エレンディア王国記

火燈スズ

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第3章

148.依り代

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 薄い衣をまとった少女が、ヒナの腕の中で脱力した。白い肌。青い瞳――だが、瞼は閉じられている。顔の造作は、ルテラに似ていた。ありえないほどに。黒髪、瞳の形、鼻梁の線、口元のわずかな癖まで。年頃も近い。

「ルテラ……?」リアが思わず呟く。

「……似ておられます。ですが、別人です」ルテラは震える声を押さえ、少女の髪をそっと払って耳の形を確かめた。

「この耳……サーシャが言っていたテレネスの民に伝わる形と一致しています」

『依り代ぞ。風の座が、ここに留まるための器。長き間、眠り続けておったのであろう』ティグノーの声が低く響く。

『今は抜け殻。命はある。急げ。ここで休ませるな。外へ』リアは頷いた。

「ヒナ、ルテラ、彼女を。できるだけ揺らさずに」

「承知しました」

「はい」

 三人は足早に光の廊を戻る。戻る道は、不思議と短かった。先ほどの試練の場は薄い霧のように淡く、光の糸が一度だけゆるんで、彼らを通した。扉の輪の前まで戻ると、霜の刻印が彼らの息に呼応して――道が、外へつながった。

 吹雪は、止んでいた。白い風はもうなく、夜の草原の冷たさが頬を撫でる。天は高く、星々は濃い。時を乱す音は消え、虫の小さな気配が戻っている。

 少女を寝かせる、柔らかい場所――村へは戻らない。ラウラ族の動きが読めない今、誤解を増やすわけにはいかない。リアは二人に目配せし、草原の拠点へ向けて走り出した。夜露に濡れた草を蹴り、鳴草の帯を越え、風門の影をくぐる。やがて見えてくる、細い杭の列、組み上がった梁、まだ壁板の張られていない小屋の骨組み。焚き火の跡はまだ温く、灰の匂いが残る。

 小屋の中へ少女を運び込む。床には乾いた草が敷かれ、上に毛皮が一枚。ルテラは手早く敷き直し、ヒナが少女の脈を確かめ、呼吸の深さを手の甲で感じる。リアは飲み水を温め、布を濡らして額と首筋を冷やす。ティグノーは入口の影で鼻を上げ、風を嗅ぐ。敵の匂いはない。

 しばらくして、少女の呼吸が少しゆっくりになった。顔色はまだ青いが、唇の色は戻ってきている。ヒナは安堵の息を一つこぼし、毛皮をもう一枚、胸の上へかけた。

「リア様」ルテラが静かに声をかける。

「この方は……」

「分からない。けれど、時の扉と関係があるのは確かだ。ティグノー、どう見る」

『扉は鍵を返しただけよ。扉そのものでは人は生まれぬ。依り代は、どこかで選ばれ、ここへ連れて来られたのだろう。……或いは古のしばりが働いたのかもしれぬ』

「古のしばり……」リアはペンダントへ視線を落とした。

 入口の方から、淡い光が差した。振り向くと、外でまだ輝いていた扉の輪が、ゆっくりと縮んでいる。二重の輪は指先ほどになり、十二の刻みは米粒ほど。輪はひとりでに銀の細い鎖を生み、音もなく空を滑ってリアの前に来た。掌を出すと、輪はそこにそっと落ち、光は静まった。

 掌の上に、小さなペンダントがあった。二重の輪、十二の刻み。霜の刻印が、薄く彫り込まれている。冷たい。だが、その冷たさは外の夜気のそれではなく、洞内の“時”の冷たさに似ている。

「……神器、『時の扉』」リアは低く呟いた。王家の光輪の隣に下げると、光輪はほのかに震え、薄い音をひとつ立てた。互いに、挨拶を交わしたかのように。

 小屋の中に戻り、扉の前に三人で腰を下ろした。焚き火はない。火を起こすには草と木が足りない。だが、星が明るい。遠くで草の波がゆっくり動く。夜露の匂いと、乾いた土の匂い。

「まずは、休みましょう」ヒナが言う。声は柔らかいが、背筋はまっすぐだ。

「リア様も、かなり消耗されています」

「そうだね……」リアは頷き、額を軽く拭った。

「――それから。この『時の扉』を、試そう」

「いつから使えるのでしょうか」ルテラが問う。

『急くな』ティグノーが揺れた尾で床を軽く叩く。

『扉は鍵を得て、いま静まったばかり。使うなら、朝の風に合わせよ。夜の風は、影を増やす。影が増えれば、戻り道が増える。戻り道が増えれば、迷う』

「朝、か」リアは小さく笑む。

「朝が来たら、まず安全を確かめよう。それでいいか?」

「はい。賛成いたします」ヒナが頷く。

「わたくしも異論はございません」ルテラは静かに言い、毛皮を少女の肩まで引き上げた。

「この方の容体も見守らねば」

「そうだね」リアは少女の顔を見下ろした。ルテラに似た顔。なぜここに。誰が、いつ。問いは尽きない。だが、いま問うのは早い。まずは、休み、朝に備える。

 小屋の外で、風が一度だけ向きを変えた。夜の草はざわめき、遠くの白樺が葉を裏返す。ティグノーは鼻先を持ち上げ、『今宵は静かだ。――眠れ』とだけ言った。

 三人は交代で見張り、交代で短く眠った。星は濃く、夜は深く、東の端はやがて、わずかに白くなる。
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