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1 ゴミ袋とプリントは宙を舞う

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 だんだんと春の気配を感じるようになった。心地よい風が肌を撫でてゆき、雲ひとつない綺麗な青空を見上げる。
「いい天気だなぁ」
 そんな当たり前のことをあえて口にして、ぼんやりと一路は手に持っていた竹箒の柄に顎を乗せた。思わず込み上げてきた欠伸を噛み殺す。春眠暁を覚えず、にはまだ早いが、眠気を誘われるには充分な陽気だった。
「ワンちゃーん」
 頭上から降ってきた楽しげな声の主を探し、辺りを見回す。声の主は一路の背後にそびえる西校舎の三階の窓からこちらを見下ろしていた。大きく手を振るその人物は、自分が体育を受け持つ二年の女生徒だ。他にも数名同じクラスの女子がいる。姿を確認した一路はムッと顔をしかめて口を開いた。
「こら、ワンちゃんじゃなくて犬飼先生だろ」
 ほとんど定型文となった訂正の言葉に、女生徒たちはあまり反省していない様子で笑いながら「すみませーん」と謝罪した。全く、困ったもんだ。一路はこれ見よがしに大きな溜息をつく。
 いつから、誰が呼び始めたのか最早分からないが、ワンちゃんというのは一路のあだ名だ。犬飼一路と言う名の、犬=鳴き声がワン、一=英語でONEとかで、犬飼先生より呼びやすいからと生徒たちの間に広まっている。
 教師としての威厳を保てないあだ名は不本意だが、あまりにも定着してしまったそれは新入生が入ってくるたびに瞬く間に周知されるので、一向に廃れる気配がない。半ば諦めてはいるものの、生徒たちとは二十近く歳の離れたおじさん教師にいい加減ワンちゃんはないだろうと思うので、呼ばれるたびにこうして訂正し、いつか廃れてくれないかと期待していた。
「掃除は終わったのか?」
「終わりましたぁ。ワンちゃんせんせー、これお願いしまーす」
 一路の問いかけにまたもや懲りずにあだ名で答えた生徒は、再び一路がそのあだ名を訂正する前に窓から大きなゴミ袋を放り投げてきた。
「なっ、おい! ちょっ、こら!」
 持っていた竹箒を地面に置き慌てて窓から落下してくるゴミ袋を受け止めようとする。わたわたと辺りを動き回ったせいで自分の置いた竹箒に躓き体勢を崩してしまった。
「ぶっ!」
 容赦なく落ちてきたゴミ袋は一路の顔面にぶつかり、そのままゴミ袋と一緒に盛大な尻餅をつく羽目になった。幸い袋は破れず中身が飛び散ることはなかったが、一路の顔と尻は甚大な被害を受けている。
「痛った……こら! ゴミは投げない!」
「すみませーん! 気をつけまぁす」
 これもまた全く反省していない様子の謝罪の言葉を残して、女生徒たちはきゃあきゃあ言いながらどこかへ行ってしまった。後に残された一路はしばらく誰もいなくなった窓辺をムッとして睨んだ後、諦めて溜息をつき立ち上がった。寝癖を直しきれていない頭をがしがしと手で掻きゴミ袋を拾い上げる。
 あだ名にしてもそうだが、一路はどうも自分が生徒に侮られているように感じていた。嫌われたり、怖がられたりするよりはいいかもしれないが、それにしたって扱いが雑なように感じる。
 教職に就き十年以上経った。見た目こそあまり年を取らず、童顔と称されるルックスをしているが、教師として生きた年月を考えればベテランと呼んで差し支えない。もっと経歴に沿った威厳が欲しいとは思うものの、なかなかそう理想通りにはいかないのが現実だ。
 それでも、一路はこの教師という仕事が、教え子たちが好きだった。さっきの女生徒たちも根は悪い子たちではない。悩みがあれば親身になるし、多少の悪戯も相手が反省するなら許してしまう。そんな一路の優しさが、生徒たちに気安い印象を与えているのだろう。侮られたり、雑に扱われている部分もあるが、それでも一路はおおむね生徒に好かれる良い教師だった。
 一路が勤めるこの私立高校は、一路の母校でもある。勉強が苦手だった一路自身あまり好きな物差しではないが、学力はお世辞にもいいとは言えない。名前さえ書けば入学できると揶揄されることもあるほどだ。
 しかし一路はこの学校、自分の母校を特別好ましく思っていた。髪色や服装にそれほどうるさくない自由な校風も好きだし、何よりこの学校の教師や生徒たちが大好きだ。自分が卒業して何十年と経った今でも、その思いは変わらない。だからこそ教師を志し、ここへ戻って来た。この学校で教師として働けることを嬉しく、誇らしく思っている。多少生徒に侮られようとも、現状に大きな不満はなく、日々が充実していた。
 もし一つ、人生の不満を挙げるとすれば、それは仕事のことではなくて……。

 掃除道具を片付け、校舎の廊下を歩きながらまだ痛い尻をジャージの上から摩る。この後の五限目は先程ゴミ袋を投げてきた二年女子の体育だ。下に居たのが自分だけだったから良かったものの、他の生徒が通りかかったり、間違ってその生徒にぶつかっていたりしたら大事故にもなり得た。上階からゴミ袋を投げるという行為がどれほど危険なことか、きちんと話して今一度注意しなければならない。見た目こそ染髪や化粧で目立つ身なりをしている彼女たちだが、先程も述べたように根は悪い子ではないので、反省してくれることを願おう。
 それにしても痛む尻に自分の衰えを感じずにはいられない。若い頃ならこれ程まで体にダメージはなかったはずだ。三十路を超えてからどうにも体が言うことを聞かず、なんだか自分が酷く老いたような気がして、一路はまた溜息をついた。
 尻の痛みを心配しながら職員室に入り、自分のデスクへ向かう。休み時間のためかちらほらと他の教師の姿もあり、一路の隣のデスクを使う社会科教師の安井も自分の席に着いていた。何やらスマートフォンを眺めニヤニヤしている。隣にやって来たことに気付きもしない安井の頭を、一路は軽く小突いた。
「何ニヤニヤしてんだよ」
「わっ、びっくりした。先輩、いつの間に戻って来たんですか」
 心底驚いたように言って、安井は下がった眼鏡の位置を直すと、一路の方へ顔を向けた。安井は一路より一つ年下のこの高校出身の後輩で、教師仲間の中では一番付き合いが長い。普段は真面目で神経質そうな印象を受ける顔つきをしている安井だが、今は緩みきった顔でニヤニヤと口角を上げていた。原因は想像がついたため、一路は呆れて言う。
「どうせまた彼女の写真でも見てたんだろ」
「えっ、何で分かったんですか先輩。やだなぁ、見ます? この前新しくできたテーマパークに行って来たんですけど、マミタン本当可愛くって」
 待ってましたとばかりに安井がスマートフォンを見せながら話し出したので、一路は辟易するしかなかった。こうなったら誰にも止められない。
 マミタンと言うのは安井が五年付き合っている彼女で、現在同棲中、本人曰く結婚秒読みの相手だ。独り身の一路にとっては羨ましさ半分、妬ましさ半分である。何しろもう長いこと一路には恋人と呼べる存在がいない。元々出会いの少ない上に多忙な職場だし、ごく稀に出会いがあったとしても、一路が親しくなった女性は大抵の場合何でも話せる良き友人、という枠に落ち着いてしまう。生徒の相談に乗るように、女性の悩み相談ばかり引き受けてしまうせいだろう。いい人だけど恋人にはちょっと、というのが、知り合う女性の大半が一路に抱く感想だった。
 そう、教師として充実した日々を送る一路にとって、ただ一つの不満がこれだ。充実した日々の幸せを、分かち合えるようなパートナーがいないこと。歳も歳なのでこのまま一生独身で過ごすのかもしれないと覚悟はしているが、できることなら忙しい一日のおしまいに、ただいま、おかえりなさいを言い合える存在が欲しかった。
 そんな人恋しい一路にとって、毎日飽きもせず繰り返される安井の惚気は毒でしかない。ハイハイと軽く聞き流して次の授業の準備をすると、一路はまだ話し続けている安井を無視し席を立った。
「どこ行くんですか先輩! もっと見てくださいよマミタンと僕のデート写真!」
「授業だよバカ。また今度な」
「待って! どこか行くならついでにこれ理事長に渡して来てくれません? 僕もう少しマミタンとの思い出に浸っていたいんで」
 全く悪びれもなくそんなことを言いながら、安井はプリントの束を一路に押し付けた。余計な仕事を増やされそうになり、一路は慌ててそれを押し返す。
「だから授業だっての。ついでって何だよ、自分で渡して来い」
「そんなこと言って、結局引き受けてくれるくせに。犬飼先輩は後輩思いで優しいなぁ」
「お前……調子に乗るなよ」
 先程より強く安井の頭を小突いて、安井の手からプリントの束を受け取る。
「今度何か奢れよ」
「ありがとうございます先輩! 優しい! 愛してる!」
 無償で引き受けるのも癪なのでそう言えば、安井からはそんなセリフが飛んできた。マミタンという彼女が居ながら、随分と愛を安売りする男である。高校の頃から何も変わっていない調子のいい後輩に呆れながら職員室を後にした。
 職員室は東校舎の二階にあり、理事長室は職員室前の階段を降りて一階にある。理事長に用がある時はいちいち階段を介さなければいけないため、安井のプリントを渡しに行くのが面倒だという気持ちも理解はできた。だからと言って先輩にその面倒を押し付けてしまえる図々しい性格はさすがと言う他ない。今度絶対に何か奢らせよう、と心に決めて、一路は理事長室へ向かった。
 この高校の理事長は学校長を兼任しており、一路が生徒として在籍していた頃からそれは変わっていない。理事長は一路がこの高校を特別に思う理由の一つでもある。大らかで誠実な人柄、生徒を思う気持ち。人として教師として心から尊敬する人物である。勉強が得意でなかった一路が教師になろうと思ったきっかけもこの人だった。学生時代も、教師になってからも、どれほどお世話になったことか。
 生徒にしろ教師にしろ、学校全体の雰囲気が良いのも一重に理事長の人柄故だろうと一路は考えていた。私立校のため希望しない限り異動はない。尊敬する理事長の元、一路はこの高校に骨を埋める覚悟だ。
 理事長室の扉の前に立ち、軽く身だしなみを整える。ほとんど毎日ジャージで出勤、たまに髭剃りを忘れたり寝癖を直しきれなかったりとだらしない性格が散見する一路だが、尊敬する人の前ではそれなりに気持ちを引き締める。
 ふと手に持ったプリントの束に目を落とせば、そこには安井の文字で『歓送迎会の会場案 理事長どの店がいいか考えておいてください!』と書かれていた。怪訝に思って他のプリントを見てみると、大人数でも利用できそうな貸切できる居酒屋やホテルのレストランなどがピックアップされている。随分な量だ。そういえば安井はこの春退職する先生や、新しくやって来る先生たちの歓送迎会の幹事を任されていた。よく調べたものだが、理事長に丸投げするのは如何なものか。理事長の人柄では怒ることはないだろうが、この学校で最も偉い理事長をそんなことに使っていいのだろうか。
 一瞬悩んだが結局一路は安井に頼まれた通り理事長にプリントを託すことにした。自分は運び屋を任されただけ、後の責任は安井が取るだろう。
 理事長室の扉をノックすると中から返事がある。
「はい」
「犬飼です。安井に頼まれてプリントを届けに来ました」
「犬飼先生。どうぞ、入ってください」
 落ち着いた、優しい声に促されて理事長室の扉を開ける。不意に、春の気配を含んだ風がぶわりと扉の隙間を通り抜けていった。
「わっ」
 持っていたプリントが風に煽られバサバサと宙を舞う。辺りに散らばる大惨事だが、それよりもっと衝撃的なものが、一路の目に飛び込んできた。
 窓から差し込む陽の光に照らされ、きらきらと輝くホワイトブロンド。ミステリアスな魅力を湛えたエメラルドの瞳。ともすれば消えてしまいそうな透き通るように白い肌。平均的な自分の身長より頭ひとつ分は高い身長、長い手足。綺麗、なんて言葉では安っぽくて到底表せないほどの異国の美丈夫が、そこに立っていたのだ。
 見慣れた理事長室に全くそぐわない美しすぎる存在に、一路は目を見張り固まってしまう。もしかして自分にだけ見えている幻覚ではないだろうかと思ったが、次の瞬間これは現実だと思い知らされた。
「大丈夫ですか」
 異国の美しい人物は、流暢な日本語でそう言って身をかがめ、辺りに散らばったプリントを拾い始めたのだ。自分が散らかしたプリントである。ハッと我に返った一路も慌ててプリントを集め拾い上げた。
「すいません、大丈夫です。あっ、どうも、ありがとうございます」
 拾ってくれたプリントを受け取り、頭を下げて礼を言う。軽く微笑まれて、一路は思わずドギマギした。至近距離で見ても息を呑むほど整った容姿、いわゆるイケメンだ。同性とは言えこんな美しい人物が存在するのかと見惚れずにはいられない。海外のモデルや映画俳優と比べても遜色ない美貌だろう。
「犬飼先生、ちょうど良かった」
「へっ」
「紹介します。春から新しく我が校の英語教師として勤めていただく、北川レオン先生です」
 ポカンと口を開けて惚けている一路に、穏やかに微笑んだ理事長が説明した。見た目は完全に異国の人だが、名前から察するにハーフやクォーターだろうか。
 理事長に紹介された北川は改めて一路の方を向き、微笑んで手を差し出した。
「北川レオンです。よろしくお願いします」
「あっ、ええと、どうも、犬飼一路です」
 差し出された手を取ってしどろもどろ一路も自己紹介した。曲がりなりにも体育教師を務めているため日頃から鍛えている一路は自分の体格にもそれなりの自信があったが、北川の手は一路より大きく男らしく骨ばっている。
 取っ組み合いの喧嘩になったら勝てそうにないな、と、喧嘩する予定もないのにぼんやりとそんなことを考えていたら、おかしなことに気付いた。先程握手のために繋いだ一路の手を、北川は一向に離す気配がないのだ。いつまで経っても終わらない握手に一路は恐る恐る北川の顔を見上げた。
「あのー……北川先生?」
「………」
 途端に背筋が寒くなる。北川は貼り付けたような笑顔でニコニコと一路を見下ろしていた。初対面で、プリントを拾わせてしまった以外に失態など犯していないはずだが、何故だろう、北川からはどことなく怒っているような気配を感じる。笑顔の奥で自分を睨んでいる気がするのだ。一路は恐怖のあまりヒッと言葉にならない悲鳴を飲み込んで、自分から手を離すこともできずに固まってしまった。
「犬飼先生、私に用事があったんじゃないですか」
「そっ、そうなんです! ハイ! 理事長、安井から預かってきました! これお願いします!」
 理事長に話しかけられて、これ幸いと北川の手を離し持っていたプリントを理事長に手渡す。何だかよく分からないが、この場は一刻も早く退散した方が良さそうだ。用事を済ませた一路はさっさと退室しようとする。
「では、失礼しました」
 だが一路が回れ右して理事長室を出ようとすると、後ろから北川の信じられない声が聞こえてきた。
「理事長、僕も今日はこれで失礼します。四月からよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。北川先生」
 理事長と挨拶を交わした北川は、素早い身のこなしで一路より先に理事長室の扉に手をかけ一路のためにそこを開けてくれた。
「どうぞ」
 にっこりと微笑んだ北川のその顔は文句なしに美しかったが、一路はやはりどこか威圧されているように感じて笑い返す笑顔が引きつってしまった。北川の開けてくれた扉を通り二人で理事長室を出る。何となく気まずい空気に、ともかくこの場から離れようと一路は再び引きつった笑顔を浮かべ口を開いた。
「ええと、それじゃ。俺授業があるんで、これで」
「犬飼先生は、教科は何を担当されているんですか」
 しかし北川は一路を逃してはくれないようだった。にこにこと微笑んでいる北川の笑顔には相変わらずの違和感がある。シンプルに怖い。一路はビクビクしながら北川に答えた。
「体育です。じゃ、ほんと、遅刻しちゃうんで」
「……犬飼先生」
 あからさまに逃げ腰の一路にとうとう苛立ったのか、北川が凄みを効かせた声で一路の名を呼んだ。すっと細まった目の奥からこちらを覗く、エメラルドの瞳が美しくも恐ろしい。ギクリと身を硬くしてその場から動けなくなってしまった一路に、じりじりと北川が近付いてくる。
「き、北川、先生……? 一体どうし」
「レオ、と」
 顔と顔の隙間がほんの数センチというところまで近付いた北川に、震える声で一路が問いかけようとすると、一路が言い終わるのを待たずに北川が口を開いた。
「北川でなく、レオと呼んでください」
「レオ……ン先生?」
 親しみを込めて名前で呼べと言うことだろうか。日本では初対面の相手は苗字で呼ぶことが多いが、海外ではそうとも限らないようだから文化の違いを指摘されたのかもしれない。恐る恐るファーストネームで北川を呼んでみるも、未だ顔を近付けたままで首を左右に振り、北川は再び口を開いた。
「レオ」
「れお」
「そうです。レオ、と呼んでください。一路先生」
 ファーストネームどころかニックネームで呼べとのご要望だ。ともかく北川に促されるまま口を開いて一路は彼の名前を繰り返した。レオ。不思議と馴染みのある響きだった。レオ、レオ……レオン。北川、レオン……。

 ――イチロ先生。

「レオ!」
 唐突に、記憶の箱が開いて溢れ出す。幼い声でイチロ先生、と自分を呼ぶ声が鮮明に蘇った。
「レオ……レオか! そっか……大きくなったなぁ」
 呆然と目の前の人物を見つめる。一路の知っている人物とは似ても似つかない風貌だが、それでも目を凝らせば幼い日の面影が確かにあった。
 北川レオン。この人物を、一路は知っている。一路の目に正しく自分が認識されたことを知って、レオンはやっと満足そうに、心から微笑んだ。
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