139 / 197
第3章
136.夜紺蠍
しおりを挟む森を抜けた途端、草原の匂いが濃くなった。朝の湿気はもう薄く、陽は高い。背の低い草が風に倒れ、遠くで蠅の羽音のようなざわめきが重なる。丘の肩を越えて薄紫の靄が溜まった窪地が見え、その中心に『それ』はいた。
大地の影が盛り上がって形になったような巨体。全身を青黒い甲殻が覆い、甲板の隙間からは紫の瘴気がしゅうしゅうと噴き出している。硬く分節した八本の脚は杭のように土へ刺さり、踏み込むたびに地が低く唸る。鋏は男の身の丈より大きく、擦れ合う音が鉄を研ぐように耳に痛い。何より、尾だ。空へ反り上がった長い尾の先、勾玉のような毒針が紫の光を滴らせている。
ヒナが息を詰めた。「……夜紺蠍……。伝承級です。瘴気で地を汚し、尾の毒で森を“死んだ静けさ”に変える厄災……ここにいるはずが……!」
「名があるなら、倒す術も伝わっているわね。」シャリスが短く祈り、印を重ねる。
「視界を確保、距離を取り、関節へ。毒霧は風で払うしかない」
『風は任せよ』肩のティグノーが尻尾をぴんと立てた。金の瞳が細く笑う。
『小癪な虫は、風で遊ぶに限る』
「アレス、関節。ケニーは俺の後ろで視界を支えろ。カイラ、ルテラは足を止める。ヒナは俺と正面、尾に意識を置け」
「了解!」アレスが弦を引き、羽根矢が光を掠める。第一射が後脚の節の溝に吸い込まれた――が、甲殻の下から紫の膜がふっと浮かび、矢をぐにゃりと受け流す。カン、と乾いた音を残し矢が跳ねた。
蠍王がぎちりと体を捻り、尾の針が稲妻の速さで振り下ろされる。ヒナが一歩踏み込み、両手剣で横からはじく。針先が剣身をすべり、紫の火花が散った。手首が痺れるほどの重さ。直後、鋏が薙ぎ払う――カイラが肩で受け、甲高い金属音が空に割れる。
「固い……!」ルテラが歯を食いしばり、両手剣で前脚の内側を叩く。鈍い音。分厚い甲がわずかに凹み、瘴気をぴゅっと吐いた。動きが半歩鈍る。
「今!」アレスの二射目がその凹みの縁に連続で刺さり、甲板の端が欠ける。ケニーが砂を蹴って横へ回り込み、蠍王の影の動きを読みながら叫ぶ。
「尾だ、右へ!」
紫の影が右から伸び――毒針が地面に突き刺さる。土が黒く焼け、白い煙がじわりと上がった。シャリスの加護の膜が仲間の肌に淡く揺れ、微かなざらつきを弾く。遅れて、瘴気の雲が尾の根元から膨張した。
『よし』ティグノーが両の前脚をちょいと上げ、ひと息吹く。見えない手が空気を掴み、瘴気が左右へ引き裂かれる。紫の霧は砕けた葦のように風に散り、視界が開けた。
蠍王が甲板を擦るように身を低くし、地面に潜った。ぬめるような土の動きが弧を描いて円を描き――
「下!」
リアの声と同時に、蠍王がシャリスの背後に噴き出した。鋏が振り下ろされる。ケニーが体当たりでシャリスを弾き飛ばし、刃先が彼の肩の皮鎧を裂いた。皮紐が千切れて舞い、ケニーは地を転がる。
「ケニー!」ヒナが半身で蠍王の尾先を払う。だがその一瞬の隙に、蠍王はゆっくりと体を起こし、尾を高々と掲げた。針先に紫の液が膨らみ、ぽたり、と落ちた滴が草を焼く。白い煙の匂いが鼻を刺す。
「距離を!毒の飛沫が来ます!」
シャリスの警告が風に千切れた瞬間、尾が雨のように毒を散らした。ティグノーの風が幾筋も立ち上がって幕を張るが、すべては捌き切れない。ヒナの頬を一滴が掠め、肌の上で紫が走った。
ヒナは眉を寄せながらも
「大丈夫です」と踏みとどまり、両手剣で前脚を受け流す。しびれが肘へ這い上がる。
リアは床面に片手をつき、熱を地へ通すように呟いた。細い炎が蠍王の脚元で花を咲かせ、踵を焦がす。甲が熱で膨張し、節の隙間が僅かに開いた――
「今だ、狙いが出る!」アレスが矢を雨に変える。三本が連なるように関節を貫き、蠍王の右後脚がぐらりと崩れた。巨体が偏り、尾が不安定に揺れる。
しかし、怒りで瘴気が濃くなった。蠍王の甲板の隙間から紫の光が脈打ち、尾の付け根に黒い紋のようなものが走る。地が震え、脚で地面を叩いた衝撃が波になって押し寄せた。ルテラの足が一瞬すべり、膝をつく。鋏が迫る――カイラがその前に躍り込み、刃と刃が衝突した衝撃で空気が爆ぜた。二人の足元の草が薙がれ、土が露出する。
「下がって、カイラ!」ルテラが助走を取り、両手剣を振り下ろした。前脚の関節が悲鳴を上げ、甲板に亀裂が走る。瘴気が噴き出し、紫の霧がまた視界を曇らせた。ティグノーの風が渦を作り、霧を押し戻す。だが、体への負担は明らかだ。ティグノーの耳が僅かに伏せ、呼吸が短くなる。
尾が、ヒナを正確に狙った。痺れの残る腕では、いなし切れない軌道だ。リアは一歩で間合いを詰め、剣身に炎を宿す。
「来い」低く言い、尾の鉤先を剣で受け、滑らせ、角度を殺す。紫の滴が剣に弾かれ、空へ散る火花のように見えた。熱で焼ける毒の匂いが鼻を灼く。
蠍王の鋏が左右から迫る。リアは前へ出た。避けない。炎を纏った刃で右の鋏を受け、左の鋏は足で蹴り流す。
「ヒナ、右を!」声が弾け、ヒナが力を込める。二人のタイミングが噛み合い、右の鋏の付け根に一瞬の“たわみ”が生まれた。そこへアレスの矢が一本、寸分違わず突き刺さる。乾いた破裂音。関節が外れ、鋏が草に落ちた。
紫の霧がうねり、尾が狂ったように振り回された。ケニーがシャリスの前に立ち、盾のように腕を広げる。毒霧が薄盾の膜で弾け、光の粒がぱらぱらと降る。シャリスの額に汗が浮き、手の印が微かに震えた。
「もう一枚、張ります……!」
リアの耳に、別の音が混じる。鋏と刃の衝突音の奥、風のひゅうという鳴きのさらに奥で、なにか低い、懐かしい響き――教師だった頃、理科室のバーナーの青い炎が噴く音。熱したガラスが鳴る音。脳裏に視界が二重に重なり、薄い膜の向こうで別の教室が一瞬立ち上がる。粉塵爆発の理屈、熱衝撃で脆くなる殻、温度差と亀裂……。
(熱して、衝く)
リアは短く息を吐いた。「アレス、尾の根元、矢で楔を作れ。カイラ、ルテラ、脚をもう一本落とす。ヒナ、俺に半歩、合わせろ」
「了解!」
23
あなたにおすすめの小説
少し冷めた村人少年の冒険記
mizuno sei
ファンタジー
辺境の村に生まれた少年トーマ。実は日本でシステムエンジニアとして働き、過労死した三十前の男の生まれ変わりだった。
トーマの家は貧しい農家で、神から授かった能力も、村の人たちからは「はずれギフト」とさげすまれるわけの分からないものだった。
優しい家族のために、自分の食い扶持を減らそうと家を出る決心をしたトーマは、唯一無二の相棒、「心の声」である〈ナビ〉とともに、未知の世界へと旅立つのであった。
公爵家次男はちょっと変わりモノ? ~ここは乙女ゲームの世界だから、デブなら婚約破棄されると思っていました~
松原 透
ファンタジー
異世界に転生した俺は、婚約破棄をされるため誰も成し得なかったデブに進化する。
なぜそんな事になったのか……目が覚めると、ローバン公爵家次男のアレスという少年の姿に変わっていた。
生まれ変わったことで、異世界を満喫していた俺は冒険者に憧れる。訓練中に、魔獣に襲われていたミーアを助けることになったが……。
しかし俺は、失敗をしてしまう。責任を取らされる形で、ミーアを婚約者として迎え入れることになった。その婚約者に奇妙な違和感を感じていた。
二人である場所へと行ったことで、この異世界が乙女ゲームだったことを理解した。
婚約破棄されるためのデブとなり、陰ながらミーアを守るため奮闘する日々が始まる……はずだった。
カクヨム様 小説家になろう様でも掲載してます。
神様の忘れ物
mizuno sei
ファンタジー
仕事中に急死した三十二歳の独身OLが、前世の記憶を持ったまま異世界に転生した。
わりとお気楽で、ポジティブな主人公が、異世界で懸命に生きる中で巻き起こされる、笑いあり、涙あり(?)の珍騒動記。
酒好きおじさんの異世界酒造スローライフ
天野 恵
ファンタジー
酒井健一(51歳)は大の酒好きで、酒類マスターの称号を持ち世界各国を飛び回っていたほどの実力だった。
ある日、深酒して帰宅途中に事故に遭い、気がついたら異世界に転生していた。転移した際に一つの“スキル”を授かった。
そのスキルというのは【酒聖(しゅせい)】という名のスキル。
よくわからないスキルのせいで見捨てられてしまう。
そんな時、修道院シスターのアリアと出会う。
こうして、2人は異世界で仲間と出会い、お酒作りや飲み歩きスローライフが始まる。
ドラゴネット興隆記
椎井瑛弥
ファンタジー
ある世界、ある時代、ある国で、一人の若者が領地を取り上げられ、誰も人が住まない僻地に新しい領地を与えられた。その領地をいかに発展させるか。周囲を巻き込みつつ、周囲に巻き込まれつつ、それなりに領地を大きくしていく。
ざまぁっぽく見えて、意外とほのぼのです。『新米エルフとぶらり旅』と世界観は共通していますが、違う時代、違う場所でのお話です。
『婚約破棄された聖女リリアナの庭には、ちょっと変わった来訪者しか来ません。』
夢窓(ゆめまど)
恋愛
王都から少し離れた小高い丘の上。
そこには、聖女リリアナの庭と呼ばれる不思議な場所がある。
──けれど、誰もがたどり着けるわけではない。
恋するルミナ五歳、夢みるルーナ三歳。
ふたりはリリアナの庭で、今日もやさしい魔法を育てています。
この庭に来られるのは、心がちょっぴりさびしい人だけ。
まほうに傷ついた王子さま、眠ることでしか気持ちを伝えられない子、
そして──ほんとうは泣きたかった小さな精霊たち。
お姉ちゃんのルミナは、花を咲かせる明るい音楽のまほうつかい。
ちょっとだけ背伸びして、だいすきな人に恋をしています。
妹のルーナは、ねむねむ魔法で、夢の中を旅するやさしい子。
ときどき、だれかの心のなかで、静かに花を咲かせます。
ふたりのまほうは、まだ小さくて、でもあたたかい。
「だいすきって気持ちは、
きっと一番すてきなまほうなの──!」
風がふくたびに、花がひらき、恋がそっと実る。
これは、リリアナの庭で育つ、
小さなまほうつかいたちの恋と夢の物語です。
私の薬華異堂薬局は異世界につくるのだ
柚木 潤
ファンタジー
薬剤師の舞は、亡くなった祖父から託された鍵で秘密の扉を開けると、不思議な薬が書いてある古びた書物を見つけた。
そしてその扉の中に届いた異世界からの手紙に導かれその世界に転移すると、そこは人間だけでなく魔人、精霊、翼人などが存在する世界であった。
舞はその世界の魔人の王に見合う女性になる為に、異世界で勉強する事を決断する。
舞は薬師大学校に聴講生として入るのだが、のんびりと学生をしている状況にはならなかった。
以前も現れた黒い影の集合体や、舞を監視する存在が見え隠れし始めたのだ・・・
「薬華異堂薬局のお仕事は異世界にもあったのだ」の続編になります。
主人公「舞」は異世界に拠点を移し、薬師大学校での学生生活が始まります。
前作で起きた話の説明も間に挟みながら書いていく予定なので、前作を読んでいなくてもわかるようにしていこうと思います。
また、意外なその異世界の秘密や、新たな敵というべき存在も現れる予定なので、前作と合わせて読んでいただけると嬉しいです。
以前の登場人物についてもプロローグのに軽く記載しましたので、よかったら参考にしてください。
デブだからといって婚約破棄された伯爵令嬢、前世の記憶を駆使してダイエットする~自立しようと思っているのに気がついたら溺愛されてました~
トモモト ヨシユキ
ファンタジー
デブだからといって婚約破棄された伯爵令嬢エヴァンジェリンは、その直後に前世の記憶を思い出す。
かつてダイエットオタクだった記憶を頼りに伯爵領でダイエット。
ついでに魔法を極めて自立しちゃいます!
師匠の変人魔導師とケンカしたりイチャイチャしたりしながらのスローライフの筈がいろんなゴタゴタに巻き込まれたり。
痩せたからってよりを戻そうとする元婚約者から逃げるために偽装婚約してみたり。
波乱万丈な転生ライフです。
エブリスタにも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる