平凡サラリーマンは魔道具店店長に恋をする

鯛田オロロ

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ナフラがナオさんを組み伏せ、首に噛み付いているのを見たとき、とある記憶が、奥底に沈め、封じていた記憶がぶわりと一瞬にしてよみがえった。

姿を変えられ不死にされた僕は、荒れ野や森や岩山をあてどなくさまよっていた。

孤独な彷徨の中、すり寄ってきた痩せっぽっちのみすぼらしい野犬に気まぐれに餌をやった。野犬はいつの間にか僕についてくるようになった。

野犬と過ごしながら、季節が巡った。

何度目かの冬が来て、僕はどうにか死のうと思った。

何も食べなければ死ねるのではないかと思い、食べようと足掻くのをやめた。

僕はすっかり骨と皮だけになったが、まだ生きていた。僕はもうすぐ死ねるだろうと思った。

野犬だけが僕に寄り添ってくれていた。

僕は目を閉じた。

このまま目を開けることがないよう祈って。

ふと何らかの刺激に目を開けた。

僕は何かにかぶりついていた。

僕の口の周りはべったりと濡れていた。

僕の手は何か生温かいものを掴んでいて、そこから何か温かいぬるついた液体が伝っていた。

口の中は鉄の味に満たされていた。

僕は、かぶりついていたものを放り出した。

それは、僕に懐いていた野犬だったものだった。

ニンフを死に追いやった罪の記憶よりも下の、最下層に封印していた記憶だった。

僕は、ナオさんのそばにいていい人間では到底なかった。

僕は、懐いていた犬を。信頼しきった目で僕を見上げていた犬を。

犬を。

うっと吐き気が込み上げた。昇ってきた胃液が食道を焼き、口中に嫌な味が広がる。胃はぎりぎりと絞り上げられているようだ。

そんな僕が、ナオさんのそばにこれまで居てしまったことで、ナフラのような悪魔の関心を引いてしまった。僕が、ナオさんに恐ろしい悪魔に引きよせてしまった。

ナフラを殺す。殺さなければならない。二度とナオさんに触れられぬように。

じたばたしているナフラの首根っこを掴んで飛びながら、周囲を見回し、強力な天使の結界の気配を探す。

あった! なんて良いタイミングだ。

「おーい! なにやってんだよ! もったいぶるなよな! 早く戻って3Pしようぜ!!」

この期に及んで何を言うか。

ナフラと刺し違えて僕も死ぬ。

「おいおいおいおい!!! 何やってんだよ、ぶつかるだろうが……!!!」

僕の目的にようやく気づいたのか、ナフラが全力で暴れ出す。不思議なことに、本来ナフラの全力には到底叶うはずがないのに、暴れるナフラをどうにか抑えられている。これも火事場の馬鹿力だろうか。

きっと、今、僕は、生命を維持するのに最低限必要な魔力も使ってしまっている。

ナフラを神聖力で作られた結界に押し付ける。凄まじい衝撃が走る。

「ぐぎゃぎゃぎゃあ゛あ゛あ゛ああぁぁっっ……!!!」

ナフラが絶叫している。

「い゛っ……うっ……!」

押さえている僕も神聖力に身を焼かれる。激痛が腕を突き抜け、手から胴体に向かってびしびしと亀裂が走る。

ナフラが断末魔をほとばしらせた。

僕の両腕がほぼ使い物にならなくなり、ナフラはすでに手のひら大の肉塊になっていたが、それでも、びくびくと蠢いていた。流石の生命力だ。

その時、神とも天使ともつかぬ気配が近付いてくるのを察知した。気配の方に目を向ける。その姿に目をみはる。

「君も、美徳研究会のお客様かな?」

落ち着いた声色。懐かしい、その声。

視線がまっすぐ交わる。

「む? 君は……レアンドロス、か?」

そう、かつて、僕はセイルではなく、そう呼ばれていた。

久方ぶりに聞く、人間のときの名前だった。

「エ、エレウテリオス先生!」

声帯が、懐かしさに震えた。

「これは、珍しい客人だ。さ、お茶でも飲もうではないか、三千年ぶりの再会を祝して」

先生が微笑み腕を広げた。先生が、僕を呼んでいる。僕はとうとう死ねたのだろうか、死んで死者の国で先生と再会したのだろうか。

視界が、だんだんと狭まっていく。力が抜けていく。

これが、死か。

「レアンドロス!」

先生が僕を呼ぶ声を最後に、僕の意識は途切れた。



また消えたニンフの夢だ。

彼女は走る走る。

僕は追いかける追いかける。

彼女の逃げる背に向かい叫ぶ。

『君もただの戯れだと言ったじゃないか』

『君が本気なら終わりだと告げたのは悪だったのか?』

『君は、僕の何を知っている?』

『君は、僕のどこが好きなの?』

向けられる本気の愛は、ただただわずらわしかった。

武芸に、勉学に、詩に、歌に、友情に、冒険に、遊興に、いくら時間があっても足りなかった。

女性との戯れもその一つに過ぎなかった。

『君のせいで、僕は!』

友人らは変わり果てた僕を化け物と呼ばわり矢を射かけた。

父も母も、召使いたちも、槍や棒切れや石つぶてで僕を追い払った。僕は逃げた。

最後に目の端でとらえた母は、美しい息子を失って泣いていた。

必要なのは、『僕』ではなかった。

『なあ、君も、愛したのは、『僕』ではなくて美しい若者だったのだろう?』

彼女の肩をつかむ。

すると、彼女はもう野犬に変わっていて、ひどく飢えた僕はかぶりついた。

歯が肉を裂き、鮮血がほとばしり、口中を血が満たす。

情のわいていた野犬を殺し、貪り食らう。

しかし、血塗れになって噛み付いていたのが、白い喉元だと気付く。

その顔は、ナオさんの顔になっていた。

ナオさんは喉元に噛み跡をつけられ、服を切り裂かれ、汚され、体を痙攣させ、うつろな目で僕を見上げていた……



悲鳴を上げて飛び起きる。

すると両腕から凄まじい激痛が走った。

あれは、夢だ。

夢のおぞましさに汗をじっとりとかいていた。

目が覚めたのは、どこかビルの一室のようだった。僕は簡易ベッドの上にいた。

「おはよう、レアンドロス」

エレウテリオス先生が部屋の隅の椅子に腰掛けており、持っていた本から視線をあげ、僕を見た。

僕らの先生だった。並ぶものなき知の巨人。遠くの地から辺境の我が国までお招きした、紛うことなき我らが師。

その先生が、どういうわけか天使になっている。そうして僕は悪魔になっている。さっぱり意味がわからないが、現実らしい。

気を失う直前のことをありありと思い出せた。僕は死んだのではなかった。ナフラを焼き切っても、僕はどうやら消滅を免れたようだ。

ナオさんは、どうしただろう?

ナフラに犯されたナオさんを見て、頭に血が昇った僕はまずナフラを殺さなければならないと狂ってしまった。

結果、強姦されたナオさんを放置してしまった。

血の気が引いていく。よろよろと立ち上がる。足がふらつく。すぐにナオさんのもとに行かなければ。

「どこへ行くのだね、レアンドロス。君はひと月も眠っていたのだよ」

「ひと月!? 先生、ナオさんは、ナオさんは無事なのですか!?」

気が動転していて、ナオさんのことを知るはずもない先生に詰め寄った。

先生は、落ち着きなさいと言い、僕の背を子供にするように優しく撫でた。

どろどろに汚され、噛み跡の残る白い首をさらけ出し、うつろな目をしたナオさんを思い出す。

ナフラがナオさんを襲った。悪魔の執着はおそろしい。いつも適当にあしらっていたのが間違いだった。

そして、僕自身が、最もナオさんのそばにいてはいけない悪魔だった。

僕は、ニンフを殺し、野犬を殺した。夢の中で、ナオさんまで殺した。

もう僕はとっくに人間ではなかったのだ。いつでもどこか人間のつもりでいたのに。

ナオさんは生きているのだろうか。それすら定かではない。一目でいいから、ナオさんの無事な姿をこの目で見たかった。

しかし、今の魔力をほぼ消耗しきっている僕一人の力ではナオさんを探すのは難しい。

「先生、一目でよいのです。ナオさんの無事を確認したいのです」

先生にすがりつくと、先生はうなずいた。

「良かろう。では君の心当たりを案内しなさい」



先生に抱えられ、ナオさんのアパートに向かう。

ナオさんは自宅にはいる気配がなかった。だが、まだ新しいナオさんの気配が強く残っていた。ナオさんは生きて、まだこの部屋に住んでいる。

よかった、ナオさんは死んでいない。

次に気配を追って、ナオさんの会社に向かった。

ビルの窓から、ナオさんの働いている姿が見えた。

「ナオさん!」

思わず名を叫んだ。ナオさんは、生きていた。仕事もしていた。全身の力が抜けるほど安堵した。

そして、ナオさんは笑顔を見せていた。ナオさんの隣の男に向かって。

男は、天使だった。

「な、なんで、ナオさんが天使と?」

「ああ、あの子は、私の教え子だよ。つまり君の弟弟子になるな。まさか、君のナオさんと同じ職場とはね」

僕はしばらく、じっとナオさんとその天使を見つめていた。

二人はごく自然に一緒にいて、仕事をして、信頼し合っているように見えた。

ああ、大丈夫なんだ。

ナオさんは。

ナオさんに、僕は必要ではない。

それどころか、僕は、ナオさんにとって有害なだけなのだ。

それをあらためて思い知った。



ナオさんの無事を確認し、先生と一緒に、美徳研究会とやらの本部だというビルに戻った。

なんだか、頭がぼうっとしていた。泣きたいような気がしていた。でも涙の出し方もわからない。もしかしたら、悪魔になって随分立つから、その機能はいつの間にか失われてしまっているのかもしれない。

先生は、よくわからないお茶と、懐かしい味のする素朴な小麦のパンを出してくれた。人間の頃のさががまだ残っているのが、腹を満たせばわずかでも気持ちが和らいでしまう。

本を読みながら僕が落ち着くのを待っていた先生は、僕の気持ちが和らいだのを見計らって、本から目線を上げた。

僕は、先生に気になっていたことを聞いた。

「……先生は、なぜこのような姿なのに僕だとわかったのですか?」

シェズさんに形態変化の魔法をかけてもらっており、今は女神に呪われたときと同じ姿をしている。当然、先生が知っていた教え子の姿とは全く異なっている。

「君の目を正面から見れば分かるさ」

「先生……」

視界がぼやける。ついさっき泣けないと思っていたのに、僕は涙ぐんでいた。

「……先生は、どうして、天使に?」

先生は豊かなひげをしごいた。

「私の死の床に天使が現れ、死は怖くないかと聞かれた。死は怖くないと答えた。私は人間で人間は死ぬものだからと。それでは、悔いはないかと聞かれた。悔いはないと答えた。人に限りはないが、一人の生涯でできることには限りがある。私は出来る限りのことはしたつもりだからと。もっと知りたいことはあったかと聞かれた。そうだ、と答えた。書きかけの原稿がつい脳裏に浮かんでな。すると、私は天使に変えられていた」

「そんな! 無理矢理ではないですか!」

「私に隙があったのだ。それも運命だと受け入れたよ。この世界は、読めども読めども読み尽くせぬ書物だ。それを永遠に、永遠というものがあるならばだが、読み続けるのも良かろう」

先生が微笑んでいる。先生は運命を受け入れ、僕とは違う三千年を過ごしてきたのだ。

先生が、目を大きく開いた。

「そうだ、惑星の楕円軌道だが、君たちには神がそんな不完全な軌道を描くなどありえないと言ったね」

「ええ、おっしゃいました」

昔の授業を僕は思い出した。先生はたしかに言った。

「今訂正しよう、楕円軌道は存在する。まさか、教え子に訂正する機会に恵まれるとはな」

そう嬉しそうな先生につられて、僕も笑っていた。

「生前の私は、一つの考え方に固執していたよ。それが不合理な間違った結論を導いてしまったのだ」

先生ほどの賢人でも間違うことはあるのだ。そして先生は、自分の間違いを認められる。それは、僕にとっても三千年ぶりの気付きだった。

間違いを認め、訂正できること。それこそが我が師の得難い徳であり、柔軟な叡智なのだと。

ふ、と先生の目が僕の目をまっすぐに捉えた。何もかもを見透かすような目だ。

「君は、今、悩んでいるね」

「……いえ、悩んでいるわけではありません」

「そうか、思い込みを捨てれば見えてくるものもあるよ」

「……はい、先生」

そう答えると、先生は暖かな笑みを浮かべた。

「君に会えてよかったよ、またいつでも来なさい、レアンドロス」

「先生……」

胸がいっぱいで、ありがとうございますすら出てこなかった。それでも先生は笑みを崩さず、暖かく僕を抱きしめてくれた。



魔界に戻り、シェズさんに形態変化の魔法を解除してもらった。もう、必要がないから。

「あ、対価だけど、ベルゼブブ様の城の当直の交代十二回分でいいぞ」

「わかりました」

素直にうなづいた僕に、シェズさんは驚いている。しかし、今、僕には自分を罰する必要があった。

「それと、これ、ナフラな」

無造作にシェズさんがポケットから肉塊を取り出した。ほとんど魔力を発さず、弱々しくぴくぴく蠢く肉塊。それがシェズさんの手のひらに収まっている。

「人間界でたまたま見つけたんだがな、神聖力でよーく焼けてるわ。ウェルダーンですねえ。再生は千年先かもなあ」

それを手のひらでぽんぽんとお手玉のように扱った。

「ま、しばらくは俺が魔力注入担当するしかないかねえ」

シェズさんは心底かったるそうに大きくため息をついた。

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