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 タケシは乱暴に扉を開け、星雄がマミを人質に立て籠る店内に踏み込んだ。
「タケシ!!」
マミの声が響いた。マミは無事だった。だが…、マミの両親が床に倒れていた。2人とも刺されていた。全く動いていなかった。
「おっちゃん!!、おばちゃん!!」
 包丁を持った男がマミの背後にいた。強い力でマミを捕まえていた。
 緑色の髪、赤いパーカー、髪と同じ緑色のパンツ…。そして耳まで隠れるニット帽には星マークが幾つもついていた。
 マミは何度も逃げようと身をよじったが叶わなかった。血まみれの凶器を突き付けられ身動きできなくされていた。男はマミの髪の匂いを嗅いでいる。夢中になっていた。かなり危ない感じの奴かと思ったら異常者だった。こいつは正真正銘の異常者だ。
 マミは涙を流していた。絶望の涙だった。
「てめぇ、この野郎ォ!!」
タケシは吠えた。怒号が店内に響いた。…しかし男はタケシに見向きもしない。ずっと捕まえたマミにばかり執着している。次第にマミの髪から首筋に移っていく。荒い鼻息がかかっている。
「殺しゃしない、おとなしくしてろよおお。俺は大物タレントだ!。俺の女にしてやるからよ!」
「(いらない、いらないから!。)」
 マミは本気で嫌がった。首を激しく左右に振った。こんな変質者の女なんて絶対嫌だった!
 マミの頬を掠(かす)めんばかりの距離で包丁が光っている。もしも触れれば軟らかなマミの頬は切り裂かれてしまうだろう。マミは動きを止めた。目を閉じて観念した。
 この男の玩具にされてしまう…。

プツン!

 タケシの中で何かが切れた。タケシの体内から殺気が溢れた。始まる、店内に死臭が充満している。誰かが死ぬ!
「タ…タケシ?」あまりにも異様な雰囲気にマミはタケシの名を呼んだ。
 タケシは答えなかった。
 タケシの身体がぐらりと揺れた。タケシはそのまま床に倒れ込んだ。タケシの体は既に限界だった。全身が悲鳴を上げていた。ヨシヲの手下30名から暴行を受けたタケシの体は入院が必要なほどダメージを受けていた。さらにその体でここまで全力疾走してきたのだ。もはや、立っているどころの話ではなかったのだ。外で待機している救急車に真っ先に乗らなければならないくらいだった。
 ここまで来て、あと一歩でマミを助けられるというのに…!!
 ヨシヲの手下30人の相手さえしていなければ…、アイツさえいなければ。やはり剣道の時間に殺してしまうべきだったのだ。今のタケシには悔やんでも悔やみきれない。
「畜生ォ…ここまでなのかよ…」
そう呟くのがやっとだった。もう動けなかった。
 裏ゲーム界の帝王として君臨していた頃のタケシは無敵だった。敵う者はいなかった。全てがタケシの思い通りになった。
 誰が相手でも負ける気などしなかった。 
 ある日その無敵の力は忽然と消え、彼は突如『負けの王者タケシ』となってしまった。ヨシヲにマミを奪われどん底まで落ちた。裏ゲーム界の帝王として君臨し、敗北を知らなかったタケシはまさに裸の王様だった。マミの言った通りだった。誰かが作ったプログラムの中で踊っていただけに過ぎなかったのだ。
 そこからタケシを救ったのは『暴力』だった。再び無敵の力を手にしたかに思えた。しかし違った。30人もの敵を蹴散らしたものの、タケシ自身も傷つき新たな敵を前に絶体絶命のピンチを迎えている。自分の限界を突き付けられていた。
 これが現実なのだ…。これが現実を生きるということなのだ。
 …ならば、今の自分は紛れもない『敗北者』ではないか。
 決して負けられない戦いであまりにも無様な負け方をしてしまったあの時と同じ…、肝心なところで自分の力を発揮できない。これはまさに負けの王者タケシではないか!!

「タ…タケちゃん…。助けに来てくれたのか。…ありがとう、本当にありがとう、タケちゃん…。」
「ごめんね…、私たちのために…」
マミの両親が言葉を発した。それはとても細い声だったが2人はまだ死んではいなかった。
 しかし2人は身動きをしなかった。倒れたタケシの方へ向き直ることさえ出来ないほど弱っていることは確かだった。それは2人が絶望的状況にある事を物語っていた。そしてタケシももはや動ける状況ではない。
「おっちゃん…、おばちゃん…、すまねぇ…限界だ。俺は肝心なところで…詰めが甘いんだ。また負けた。俺は『負けの王者タケシ』なんだ…。俺には…」

…マミを助ける力がない。

タケシの口からその言葉が出そうになった。
「タケちゃん…、自分で自分をあきらめなければ、人生に「負け」はないんだよ(♯1)。」
「そうよ、だから私達の事はいいから…マミを連れて逃げて…、お願い。」
マミの両親はマミのことをタケシに託そうとしていた。
「…」
「本当の息子のように思ってたよ…」
「マミを、お願いね…」
「おっちゃん、おばちゃん…!」

「おい!」突然、星雄の怒号が響く。
「俺をさしおいて何のホームドラマをやってんだ!?、お前ら殺してやろうか!!」
星雄は自分だけが仲間外れにされた気がして激怒していた。星雄の観点では立てこもり事件の中心人物、つまり犯人である自分が主役であるはずなのだ。その主役の知らないところで話が進んでいることが我慢ならなかった。すべて自分が中心…ストーカーの典型的心理とも言える。
 床に転がるマミの父を蹴りつけた。母も同じように足蹴にした。既に大量に出血し危険な状態だ。
「お、お父さん、お母さん!!!!」
マミが悲鳴を上げた。父も母ももう動かなかった。声も上げなかった。
 「こっこの野郎!!」
タケシも叫び声を上げた。しかしもう体は動かずどうすることも出来ない。
「仲良く殺してやるよ。そして、マミちゃん、お前は俺と幸せに暮らそう。俺が幸せにしてやる!!。おーっと勢いでプロポーズしちまった。恥ずかちーーー!!!」
マミを背後から捕まえたまま大声で笑いながらマミの匂いを嗅ぎ続けていた。
「…ろよ。」
マミがうつむいたまま小さな声で言った。
「?」
「お前、いい加減にしろって言ったんだよ!!」
マミは豹変していた。今までのように星雄に捕らえられ涙を流しながら震えていたマミではなかった。キレていた。このやりたい放題、言いたい放題のストーカー野郎にキレていた。マミの両親を刺し足蹴にした。もう許さない。
「お前、こんな事件を起こしておいて今更、社会復帰できると思うなよ。」マミ。
「かわいい顔して言ってくれるじゃねえか!。」
星雄の包丁がマミの太ももに突き立てられた。深々と突き刺さった。マミは絶叫した。スカートの下から伸びる美しい足を伝って大量の血液が流れ落ちていった。美しかったマミの顔が苦痛に醜く歪んだ。
「俺が仕事を求めるんじゃない。仕事が俺を求めるのさ。俺ほどの才能あふれる存在なら仕事に復帰するのは簡単なんだよ!」
「仕事、仕事って…。仕事してても、してなくてもお前の人生は大して変わらないだろ!、この犯罪者!!、『自分のない人』ほど自分を主張する(#2)のね!!」
マミの言葉は常に鋭い真実を語る。真実だからこそ星雄は激怒した。
「このアマ!!」
星雄はマミの太ももに深々と刺さった包丁を乱暴に引き抜いた。
「ぁああああっ!!」激痛にマミの心がへし折られた。その場に崩れ落ちた。その上に星雄が覆いかぶさって来た。
「お前にはお仕置きが必要だな!」そう言った星雄のズボンは既に膝まで下がっていた。
「……!……!!……!!!」
太ももの激痛に大量出血も加わってマミは抵抗する力を失っていた。もう体に力が入らなかった。歯を喰いしばった。これから経験したことのない生き地獄が始まる。両親と幼馴染の目の前で異常者に襲われるという地獄が。耐えられるとは思えない。マミは目を閉じた。
 不意にマミの上から星雄の重みが消えた。恐る恐る目を開けると、醜く歪んだ星雄の顔はそこには無く、傷だらけのタケシが立っていた。
 星雄は大の字で仰向けに倒れていた。
 タケシが全力で星雄を殴り倒していた。マミを傷つけられた怒りが、限界を超えた体に最後のパンチを撃つ力を与えた。しかしその反動で傷という傷から血液が噴き出し全身の骨格がきしんで悲鳴を上げていた。 
「タケシ…」
マミの呼びかけにタケシは答えなかった。ただ限界を遥かに超えた体のダメージを少しでも回復すべく荒々しく肩で息をしていた。タケシは自分のシャツを使ってマミの傷を応急処置した。スカートをたくし上げて傷口に捲いた。マミの出血は簡単には止まらなかった。捲いたシャツはすぐに赤く染まっていく。
「少し待っていろ。」
タケシにそう言われたマミは黙って頷いた。目に涙を溜めながら。


(#1)(♯2) 斎藤茂太の名言
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