細めた彼が僕の髪を上げ、未だ残る額の傷跡を優しく撫でる。
「ラズワルド……」
「なんて、ね。あんなものはとっくに時効さ。君にとっては消し去りたい過去だろう? 大丈夫。私も忘れることにしよう」
「おい……」
彼の手が額から離れて、そのままだらりと力を無くす。
「私は愚かだったよ。助けられて惚れるだなんて、陳腐な恋の仕方だろう? でもね、どうしたって私は、君のことが忘れられなかったんだ。例え、君が私のことなぞ忘れていたとしても。どうしたって、もう一度、君にこの想いを伝えてみたかったんだ……。許してくれ」
悲し気な瞳に胸が締め付けられる。どうして謝るんだよ。馬鹿野郎。
「違うんだ! 忘れていたんじゃない! 僕は、マリンの魔術で記憶を封じられていて……! アンタに一目惚れしたのも、塗り替えられてて……!」
「ああ。なるほど。嫉妬に溺れた彼女ならばやりかねない。そうか。彼女は君までも魔術の餌食にしてしまうのか……」
小さく呟いた彼は首を振り、そしてため息を吐くと、昔と変わらぬ美しい瞳を真っすぐに向けて、微笑んだ。
「まあ、だとしても、だ。君は忘れていい。いや、忘れてくれ。こんな浅ましい告白、するべきでないことはわかっていたのに。はぁ。ああ本当に。どうかしてるさ。私は。でも、君がマリンの代わりとしてやってきたとき、私は心底驚いたよ。だから、つい……。いや、こんなことが言いたいんじゃないんだ。ええと、その。つまり、君が代わりに来ているということは……。やはり、彼女は死んでしまったのかい?」
「ああ。アンタの心がマリンに向かないことを嘆いて、自ら命を落としたんだ」
「……なるほど。それも、確かに彼女がしそうなことだ」
その感情の籠もっていない言葉に、少しの苛立ちと虚しさを感じた。だから。
「お前は、マリンを選ぶべきだったんだよ。僕なんかじゃなくて」
気づいたら言葉が零れていた。だって、そうじゃないか。彼が、僕なんかじゃなくマリンを選んでいれば。マリンは死ぬことはなかったんだ。僕がマリンにとって邪魔者でしかなかったことを、知ることはなかったんだ。
「はは。正論だ。私だって役目通り、彼女を愛する努力はしたさ。でもね……。自分の寿命がもうないと知った時、どうしてわざわざ偽の愛に身を傾けることができようか」
「寿命……?」
不穏な言葉に顔を上げると、彼は何でもないように笑い、己の肩をひと撫でした。
「狼に噛まれた跡が黒くなっていただろう? どうもこれが悪いようでね。あの狼、死に際に私を呪ったのさ」
「呪いって……」
「ああ、君の額はただの傷跡さ。安心していい。私のはきっと、日頃の行いが悪いせいかな」
からりと笑う彼に苛立ちを覚える。どうしてアンタはそうやって笑ってられるんだ。
「狼が人を呪うなんて聞いたことがない」
「ああ。我ながら貴重な体験をしたよ」
「本当に」
「同情してくれるかい?」
「まさか」
「ふっ。それでこそラピスくんだ」
気まぐれに頬を撫でた指が離れてゆく。
「ラズワルド……」
「さあ。君は行くがいい。君は私を殺したいだろうけどね。それを今ここでしてしまえば、君は城の人間に捕まってしまう。どうせ私は長くはないんだ。だから、復讐なんて無意味だろう? ああ、君には生きて欲しいんだ。こんなのは私のわがままでしかないんだけれど、ね」
「でも……」
「欲を言えば、君と偽りの結婚式をしてしまいたかったんだけど。さすがにそれは悪趣味過ぎたね。さあ。朝が明けて少しの間なら誤魔化せる。マリン姫は部屋に閉じこもっていることにする。だから、その隙になるべく遠くへ逃げるんだ。お金はあるかい? 無いなら持って行きなさい。旅に必要な物も揃えよう」
「なあ。一個だけ質問」
「なんだい?」
「お前さ、その呪いってもしかして……」
「……時間がないんだ。余計なことは考えず、君は自分のこれからを考えなさい」
愛しい瞳が僅かに揺らぐ。その反応で、僕の憶測が正しいことを知る。
「なあ、それ。マリンがやったんだな?」
「はは。まさか。人間にそんなことができるはずないだろう?」
「それなら、ちゃんと僕の目を見て話してくれよ。ラズワルド」
「だから、そんな禁術レベルのもの、人間が使えるはずがないって……」
「あのさ、僕だって本当は、マリンが魔術に傾倒していることに気づいていたんだ。そして、マリンがアンタをどうにかして自分のものにしようと企んでいたことも気づいていたんだ。でも、僕は彼女を止められなかった。彼女が汚い人間だなんて、信じたくなかったんだ。だけど。僕にはわかる。ああ、これは紛れもなくマリンの力だ」
「っ……」
無理にはだけさせた彼の肩に鼻を寄せる。その禍々しい匂いは、やはりマリンの使っていた魔術にそっくりだった。
「でも。何故アンタがマリンを庇うのかわからないな。こんな呪いまで掛けられて、どうしてアンタはマリンを憎まない?」
「君は思い込みが激しいな。だから、マリン姫がそんなことをするわけ……。っ! 何を、する!」
傷を舐めた途端、彼の腕が僕を襲う。
「ああ、なるほど。違うな。これは死に際に呪ったんじゃない」
「は?」
魔術の質を吟味した僕は彼の腕を躱し、ひらめいた真相に脳を震わせる。
「そうか。マリンは、アンタを呪うために死んだんだな?」
「っ……」
そう。ラズワルドは、呪われたから彼女を愛さないんじゃない。彼女を愛さなかったから呪われた。マリンは、恋が叶わないからと命を捨てたのではない。己の想い人を殺すために、自らの命を禁術のために捧げたのだ。
『ああ。ラピス、邪魔をしないで。あと少し。あと少しでこの人はワタシと一緒に地獄へ行けるのよ……』
「ぐ、あああああ!」
「ラズワルド!」
彼の肩の傷跡がみちみちと開き、そこから悍ましい悪霊と化したマリンが顔を覗かせる。
『ふふ。ラピス。見て頂戴よ。昔、貴方の目の前でついた傷。それに呪いを擦り込んでやったのよ? いいでしょう? 風情があって。でもね。今度はね、貴方は何もできないの』
「マリン。君のやっていることは間違っている」
『そうね。ワタシのやり方が正しくないことぐらいわかってる。でも。許せないじゃない。ワタシはこんなにもラズワルドのことを愛しているのに。この人はワタシを一生愛さない。それどころか、ラピスのことを愛しているなんて! 双子なんだからワタシでもいいじゃない。それなのに、彼はラピスしか見ていなかった。だから、ワタシは……』
「マリン」
『ワタシだって、片割れである貴方にこんな逆恨みしたくないわ。ラピスのことは大好きだったのよ? でも、ダメ。貴方はラズワルドを愛してしまった。ラズワルドは貴方を愛してしまった。こんなのはダメなの。ワタシを置いて二人で幸せになるなんて……。許せるはずないでしょう?』
「あ、ああああ……」
傷跡から出てくる闇が、ラズワルドを覆う。
『ね。ラピス。愛する人を奪われるのは辛いでしょう?』
「マリン。やめろ……」
『ふふ。ラズワルド、貴方はワタシの物になるのよ。嬉しいでしょう? ワタシはとっても嬉しいもの』
「逃げ、ろ……、ラピスくん……。君は、全部忘れて、穢れなく生きろ……!」
闇の中で藻掻き、僕に向かって悲痛な叫びを上げた彼は、紛れもなく愛しかった。
「馬鹿だな。愛する人を奪われて、黙っていられるわけがない」
『ふふ。あはは! ああ。本当に素晴らしい愛だわ。ラピス。でも、綺麗な愛だけじゃ何にもできないわ。貴方如きじゃワタシを止められない!』
「早く、逃げろ……!」
「逃げないよ」
闇に覆われたラズワルドに手を伸ばす。そして。
『な……』
素早く呪文を唱えると、その闇だけを散らし……。
「ラズワルド。僕を受け入れろ」
「へ?」
無防備なその唇に口づけを落とす。勿論、ただのキスではない。呪いを解くために必要な手順だ。
「ん……、んんっ! は、何、を……」
力の抜けきったその体を抱き留め、そのままマリンに向き直る。
『何故……。何故、ラピスが、ワタシの呪いを打ち破れるのよ……! どうしてェエエエ……!』
金切り声を上げたマリンの亡霊が、苦しみ悶えながらラズワルドの肩から離れてゆく。
「マリン。君が魔術に傾倒するのを、僕が黙って見ていたと思う? 僕はね、僕なりに君の魔術に対抗する術を探したんだよ。君が道を踏み外してしまった時のために、ね」
『嘘でしょ、ラピス、や、やめ……』
「そして、辿り着いたこの力で、ようやく君を止めることができる」
「ああ。ラピスくん。君は、その瞳は……」
ラズワルドの目に映った己の青い瞳が、赤く染まってゆく。そう。これも禁術の類だ。結局、僕も人のことを言えなかった。
「さよなら。マリン」
『ああああああああああ』
宙に漂うマリンの亡霊を握り潰し、燃やし尽くす。これで、邪魔者はいなくなったわけだ。
「さて。ラズワルド。貴方はマリンの呪いから覚めた。僕もそうだ」
「ん……」
「悪い魔女を倒して、愛する二人は結ばれる。おとぎ話の基本だ」
「ああ。その二人が姫と王子なら、ね。君には感謝している。昔のことも、今のことも。でも、私にはわかっているんだ。君と私は一緒になれない。君はここから早く逃げるべきだ。君のその力があれば、私の助けなどいらないはず。追手から逃げることも容易だろう?」
「アンタは、僕と一緒にいたくないのか?」
「……そりゃいたいさ。でも無理だろう? 呪いが解け、寿命が延びた今、我儘を言ってはいられない。元々、少し夢を見た後、適当に子をなして死のうと思っていたんだ。私は一国を背負っている。ただでさえ女性が少なくなって国の体制が危ぶまれているんだ。だから……」
「僕を愛しているのに、愛してもいない女と結婚するってわけ?」
「それが私の運命だ。国民に正しい道を示さなくては」
「女性と結婚して子どもを作るのが正しい道?」
「それが人間の役割だろう? 生物として子孫を残すのは当然の行為で……」
「じゃあ、どうしてアンタは権力を駆使してまで女性を数人囲っていたんだ?」
「あれは玩具だって言っただろ?」
「違う。今ならわかる。アンタは彼女たちの意思を汲んだんだろう? 彼女たちはひどい扱いを受けて、傷心していたんだ。だから、君は大金を払ってまで、束の間の休息を彼女たちに与えた」
「まて、君は、何を、見ている……?」
怯えたように声を震わせる彼に、心が躍る。
「アンタの心さ。ああ、そうだよ。僕は最初からこうすればよかったんだ」
「っ」
僕の腕から逃げようと藻掻く彼の顎を掴み、上を向かせて、その瞳をゆっくりと眺める。
「ああ。アンタは内心では全てを僕に委ねたがっている。全ての使命を捨てて、僕にめちゃくちゃにされたいと願っている」
「そんなわけ……! っぐ」
上ずった声で嘘を吐く可哀想な彼の喉を締める。すると、呆気ないほどに抵抗の色が消え、その美しい瞳から涙が零れる。
「本当は怖かったんだろう? マリンに呪われて。一人で苦しんでいたんだろう? でも、寿命が尽きる前に、僕がマリンの代わりとしてやってきて、アンタは驚いた。そして、暗闇の中で最後の希望を叶えられればと思った。僕をマリンとして住まわせることができたならどんなに幸せかと思ったんだね。ああでも、これは君自身が語っていたね。案外素直、意外と乙女だね」
「かは……。もう、見ない、で……くれ……」
首から手を離し、地面に崩れ落ちて嗚咽を漏らす彼の首筋に、ゆっくりと口づける。
「わかっただろ? もう嘘を吐いても意味なんかない。さあ、ラズワルド。素直に僕の手を取るんだ」
「いや、駄目だ……。私は、民を、裏切れない……」
もう抵抗するだけの力もないくせに、決して折れないその瞳にため息を吐く。
「は~。本当にアンタは真面目だな。それじゃあさ。アンタが望んだ答えを、僕が代わりに出してやるよ」
「は?」
ぱちり。指を鳴らした途端、辺り一面が炎に包まれる。
「な、何を……!」
「アンタの答えはこれだ。しがらみを全て消し去り、僕と共に生きる。さ、逃げよう。この先は全部僕に任せてくれればいい」
「待ってくれ、私は、こんなこと、望んでなんか……」
「さあ行こう。誰もいない場所ならば、きっとアンタも素直になれるだろう」
「あ……」
揺らめく炎が僕たちだけを避けてゆく中、愛しい夜空に口づける。ああ、きっと僕は蝕まれてしまったのだろう。人間には重すぎる魔術のせいで、魂が歪んでしまったのかもしれない。だけど。
不思議と後悔はしていない。
だって。
「ラピス……」
美しい涙を流した彼は笑っていたから。きっと自分では気づいていないのだろうけど。彼の瞳は、今まで見た中で一番綺麗に輝いていたのだから。
「愛しているよ。ラズワルド。僕が君を、この苦しい世界から連れ出してあげる」
「ああ……」
気を失った彼の瞼に口づけを落とし、人々の悲鳴が響く炎の中で僕は呟く。
「ありがとうマリン。君のおかげで僕は幸せだよ」
心の籠もっていない祈りを捧げ、愛する人を抱きあげて僕は進む。
見上げた朝焼けは、胸が空くほどに美しい赤を湛えていた。
双子の弟×姉の許婚である王子
受けっぽい方が攻めなのが好きです!(知ってた)
ラピス:双子の弟。マリンのことが好き。
ラズワルド:隣国の王子。マリンの許婚。
マリン:双子の姉。ラズワルドに愛されないが故に死ぬ。
名前の由来はラピスラズリとアクアマリン。ラズワルドは空って意味です。
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「マリン、どうしてこんなことを……!」
血に濡れた双子の姉が、動揺する僕に向かって微笑む。
「ごめんね。でも、もうこうするしかなかったの……。結婚したって、彼の心がワタシに向くことはないんだもの……! だから、ワタシは……。もう、生きてはゆけない……!」
「マリン!」
「ラピス。出来の悪い姉でごめんね。でも、どうか許して……。いえ、許さなくてもいいわ」
「マリンっ――!」
腕の中で力尽きた姉に、僕は叫んだ。でも、その美しい水色の瞳は僕がどれだけ叫ぼうとも、二度と開くことはなかった。
「どうして……」
頬を伝う涙が零れ、瓜二つの姉の瞼に落ちる。
僕は恨んだ。何も話してくれなかった姉を。姉を救えなかった自分の無力さを。そして何より。彼女を死に追いやった隣国の王子様を――。
双子の姉であるマリンは明後日、隣国に嫁ぐ手筈になっていた。
この世界では、どういう訳か女が生まれにくかった。いつからそうなったのかは僕にはわからない。僕が生まれるずっと昔から、女性の存在は珍しかったらしい。そして、それは悪化の一途を辿るばかりで、今じゃ女性を見ることなく死んでゆく男がほとんどだ。そのせいで、人間の数はあっという間に減り、土地はすっかりと余ってしまった。
ある神父は呪いなのだと語り、ある学者は人類の進化段階なのだと語った。僕には正直、どれが正しいのかわからなかった。そして、どれだけ論を尽くそうとも、誰もが解決策を見出せないでいた。
そんな中、奇跡的に生まれたのがマリンだった。
マリンは生まれたときから、隣国に嫁ぐことが決まっていた。隣国の王はマリンの噂を聞き、早々に金をチラつかせて両親を納得させたのだ。
今の時代、女性はほぼ貴族の結婚相手として、赤子の頃から買収される。
何も知らない奴は、生まれたときから成金確定のいい人生だとか、俺も女に生まれたかっただとか、女は楽でいいなどとほざく。実際、マリンが幾度となくそういう言葉を投げかけられていたのを知っている。
だが、彼女は本当に幸せだっただろうか?
確かに、彼女は隣国の王子ラズワルドと上手くいっているように見えた。彼の容姿はとても美しかった。世の女性たちが太ったへちゃむくれ王子や歳のいった髭面王子なんかと無理やり結婚させられている中で、ラズワルドと結婚できることは、恐らく幸福だ。彼女自身、彼を気に入っているように見えた。だから僕も、彼女は幸せなんだと思っていた。思っていたのに。
「幸せな人間がどうして自殺など図るだろうか……」
マリンの腹に刺さったナイフを引き抜き、その赤い色を見つめる。
思い返してみると、確かにマリンは僕を見て時々悲しそうな表情を浮かべていた。あれは、僕に助けを求めていたのではないだろうか。彼と何かあったのではないだろうか。
情けない。双子だというのに、僕は全くもって彼女の気持ちに気づけなかったのだ。
『おい、どうするんだ! 代わりの女なんて早々見つからんぞ』
『このままじゃ、マズイ! 下手すりゃこの国が滅ぼされちまう!』
この国でたった一人の女性であるマリンは、この国にとっての希望でもあった。ラズワルドはマリンを大層気に入り、両親だけでなく、この国の安寧までもを約束してくれていた。
正直、この国は強くない。だから、ラズワルドの申し出は大いに皆を安心させた。だからこそ。マリンは言えなかったのではないだろうか。結婚したくないという自分の意志を。そして、耐え切れなくなって、自ら命を絶ってしまったのではないだろうか。だったら。
「僕が、僕が行きます」
『あ?』
パニックに陥った男たちの中、僕は静かに進み出る。
「僕はマリンと似ている。カツラでも被れば瓜二つ。バレることはないはずだ」
『お前、そんなんで誤魔化せるわけが……』
「時間稼ぎだよ。それまでに他に女性を連れて来ればいい」
『お前、簡単に言うがなぁ……』
「でも。今ここでラズワルド王子にマリンの死を悟られるわけにはいかない。そうだろう?」
『そ、そりゃそうだな……。もうそれしかねえよな……』
『よし、わかった。オレたちはなんとか女を攫ってくる。だがラピス。お前は無茶をするんじゃないぞ?』
こうして、僕は皆を丸め込み、マリンと成り替わった。何も、国の為ではない。僕にとって、マリンを生贄にしたこの国がどうなろうとも構わない。ただ。
「……僕は知らなくちゃならない」
誰にも聞こえない小声でぽつりと漏らし、決意を固める。
僕は彼女の死の真相を知らなければならない。そして。もしそれが彼のせいだったのだとしたら。愛しいマリンの片割れとして、彼に一矢報いなければならないのだ。
「ああ、愛しのマリン。私は心配したよ。実家に荷物を取りに行ったっきり、戻ってこないのかと思ったよ」
「すみません。久しぶりの実家に、ついゆっくりしてしまいましたの」
「そうか。でも、勘弁してくれ。明日は待ちに待った挙式なのだから。今日はお互いゆっくりしないと」
「はい……」
ゆったりと微笑んだラズワルドは、ウイッグをつけてドレスに身を包んだ僕を疑う様子もなく、自室へと導く。
僕とマリンは声質も似ていた。顔程ではないにせよ、少し意識して高い声を出せば大抵の人間は騙せた。男としては微妙な気持ちだったのだが、こうして今、目の前の男を騙せたことでその気持ちも帳消しだ。
とにかく、何が何でもコイツの裏を探ってやる。その美しい顔の裏に、一体どんな狂気を秘めていることか……。
「さ。入って?」
「え……? こ、これは……?」
促されるままに部屋に入った僕は、その光景を見て立ちすくむ。
「ああ。君は会うのが初めてだったかな。僕の玩具たちに」
「玩具って……」
彼が指し示した方向、ベッドの上には、数人の女たちが裸で寝そべっていた。
「嫉妬しなくてもいい。ただの玩具さ。君が来るまでのほんの退屈しのぎだよ」
肩に置かれた手を今すぐにでも振り払いたい衝動に駆られながら、僕は女たちから目を逸らす。
「どうして、こんなに女の人たちを……」
「あはは。勿体無いって言われちゃうね、きっと。でもさぁ……」
僕の傍を離れたラズワルドが一人の女の近くに行き、その長い髪を梳き始める。女はそれを至極当たり前のように受け入れた後、嬉しそうに身を捩る。
「狂ってる……」
ぼそりと言葉を零してから、慌てて口を噤む。が、ラズワルドには聞こえてしまったらしく、彼は手を止めずに意味深な微笑みをこちらに向けた。
「でもね。私は子どもを産むだけが女じゃないと思うんだ」
「……そんなの、当たり前です」
「おや。今のこの世の中、男はみんなそうだと思ってるよ。男だけじゃない、女だって、そう教え込まれて育つんだから、君のその反論は全く珍しいものだよ」
「狂ってる。こんな世の中、悪夢だ」
「そうさ、全くこの世は歪んでいる」
再び近づいて来た彼が僕に手を伸ばす。
「……」
その美しい指が僕に触れるより前に、僕は後ろに下がり、彼を拒絶する。
「そう警戒しないでおくれ。君は大切に扱う。約束しよう」
小指を立ててこちらに指切りを促す彼の瞳は、無邪気な子どものようにも見えた。でも。
「そんなもの、信用できるわけがない」
「おやおや。すっかり嫌われてしまったみたいだねぇ。でも、本当だよ。マリン。私は君を正式な妻として迎え入れる。わかるだろう? 末長く付き合うんだから、君に嫌われては困る」
「こっちは望んでもいないのに?」
「そこは、言いっこなしさ」
「貴方は結婚することについて納得しているんですか?」
「拒否権など私たちに与えられていない。 君もわかっているはずだ」
「……」
「まあ、私は君のように可愛らしい子を妻にできることを喜ばしく思っているがね」
嘘つきめ、と心の中で悪態を吐く。彼はマリンを見ていなかったはずだ。マリンは、そのことに憤り、自らの命を捨てた……のだと思う。でも。頬を撫でる彼の指は酷く優しい気がして。僕は少しだけ、今からやろうとしていることに後ろめたさを感じたのだった。
城の食事は、それはもう美味しかった。魚をまるごと蒸したものや、香草で味付けされた子羊のステーキ。そして、瑞々しい野菜のサラダ。熱々のポタージュも忘れてはいけない。とにかく、どの具材も新鮮で、いつも食べている食事なんかとは比べ物にならないぐらい完璧だった。
ああ、これがいわゆる最後の晩餐ってやつか。
そう思った途端、手に持ったフォークが動きを止める。
「口に合わなかった?」
長いテーブルを挟んだ正面で、優雅に笑ったラズワルドが僕を見つめる。
「いや。美味しいけど……。見られてちゃ食べ辛い」
「それはすまない。さ、たんとお食べ。見つめないようにするから。君は細すぎる。もう少し太った方がいい」
「それはアンタの方だろ?」
自分より身長があるというのに、ラズワルドの腕は僕の腕よりもずっと白く細かった。先ほどの女性たちよりも細いかもしれない。だけど、眼光の強さなのか、かっちりと着込んだ服のせいなのか、不思議と今まで気づかなかった。
「私はいいんだよ」
投げやりに呟いた彼がワイングラスを呷り、目を伏せる。その一瞬見せた愁いの表情に息を飲む。
「どうして……?」
「さてね。機械なのかも」
「……」
肩を竦めてみせた彼に、機械であってくれたらどんなに楽かと心底思う。何がって? そりゃあ勿論。殺すのが、ね。
夕食を終えた後、てっきりそういうことをするのだろうと身構え、その時に殺す算段だったのだが。
「それじゃあマリン、明日に備えて早くお眠り」
そう言って、僕の手の甲に口づけたラズワルドは、振り返ることもせずに自室へと消えた。
「まあ、アイツの部屋、女でいっぱいだったし。そういうことには困ってないってことか」
呟いて、ラズワルドの悍ましさに寒気が走る。あんな顔して罰当たりなほどに女を己の私欲のために使っているのだ。今の世の中、人類の敵と言っても過言ではない。ならば。
「殺した方が世界のためだ」
自分に言い聞かせるように呟き、時間を見計らうと、僕は彼の寝室に忍び込んだ。が。
あれ……?
てっきり、女を侍らせながら眠りについているのだろうと思っていたのだが、部屋に女の影はなく、彼は一人、音も立てずに豪華なベッドの上で安らかに眠りについていた。
何はともあれ、これはチャンスだ。
整った顔から目を逸らし、心臓に向かってマリンの形見であるナイフを振りかざす。
やった。これで僕は彼女の無念を晴らせる――。
勝利を確信した刹那。ラズワルドが既の所で僕の手を受け止め、跳ねのける。
「ああ、君は人魚姫なのかな?」
「くそ!」
全てを見透かしていたかのような余裕の笑みを浮かべるラズワルドに向かって、もう一度ナイフを振りかざすが、それも難なく受け止められてしまう。
「う~ん。情熱的なひと突きだね」
「……お前」
殺意を込めて睨んでやるが、やはりラズワルドは動じない。
「可愛い顔が台無しだよ? マリン姫」
「チッ。食えない野郎だ」
まるで猫でも可愛がるように僕の頬を撫で回したラズワルドが、目を細めて僕を見つめる。
「はて。なんのことやら」
「しらばっくれなくていい。僕はマリンじゃない。弟のラピスだ」
ウイッグを外し、ドレスを脱いで普段着に着替えた今の僕は、どう見てもマリンにしては不自然だ。顔色一つ変えない彼は恐らく、僕の正体に気づいていたのだろう。
「ああ。自分からバラしてしまうなんて。君は本当に可愛らしい」
「黙れ」
人を小馬鹿にしたような態度を取るラズワルドの首にナイフを押し当て、刃をそのまま肌に食い込ませる。
「ラズワルド、お前がマリンを殺したんだ。だから僕は、お前に復讐しなければならない」
「それは酷い言い掛かりだなあ」
「お前がマリンを傷つけたんだろ! マリンはお前が好きだったのに。お前ときたら、このご時世に女を侍らせて! お前はマリンを裏切ったんだ! お前はマリンの恋心を踏みにじったんだ!」
「おや。私がいけないのかい?」
「そうだ。お前はマリンの許婚なのに!」
「浮気したから殺すって? まさか! そんな古典的な!」
「僕は本気だ!」
大袈裟に驚いてみせる彼に苛立ち、ナイフを更に食い込ませる。
「っ……」
「はは。アンタのその白い肌には真っ赤な血がよく映えるな」
痛みに歪んだ彼の表情を見て、ようやく心に余裕ができる。
所詮は籠の中の鳥。そのプライドを限界までズタズタにして甚振り殺してしまえばいい。
「まぁ待て。ここで私を殺したら、君は生きては帰れない」
「それでいい。マリンのいない世界なんて――」
「生きていても意味がない?」
「……そうだ」
夜空を思わせる黒い瞳は、静かにこちらを見据えていた。から、僕は思わず目を逸らした。ずっと見つめていたら、きっと戦意を失ってしまう。それほどまでに僕はその色が好きだった。
「君にとっての世界は、お姉さんだけなのかい?」
「あ?」
「すごい兄妹愛だね。君のそれは恋なのかな」
「……お前には関係ない」
「そうだね。死んでしまった子を相手に恋も何もないよね」
「ッ!」
跳ね上がった怒りの衝動のままに、彼の胸目掛けてナイフを突き刺す。が。
「だから。やめろって言ってるんだ。君はこんなことで死ぬべきではない」
ひらりと躱した彼の瞳が僕を捕らえる。
やめろ。僕はお前を殺したいんだ。ただ、僕は、マリンのために、ラズワルドを、殺す……!
「僕じゃない。お前が死ぬんだラズワルド!」
「それは、お断りだよ、ラピスくん!」
かんっ。壁に飾ってあった剣を手にした彼が、僕のナイフを弾き飛ばす。
「馬鹿な真似はやめなさい。君がここで大人していれば、私は君を悪いようにはしない」
慈悲深いラズワルドの言葉に吐き気がする。冗談じゃない。僕は、やらなきゃならないんだ。
「悪いようにしてくれて構わない。例え僕がここで終わろうと、お前だけは道連れにしてやるから!」
隙を突き、壁に飾ってあるもう一本の剣に手を掛ける。すらりと抜いたその剣は、僕の中の狂気を映し出す。
「ああ。君は本当に馬鹿な子だ。わかったよ。付き合ってやろうじゃないか。君の気が済むまで、ね」
すい、と彼の瞳が鋭い光を帯びる。綺麗だ、と思った刹那、激しい斬撃が襲い来る。
「チッ。ただの小鳥じゃないってわけか」
細長い腕から放たれているとは思えない剣の重さに手が痺れる。恐らくは魔術の類で力を増強しているのだろう。
「はは。貴族はね、ダンスが得意なものさ!」
まるで本当に踊っているかのような華麗なステップで、彼はこちらの動きを翻弄する。
「クソが!」
繰り返される斬撃を受け止める度に、狂気の刃が削がれてゆく。ああマリン、僕は一体どうして戦っているんだっけ。
「ラピスくん。馬鹿なことはやめて、君はマリンを演じるべきだ。そうすれば私も君の正体がバレないように、魔術をもってフォローしよう」
「そんでそのままマリンとして、アンタと結婚しろってか? それこそ馬鹿なことだろうが」
「……君にとってはそうかもしれないが、私にとってはそうでもないさ」
ぼそりと呟いた彼の瞳が僅かに揺らぐ。初めて聞いた弱い声音に、攻撃の手を止める。
「は?」
「……正直に言おう。私は君が好きなんだ。だから、私が君を殺すことはできない」
ため息交じりにそう呟いた彼は、するりと剣を床に落とす。
「笑えない冗談だな」
「冗談だったらどんなにいいことか。私とて笑えないさ」
本気の憂いに冗談でないことを悟る。でも。目の前のこの綺麗な男が、本気で僕なぞに惚れているだなんて。そんなこと……。,
「あるわけがない。そもそも僕はアンタとまともに話したことがないはずだ。好きになる理由がわからない」
マリンと瓜二つである僕は、男からそういう目で見られたことはまあある。が、コイツはマリンをないがしろにしていたはずだ。わざわざ僕をマリンの代わりに据える意味もない。それに、侍らせるほど女がいる彼には、わざわざ男を好きになる理由はないはずだ。ならば何故……。
「やっぱり忘れていたんだね」
「あ?」
悲し気に笑った彼は、その白い指で赤く染まったシャツをずらし、はだけてみせる。
彼の肩には、斜めに走る傷跡が残っていた。それを見た瞬間、僕は心臓を掻き毟りたい衝動に陥った。
「これは昔、森で狼に襲われた跡なんだ」
「狼……」
痛い。頭が。心臓が。どうしてかはわからない。でも。聞こえる。声が。女の子のか弱い悲鳴が。これは、なんだ? 何の記憶だ? 僕は……。
「僕は、何か、忘れているっていうのか……?」
「……」
黒い瞳が静かに閉じる。白い指がシャツを元通りに整えてゆく。そして、その赤い唇がゆっくりと真実を紡ぎ始める。
「私はね、とある少年に命を救われたんだ。そのときから、私の心はこの傷と共に疼くのさ」
*
今よりも昔。僕がほんの十歳だった頃の話。とある貴族のパーティーにマリンの付き添いとしてついでに呼ばれた僕は、その煌びやかな空間に若干の嫌気が差していた。
マリンは本当に希少な同世代の女の子と出会い、おしゃべりに花を咲かせていた。勿論、僕にはその中に入っていく勇気もなく、かといって一人で会場内をうろつく度胸もなく。早々に居場所を失った僕は、外に出て当てもなく彷徨っていた。
「あ~あ。早く終わんねえかな……」
欠伸を噛み殺して、遠くを見つめる。と、一人の少女が僕の目に止まった。
暗闇でも分かる整った顔立ち。そして白い肌。細い手足。腰辺りまで伸びた黒い髪は、彼女が動くたびに誘うように揺れて……。
なんて綺麗な子だろう。
気づいたら僕は、森へと走る彼女の後を追いかけていた。
ああ、彼女の瞳を覗いてみたい。彼女の声を聞いてみたい。
まるで熱に浮かされたみたいに、僕は出会ったばかりの彼女に思考を犯されてしまった。
しかし、願いは最悪な形で叶ってしまった。
『あああああッ!』
「!?」
悲鳴の聞こえた方に駆けると、少女は狼に襲われいた。
「よくも!」
マリンの護衛用にと持っていたナイフを握りしめた僕は、狼に向かってがむしゃらに振り回した。今思うと、かなり無謀だったと思う。でも、奇跡的にその攻撃は狼に当たり、見事、狼を追い払うことに成功した。が。
『ひっ……』
僕の顔を見た途端、少女は怯えて後ずさる。
「あ、怖がらないで。僕は君の味方だよ?」
少女を安心させるべく微笑んでみせると、彼女はハッとしたように顔を上げ、気まずそうに視線を漂わせた。そして。
『そうか。君は……。あ、待って。怪我を……してる……』
僕の額の怪我に気づき、その綺麗な顔を歪めながら心配そうに瞳を揺らす。その瞳はまるで、夜空のように美しく、僕は心臓の高鳴りをついに抑えることができなくなってしまった。
ああ、確か、ナイフを突き刺した瞬間、狼が僕の頭を引っ掻いたんだっけ……。でも。
「ああ、でも! 僕なんかよりも、君の怪我の方が酷いじゃないか!」
その色白い肩には、斜めに走る狼の爪痕が痛々しく残っていた。
『私は、いいんです。こうなることを、見越してここに来たんですから……』
「そんな。どうして……?」
確かに、この森は凶暴な狼が棲むと聞いた。だから、決して足を踏み入れてはいけないと言い聞かされていたのだ。
『私は、死んでしまいたいのです』
「やめてよ……」
痛みに耐えながらも、彼女は微笑んでそう言った。
どうしてこんなに綺麗な少女が、死ななければいけないのか。
『私は、生きている限り、操り人形なんです。私だって自由がほしい。どうして、私たちは早くから結婚相手を決められて、それに向かって生きていかねばならないのでしょう。こんな世の中ならば、私は死んだ方がマシなのです』
「そうか。君も、親に勝手に決められてしまったんだね、自分の人生を」
目の前の少女と姉であるマリンの境遇はきっと同じものなのだろう。ああ、どうしてこの世界はこうも少女たちにとって辛く苦しい世界なのだろうか。
でも。
「死んだら駄目だ」
『え?』
「君が今死んでしまえば、僕は悲しい。お願いだから生きてくれよ。こんなのは僕のわがままだけど、でもね、僕は君に死んでほしくないんだ」
『やめてください。君にはきっとわからない。無責任に優しい言葉を投げることは救いではありません。君は黙って私を見捨てるべきなのです』
「だったら。僕は君を迎えに来る。成長して、強くなって、僕は君を苦しい世界から連れ出してみせるよ。だから、ね? 今は僕を信じて?」
『……』
差し出した手に、少女の手が静かに重なる。華奢な彼女が折れないように、優しく抱きかかえて森を抜ける。
僕はその時、確かに誓った。己の人生を掛けて彼女を守ると。きっと彼女に相応しい男になって、彼女を助けるのだと。
『あのさ。君、名前は……?』
頬を染めた彼女が、遠慮がちに僕に向かってはにかんだ。
「ラピス」
『ラピス……。ふふ。君の青い瞳にぴったりの名前だね』
「君は?」
『私は――』
「ラピス!」
「マリン?」
森を抜け、彼女がその名を告げようとした瞬間、マリンがこちらに駆けてくる。
ああ、マリンめ。マリンのせいで彼女の名前を聞きそびれたじゃないか!
「あ、貴方は……!」
「あれ。もしかして、知り合い?」
「あ、いや。ええと……」
目を丸くして少女を見つめたマリンに問うが、どうしてなのか、マリンはこちらを睨み、黙り込んでしまった。
『いや。少し、ね。それよりラピスくん。私はもう大丈夫だから』
そう言って、彼女は僕の腕から抜け出した。そして、後から来た大人たちに連れていかれて……。結局、僕は彼女に再会することも、彼女の名前も知ることもできないまま、城を後にした。
「ねえ、マリン。あの子、誰なのか教えてよ」
「気になるの?」
「いや、その……」
自分でもどうしてこんなに胸が熱くなるのかわからなかった。でも、どうしたって僕は彼女のことが忘れられなかった。たとえそれが叶わぬ恋だと気づいていても、その想いを消すことなどできなかっただろう。
「ラピス、貴方は忘れるべきよ」
マリンはただ、僕に向かって冷たく言い放った。そのとき、マリンの態度に疑問を覚えはしたけれど、自分のことでいっぱいいっぱいだった僕は、結局マリンの気持ちを考えることをしなかった。
それから。それから僕は、どうしたんだっけ。
確か、ある日、マリンに呼ばれて……。
「ラピス。貴方は忘れなくてはいけないわ。あの方のこと。あの日の出来事を」
「うう……」
「貴方はあの方を好きになってはいけないの。貴方が好きなのはこの私。貴方は姉である私に恋心を抱いているのよ?」
「僕は……」
暗闇の中、いくつかの魔法陣の上で、僕はマリンに術を施された。
ぼんやりとする瞳で見たマリンは、あの少女のようにも見えた。
あれ。僕が好きなのは、あの子じゃなくてマリンなんだっけ……?
「そうよラピス。貴方が好きなのは私。貴方の心は私に囚われているのよ」
そうして。僕はマリンの催眠術にまんまと引っかかり。長いこと記憶と恋愛感情を操作されていたわけで……。
*
「まさか、あの時の少女が……ラズワルドだって、いうのか……?」
彼の話を聞くうちに、長い時を経て薄れつつあったマリンの催眠が完全に解ける。
「はは。やはり君は、私を女と勘違いしていたんだな」
「いや。だって。あんな可愛いの、間違えて当たり前というか……」
「言ってくれるじゃないか。でもまあ、当時はよく間違えられていたからね。無理もない。君には悪いことをしたね」
「ほんとに……。僕の初恋、どうしてくれるんだよ……」
「初恋なんて叶わないものさ。それに君、人のことは言えないだろう? 私も初めはマリンが来たのかとびっくりしたよ。双子の弟がいると聞いてなかったら、君だと気づかなかっただろう」
「なんだ。じゃあアンタは僕が男だと気づいた上で惚れたって言うのかよ」
「そうなるね。むしろ、自分の婚約者の弟君とわかった上で、私は君に惚れてしまったんだ。最低だろう? でも。だって。あんな言葉、貰ったら。忘れられるわけがないじゃないか……」
「あんな言葉って……」
「ふふ。君は、私を連れ出してくれるんだろう? この薄汚れた鳥籠の中から」
目を細めた彼が僕の髪を上げ、未だ残る額の傷跡を優しく撫でる。
「ラズワルド……」
「なんて、ね。あんなものはとっくに時効さ。君にとっては消し去りたい過去だろう? 大丈夫。私も忘れることにしよう」
「おい……」
彼の手が額から離れて、そのままだらりと力を無くす。
「私は愚かだったよ。助けられて惚れるだなんて、陳腐な恋の仕方だろう? でもね、どうしたって私は、君のことが忘れられなかったんだ。例え、君が私のことなぞ忘れていたとしても。どうしたって、もう一度、君にこの想いを伝えてみたかったんだ……。許してくれ」
悲し気な瞳に胸が締め付けられる。どうして謝るんだよ。馬鹿野郎。
「違うんだ! 忘れていたんじゃない! 僕は、マリンの魔術で記憶を封じられていて……! アンタに一目惚れしたのも、塗り替えられてて……!」
「ああ。なるほど。嫉妬に溺れた彼女ならばやりかねない。そうか。彼女は君までも魔術の餌食にしてしまうのか……」
小さく呟いた彼は首を振り、そしてため息を吐くと、昔と変わらぬ美しい瞳を真っすぐに向けて、微笑んだ。
「まあ、だとしても、だ。君は忘れていい。いや、忘れてくれ。こんな浅ましい告白、するべきでないことはわかっていたのに。はぁ。ああ本当に。どうかしてるさ。私は。でも、君がマリンの代わりとしてやってきたとき、私は心底驚いたよ。だから、つい……。いや、こんなことが言いたいんじゃないんだ。ええと、その。つまり、君が代わりに来ているということは……。やはり、彼女は死んでしまったのかい?」
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『ああああああああああ』
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「っ」
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「かは……。もう、見ない、で……くれ……」
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「わかっただろ? もう嘘を吐いても意味なんかない。さあ、ラズワルド。素直に僕の手を取るんだ」
「いや、駄目だ……。私は、民を、裏切れない……」
もう抵抗するだけの力もないくせに、決して折れないその瞳にため息を吐く。
「は~。本当にアンタは真面目だな。それじゃあさ。アンタが望んだ答えを、僕が代わりに出してやるよ」
「は?」
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「な、何を……!」
「アンタの答えはこれだ。しがらみを全て消し去り、僕と共に生きる。さ、逃げよう。この先は全部僕に任せてくれればいい」
「待ってくれ、私は、こんなこと、望んでなんか……」
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「あ……」
揺らめく炎が僕たちだけを避けてゆく中、愛しい夜空に口づける。ああ、きっと僕は蝕まれてしまったのだろう。人間には重すぎる魔術のせいで、魂が歪んでしまったのかもしれない。だけど。
不思議と後悔はしていない。
だって。
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「愛しているよ。ラズワルド。僕が君を、この苦しい世界から連れ出してあげる」
「ああ……」
気を失った彼の瞼に口づけを落とし、人々の悲鳴が響く炎の中で僕は呟く。
「ありがとうマリン。君のおかげで僕は幸せだよ」
心の籠もっていない祈りを捧げ、愛する人を抱きあげて僕は進む。
見上げた朝焼けは、胸が空くほどに美しい赤を湛えていた。
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