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ピロローグ
しおりを挟む「⋯おー、出来た」
大量のキャンバスと画材で埋まる部屋の中で、小さなキャンパスに描いた油絵を見て、ぽつりと呟く。描きたいと願ってから描けるようになるまで、10年の月日が過ぎた。
絵の中に描かれたのは、とある高校の美術準備室。油絵具で彩られたキャンバスの中にも、油絵具が転がっている。創作机に並んで座るのは、焦げ茶色のストレートヘアの女性と、黒縁メガネの男性。2人の間には、楽しそうに絵を描く子どもが座っていて、男女はその絵を覗き込んで笑っている。
名前も顔も背格好も、淡く覚えている同級生がいる。一度も同じクラスになったことのない同級生なんて、名前も顔も背格好も何一つ頭の中に残っていない。生活面なんて、すごくいい思い出と、すごく悪い思い出しか残っていない。見ていた黒板に書かれた内容も、当てられて答えた問題も、体育の授業でバレーボールが顔面にあたったときの痛みも、もう思い出せない。
けれども、これから先の残りの人生において、私は、この絵の中の2人を、一生涯忘れることはないだろう。
少女漫画のような心が暖かくなるような恋ではなくて、大好きだという気持ちも、伝えるに伝えられない関係だったけれど。
小さな〝嬉しい〟ではなく、大きな〝嬉しい〟を感じて欲しいと希う。その分、私は小さな〝嬉しい〟をたくさん集めて、生きていくのだ。
大切に梱包をして、大きめのトートバッグに入れた絵画は、実量よりもずっと重たく感じた。向かう先は、大切な夫の待つ家。そして、きっともう行くことの無い場所になる。
胸の奥の締め付けられる痛みは、時間とともに無くなっていくだろう。その時の私を、いつの日か誇らしく思えるようになりたい。
アトリエを出た先には、濡れた道路と、ところどころに水たまりがあった。雨上がりの匂いが広がる空気は、初夏の青々とした草木の匂いと混ざりあって、爽やかな香りになっている。
空の上で眩しく光る太陽が映る水面を見て、大きく深呼吸をした。
───今日も世界は美しい。そして、色々あったけれど、変わらず好きだと思えることが幸せだ。
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