アズアメ創作BL短編集

アズアメ

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101~110

(110)天候を操る少年の話

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 天候を安定させる役目を担う少年と、その少年の挙動が怖いのだと女子に相談された生徒会長の話。
 田舎出身じゃないのでシキタリとか知らない生徒会長×シキタリに逆らえない無口君。※この話を思いついて書き留めていたのが大分昔(まだ王道にハマれていた頃)だったので、いつもと逆CP感あります(年下攻めでない)。
 別にシキタリ(エロ)ではないです。呪文唱え続けなきゃいけないっていう地味な地獄。そもそも、BのLと言っていいのかわからんぐらいLが迷子になってます(いつも)。特殊能力持ちの苦悩的なやつ、好きです!

天神 希柚(てんじん きゆ):天神家長男。天候を操る儀式を任されている。高校一年生。ネーミングは雪。
東城 慎也(とうじょう しんや):引っ越してこの土地にやってきたばかりだったが、人柄の良さで生徒会長に任命される。高校三年生。ネーミングは投身。
天神 麗葉(てんじん れいは):天神家長女。希柚とは双子。ネーミングは晴れ。
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 あるところに、天候を操る力を持った人間たちがいました。天神と呼ばれたその一族は、その昔、神々の安息地を守るために力を授かった、特別な人間でした。
 その力は、人が神を信じなくなった現代にも脈々と受け継がれ、天神家はその地を天災から守り、安定した気候をもたらし続けていました。
 でも、今や彼らの存在を知る者は、その土地でもごく僅か。しかも、その存在を知っている人間も、ほとんどが彼らのことを薄気味悪く思うようになっていました。
 天神の力は、昔のように人々が憧憬するものでなくなってしまったのです。



『天神君、また外見て呟いてるわあ……』『ずっとはヤバいて……』
 とある片田舎の高校の教室で、天神 希柚はクラスメイトから気味悪がられていました。
 教室の一番後ろ、窓際の席で、一日中空を見上げて何事かをぶつぶつと呟いている気味の悪い変人。それがクラスメイトから見た彼の印象でした。
『やっぱ、頭おかしいわな』
 彼は、別に頭がおかしいわけではありません。彼は、天神家の嫡男として、仕事を果たしているだけなのです。
 彼に任されているのは、昼間の天候を安定させること。そのための呪文を、授業中であってもずっと呟かなければならないのです。
『てかさ、この学校自体ヤバない? 天神家とか天候がどうとか、宗教やりすぎやって』
『それな。んな古臭くてヤバい儀式やってんの、ここぐらいやわ』
『でも、ウチのばーちゃん、マジで信じてる臭いねん。邪魔すると神々の怒りに触れるとか言ってな』
『あ~、お年寄りはまだそういうこと言うわな』
『天神君もさ、人権なさすぎやんね?』
『いや、そらカワイソ~やけど、こっちのことも考えて欲しいって話やん』
 彼の学校は、彼が昼間に儀式を行うことを容認していました。この地を古くから取り仕切る天神家には逆らえないのです。
『せめて別の場所でやってほしいわ』『ね』『ウチのママ、教育委員会に訴えたらしいんやけど、揉み消されたとか言うてた』『ヤバ』『どうなってんの』
 勿論、彼だって好きで教室にいる訳ではありません。彼だって、何度も天神家の長である祖母に「せめて場所を移動させてほしい」と言いました。が、彼の祖母は『人々の視線や悪意に晒されて、ようやく一人前となるのです。代々修行中の者は人前で儀式をしてきているのです。我慢なさい。その点、学校は持ってこいの場所。授業の妨げになる? そんなもの。ここに住まう民として我慢して当然です。むしろ彼らは天神を敬うべきだというのに」と一蹴するのでした。
 この地獄の日々は、少なくとも彼が高校を卒業するまで続くのです。



 そんなある日のこと。数日前の席替えで彼の隣の席になった女子は、彼の儀式に耐えられず、困った末に生徒会長の元へと相談に行きました。
『私、天神君が怖くて、授業に集中できないんです……。先生に言うても全然聞いてくれなくて……。天神君だけは席替え免除やったし……』
「う~ん。困ったな。俺は天神のこと、あまり知らないんだけど……」
『お願いです。もう、私、頭がおかしくなりそうで……。生徒会長しか頼れない……』
 泣きつかれてしまった生徒会長は、彼女を落ち着かせた後、仕方なく彼の様子を見に行くことにしました。
「天神 希柚か……。不気味だって噂しか聞かないぞ? 果たして、行って話が通じるかどうか……」

 放課後。生徒会長がこっそりと教室を覗くと、彼は一人でじっと窓の外を見つめながら、呪文を呟いていました。
 本当に異常だな……。
「やあ、天神君。一人きりで熱心だね」
「!」
 生徒会長が本心を隠して笑顔で近づくと、彼の瞳は微かに揺らぎました。
 へえ。全く感情を出さないと噂に聞いていたけど……。流石にそんなわけないか。
「申し遅れたね。俺は東城 慎也。生徒会長をやってるんだけど……知ってるかな?」
「……」
 彼は視線を漂わせた後、数十秒を費やしてようやく微かに頷きました。勿論、その間にも彼は口の中で呪文を唱えることを止めません。
「それさ、ずっとやってるの?」
 問われた彼は一瞬肩を震わせた後、返答することなく窓の外に視線を戻しました。
 ああ、これは確かに厄介だな。
「あのね、天神君。君のことを怖がってる子がいるんだよ」
「……」
「君が怖くて、授業に集中できないんだって。生徒会長として相談を受けてね……」
「……」
「君も本意でやってるわけじゃないかもだけど、せめてさ……ね、聞いてるの?」
「……」
 これも無視か……。
 慎也がため息を吐いたのと同時に、差し込んでいた日の光が消え、窓の外がみるみるうちに曇り始めました。
「あれ、今日は雨が降るんだったっけ?」
「……」
「あ、もしかしてこれ、君のせいだってりして……」
「……」
「なんて。そんな力、あるわけ――」
「ッ……」
「え? 泣いてるの……?」
 彼の目から涙が流れているのに気づき、慎也は慌てました。
 ああ、でも。ちゃんと感情があるんじゃないか……。
 黒い瞳からはらはらと零れ落ちる涙を見るに、彼にも罪悪感があるようでした。
「何か、理由があるんだね? 君も止めたいと思っているんだね?」
「……」
 涙を流しても尚、止まない呪文を聞きながら、慎也はその涙を指で拭ってやりました。
「俺は、伝統を重んじるよりも大切なことがあると思うよ。だから、君が変わらなきゃ。君が止めたいのなら、いつだってやめていいに決まってる。ね、試しに明日だけでもサボってみなよ。どうせバレっこない。怒られたら、俺が責任取ってあげるからさ、ね?」
 慎也としては、彼のためにも、といった提案のつもりでした。
「天神君。約束だからね? こんな馬鹿々々しいシキタリ、俺らの世代には必要ないよ。少しずつ、変えていかなきゃ」
 慎也は彼の手を取ると、小指同士を絡ませて、強制的に指切りをしてみせました。
 彼の周りの生徒を救うために。彼の将来を変えるために。慎也は、無理やり古い慣習を断ち切ろうとしたのです。



『え、治ってませんよ? 天神君、今日もずっとぶつぶつ呟いてましたし……』
「え? 嘘……」
 翌日の放課後。女子生徒の返答に、慎也は凍りつきました。
 どうして……。あの提案はお互いにとって価値のあるものだったのに。破る必要性がどこにあるっていうんだ……? 俺は、天神君のためを思って言ったのに……。
 ふつふつと湧き上がる怒りを抑え、慎也が彼の教室に向かうと、黒い瞳はやはり空を見つめていました。
「ねえ、天神君」
「!」
 近づいて声をかけると、彼は悪いことをして見つかった時の子どものように、肩をびくりと揺らしました。
「どうしてやめてくれないのかな?」
「……」
「君には何か言い分はないの? 俺で良かったら相談に乗るよ?」
 それを聞いた彼は、慌てて首を横に振りました。
「俺じゃ頼りにならない?」
「……」
 また無言、か……。
 黙り込み、俯いた彼を見て、慎也は隠す暇もなくため息を吐いてしまいました。
 だって、まさか約束を破られるとは思ってなかったから。自分の善意が拒否されるとは思っていなかったから。
 慎也が生徒会長に就任してから、大抵の生徒はすぐ慎也に心を開きました。それが不登校であったり、いじめられっ子だったとしても慎也はするりと相手の懐に入っていけたのです。
 それなのに、彼だけはどうしても心を開く気配がないのですから、慎也が焦るのも無理はありません。
「許せない……」
 慎也が小さく呟いた途端、彼は取り繕おうとあたふたと目を動かしました。
 しかし、口を開いては閉じての繰り返し。そうして最後は悲しそうな顔をして結局黙り込む始末。その挙動もまた、慎也の心に波風を立ててしまうのです。
「もういいよ。君に期待した俺が馬鹿だったよ」
 慎也が教室を出た途端、激しい音を立てて風が窓を揺らしました。ついさっきまで穏やかな天気だったのに、いつの間にか外は厚い雨雲に覆われていました。



「先生。そういうわけで、俺は天神君のことを根本的にどうにかするべきだと思います」
『いや、それは……』
 本人に話しても無駄だと感じた慎也は、彼の担任に訴えることにしました。でも。
『東城、お前も下手に関わらない方がええ。これはお前が思うほど簡単な問題じゃないんや』
 彼の担任は声を落とすと、真剣な顔で慎也を諭しました。
「は? だってあんなの。形だけの古臭い儀式じゃないですか! あんなのより、生徒の苦情を優先させるべきだ! それとも先生は、天候を操るとかいう馬鹿げた話を信じているんですか?!」
『しっ。そない罰当たりなこと、言うもんやない。ともかく、オレも配慮が足りんかったわ。天神の周りは空席にする。それでとりあえずは勘弁してくれ』
「とりあえずって……」
『さ、この話は終わりや。行った行った!』
 担任は、尚も言い募ろうとする慎也を手で制し、退室を促しました。
 その様子は明らかに何かに怯えているようで、この問題は大人をあてにするべきでないと慎也は悟りました。



 それから、慎也は何度も彼の教室をこっそり訪れました。
『先生も生徒会長もアテにならんなぁ』『流石にこうも毎日やられるとなあ』『中学の頃はフツーの奴や思っとったんやけどなあ』
 狭い教室で、ひそひそと話すクラスメイトの声が聞こえないはずがないのに、彼は空を見ながら変わらずにぶつぶつと呟いていました。
『本当に気持ち悪い奴やな。聞こえとる癖に』
 大人や慎也をあてにできないと知り、クラスメイトたちの当たりは更に強くなってゆきました。
「自業自得。あんな儀式、早くやめればいいのに……」
 慎也は、彼を助けようともせずにその様子を伺い続けました。
 彼の肩が小刻みに震えていることに気づいていながら、ただ毎日放課後に彼が虐められる様子を見つめ続けたのです。



 天神 希柚は、クラスメイトが自分に向ける口汚い言葉をなるべく意識しないようにと必死に口を動かしました。
『呪文以外喋れんのかいな。気味悪いわ』『人間辞めたんか』『バケモンや』
 希柚だって、中学生の頃までは普通に友達と喋ることができていました。儀式だって、夜に一時間程度任されていただけでした。
 だけど高校生になった途端、希柚の祖父が死に、彼の負担が増え、祖母の態度も厳しく変わってしまったのです。
 今や、希柚は日が昇ってから沈むまでの長い時間を担当していて、そのせいで友達と喋る暇が全くないのです。
『本当に喋れんのか試してやろうか?』『うわ、こわ~。いじめんの~?』
 クラスメイトの下卑た笑い声に、希柚は堪らずに立ち上がりました。これ以上ここにいたら、彼らの悪意に潰されてしまいそうでした。が、彼らは簡単に希柚を許しません。
『おい、逃げるなや』
「……」
 逃げようとする希柚の腕を掴んだクラスメイトが、そのまま彼を突き飛ばしました。
『返事ぐらいせェよ!』
「……ッ」
 机にぶつかって倒れ込んだ希柚は、歯を食いしばり、また呪文を唱えようとしました。
『お前、狂っとるわ』『気持ち悪いわ!』
「……」
 希柚は、俯いて感情を押し殺しました。だけど、そんな態度がますますクラスメイトたちを刺激して……。
『のやろう!』『こっち向けよ!』
 殴られる寸前、希柚は目を瞑りました。どうすることもできない自分を心の底から呪いながら。でも――。
「おい、何をしているんだ」
『やべ、生徒会長や……』『別に何もしとりませんて。そいじゃ……』
 慎也の顔を見るや否や、彼らはすごすごと帰ってゆきました。機嫌の悪そうな生徒会長に言い訳ができるほど、彼らの面は厚くはありません。
「あ~、大丈夫?」
「……」
 希柚は手を伸ばした慎也を無視すると、一人で起き上がり、窓の外を見つめて早口で呪文を呟き始めました。
 希柚の耳には祖母の『今度天候を乱したら厳罰を食らわす』という言葉が恐ろしく響いていました。
「やっぱり可愛くないな」
「……」
 希柚は、痛みに顔をしかめながら呪文を唱え続けました。それは、当たり前のように日没まで続いたため、慎也は途中で何も言わず帰ってしまいました。


「ね、見てたよ。お兄ちゃん。クラスメイトの戯言に心揺らされちゃってさ。ほんと、素質ないよね」
 希柚が家に帰り着くと、妹が彼をあざ笑いました。
「早く潰れちゃえばいいのに」
 すれ違いざまに肩を叩き、殺意の籠った声で囁いた彼女に、希柚は瞳が乾いてゆく気持ちがしました。
 妹の天神 麗葉は、執拗に希柚のことを妬んでいました。彼女は、彼が天神家の後継ぎとして可愛がられる度に、自分が不要な存在であると思い込んでしまったのです。
 勿論、希柚はただひたすらに可愛がられたわけではありません。むしろ、祖母の厳しさに己を殺さないといけないほど怯えていました。
 それでも、彼女は親代わりである祖母の愛情を一身に受けている希柚を羨ましいと思っていました。
 彼らの両親は、彼らが幼い頃に死んでしまいました。妹の麗葉は尚の事両親のことを覚えていないのでしょう。
 だから、彼女は身内からの愛が欲しかったのです。希柚が羨ましくて仕方なかったのです。
 そして、そんな彼女の気持ちを知っているからこそ、希柚は妹の言葉を黙って受け止めました。
 でも、希柚の負担が増えた今、彼はその強くなる一方の悪意を受け止めきれなくなってしまっていたのです。
 ああ、僕は死んでしまった方がいいんだろうな……。麗葉は僕みたいに心が弱くない。力だって、きっと問題ないはずだ……。僕が死んでもきっと彼女が僕の代わりをしてくれる。彼女もそれを望んでいる。僕は自分の仕事から逃げたくて仕方がない。だったら……。
 ……だけど。
 希柚は、薄暗い部屋の中でロープを握りしめて、ため息を吐きました。
 やっぱり駄目だ。怖い……。
 彼にはまだ、自分で死ぬ勇気がありませんでした。
 僕は弱い。本当に弱い。両親のように、自ら死を選ぶことすらできない……。
 彼らの両親は、その役目に耐え切れず二人で心中しました。その嫌な役目を幼い彼に押し付けて。だから希柚は、別段両親のことを恋しく思っていませんでした。
 僕も殺してくれれば良かったのに。僕が苦しむことなんかわかっていただろうに。
 いや、僕もきっと彼らと同じことをしようとしてる。とやかく言う資格はないのかもしれない……。
 希柚はもう一度ため息を吐くと、丁寧にロープを引き出しに仕舞いました。
 もし、僕が彼みたいだったら、きっと上手くできるんだろうな……。このくだらないシキタリを終わらせることだって、できるかもしれないな……。
 希柚は、慎也の顔を思い浮かべて目を閉じました。
 希柚は憧れていました。自分と正反対の彼に。彼はいつでもきらきらと光っていて、彼は希柚が持っていないもの全てを持っているように思えました。だから、彼が全部正しく見えて……。
『許せない……』『もういいよ。君に期待した俺が馬鹿だったよ』『やっぱり可愛くないな』
「……ッ」
 彼に背く自分が、彼に軽蔑される自分が、とんでもない悪だと気づかされてしまうのでした。



 体が、怠い……。
 翌朝、色々なことをぐるぐると考え過ぎたせいか、希柚は熱を出してしまいました。
 それでも彼は、祖母に悟られないよう普段通りを装って、学校へ向かいました。バレてしまえば、きっと「体調管理がなっていない」と怒られてしまうのです。
 空を見つめている間中、今まで投げかけられたたくさんの言葉が心に浮かんでは消えてゆきました。
 祖母、妹、クラスメイト、そして慎也。みんなが希柚を心の中で責め立て続けました。
 ああ、僕もあの人みたいに上手くやれたら良かったのに。
 そんなことを考えながら、ついに希柚は重い頭を机に伏してしまいました。
 呪文こそ唱えられてはいますが、もうその頭では何も考えられませんでした。と、そのとき。
 ことり、と近くで音がしたので希柚は渋々力を振り絞り、顔を上げました。
「机に伏せてるとこ、初めて見た。大丈夫?」
「ッ……!」
 てっきりいつものクラスメイトからの嫌がらせが始まるのかと思っていましたが、そこに立っていたのは慎也で……。
 憧れの存在をこれ以上失望させるわけにはいかないと、希柚は慌てて席を立ちました。が。
「危ない!」
 立ち上がった瞬間、目が眩んで――。
「う……」
「間に合ってよかった」
 眩暈が収まり、目を開けたところで、希柚は自分が慎也に抱きしめられていることに気づきました。
「は……」
 希柚は熱に耐えながら、体を捩ってその腕から抜け出そうとしました。が、どう頑張っても歯を食いしばった隙間から声が漏れるばかりで……。
「辛そうだね。いつも血の気のない頬が赤い」
 頬に当てられた手が心地よくて、希柚は思わず目を瞑りました。
「……ごめん。やっぱり、可愛いかもしれない」
「……ッ?!」
 ふいに慎也の唇が頬に触れ、希柚はその感触に目を丸くしました。
「ね、君の声が聞きたい。どうしてかな、急にそう思っちゃった」
「……!」
「お願い。喋って?」
 嫌な気配を感じて、希柚はもう一度体を捩じりましたが、元々ひ弱な希柚が叶うはずもなく。耳元で囁かれ。頬を撫でられ。唇に触れられ……。
「本当に喋れない?」
 様子がおかしくなった慎也の動作その一つ一つにびくびくしながら、希柚は首を縦に振りました。
「じゃあ、無理やり聞かせてもらうね」
「ッ?!」
 固く閉じた唇を慎也の舌がゆっくり撫でると、希柚はその未知の感覚に耐え切れず暴れました。が、やはり力で敵うことはなく、逃げる腰を力強く引き寄せられ、あっという間に唇が重なりました。
「んんッ!」
 どうしていいのかわからないまま耐え切れずに口を開くと、ぬるりと舌が入ってきて……。
「ひゃ、う」
 喋ろうとする度に、舌がそれを押さえ込み執拗に絡み続けるので、とうとう希柚の目に涙が滲み始めました。
「も、ひゃめ……」
 ああ、ええと、僕は何をしてるんだっけ……。って、あれ……? 空……。
 されるがままぼんやりとしていた希柚は、ふと外を見て我に返りました。
「ッ!」
 すっかり青ざめた顔で慎也を押しのけた希柚は、勢いあまって椅子と共に床に倒れ込みました。
「うわ、いきなり何……」
 油断していたところを押しのけられた慎也は、機嫌悪く呟きましたが、希柚はそれどころではありません。
 床にぶつけた頭を擦る間もなく、希柚は起き上がり空を睨むと、必死に呪文を唱え始めました。
 すると、曇り始めていた空がすっかりと晴れ、綺麗な夕日が顔を出しました。
「その力、まさか本物なの?」
「……」
 希柚は、目を丸くした慎也の言葉に首を振ろうとしましたが、少し首を揺らしたところで酷く眩暈がして、そのまま意識を失いました。



「あ、れ……?」
 希柚が目を開けると、そこは見知らぬ部屋のベッドの上でした。
「俺の家だよ。と言っても、一人暮らしだから狭いアパートの一室なんだけどね」
 そう言って笑う慎也を見ながら、希柚は自分の熱が引いていることに気づき、時計を見ました。時計の針は丁度零時を指していました。
「今日は泊まっていくといい。君のおばあさんにも電話で許可は取ってある」
 その言葉に目を丸くした希柚は、慌てて祖母に電話を掛けました。
「あ、の……。おばあ様。僕、あの……」
『本来ならば厳罰モノだが、今回はまあギリギリのところで日が沈んだからな。見逃そう。だが、いいか? お前の心は脆い。両親とよく似ておる。油断するな。他人に惑わされるな。乗り越えろ。妹に足を掬われるな。……以上だ』
「あ、おばあ様……」
「なんだかんだ言って、おばあさんも君のことが大事なんじゃない?」
 相変わらず祖母の声は冷たかったけれど、その言葉の中に希柚もほんの少し情を感じて頷きました。
「まあ、俺は理不尽だと思うけどね。そういうヘンテコなシキタリ。てことでさ。そろそろ色々聞かせてくれる? 俺、一年前に引っ越してきたばっかの余所者だからさ。知らないんだよね、そういうの」
「……」
「まさか今更喋れないが通じるとは思ってないよね? ちゃんと俺にも聞かせてよ、君の声を」
「……ッ」
「そうやってまた俺を拒否するの?」
「がう……」
「ん?」
「違う、んです……。僕……、高校に入ってから、呪文以外、他人の前で、ずっと喋ってなかったから……。だから、上手くいかなくて……」
 ぎこちなく喋る希柚は、まるで機械のようでした。
「それに、僕にとって貴方は憧れの人だったから……。喋れる日が来るなんて、思ってなかったから……。その、少し、緊張して……」
「俺が、君にとって憧れの人……?」
「はい。生徒会長さんは、僕と正反対だから……。明るくて、皆に慕われてて。この土地に縛られてなくて。僕、貴方のことが、本当に好きでした……」
 希柚の瞳からはいつの間にか涙がこぼれ落ちていました。
「好きって……」
「あ、ええと。変な意味じゃ、なくて……」
「変な意味でもいいよ?」
「え?」
「俺は、君のことを守りたいと思った。君のことを愛せると思った。君のことを知りたいと思った。だから、無理やりキスしちゃったんだけど……。あれは流石によくなかったよね……。ほんと、ごめん……」
「ええと。僕はその……。正直、この気持ちがそういう類のものなのか、まだわからないんですけど……。血迷って僕みたいな化け物を選ぶべきじゃないと、思います……。貴方に僕は、相応しくないし、勿体ない……。それに……」
「それに?」
「許されない。僕は、天神家の子を作らなければいけないから。男同士で愛し合うなんて……。許されることじゃない」
「じゃあ、逃げよう。こんな狂った土地なんか捨てて、俺と生きよう」
「無理なんです。そんなの、無理だ……。僕はどうせ化け物で。この土地からは逃れられない。僕はこの土地の一部なんです……。わかるでしょう? 僕は、この土地のために命を使わなければいけないんです……」
 希柚の悲痛な声を聞いて、慎也は彼の意思を変えることができないだろうと悟りました。
「ごめんなさい……」
 慎也のやるせない表情を見て、希柚は涙を零しながら謝りました。
 それがより一層、彼を苦しめるとも知らないで。



「あの、生徒会長! 私、ずっと前から貴方のことが好きで……。よければ私と、お付き合いしてください!」
「え? 君は確か……」
 あれから数日後。生徒会の仕事に打ち込んでいた慎也は、とある女子生徒から告白を受けていました。
「天神 麗葉。希柚は私の双子の兄なんです。ほら、顔がそっくりでしょう?」
「うん……」
 彼に双子の妹がいるという話は聞いていた。が、こんなにもそっくりだとは……。
「私は、兄と違って女です。それに、正式な跡継ぎでもない。だから、私なら大丈夫でしょう……?」
「どういう意味かな?」
「知ってるんですよ、私。会長さんがお兄ちゃんにフラれたこと」
「希柚がそう言ったのか?」
「いいえ。でも、そんなの見てればわかるわ。だって、私は会長さんのことをずっと見ていたんですもの」
 言葉の通り、彼女は式神の力を使い、慎也の動向を探っていました。希柚を失墜させるための大事な駒である彼のことを。
「私を兄の代わりにしてくれて構いません。だから、ね?」
「いや、でも……」
「駄目、ですか……?」
 慎也から見て、目の前の少女は希柚よりもか弱く、希柚よりも寄り添いやすそうでした。
 慎也は、自分に希柚と寄り添うだけの力がないことを理解していました。シキタリ。性別。周りからの視線。そういうもの全てから逃げ切れるほどの力が、まだ子どもの域を出ない彼に、ある訳がないのです。
 だけど、彼女なら。希柚よりも色々とハードルの低い彼女ならば、今の彼でも寄り添うことができる。そう慎也は思ってしまったのです。



 それから、慎也はぱったりと希柚に会うのを辞めてしまいました。
 それでも、希柚はいつも通りに外を見つめ、呪文を唱え続けていました。
 そして、ある日、見てしまいました。慎也と麗葉が手を繋いで帰るところを。
 そのとき、希柚は初めて自らの意思で儀式を中断し、二人の後を追いました。
 頭はよせと言ってるのに、足が勝手に動いて、止まらなかったのです。
「ねえ、そろそろお兄ちゃんの事、忘れてくれた?」
「……うん。そうだね。もう忘れたよ」
「それじゃあ……、キスして?」
 麗葉は、慎也の腕を引き寄せて、ゆっくりと目を瞑りました。
「う、嘘だ……」
 希柚は、二人の唇が重なる前に麗葉の瞳が開き、こちらを真っすぐ見て笑ったのを見逃しませんでした。
「あ、あァ……」
 しゃがみ込み、喉から掠れた声を絞り出した希柚は、笑い合いながら歩き出した二人に向かって手を伸ばしました。しかし。
 待ってよ……。お願い、待ってよ……!
 どれだけ喉を手で締め付けても、どういうわけか声が出ません。
 そのうち、空がどんどんと暗くなってゆき、ついにはぽつぽつと雨が頬を伝い始めました。
 まずい。早く呪文を、儀式を再開しなくちゃ……。
「……ッ! ……!」
 希柚は空を睨みながら、呪文を唱えようとしましたが、全く声が出ませんでした。
 嘘だ……。違う。そんなわけない……。そんな……。
 希柚は、何度も必死に口を開き、喉を締めましたが、雨は激しくなるばかり。
 とうとう希柚は自分でどうすることもできないと悟り、家に走って帰り、祖母に縋りつきました。
『ああ、これは駄目だ……。完全に力が死んでいるよ。ああ、お前ならばと思ったが。やはり耐えられなかったか……。力を失った以上、私はもう、お前を許せない』
 祖母は、希柚に向かって悲しそうに首を振りました。
『お前も、お前の両親と同じだ』
 希柚は、自分に価値がなくなったことを知り、不思議と肩の力が抜けてゆくのを感じました。
『お前がどうするべきか、わかっているね?』
 静かに頷き、死を受け入れようとする孫に、祖母はやはり悲しそうな顔をして言いました。
『最後に、少しだけ猶予をやろう。まあ、お前はお前の両親よりも頑張ったからね。特別だ。三日間だけ、自由をやろう。好きなことをするといい』
「……おばあ様」
『おや。力が死んだとわかったら喋れるようになったか。ふふ。本当に難儀な子だね』
「ごめんなさい、おばあ様。僕……」
『謝るのは私の方さ。本当はわかっているんだ。私らだって人間だ。それなのに、私らだけが苦しい思いをして、他の人間は悠々と暮らし、私らを白い目で見る。そんな奴らのために、神に媚を売る必要はない。可愛い子どもや孫を苦しめる必要なんてなかったんだ。すまない、希柚』
「おばあ様は悪くありません……」
『なあ希柚。お前にはわかっているんだろう? この土地がどうなるか』
「……麗葉は、優秀ですよ。僕と違って精神を乱したりしない」
『ああ、私以外は皆そう思っているよ。それこそ希柚に劣らない程だと。確かに心が強いといえばそうだ。だが、濁っている。元々お前より潜在能力がないというのに、心を濁したせいでもっと力が弱まっている。器ではない。本人は気づいていないだろうがな』
「僕がいなければ麗葉は濁らなかったのかな……」
『私がお前を選んだから悪かったんだ。麗葉には普通の人間として生きて欲しかった。だが、その想いこそが彼女を寂しくさせてしまったのかもしれん』
 確かに、祖母は希柚を一人前の天神にすることに躍起になり、麗葉を放り過ぎたのかもしれません。でも、どれだけ後悔しようとも、もう時は戻りません。
「おばあ様。今までありがとうございました」
『まだお礼を言うのは早いよ。あと三日。楽しみなさい』
 祖母は、孫の頭を撫でた手を名残惜しそうに放し、ぎこちなく微笑みました。
 希柚にはわかっていました。もう天神が壊れかけていることに。周りの人間が天神の存在を信じないように、天神家の人間も昔のように神に忠実ではなくなってしまっていたのです。もしかしたら、そんな雰囲気を感じて、麗葉は自分が何とかせねばと躍起になっているのかもしれません。でもやっぱり、どう足掻いてももう遅いのです。



 次の日。希柚は高校生になって初めてまともに授業を受けました。積極的に挙手して問題に答える希柚の姿に、クラスメイトたちはただただ驚き、事情を知っている教師はそっと憐みの目を向けました。
『天神、今日はどうしたん……?』『いつもの儀式はせんでええのかな……?』
「実は僕、妹に仕事取られちゃって。もうやらなくてよくなったんだ。あの、謝って済むことじゃないかもしれないけど……今まで本当にごめんなさい」
 休み時間に入り、ひそひそと話すクラスメイトに向かって、希柚は深々と頭を下げました。
『え、いや……』『天神、フツーに喋れたんや……』『なんか、思ってたよりフツーやな』
「今まで免除されてた日直と掃除、今日から三日間は僕が一人でやるよ」
『なんか、急にそんな改心されてもなァ……』『てか、なんで三日なん……?』
「僕、もうすぐこの町を出るんだ。それで、遠いところに行くんだ。だから、せめてもの罪滅ぼしがしたくて……」
『え、そうなん?』『何? ヤベー宗教から抜け出して自由ってことかァ?』
「うん。まあ。僕に言わせればそうなのかも」
『やったやん!』『お祝いや!』
「え?」
『ごめんな、ウチらもやりすぎたわ』『天神をいじめたこと、後悔しとる』『だから、盛大に送別会しよな!』
「いや、でも僕はそんな……」
『いいんやないかな』
 盛り上がるクラスメイトに困りながら、希柚は自分を一番嫌がっていた女子を伺いました。が、返ってきたのはあっさりとした一言でした。
『私も天神君のこと、誤解してたわ。堪忍な』
「そんな……」
 希柚は、初めて味わうくすぐったさに心が温かくなってゆくのを感じました。
『じゃ、手始めに、カラオケ行こや!』『いいね~』
「僕、カラオケなんて行ったことないや……」
『マジ?! 絶対ハマるって! な!』『天神、歌上手そうやしな』『じゃ、今日はみんなでさっさと掃除終わらせよか!』


 二日目。希柚の噂は瞬く間に広まり、それは慎也の元にも届きました。
『天神兄、なんかマトモになったらしいわ』『知ってる~。めっちゃ朗らか~になって、昨日皆で遊んで奢ってくれたとか』『え~、羨ましいやん~。お役御免で即豪遊かいな~、って』『ヤバ、天神妹』『シッ、聞こえるって!』
 通りすがりの女子生徒たちは、麗葉に気づくと苦笑いを浮かべ、そそくさと走ってゆきました。
「え、麗葉ちゃん。今の話、本当?」
 麗葉の隣を歩く慎也は、信じられないといった面持ちで彼女を見ましたが、彼女は肩を竦め、クスリと笑いました。
「さあ。でも、お兄ちゃんがクビになったってのは本当。だから、今日はおばあ様が一人で儀式を担っているの。そして、明日から私が儀式しなきゃなの。ああ……、本当に嬉しいわ! 私が天神家を支える時が、やっときたの……! おばあ様の愛を一身に受けることができるのよ……? 考えただけで私、もう幸せで……。だから、貴方はもう要らない。会長さん、貴方とは今日でお別れ」
「は?」
「ふふ、何を言われているかわからない? 教えてあげる。私はね、ただ貴方を利用しただけなのよ。兄から貴方を奪うことで、兄の心に深い傷を負わせて力を弱めたかっただけ。ありがとう。貴方のお陰で予想よりも大きな効果が出たわ」
「待て、どういうことだ……。希柚は、俺のせいで力を……」
「無くしてしまったんですって。あはは! 愉快だわ!」
「それじゃあ、本当に天神から解放されて……?」
「解放? ふふ。おめでたい人」
 麗葉の冷たいその一言に、慎也は青ざめ、そして走り出しました。とてつもなく嫌な予感がしたのです。

『でさ、ウチのばーちゃんに天神のこと話したら「可哀想に」って言ったんや。「麗葉様がいるから天気は大丈夫だろうが……。希柚様が不憫でならん」って』『なんで可哀想なん?』『さあ。天神としては、こんな古臭い町抜けれて万々歳やろ?』
「……うん。そうかも」
『かぁ~! はっきり言うやん!』『羨ましいわぁ~!』『ウチもはよ大学生になって出ていきたい!』
「希柚。この町、出ていくの……?」
『おわ! 生徒会長!』『やっぱ仲良かったんか、自分ら』
「や、生徒会長は、僕のこと心配してくれてただけだよ」
『あ~、オレら、めっちゃ虐めてたしな……』『や、今はもうほんと、ズッ友ですから!』
「見ての通り、僕はもう大丈夫です。生徒会長にはお世話になりました。本当に、感謝してます。ありがとうございました」
 深々とお辞儀をした希柚は、もうあの日の希柚ではありませんでした。
「えっと、希柚……」
「すみません。僕、この後クラスメイトと遊びに行くので。失礼します」
「あ、おい……!」
『良かったん? なんか生徒会長、深刻そうな顔してたけど』
「うん。平気。それより、残された時間はあと少しなんだから。皆との時間、大切にしたい」
『天神~!』『泣けるやんか~!』


 そして三日目。希柚は充実した学生生活を体験し、たくさん笑い、クラスメイトたちに最後の別れを告げました。
「皆、本当は良い人たちだったな……。本当に楽しかった。高校に入って、初めて笑ったな。初めて全然空を見なかったな……」
 教室を出てぽそりと呟いた希柚は、その足で妹の教室を見に行きました。
「きっと、大丈夫だよね……。麗葉は僕より優秀だもん。大丈夫に決まってる……」
 無責任な願いを呟きながら、希柚は妹に心の中で謝り、踵を返しました。
 窓の外を見てぶつぶつと呪文を唱える妹の姿は、やはり傍から見ると気持ちが悪く見えました。
「……これで、僕はもう大丈夫」
 そう呟いた瞬間、慎也の顔が頭を過りましたが、すぐに首を振り、希柚は走り出しました。
 空を覆う厚い雲が、町を灰色に染めてゆく光景から目を背けながら。


 寂れた橋の欄干に手を掛け、希柚は目を瞑りながら深く息を吐き、ぱっと目を開きました。
 橋の下に流れるのは深く流れの速い川。そこに落ちれば終わる。そう意気込み、欄干を乗り越えようとしましたが……。
「何してんの?」
 声がした方を慌てて見ると、そこには慎也が立っていました。
「どうして……」
「つけてきたんだよ。それで? 君は何をしようとしてたんだい?」
「別に。何も」
「自殺?」
「はは。やだなあ、会長さん。僕がそんな事、するわけないじゃないですか」
「そうだよね。ごめんごめん。俺はてっきり、おばあ様にでも自害するよう言われたのかと」
「あはは。笑えない冗談ですね。じゃあ、僕はこれで」
「ああ。じゃあまた」
 希柚は、慎也の見透かすような瞳からいち早く逃げたくて、全力で走りました。


 希柚は息を切らしながら、廃墟ビルの階段を上り、屋上を目指しました。
「この高さなら、大丈夫そう」
 破れたフェンスの隙間に身を滑らせ、希柚は地面を見下ろしました。そして。
「そんなこと、してんじゃん」
「!」
 足を踏み出そうとした瞬間、希柚は手を引っ張られ、地面に押さえつけられました。
「痛い」
「なんでこんなことするの?」
 またしてもいいところに現れた慎也は、静かな声で怒りをぶつけました。
「……」
「言わないと、間接外れちゃうよ?」
「……てよ」
「?」
「死なせてよ! 僕を早く死なせてよ!」
「死なせない」
「放せ! どうせ死ななくても僕は殺されるんだよ! だから! 放せ!」
「痛……」
「あ……」
 出鱈目に暴れた希柚の爪が、慎也の頬を引っ搔いたことに気づき、希柚は戸惑い動きを止めました。
「貴方だって、僕が嫌いな癖に! 麗葉が好きな癖に! 僕は、僕は……。貴方が好きだったのに……。なのに……」
「ごめんね。俺は逃げたんだ。君に寄り添う自信がなかったから。だから、君の妹ならば、と思ってしまった……」
「はは。謝らないでください。そんなの当たり前だ。こんな化け物に寄り添う必要なんか、どこにもない」
「だけど、今なら寄り添えるかも」
「え?」
「君がどの道、殺される運命にあるというのなら、僕にそれを止める力がないというのなら、僕も君と終わらせるよ」
「終わらせるって……」
「君が化け物でいるのに疲れたように、俺も人間でいることに疲れちゃった。一人では死なせない。希柚、俺と一緒に死んでほしい」
「は、はは……。最低なプロポーズですね……。麗葉はもういいんですか?」
「彼女には利用されただけだったし。俺はやっぱり希柚が好きだから。だから、許してほしい……なんて甘いよね?」
「ええ。色々言うことはあるんでしょうけど……。貴方の望みを断れないぐらいに、僕はもう壊れてしまったみたいです」
「良かった。もう考えることなんかやめよう? どうせ、俺たちには変えられない」
「そうですね。終わりましょう」
 そうして、二人は手を取り微笑んで、とん、と地面に落ちました。
 雪がいつの間にか降っていました。地面を白く塗り潰した季節外れの雪は、すぐに吹雪き、どんどん積もってゆきました。
「嫌! なんで……? 違う! 私が天神家を継ぐのに! なんで……! どうして上手くいかないの!? ああ! 制御できない……! 駄目、こんなはずじゃ――」
 やがて、雪に滲んだ赤い色さえもが覆われて、辺り一面が穢れのない銀世界となりました。
 それは、無理に天候を安定させ続けていた反動でした。悪天候を抑えた代償は蓄積されていく一方で、それを抑えるための力を天神家が身につけることは年々難しくなっていくばかりでした。
 だから、希柚の祖母も両親や希柚に厳しい修行を促したのでしょう。でも、結局は近いうちに力が足りなくなるのは明らかだったので、諦めたのでしょう。
 麗葉は、己の力不足を初めて知り、家へ……祖母の元へと駆け込みました。
「私、やっぱり要らない子だった……! ごめんなさい! ごめんなさい!」
『そんなことはないよ。麗葉、お前はよく頑張った。だから、大丈夫。おばあちゃんと一緒に眠ろうな……』
「うん……」
 祖母は、住民に避難を促し、庭先で未だに呪文を唱え続ける麗葉の傍に寄り添いました。麗葉を抱く手冷え切った手にも、しんしんと容赦なく雪は積もってゆきました。
 これで、天神家はお終いです。安息地を失った神々は、とうとう人間たちに愛想をつかして去ってしまいました。
 そして、異常気象はしばらく続き、大雪に台風竜巻に落雷と大盤振る舞いの末に土地はすっかりと荒れ果ててしまいました。避難していた者たちは、これを機にと住みやすい土地へと移住しました。
 世界でも類を見ない現象に、様々な意見が交わされて、一時期ニュースでも話題になったその土地も、今ではすっかり忘れ去られてしまいました。
 そして、その数年後。世界は未曽有の危機に陥りました。それはまた別のお話なのですが、神に見捨てられた世界の行方を知らないで、この地で眠った彼らはきっと幸せだったに違いありません。
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