エレンディア王国記

火燈スズ

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第3章

136.夜紺蠍

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 森を抜けた途端、草原の匂いが濃くなった。朝の湿気はもう薄く、陽は高い。背の低い草が風に倒れ、遠くで蠅の羽音のようなざわめきが重なる。丘の肩を越えて薄紫の靄が溜まった窪地が見え、その中心に『それ』はいた。

 大地の影が盛り上がって形になったような巨体。全身を青黒い甲殻が覆い、甲板の隙間からは紫の瘴気がしゅうしゅうと噴き出している。硬く分節した八本の脚は杭のように土へ刺さり、踏み込むたびに地が低く唸る。鋏は男の身の丈より大きく、擦れ合う音が鉄を研ぐように耳に痛い。何より、尾だ。空へ反り上がった長い尾の先、勾玉のような毒針が紫の光を滴らせている。

 ヒナが息を詰めた。「……夜紺蠍ナイトスコーピオン……。伝承級です。瘴気で地を汚し、尾の毒で森を“死んだ静けさ”に変える厄災……ここにいるはずが……!」

「名があるなら、倒す術も伝わっているわね。」シャリスが短く祈り、印を重ねる。

「視界を確保、距離を取り、関節へ。毒霧は風で払うしかない」

『風は任せよ』肩のティグノーが尻尾をぴんと立てた。金の瞳が細く笑う。

『小癪な虫は、風で遊ぶに限る』

「アレス、関節。ケニーは俺の後ろで視界を支えろ。カイラ、ルテラは足を止める。ヒナは俺と正面、尾に意識を置け」

「了解!」アレスが弦を引き、羽根矢が光を掠める。第一射が後脚の節の溝に吸い込まれた――が、甲殻の下から紫の膜がふっと浮かび、矢をぐにゃりと受け流す。カン、と乾いた音を残し矢が跳ねた。

 蠍王がぎちりと体を捻り、尾の針が稲妻の速さで振り下ろされる。ヒナが一歩踏み込み、両手剣で横からはじく。針先が剣身をすべり、紫の火花が散った。手首が痺れるほどの重さ。直後、鋏が薙ぎ払う――カイラが肩で受け、甲高い金属音が空に割れる。

「固い……!」ルテラが歯を食いしばり、両手剣で前脚の内側を叩く。鈍い音。分厚い甲がわずかに凹み、瘴気をぴゅっと吐いた。動きが半歩鈍る。

「今!」アレスの二射目がその凹みの縁に連続で刺さり、甲板の端が欠ける。ケニーが砂を蹴って横へ回り込み、蠍王の影の動きを読みながら叫ぶ。

「尾だ、右へ!」

 紫の影が右から伸び――毒針が地面に突き刺さる。土が黒く焼け、白い煙がじわりと上がった。シャリスの加護の膜が仲間の肌に淡く揺れ、微かなざらつきを弾く。遅れて、瘴気の雲が尾の根元から膨張した。

『よし』ティグノーが両の前脚をちょいと上げ、ひと息吹く。見えない手が空気を掴み、瘴気が左右へ引き裂かれる。紫の霧は砕けた葦のように風に散り、視界が開けた。

 蠍王が甲板を擦るように身を低くし、地面に潜った。ぬめるような土の動きが弧を描いて円を描き――

「下!」

 リアの声と同時に、蠍王がシャリスの背後に噴き出した。鋏が振り下ろされる。ケニーが体当たりでシャリスを弾き飛ばし、刃先が彼の肩の皮鎧を裂いた。皮紐が千切れて舞い、ケニーは地を転がる。

「ケニー!」ヒナが半身で蠍王の尾先を払う。だがその一瞬の隙に、蠍王はゆっくりと体を起こし、尾を高々と掲げた。針先に紫の液が膨らみ、ぽたり、と落ちた滴が草を焼く。白い煙の匂いが鼻を刺す。

「距離を!毒の飛沫が来ます!」

 シャリスの警告が風に千切れた瞬間、尾が雨のように毒を散らした。ティグノーの風が幾筋も立ち上がって幕を張るが、すべては捌き切れない。ヒナの頬を一滴が掠め、肌の上で紫が走った。

 ヒナは眉を寄せながらも

「大丈夫です」と踏みとどまり、両手剣で前脚を受け流す。しびれが肘へ這い上がる。

 リアは床面に片手をつき、熱を地へ通すように呟いた。細い炎が蠍王の脚元で花を咲かせ、踵を焦がす。甲が熱で膨張し、節の隙間が僅かに開いた――

「今だ、狙いが出る!」アレスが矢を雨に変える。三本が連なるように関節を貫き、蠍王の右後脚がぐらりと崩れた。巨体が偏り、尾が不安定に揺れる。

 しかし、怒りで瘴気が濃くなった。蠍王の甲板の隙間から紫の光が脈打ち、尾の付け根に黒い紋のようなものが走る。地が震え、脚で地面を叩いた衝撃が波になって押し寄せた。ルテラの足が一瞬すべり、膝をつく。鋏が迫る――カイラがその前に躍り込み、刃と刃が衝突した衝撃で空気が爆ぜた。二人の足元の草が薙がれ、土が露出する。

「下がって、カイラ!」ルテラが助走を取り、両手剣を振り下ろした。前脚の関節が悲鳴を上げ、甲板に亀裂が走る。瘴気が噴き出し、紫の霧がまた視界を曇らせた。ティグノーの風が渦を作り、霧を押し戻す。だが、体への負担は明らかだ。ティグノーの耳が僅かに伏せ、呼吸が短くなる。

 尾が、ヒナを正確に狙った。痺れの残る腕では、いなし切れない軌道だ。リアは一歩で間合いを詰め、剣身に炎を宿す。

「来い」低く言い、尾の鉤先を剣で受け、滑らせ、角度を殺す。紫の滴が剣に弾かれ、空へ散る火花のように見えた。熱で焼ける毒の匂いが鼻を灼く。

 蠍王の鋏が左右から迫る。リアは前へ出た。避けない。炎を纏った刃で右の鋏を受け、左の鋏は足で蹴り流す。

「ヒナ、右を!」声が弾け、ヒナが力を込める。二人のタイミングが噛み合い、右の鋏の付け根に一瞬の“たわみ”が生まれた。そこへアレスの矢が一本、寸分違わず突き刺さる。乾いた破裂音。関節が外れ、鋏が草に落ちた。

 紫の霧がうねり、尾が狂ったように振り回された。ケニーがシャリスの前に立ち、盾のように腕を広げる。毒霧が薄盾の膜で弾け、光の粒がぱらぱらと降る。シャリスの額に汗が浮き、手の印が微かに震えた。

「もう一枚、張ります……!」

 リアの耳に、別の音が混じる。鋏と刃の衝突音の奥、風のひゅうという鳴きのさらに奥で、なにか低い、懐かしい響き――教師だった頃、理科室のバーナーの青い炎が噴く音。熱したガラスが鳴る音。脳裏に視界が二重に重なり、薄い膜の向こうで別の教室が一瞬立ち上がる。粉塵爆発の理屈、熱衝撃で脆くなる殻、温度差と亀裂……。

(熱して、衝く)

 リアは短く息を吐いた。「アレス、尾の根元、矢で楔を作れ。カイラ、ルテラ、脚をもう一本落とす。ヒナ、俺に半歩、合わせろ」

「了解!」
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