エレンディア王国記

火燈スズ

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第3章

156.王に近き者

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 長老の家の奥座敷は、樹皮で編まれた簾越しに薄い光が差して、床に柳の葉の影を揺らしていた。天井からは乾かした薬草束が吊るされ、ほの甘い香りが漂う。炉の火は小さく、赤い芯だけが生きている。

 リアは席を正し、向かいに座るヒナとアレスを見た。肩のティグノーは丸くなっているが、耳だけが風を測るようにわずかに動いている。

「ここから、どう動くべきかを決める。……ヴィスの隊を討つのは簡単じゃない。いや、簡単であってもやらない。王国の軍を相手に刃を交えるということは、国家への反逆の名を背負うということだ」

 ヒナはすぐに背筋を伸ばし、膝に置いた拳を固く握った。

「たとえ、国が敵に回ろうと、私はリア様にお従いします」

 アレスも、弓を脇に置いて頷いた。

「同じくです、リア様。……でも、いつもみたいに正面突破だけは、今回は避けたい。敵が多すぎます」

 リアはふっと短く息を吐いた。

「同意だ。剣を振るう前に確かめることがある。――この背後に誰がいるのか。ラウラ族はなぜ王国に与したのか。真実を知らねば、刃はただの破壊だ。徹底的に調べる。必要なら、どんな手でも使う」

 簾の向こうに気配が動き、長老がゆっくりと現れた。白い髪は編まれて肩に垂れ、瞳は水底の石のように静かだ。長老は一つ頷くと、炉の脇に置いた浅い黒塗りの鉢を持ってきて、その中に井戸水を注いだ。水面に天井の梁が揺れ映り、次の瞬間、長老は短い呪を吐いた。

 鉢の底が、夜の縁へと沈むように黒くなった。長老はヒナに目を向ける。

「影を貸しなさい。……古い術だよ。影写し。貸した者の感覚と結んで、影だけを歩かせる。影は匂いも音も拾って帰る。ただし、見たものの重さも一緒にね」

「承知しました」

 ヒナは膝をずり寄せ、水鉢の縁に両手を添えた。長老の指がヒナの影の輪郭をなぞる。影は畳の上でゆらりと揺れ、黒い水面へするりと滑り落ちていった。ふっと、ヒナの睫毛が微かに震える。遠くの風が、ひとつ、彼女の耳を通り抜けたようだった。

 影は柵を越え、白樺の列を縫い、王国の天幕群の隙間へ溶け込む。水面に、ぼんやりと帆布の影が浮かぶ。低い号令、鉄器の触れ合う乾いた音。黒い水は声を拾い始めた。

『――広場での損耗は軽微。住民の一部は抵抗。鎮圧、終了』

 ヴィスの声だ。いつもの薄笑いが混じる抑揚。だが次に続いた声に、ヒナの肩がわずかに硬直した。

『よろしい。……で、状況はどうだ、ヴィス隊長』

 柔らかく、低く、よく通る――冷たい水面に落ちる小石のように均整の取れた声。ヒナは無意識に息を呑んだ。リアとアレスも、水面へ身を乗り出す。

『レオン殿下のご命令通り、周辺に野営を増やし、出入りはすべて管理下に。氷霊竜の討伐を名目に、軍事行動の正統性は確保しております』

『氷霊竜? 嗤わせるな。あの程度の伝承は民を安心させるための飾りだ。必要なのは、境界。線引き。――王国の線は、王国が決める。それだけのことなのだからな』

 長老の家に、しんとした沈黙が落ちた。ヒナの指先が冷える。アレスは顎に手を当て、顔をしかめる。リアは、まぶたを一度だけ長く閉じた。

 王族が外に出ることの稀さを、リアは痛いほど知っている。城の中で政治を編み、姿を見せぬことが王家の正しさだと信じる者たち。レオンは、その思想の体現者だった。城の食卓で、リアの開拓を嗤った兄。だが、そのレオンが今、ここにいる。

 ――そして、ヴィスが言った「背後にお気を付けを」。

 背後。それは、風の流れの死角を意味する。リアは瞼を上げ、静かに言った。

「会ってくる」

 ヒナの顔に影が差した。

「お一人では危険です」

「一人でしか言えない話もある。……ヒナ、アレス。近くで待機してくれ。何かあれば合図する」

「畏まりました。必ず、近くに」

 ティグノーが肩で低く鳴いた。風は背中を押す。長老は短く頷き、炉に薪を一つ足した。火は青く、静かに高くなった。

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