エレンディア王国記

火燈スズ

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第3章

166.教える

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 甘い香が風に混じる。濃度が上がった。
 ヒナがわずかに斜めに退き、風下を避ける。ルテラは矢羽根を濡らした布で撫で、アレスは弦に指を触れたまま肩を落とす。ティグノー――本体の名を借りる分体――が、リアの肩の上で毛を逆立て、牙を見せずに唸った。石と香の隙間に、別の匂いが紛れた。
 ――油。
 遺跡のどこかで、繋ぎの油が温まる匂い。罠は、香だけではない。

「やめておけ」

 リアは目を細め、台座と柱の間に積まれた瓦礫の山を見やる。

「その紐を引けば、刃が跳ね、油が散る。香と油と火で、俺たちの足を縛るつもりだろう。……だが、お前は引けない」

「なぜだ」
 ケルベロスの声は、感情を持たない水面のようだ。

「理由が二つ」
 リアは指を二本、上げてみせる。
「ひとつ。シャリスがいる。王家の娘を火で焼けば、『底』が騒ぐ。お前の上にいる“枠を作る者”たちは、その騒ぎを嫌う。
 ふたつ。――話したがっている。お前の口の渇きが、風より速い。『語る快楽』は、お前の刃だ。刃を投げる前に、必ず舐める」

 ほんのわずか、ケルベロスの目の奥に、熱の色が浮いた。見られた、と悟ったときの色だ。
 男はわずかに肩をすくめ、罠の紐から指を外した。

「ならば、語ろう。語ってしまえば、残るのは刃だけだ」

 石の広間が、ことり、と音を立てた気がした。
 月が雲を割り、柱頭の月輪の彫りがくっきりと現れる。

「王都は、もう傾いている」

 ケルベロスは淡々と告げる。

「傾きは、いつか倒壊に変わる。宣誓の日は、傾きを正す機会でも、倒しやすくする機会でもある。私たちは後者を選んだ」

 シャリスの肩が、僅かに強張る。
 ルテラは矢を持つ指に汗を感じ、布で拭い、また湿らせる。
 アレスは矢の角度を変えない。ヒナが彼の左肘を目で叱る。目だけで。

「『私たち』」
 リアは言葉の主語を拾い上げるように繰り返した。「お前は黙示の翼の第七。ならば、上には誰がいる。白銀か。……それとも――」

 ケルベロスの笑みが、今度はわずかに深まった。

「主語を確かめる耳は、刃より鋭い。よい教師だ」

 その一言で、シャリスの心臓がどくりと強く打った。『教師』。リアに付き従う者たちのあいだでだけ使われる、ひそやかなもう一つの名。彼は――知っている。どこまで。どこから。

「王都の話は、ここでは贅沢だ」

 ケルベロスは視線をリアから外さないまま、右手を広間の南へ滑らせた。

「エレンディア。お前が向かう地。――そこを、私たちは空にする」

 アレスの弦が、かすかに鳴った。

「空、だと?」

「人のいない土地ほど、枠は引きやすい」ケルベロスの声は、石を撫でる風のようだ。

「地脈、風脈、魔脈。古い柱がある。柱は折れている。折れた柱は、新しい輪郭を求める。お前が開拓するなら、そこに枠を置くことができる。――私たちの枠を」

 リアは目を伏せ、一瞬だけ息を止めた。
 地図が脳裏に広がる。国の東に突き出る荒地。風が渦を巻く谷。古い石の基礎。廃坑。失われた開拓記録。――穴だ。たしかに、枠を押しつけるには都合のいい穴。

「だから、お前は俺たちを誘った。ここで削り、向こうで一気に押し込むために」リアは言い、耳の奥のざわめきを鎮める。

「王都の傾き、宣誓の日、奴隷市場の黒。全部を一つの線で結ぶために。お前たちの線で」

 ケルベロスは首を横に一度だけ振った。

「違う。線は既に引かれている。お前はそれを踏むか、踏み外すかだ」

 ヒナが小さく笑った。

「踏み外すほうが、楽しいわ」

「楽しいか」男が目を細める。

「楽しいは、底に落ちる」

「落ちたら、上を見ればいいだけ」ヒナの声は静かだ。

「上を見るのが怖いから、あなたは底を作る」

 言葉が、刃より先に血管を走った気がした。
 ケルベロスの視線が、はじめてほんのわずか揺れる。揺れはすぐに止まり、冷えた光に戻る。

「……目は、伝染するのだな」ケルベロスが呟き、軽く首を回す。

「では、その目を、閉じさせる」

「閉じないよ」リアは剣の柄に、確かめるように左手を添えた。

「閉じ方を知っていても、開き方を教えられる。――それが教師だ」

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