無有行脚《むゆうあんぎゃ》

良玄(りょーげん)

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無有行脚《むゆうあんぎゃ》

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●其の壱、「一人目…橙士朗」




がっ!!!



勢いよく振り下ろされた刀を、脇差の鞘ごと受け止める!

鞘にめり込んだその刀を、男は力一杯に引き抜こうと両手に力を入れる。

そして、その力をそのままに万歳の姿勢で刀が鞘から引き抜かれた。
脇差よりも刀身のある刀は、木の天井に、

ずんっ!!

と、突き刺さってしまった。

相手に振り下ろした時は刀に意識を乗せていた為、天井に当たることはなかったのだが、引き抜くのに必死になったことで刺さってしまった。

脇差の青年は動じることなく、今しがた付いた刀の傷の鞘から抜刀することなく、無様な姿の男の喉元に見事な突きをお見舞いした。

ぐうぇっ!

男は苦しい呻き声をひとつ上げると、喉を抑え、顔を真っ赤に涙目でその場に倒れた。その時、土で出来た壁や漆で出来た衝立、蝋燭立てなどに激しくぶつかる。

息が出来ないようで、悶え苦しんでいる。

痘痕あばたの兄貴!すまねぇっ!後生だ!」

それを見かねてか、仲間の男が、苦しんでいる男の、心の臓に手に持っていた刀を突き立てた。

突き立てた刀と、痘痕面の男を置き去りに、男たちは旅籠はたごを一目散に後にした。

慌てて後を追おうとする旅籠の主人に、脇差の青年は声をかけた。

「深追いは危険です。やめた方がいい。」

「あたしの方からお助け下さいと申しましたがね、まさか刀の扱いも知らないトーシローだとは思いませんでしたよ!ばっさばっさと不逞浪士どもを斬って下さるかと思いきや、鞘も抜かない脇差ですと!しかも、あれを見逃せって?!…まったく…、せめてぇ…そのぉ…死体、だけでもなんとかして下さいよ!」

と、今し方、こと切れた男の酷い死相を見て顔をしかめた主人は、惨劇のあった部屋を早足に出て行った。



「えぇ~…僕がですか?…参ったなぁ…。」


脇差の青年は、後ろ頭を掻くと、嫌々ながらも野次馬に下がるよう言いながら、まず刀を引き抜こうとした。

「へ~、イイ刀を使っているなぁ。誰かから奪ったんだろうな。」

男からその刀を、ずりっ…と、引き抜き、
刀身に付いた血を倒れている男の着物で軽く拭うと、刃こぼれが無いかを確認した。

「まだ、使える…けど、僕には必要ないか」

死体から緩やかな流れで、開いた胸からとめどなく血が出て来る。

「あっ!しまった!」

慌ててそこに、誰の物か分からない手拭を押し込んだ。

手拭の持ち主らしき人が、「げっ!」と声を上げたが、聞こえない振りをした。

次に青年は慌てて置いた刀を拾うと、
それを手にしたままキョロキョロし始め、大きめの木綿風呂敷が目に入ると、

「どなたのか知りませんけど、お借りしまーす」

と、その風呂敷で刀を包んだ。

持ち主の、「あっ!」という声は聞こえない振りをした。



死体の後始末をさせられている青年を、乱れた髪を整えながら見つめる女性。

着物の乱れも整えている。
旅籠を占拠していた不逞浪士たちに乱暴された女性だ。
胸元を直し、そこにあったはずの物を奪われ、口を悔しそうに真一文字に結ぶ。

「…断絶されたとはいえ、武士の娘…。貞操を奪われるなど恥晒しもいいところ…。」


そう、ぽつりと呟くと、青年が風呂敷に刀を包む姿を見た。


●其の弐、「二人目…桔乃」



ズダァーーーンっ!!!


「次ぃっ!!」


凛として鋭い、女性の大きな声が、ピリッとした道場に響き渡る。
投げられた少年は痛そうに腰を擦っている。
女性の鋭い声に臆している彼らは、しかし、それよりも穏やかな声に背筋を正した。


桔乃きつの、何をしている?」


桔乃と呼ばれた女性は、その人物を見ると、力強く睨みつけながら、道場を出て行った。


「植芝先生、あのお方が桔乃はん?」

「ええ、じゃじゃ馬と申しましたが、あの通りで…。」

「ほぉ。いや、気の強い美人は嫌いやおまへんでぇ。京都まで先生に会いに来て良かったですわ。今更、約束なんぞ知らな言うんは、あきしまへんで?」

「あなたのような新華族である男爵に貰って頂けるのは嬉しいことです。あの子も、もう16歳だ。いつまでも家にいられたら恥ですからな。引き受けて下さる方がおって、有難い。」

着物姿で小柄の植芝と、大柄でしっかりとした体付きの男性は笑顔で話している。


門下生たちは植芝の隣にいる男性を見て、驚いていた。

「あの人、有坂中将だ…!えっ?桔乃さん、後妻になるの?」

静かで響く道場。植芝たちの声はしっかりと門下生たちに聞こえている。

「16歳で後妻かぁ…。可哀想だ…。」


少年たちは桔乃が出て行った戸へと目が行った。
外から見える新緑が先程ぱらついていた雨で塗れ、葉が、きらきらと光っている。
じりじりと暑い日であったが、少しひんやりとした空気が道場の中へ、その戸を通り入って来た。


●其の参、「三人目…伊礼 譲治」



「出来た…。」


作業台に両手をついて、完成したばかりの道具を見下ろす。
家族も恋人も友人もいない、気楽な人生。
無理につくろうとかも思わない。

俺の人生、これが極上の幸せだと言える。

空調設備の営業の仕事をしてはいるが、特定の人物をつくらないようにしている。
付き合いで、キャバクラだとかには行くが、女の子から貰った名刺にある電話番号とかに直接、電話したこともない。

人嫌いでもないが、なぜだか、人との関りがそれほど好きじゃないんだよな。

俺が死んだら、少ない財産でも国の物になるらしいから、貯金はあまりしていない。

なんで、金は趣味につぎ込んでいる。

それが…これだ。

今、見ているこの道具。

懐中時計だが、ただの懐中時計ではない。

俺はドラ〇もんよりもキテレツ大〇科の方が好きなんだ。

子供の頃見たアニメの影響で変わった道具つくりにハマっている。

それが、唯一の趣味で、男として情けない話だが女性に夢中になったこともない。


…病気かもしれねぇな…。



ガタン…


何だ??

不意に…自分しか住んでいない一軒家…の…どこかの部屋から人の気配を感じた。

キレイに整頓されたツール箱、使う物だけが広げられた作業台に片手だけ残し、訝し気に耳を澄ましながら、首を動かした。


カタン…


やっぱ、音がするな。

金目の物なんてないし、こんな外観がボロッちい家に泥棒が来るのか??

作業台を離れて音のした方へと体が行きかけたが、出来上がったばかりの懐中時計をなんとなく見つめると、それをポケットにしまい、一応小型の金槌を手に持った。
小型でもずっしりくる重み…。
いや…この金槌…どうするんだよ?
正当防衛でも相手を殺しかねない、と思い直すと、すぐ傍にあったレンチに持ち替えた。
まぁ…これだったら、もしもの時でも大丈夫か?


作業部屋から出ると、それは急だった。


何か、霧状のものが顔にかかり、俺は一気に意識を失った。



目を醒ましたら、そこは……いつもの俺の家だった。

良かった。
こういう場合、気が付くと知らねー場所にいた、っていうのが比較的あるのを俺の脳みそが知っていたから、思わず身構えてしまった。

しん……、と、静かな家……。

都会の一等地にあるこのボロく大きな家は、不動産屋とか、地面師に狙われやすく、防犯登録してはいるが、いつ誰が来るかも分からないから音楽はかけないし、TVも超低音で見ている。お蔭で耳は良い方だ。

外からの車の排気音が小さく聞こえるが、部屋の静けさは、いつもと違って感じる。

目だけを動かして見回す。

神経が高ぶっていたのだろう。

外からの大きな音に少し飛び上がってしまった。
床に座り込んでいるから少しケツが浮いた、と言った方が正しいが。

「うるせーなぁ。排気量が凄すぎだろ…。この音は、バイクか…。ハーレーじゃないな…スポーツタイプか。…この音は…しかもスピード出てるなぁ…捕まるぞ…って、この音…白バイに追われてんじゃねーか」

しかし、これで現実味が戻って来て、少し、動悸が鎮まってきた。

やれやれ……。


ガサっ


「ん?」

両手を座ったまま後ろについた時だった、手に、紙のような感触が伝わってきて、そのまま掴んで、見てみた。



「なんだコレ??」


見覚えのないA4サイズの茶封筒。

中を確認するために紐を解いて、中を覗く。

何枚か書類が入ってあった。
紙のクリップで留めてある書類に目を通す。

「…『歴史調査依頼』。伊礼いれい 譲治じょうじ 様。…えっ!?こんな書類はじめて見たんだけど!?」

そこにあった自分の名前に目を疑った。

しかも、『歴史調査依頼』って…俺は歴史の成績2だぞ!?

見開いていた目が落ちるんじゃないかと思う程、俺は更にもっと目を見開く。



「…なんだよ…これ…冗談だろ…タチ悪すぎ…。」

数枚の写真が同封されていたが、どれも身に覚えのない悪趣味なコラージュ写真だった。

その殆どが、俺があられもない姿の女の子達と行為に及んでいる…という物だった。
しかも、未成年者と思しき子もいる…。
小遣い稼ぎにこういう画像をネットで平気で売るから、こういうのに悪用されるんだよ…。俺に子供がいたら、こういう風に自分の子供が悪用されたら嫌だな。
正直、自分の変態じみたこの写真よりも、写っている子達の将来が心配になってしまった。

「…それで…?」

書類の方に視線を戻すと、送り主の目的を探した。
見逃さないように、一言一句、真剣に目を通す。

「あー…、言われた通りにしないと、会社や近所に、この写真をばら撒く…と…、…ん?…うわ、マジかよ💧女の子達の身辺調査報告書まであんの?やっぱ実在する子達なのか。…って、ええええええ!!!田辺部長のお子さんだって!?……嘘だー…、うんー…、んでも目元が似てるな…。」



田辺部長のお嬢さんかもしれない女の子の身辺調査報告書に書いてある、お嬢さんのSNSアカウントを焦りながら確認する。


「嘘だぁ~~~…。嫌だよ…。え~~~~…。…本物かよ…。裸見ちゃったじゃん、気まず……。ダメでしょ…、なん、あーーー、これっ、うーーー」

「…これさ、ほんと悪質だよな!断れねーじゃん、こんなのだって!」


「…ていうか、コレついさっき出来たんだぞ?なんでこの訳わからねー犯罪者が知ってるんだよって話!」

こんなこと、ハッキリ言って犯罪だ。
テンパってる俺は、普段は滅多にしない独り言で吠えていた。

しかも普段会社では絶対しない話かた、だ。

ポケットから出したコレ、をジッと見つめる。


「…この指示書の通りに動けばいいんだな?…って誰に聞いてんだか」

俺しかいない空間に問いかけ、チェーンのところを持ってぶらぶら左右に振って少し笑う。



「やるしかねーか。」


振っていたコレをそのままその手でぎゅっと握る。

架空の女の子達で、自分の恥ずかしー写真くらいだったら無視しようと思ったが、これをばら撒かれたら困るのは女の子達だよな。

まだ若い彼女達…、成長した時に反省してくれたらそれで、いい。
変な奴らに強請られたりもするし、犯罪にだって巻き込まれる可能性だってある。出来るだけ早くに反省して欲しいのが本音ではあるが、よそ様の事情に口出しするのは間違っているか。

俺だって出来た人間でもないしな。




コレ……、

本当に使えるかも分からない、

使えたとしても危険な代物、

学校のテストで80点以上出したことのない馬鹿な俺は、

訳の分からない、『歴史調査』を、



手の中にある、懐中時計型時空移動アイテムで、これから、始める。


●其の四、


「…………。」

はぁ~……。

「どこまで追いて来るんですかぁ?女性がはしたないですよぉっ」

大きな声で後ろにいる女性に声を掛ける橙士朗。

意を決したように女性は橙士朗の元へと駆けて来ると、息を切らしながら大きな声で
「その刀をよこしなさい!今すぐに!さぁっ、早くっ!!」
と、風呂敷に包まれた刀を奪おうと前のめりに手を伸ばして来た。

青年はひらりと躱すと、一瞬で女性との距離をあける。

くっ!と悔しそうにしながらも尚も執拗に迫って来る。

必死の形相の女性に対し、面倒くさいといった顔の青年。

「なんです?危ないなぁ。旅籠にいた人ですよね?どうせ、この刀で自害でもするつもりなんでしょ?」

と、図星を指され、
「分かっているのなら、よこしなさい!」
と語気を強める。

「なぜ、刀に拘るんですか?死に方なんて色々あるじゃないですか。その辺の川にでも飛び込んだら?」
と、橙士朗は崖の下の激流を指さす。

「私に土佐衛門になれというの!?あのような激流で心中した人を知っています。着物は流され誰かも分からない程に顔は潰れるのです。
見っともない!」

「いいじゃないですか。武士の娘だか分からないけど、いっそどこの誰かも分からずに死んだ方が楽だと思うけど。」

「あ、あなた!なぐさめるのが普通ではありませんか!?旅籠でも声もかけずにいなくなって…」

「あー可哀そう可哀そう。大変ですねー、それじゃ」

「無礼なっ!」

「僕ねーそれどころじゃないんですよ。見て分かるかもしれないけど、男前だから追っかけが凄くてー。逃げてる最中なんだから…ってヤバっ…」

橙士朗の視線の先を不審そうに女性が振り向くと、

「こいつに間違いねぇよ。この人相書きが良く似てるぜ」

と、浪人風の男数人がいた。

女性は、
「男性に好かれているの?衆道ですか?」
と、真顔で聞くものだから流石の橙士朗も慌てる。

「違います!!やめて下さいよ。武田さんに襲われた恐怖が蘇る…って!」

間髪入れずに男たちが斬りかかって来るのを、女性を抱えて避ける。
持っていた布に包まれた刀を落としてしまった。

青年はわざとらしく大きな声で、
「ああーっ、しまったー!菊一文字がーっ!!売ったら1万両にはなる刀がー!僕の命よりも高いお宝だぞー!」
と、言うと浪人の内1名を残し、皆が風呂敷に包まれた刀に群がった。

残った一人の浪人は編み笠の下で笑いながら、
「菊一文字なぁ、もちっとマシな嘘つけよ。それともお前の好きな体位かぁ~?」
と、橙士朗の聞き覚えのある声が聴こえて来た。

「その品が無くて、下世話で嫌らしい声と話し方をするのは、あの人しかいない!こんな所で何をしているんですかっって…理由は分かる!!
あの刀、本当にいいヤツなんですよ!菊一文字かどうかは分かんないけどっ!あれあげるから見逃して下さい!!」

「わりぃな。お前の首持ってくと500両貰えんだわ。来世でまた遭おうっ!!」
と、思いっきり斬りかかって来た!

「ええええええええええええ!!そんなに貰えるんですか、絶対に詐欺ですってば、僕に500両の価値はありませんーーーっ!!」

「保存状態によっては千両箱でくれるってさ」
と、男が言うと、
「マジか」
と、橙士朗は素で驚いてしまった。

「保存状態って?」
と女性が思わず尋ねると、

「腐ってしまったら本人かどうか分からないので、腐る前にって事です…って話の途中っ!!」

隙を付いて斬りかかる男に怒鳴りながら逃げる青年。

「避けんなよ~、分け前やるから~」

「ダメだっ!!話が通じる相手じゃない!!逃げますよ!!」

「えっ」

女性をお姫様抱っこして走り出す!

「くそっ!やっぱ伊達じゃねぇな、女抱えてアレかい。追いつけねー…そぉだ」

橙士朗が後ろを向くと男の姿が無い。
一瞬、気を抜いてしまった。

気配を感じて飛び退ると、頭上から男が斬りかかって来ていた!
地理を利用したのだ。
この道は片方が川、片方が崖で、数十メートル登った崖の上に雑木林がある。
その雑木林からタイミングを見計らって攻撃して来たのだ。

慌てて避けた橙士朗だったが、なんと、そこは激流の川の上!

血の気が引いた。

終わった、と思ったが、

「いてぇ~。俺の力じゃ二人引き上げんのは無理だな~。どうしよ。千両箱の方がいいしな~。状態悪くても500両か…
悩むな~」
男が橙士朗の手を掴んでいた。

女性の手を掴んでいる橙士朗は必死に叫ぶ。

「神田さん!!僕があなたに千両払いますから、助けてください!!」

「どうやって稼ぐんだよ。盗賊にでもなるのか?いてて、もう保たね~」

「僕には腕がありますから、それで稼ぎます!」

「人斬りになるってか?お前が?人が斬れなくなったから脱走したお前がか?」

「!!」

先程までニヤついていた男が急に険しい顔つきなった。その変化に橙士朗の顔色も変わる。

「千両も500両もいらねぇや…今すぐ てめぇをぶっ殺してやるっ!!!」

凄まじい殺気を放つ男!
橙士朗は思い切り男の手首に爪を立て、そして手を放した!

激流へと落ちていく橙士朗と女性。

その姿を眺め、
「……これぐらいじゃ死なないなぁ、アイツは。いてて。はぁ~、これじゃ刀が鈍っちまう。…お互いになぁ」
男は橙士朗が爪を立てた箇所を見る。爪痕が深く食い込み血が滴っていた。
「……アイツは何がしたいんだか…」
と、激流とは一転、穏やかに流れる雲を見上げながら呟いた。


ごおぉおおおっ!!

ばっしゃぁあんんっ!!!

激流に飲み込まれる二人。

橙士朗は女性を庇いながら川を流れていく。
大きな岩にぶつかりそうになると、足で踏みつけ躱し、思い通りにならない舵取りを刀を船頭の棒のように使って何とか生きていた。
川の岩は苔が多く、ぬるっと滑って無駄に力が入り、堪える。

(このまま行くと、確かこの先に大きな滝があったはず…困った…)
自分ひとりだったら何とかなるのだが…息をするのに必死な女性の顔を見る。

(下手したら、この人と心中したと思われてしまう。松原さんの事を思い出すなぁ…)
と、考えると、
(神田さんのせいで色々と思い出してしまった)
(いや、僕は家族を捨てたんだ、死んだ皆の分も長生きするって決めたんだから最後まで諦めない!!)

旧友に会い、抱えている哀しみが再び思い起こされたが、その哀しみの大きさだけ力が湧いて来た。


ぉーーーーーぃ…

ん?どこからか、声が聞こえる。

川の流れで耳が効きにくいが、大きな川音からでも人の大きな声が聞こえた。
激しい乱戦の中でも仲間の声を聴き分ける事が出来た。
それが、こんな時にも役に立つとは。

「!!」

あるものが目に入り、体に縋り付いている女性に大きな声で言った。

「今すぐに着物を全部脱いで下さいっ!!」

「なっ、なにを…」
「死にたいんですか!?」

有無を言わさぬ青年の剣幕に、たじろぐ。
先程まで死にたいと思っていた。
それなのに、今は生きたいと心が叫んでいる。

「っ!!」
女性は覚悟を決めると水を含み重くなった着物を全て脱ぎ捨てた!

橙士朗も着ている着物を全て脱ぐ。
刀は既に岩場の隙間に挟まり手放していた。
とても大事な刀だったが、それどころではない。

女性に、
「しっかり捕まっていて下さい!」
と、言うと、左手は女性の身体をしっかり抱えると、右腕を思い切り上へと突き上げるっ!


右上半身が出るほどの勢いだ。

そこへ何かが飛んできて橙士朗の逞しい腕に巻き付いた!

「おーーーいっ!大丈夫かーーーーっ!!」

川付近に自生していた木の上から声が聞こえる。
その木が大きくしなる。
橙士朗と女性の重みでギシギシと音を立てる。
腕に巻き付いたのは布で、その布が木と彼らを繋ぎとめる。


木の上にいた男が小石を括り付けた布を彼らに向かって、投げ、しかも確実に一投で決めた。
男は急いで木から降りると、
「引き上げるぞ!!」
と声を掛け、
男性と女性が加わり、3人がかりで橙士朗の腕に巻き付いた布を引っ張る。

投げる前に水で湿らせた布は、多少は丈夫だが、時間を掛けると保たない。





「うわ~、背中、凄ぇ事になってるぞ」
と、救助に協力してくれた男性が橙士朗に声を掛ける。

「川に落ちた時に川底に強く打ち付けてしまって。今は痛みは無いんですけど、時間たったら痛くなりそうです…」
橙士朗の背中は、所々が赤く腫れていたが、後で青あざになるのは確実だ。

「それは分かるな。俺っちの手首も今は痛くねぇや。手のひらはヒリヒリするけどな。これくれぇで腕がなまるわけねぇって事か、集中すると」

「そういう事ですね」
と、橙士朗は気になる事をそのまま続けざまに尋ねる。
「なんで神田さんは裸なんです?それにぼくの首を狙ってたんじゃ」

「裸なのは、お前を助けるのに使った布がフンドシと帯紐だからで、直ぐに殺さねぇのは気が変わったからだ。
確かお前の差料は本当に1万両だったよな。そっち貰った方がイイじゃねぇかって気づいて、さっきと同じ要領で追っかけたのさ。
それで、本物の則宗はどこにあるんだよ?道伯さんに研ぎ直して貰えばいいと思ってんだ」

橙士朗は、はっとして分かりやすい位に肩を落とした。


「則宗…」
先程の威勢はどこへやら…激しく落ち込む青年…。


「また、演技か。俺っちもこの通り丸腰だ。冗談は抜きにするかぁ。…なぁ橙・士・朗くん?」

「監察方にいた人は怖いなぁ…。本当は捕縛して来いって言われてるんでしょ?」

「いや、俺っちは監察方から降格された。それが不服だったんで抜けたのさ。脱走と言った方が分かりやすいか。
お前と同じよ。だから金がいるんだ。それよりもお前に敵うヤツなんていると思ってんのか?」

「いや、そうは…っ!ゴホゴホゴホっ!!」
体が冷えたのか強い咳をする橙士朗。

「話中、悪いんだが、ソイツ温めた方がいいんじゃねぇか?風邪ひくぞ」

と、助ける時に手伝った男性が話しかける。

「この女性も震えている。暖を取るべきだ」
と、もう一人の女性も口を開く。

橙士朗と一緒にいた女性に、自分の着物を着せて抱きかかえるように支えている。


「………」
橙士朗の様子を見た神田と呼ばれた男は、彼の腕に巻き付いた布を外すと、脱ぎ捨てた着物を羽織り、軽く帯を締め、何も言わずに去って行った。

「あっ!おいっ!」
と、男性が声を掛けるも振り向きもせずに姿が見えなくなった。

「なんなんだ…助けを求めておいて…」

「伊礼さん、それどころではないです。火を焚かなくては」

「ああ、どうするか…俺、普段タバコ吸わねぇしな…ライターなんて…」
と、ポケットを漁る。
「ん?あーそっか、一応、持って来たんだった」
と、言うとオイル式ライターを取り出した。

「おお!よく分かりませんが、流石ですっ!それが火打ち石なんですね?手分けして直ぐに木の枝などを集めましょう!」

二人は急いで乾燥していそうな木を集めると、焚火をした。

橙士朗には伊礼が着ていた羽織を掛けてやった。

火に温まりながら、落ち着いて来た橙士朗は礼を言う。

「助かりました。…あの、身分のあるお方なんですか?」
と、伊礼ともう一人の女性を見て、尋ねた。

「ん?なんで、そう思うの?」
と、伊礼。

「いえ、顔はあれですけど、格好が南蛮っぽいなぁと」

「顔があれって酷くない?」

「違います!目が青くないし、でも身の丈があるし、どっちなのかなと思って」

「お兄さんと同じだよ。顔は君より劣るけど」

「…ははは。あーあの、助けて頂いて有難いのですが、僕はもう大丈夫です。その女性だけお願い出来ますか?」

「お願いって言われても、桔乃だけで手一杯なんだけどな」

「伊礼さん、酷いっ!私はお役に立ちます!」

「…お心遣い、痛み入ります。ですが、心配ご無用で御座います。あと暫くの休息の後、出立いたしますゆえ」
と、女性はしっかりとした声音で言った。

「だってよ」
と、伊礼。

「本当に、大丈夫なんですか?」
と橙士朗。

「ええ。橙士朗…殿、と申しましたか?二度も助けて頂き、このご恩は生涯忘れは致しませぬ」
と、丁寧にお辞儀をした。

「命を…大切になさって下さいね。死ぬほどにお辛かった事は男の身ですが分かります。だけど、死んでしまったら本当に全てが終わってしまうんです。
一度死んだ身と思えば、どんな事でも乗り越えられると思います」

「ええ!心を強く生きようと決めました。私は元々、気が強いのです。負けません!」

橙士朗は優しい笑顔で頷いた。

水も滴る良い男。
女性は、この二枚目に初めて頬を赤らめた。

「あ、あの…随分と名乗るのが申し遅れました。私…」
「待って下さい!お名前は結構です!そろそろ僕は失敬させて頂きます」

立ち上がり、去ろうとする橙士朗だったが、うぐっと屈み込むと喀血した。

倒れそうになったところを伊礼が支えた。

「おい、それ…ヤバそうじゃないか」

と、伊礼が言うと、橙士朗は口から血を滴らせ、にこっと笑い、そのまま気を失ってしまった…。


●其の伍、


橙士朗が目を醒ますと、見た事があるような…無いような…白い天井が視界に映った。そして消毒薬の匂いが、ここが病院であると告げている。

腕に痛みを感じる。

細い管が腕に繋がっている。

「……点滴…夢…かな?…僕は…帰って来たの…?」

彼の独り言に気付いた女性が声を掛けて来た。

「大丈夫か?この…点滴、というモノで、もう血を吐く事は無いそうだ。良かったな」

と、言われ、その女性が着物姿だったので
「…やっぱ、夢か…」
と瞼を閉じる。

「おい、気が付いたら家に帰るように医師から言われてるんだ。起きろ」

その時、手続きや支払いを終えた伊礼が病室に入って来た。

「保険証なんて無ぇもんなぁ~、20万が一瞬で散った…」

と、ぶつぶつ言っている。

「まだ、起きないのか?」
と桔乃に声を掛けた。

「こいつ、狸寝入りしています」
「何!?」
と、伊礼は橙士朗に近づくと、
「おい、起きろっ!」
と声を掛けた。

何やら夢では無い事を察知した橙士朗は目をあけ起き上がった。

「嘘でしょ!?」
と、驚きの声を上げた。

そして、辺りをキョロキョロする。

「…戻って来れるとは思わなかった…現代だ…。い、今は何年ですか?平成ですか??平成何年ですか!?」
と興奮して桔乃の方を揺らす。

「何を言っているのか、分からん!伊礼さん!」

伊礼は助け舟を出す。
「今は令和3年だ。平成は終わった。…お前、江戸後期の人間じゃないのか?」

と、言われ、
「平成が終わった?明仁天皇が崩御されたんですか?」

「いや、上皇になられた。仕組みが変わったんだよ。もしかして お前、この時代の人間か?」

はぁ~、と深いため息をする橙士朗。

「西暦は何年ですか?」

「2021年だ」
橙士朗に聞かれ、直ぐに答える伊礼。

桔乃は話の腰を折らないように黙っていた。

「…2021年…。そっか…ぎりぎり6年か…今ならまだ間に合うかも…。」
伊礼が手に持っている処方箋が目に入る。

「保険証なしだと、キツイですよね。家に行けばあると思うので薬の受け取りは待ってて貰えますか?」

察した伊礼は頷いた。

話が理解できていない桔乃は、しかし何も言わずにいた。

「それで…ここは、何県ですか?」

「東京」

「ああ、良かった」

更に幸運が続いたようで、この病院は掛かり付けの病院だったらしい。
家が近所にあるそうで一緒に向かった。
しかし…

そこは、空き地だった。

暫く固まっているとあばさんに声を掛けられた。

「橙士朗くん!」
橙士朗は、はっとするとおばさんは涙声で腕をつかむ。

「一体どこにいたの!?お母さんは火事で亡くなったのよ!」
と、告げた。

「……え…」


●其の六、

伊礼の自宅で休む青年と少女。
伊礼の服を借りた橙士朗は、平成の後半に江戸時代後期に飛ばされた事を打ち明けた。
子供の頃から剣道を習い、大学でも敵なしの実力者だったそうだ。将来は警察官になるつもりだったらしい。
そんなある日、合コンの帰り道で酔っ払った状態でいた時に蹲っている女性に声を掛けた所、霧状のものを吹き付けられ、意識を失い、目を醒ますと、そこは現代では無かったそうだ。

「…で、周りには仲間らしき人たちがいたんですけど、僕は何も知らない。ただ、刀を握らされて、色々と教えて貰って、ここで生きて行くしか無いと
覚悟を決めました。初めて人を斬った感覚は怖かったんですけど、慣れてしまった。血の匂いにも。
まさか、返って来れるとは思いませんでした。あなたがあそこにいてくれて良かった。僕は気管支喘息なんですけど、あそこは環境が悪くて悪化してしまったようで。
直ぐに帰宅できたという事は重傷では無いみたいですね。」

「ああ、医者は通院で大丈夫だと言ってたよ。当分は俺の家にいていいぞ。明日、役所で手続きすれば保険証も発行して貰えるはずだ。
お母さんの事は残念だったな…お悔やみを申し上げる」

「有難う御座います。シングルマザーだったから警察官になったら沢山、親孝行しようと思っていたのに…」
橙士朗は涙を流し、泣き始めた。

伊礼は、桔乃に目配せをするとその場を離れた。



近場の喫茶店でお茶をする伊礼と桔乃。
「男のくせに泣くなんて情けない」
という桔乃に
「お前だって、女のくせにと言われるのが嫌で家出したくせに」
と、ツッコまれ
「ふんっ!」
と、そっぽを向いた。

「橙士朗がいた時代は世界一治安が悪く、犯罪発生率も世界一だったそうだ。あの戦国時代よりも酷かったらしい。
図書館にでも通って少しは勉強した方がいいな。俺も人の事言えねーけど。…あいつ…一人で良く頑張ったと俺は思うけどな」


「しかし…試運転で、変な土産を持って帰ってしまったなぁ。これからが本番だってのに」

「私には合気道の腕があります!お役に立ちますから、伊礼さんのお傍に置いて下さい!」

「…事情は分かってるが、女子高生の年だからな桔乃は…男の一人暮らしに置く訳にはいかないだろ。悪いが施設に入って貰う事になる。
記憶喪失だっていえば新しく戸籍も作ってもらえるらしいし。人生をやり直すには、それなりの覚悟が必要だって言ったよな。
お前は、それでもいいと言って無理について来たんだ。」

「…そんな……」

「……どうだ?橙士朗の気持ちを少しは理解できたか?直ぐに施設に入れはしないさ。ただ、戸籍無しでの生活は何も出来ないから、それが厄介なんだよ。
何か考えないと」

「あの時は必死で、何も考えていませんでした。そんなにこの時代は身分を証明する物が必要なんですか。少し…面倒ですね」

「学校行くにしても、仕事するにしても戸籍と保護者、保証人、住所が無いとな。それがどんなに有難い事なのか、今回、初めて実感した。
戸籍が無い状態で生活している人間も少なからずいるらしいし、お前ひとり位だったら俺でもなんとか出来るか…?いや~あんま貯金して来なかったから
厳しいんだよな…」

すると、桔乃は見損なったというような目をして伊礼を見ると、

「…………もういいです!自分でなんとかします。今までお世話になりました」

と、喫茶店を飛び出してしまった。

暫く呆然とする伊礼。

明治時代の少女が、この時代で保護もなく生きていける訳がない。

こんな面倒な事が起こるとは、人生なにがあるか分からない。

伊礼はお会計を済ませると、急いで桔乃の後を追った。

しかし、既に彼女の姿はどこにも無かった。
もしかしたら家に帰っているかもしれないと、急いで自宅へと戻る伊礼。
自宅に帰り、目に入って来たのは…髪を切った橙士朗の姿だった。

「あっ、お帰りなさい。すいません、ハサミをお借りしました」
「自分で切ったのか?上手いな。ところで桔乃は戻ったか?」
「いえ、戻ってないです。どうされたんですか?」
息を切らしている伊礼を見て、何かを察知した。

「ああ、困った事になった。橙士朗は、歴史には詳しい方か?」
「いえ、それが…いわゆる脳筋タイプの人間で…大学もスポーツ推薦で入りました」
「そうか…俺は脳筋ですらない凡人だしな…。お前がいた時代で色々な事件が発生して、元号が変わるのは知っているか?」
「ああ、それ位は。明治になるんですよね。侍がいなくなるのは知っていたから複雑でした。僕の所属していた組織が警察みたいな所なんですけど、
なんかまともな人が殺されたりするもんだから嫌になりましたよ。無知は罪だか言う言葉は知っていたんですけど、こういう事かって実感しました。
戻ったら勉強頑張ろうと思ったんですけど、退学になってるんだろうなぁ」

「そうなってるだろうな。まぁ、話を戻すけど順を追って説明するから聞いて貰えるか?」

「ええ、よろしくお願いします」

「まず最初に、俺とお前は近しい境遇だという事。霧状の物を吹き付けられてからお互い奇天烈な状況である事が共通点だ。
橙士朗は江戸時代に飛ばされたようだが、俺は、変な依頼を受けた。歴史調査なんだが、この時空移動が出来るアイテムを持っている事は誰も知らないはずなのに
そんな依頼を受けたんだ。」

伊礼の手の中にある懐中時計を見ると、

「変な経験さえしていなかったら、ツッコみどころ満載な話ですよね、それ」
と、橙士朗。

「だな。まさか現代人が江戸時代にいたなんて驚いたが、俺も変な経験しているもんだから、さして驚いてない事に驚いてるよ」

「でも桔乃…さん?は、現代人っぽくないですね」

「そこまで詳しく話をしていないから分からないが、明治時代から来た事だけは確かだ」

「僕がいた時代とあまり変わらない感じですか?」

「歴史調査を無理矢理な形で依頼されたはいいが、急に時代を遡るのに抵抗があって、最初は明治時代にしたんだ。軽く当時の服装を調べて、まだ着物文化っぽかったからタンスにあった羽織を着て、意を決して実行したんだが、時空移動した先で直ぐに その時代の人間に目撃されて焦ったんだ俺が。
で、兎に角その場から離れようとしたら桔乃が俺に飛びついて来たんだ。そのまま時空移動したら戻るどころか時代を少し遡ってしまったんだ。
それでお前がいた時代で少し話しをしたんだ桔乃と。そしたら自分を傍に置いて欲しいというから困っていた所に川に人が落ちたと耳に入って来て、男手が欲しいと強そうな感じの男に無理矢理
引っ張って行かれて、お前らの救助を手伝ったんだ」

「へー、なんか災難ですね」

「お前のが大変だったろ」

「まぁ…だけど帰って来れたし」

「随分と前向きだな」

「いや、そうでもないです。さっきテレビ見たんですけど6年で世の中が結構 進んでいて困っています。僕がいた時代は身分証も重要じゃなかったし、元気があればある程度、暮らしには困らなかったけど
現代はそうもいかないですしね。親戚もいないし、どうしようか途方に暮れてます。とりあえず明日、役所で相談する予定ですけど僕みたいなのには親切に対応してくれないのは知ってるから、当てにならないだろうな」

「役所に行くときに病院の処方箋も持っていけよ。ハローワークでも仕事が決まるまでは保障とかしてくれると思うし」

「伊礼さんの所から仕事探したらダメですか?腕に自信あるので用心棒やりますから」

「いつの時代の人間だよ…って、ある意味、江戸時代の人間か。桔乃と同じ事言いやがって」

「桔乃さんは戸籍ないから僕より大変だろうなぁ。僕とは逆だもんな。これからが新しい世界だから」

「………そう、だ、なぁ…これからが大変なんだよな、桔乃は…。俺、酷い態度を取ってしまった…帰って来たら優しくしてやらなければ…」

「………。おおよその見当がつくなぁ。僕が探して来ますよ」
と、橙士朗は立ち上がった。

「具合は大丈夫なのか?」

「現代の医術って凄いですよ。点滴だけでこんなに楽になるなんて。人探しは得意なので任せて下さい」

「ぉお、頼りになるなぁ」

ふふふ、と笑うと橙士朗は桔乃を探しに出かけて行った。


●其の七、


「伊礼さんが、あんなに女々しい男だとは思わなかった!」
と、プンスカ怒りながら歩く桔乃。

気付けば路地の中へと入り込み、簡易宿泊所などが点在している区域へと迷い込んでいた。

「や、やめて下さい!やっぱ、やめますっ!嫌だっ」
と、女性の嫌がる声が耳に入る。

そちらに目を向ける桔乃。

小太りの男性に腕を引かれ、無理矢理 建物の中に連れて行かれそうな女性がいた。

「何をしているんだ!嫌がっているだろう!」

と、桔乃は男性の腕に手をやると、体格差を ものとはせずに突き飛ばした!

しかし、男性は怒りを露わにして尚も女性に詰め寄る。

「ふざけるな!こっちは既に金を支払ってるんだぞ!」

この言葉で桔乃は察した。
時代が変わっても男というのは汚らわしいな…と、侮蔑を込めた目で男性を見る。
その視線が堪えたのか、小太りの男性は悪態をつきながらも引き下がって行った。

桔乃は女性の方を見る。
しかし、女性はというと「ラッキー♪」と、言いながら去ろうとしていた。

「なんと!お待ちなさい!」
と、桔乃は女性を追う。

しかし、女性はというと、「何コイツ」といった顔をしてスマホをいじっている。

「なんだ、その態度は!私が助けなかったら、どうなっていたか…」

「はぁ?頼んでないし。いざとなったら警察にチクればいいだけだもん。ロリコンが悪い。これから推し事『おしごと』があるんだから
邪魔しないでよ。どうせ、あんたもパパ活してんでしょ?こんな所にいて、人のこと言えんのかって」

可愛らしい外見とは裏腹に、ふてくされた態度を取る少女に唖然とする桔乃。

「…なんだ?ぷわぁぱぁかちゅ??」←パパ活と言いたい桔乃。

しかし、少女は無視して行ってしまった。

「…なにやら、とんでもない時代に来てしまったようだ…女性があのような着物を着て男を誘惑しているなんて…」
桔乃はハッとすると、
「もしや、ここは遊郭なのか!?だとしたら、うつけは私の方か!?ここから出るにはどうしたら…」
オロオロ、ウロウロする桔乃。

出ようと思っても、そもそも入り口も出口も無いし、遊郭でも無い。
「どうしたの?何かあった?」
路地で挙動不審な動きをする桔乃に声を掛ける男性。

見上げると、男性なのに化粧をしている。
「…こういう時どうしたらいいのか分からない…」
涙目になる桔乃。
「陰間は知っている…女装して体を売って大変な運命を背負っておられるな。だが、めげてはならない!少し細い体をしているが
鍛えれば誰でも強くなれる!私が合気道を教えてやろうか?」

「え…女装って…男が化粧するのは普通だと思うけど、たまにこういう事言う女子いるんだよね。…でも少しムカついたから
お仕置きしちゃおうか」
と、K-POPアイドルのような外見の男性はポケットから小さい何かを取り出すと
バチッ!
と、桔乃の首元に当てた。

「痛っ!」
と、思ったのは一瞬で、彼女の身体は力なく崩れ落ちる。

男性が使ったのは日本での販売は禁止されている強力なスタンガンだった。
スタンガンに付いているストラップに手首を通し、桔乃を抱きかかえ、おんぶした。

「楽しみながら動画とって、販売でもするか。この子、可愛いから稼げるな」
と、ニコニコする男性だったが、

「それはいいと思うけど、後が怖いと思いますよ?」

と、目の前にいるイケメンに道を遮られる。

無視して通り過ぎようとする韓流系の青年だったが、イケメンが邪魔をする。

「邪魔!どけよ」
という青年から簡単に桔乃を奪還した。

「おい!」
と、振り向いた青年だったが、気付けを施され、目を醒ました桔乃の怒りの顔を目視したと思ったら、ビルとビルの隙間から空が見える。

「加減してやったんだから、有難く思えっ!」
と言う桔乃の言う通り、体のどこも痛くなかった。
しかし、気分が悪くなった青年は足早に逃げて行った。

「へ~、やりますねぇ」
というイケメン・橙士朗に
「礼は言わない」
と言うと、その場を離れようとする桔乃。

「どこへ行くんです?あなたが考えるほど単純な時代じゃないんですよ、ここは」

「しかし伊礼さんは頼りにならない。自分でなんとかする他ないだろう?」

「この時代は本当にヤバいんですって。警察が巡回してます。身分証明も出来ない、保護者もいないだと、下手したらホームレス生活ですよ?
あなたのような外見だと犯罪にだって利用される。今だって危なかったんですからね」

「助けてくれとは頼んでいない…あ…」
先程 助けた少女と同じ事を言ってしまい、気まずそうにする桔乃。

それに、お礼も言わずに去ろうとしてしまった…。

さっきの子も、自分と同じで気まずかったのだろうか?

しかし、素直になれなかった。

「私の時代にだって邏卒はいた。後に警察になったが…彼らの横暴さは知っている。特に女性の権利に煩いんだ。
自分の身は自分で守れる」

「桔乃さん」
と、強い声音で橙士朗は言う。

「いつの時代でも人は残酷です。あなたは間違っている。伊礼さんに無茶を言って迷惑を掛けて、人格まで辱めて、
果ては我儘ですか?少しでも悪いと思っているのなら、僕と一緒に来て、伊礼さんに謝るべきです」

橙士朗に正論を言われ、悔しくて涙が出た。
橙士朗は桔乃の肩を優しく叩くと、帰りやすいように進むべき道へと促してくれた。


●其の八、

「戻りましたぁ~!」

「って、びっくりしたぁ~」
と橙士朗は驚く。


伊礼に聞こえるように玄関から大きな声を出したのだが、彼はすぐそこに立っていた。

とても心配そうな顔をしていた。

その顔を見た橙士朗は更に驚いていた。

(なんで、この人は他人をここまで心配してるんだ?警察沙汰に巻き込まれたくないだけかな…)
と思ったが、彼が純粋に心配していた事がすぐに分かる。

「桔乃!すまなかった!大丈夫だったか?橙士朗、ありがとな!あ~良かった。心配した!マジで。
今後の生活はな、安心しろ!俺が面倒みてやる!給料はそこそこイイんだ。無駄遣いをやめれば普通に養える。
断ってた昇進の話も受ける事にしたし、勉強は俺はそんなに頭は良くないが…」
話の途中だったが、桔乃は泣きながら伊礼に抱き着いて、必死に謝った。

「ごめんなさい!!ごめんなさい!!ごめんなさい!!」

何も言葉が見つからなかった。
ごめんなさいしか、出て来ない。
考え無しに家を飛び出し、後悔と不安で伊礼に八つ当たりまでして…
帰ったら怒られると思っていた。
しかし帰ってみたら、伊礼は怒るどころか心配してくれていた。
伊礼の優しさに申し訳ない気持ちが抑えられなくなってしまった。

伊礼は、大人びた雰囲気を持った桔乃も、まだ子供なんだな…と思うと、
「気にするな」
と、優しく声を掛け、泣き止むまで、そのまま待った。



●其の九、

「な、なんだ!?この額はっ!!」

伊礼の大きな声に反応する二人。

「どうしました?」
と、もう時間はお昼を指しているのにパジャマ姿の橙士朗。

「伊礼さんが、そんなに驚くのは珍しいです。好きなアイドルが結婚でもしましたか?」
と、すっかり現代に慣れた桔乃は着物に割烹着姿で昼食の準備をしている。

二人との共同生活は1週間が過ぎた。

橙士朗は役所で冷たい対応をされたものの、なんとか戸籍と保険証の再発行を待ちながら、現在は伊礼宅にて求職中だ。
病院へは月に一回通う事になっている。

桔乃は、現代知識を最優先して勉強しつつ、伊礼宅で家政婦をしてお小遣いを稼いでいる。


こちらを見ている二人に向き直ると、
「俺が怪しいヤツから脅されているという話はしたよな?隠し事してもバレるだろうと思って、お前ら二人の事も報告したんだ。メール送信なんだけど」
と言いながら、薄型軽量ノートPCの画面を二人に見せる。

「で、ここを見てくれ。『その歴史に変化は無し。歴史の修正は為されない。貴重な体験報告に感謝する。報酬を支払わせて貰う。おって現金書留が届くが、明細においては添付ファイルを確認して欲しい。
プリントアウトを推奨する。また、今後の現金支給は様々な手法を用いて行う。我々としては貴殿に対しネットバンクを薦めたいが、消極的である事を理解し、良い方法が無いものか模索している所である。
今後も期待する。オーバー』で、明細がこっち」

そこには、橙士朗に掛かった医療費も経費として落とされ、桔乃の生活費までも記載されていた。また、なぜか雇用保険や互助会費、社会保険料、年金も差し引かれている。
勤め先の経理から何か言われないか不安になった。

それを見た桔乃は、
「…すいません。私には少しも分かりません」
と申し訳なさそうに言う。

橙士朗は、
「はぁ、なるほど。本当に書いてある通りなら助かりますが、書留が届くとは思えないなぁ」
と、疑っていた。

「だよなぁ。だけど俺、貯金してなかったから書留で直ぐ届くと助かるんだけど」

「ネットバンクとかポイントとかの方が使いやすいと思いますが」

と橙士朗が言うと、
「俺は、そういうのは危険視しているんだ。災害大国でデジタルに力入れすぎると国は機能しなくなるぞ。
大体いつ首都直下型地震が起こるかも分からないのに…」
と、言う伊礼に、
「だからこそですよ、タンス貯金して、それが火事で燃えてしまったらどうするんです?多くの企業が大規模な自家発電はあるし、それほど電気には困らないと思いますよ。
伊礼さんが心配されてるのは電力でしょ?自分のスマホの充電が切れたり、お店が停電状態だと物が買えなくなるから」
と、青年は指摘する。

「それもあるんだけど…」
長く続きそうな会話に付いて行けてない桔乃が溜息をつくと、

ピンポーン!

と、自宅の呼び鈴が鳴った。

「あっ、ネット通販で注文してたのが届いたかも」
と、桔乃の方を向く伊礼。

?マークを浮かべる桔乃に、
「女の子の生活に必要そうなもの全般を注文していたんだ。こういう時はネットは便利だな」
と、伊礼は玄関へと向かう。

橙士朗は、
「良かったですね、あんなに良い方に出会えて。なかなか無い事ですよ、こういったご縁は大事にしないと」
と、言うと桔乃は、
「お前も良いヤツだ。ありがとう…」
と、顔を真っ赤にして小さな声でお礼を言った。

「あれ、可愛いところもあるんですね~」
と言うと、
照れた桔乃は彼を投げ飛ばそうとするが、腕を掴まれ上手くいかなくて
「このっ!」
とドタバタしている。

「………何をじゃれてんだよ。楽しそうだな」
と、伊礼が、小さな封筒と大きめの封筒のような物を手に居間へと戻って来ていた。

「それが女の子の生活に必要な物ですか?」
と、桔乃の腕を掴んだまま尋ねる。

「いや、それが、現金書留と一般書留だって」

「えっ?」
と、少女の腕を話すと伊礼に近づく。

「…開けても大丈夫…だよな?」
と、臆するおじさんに
「僕が開けましょうか?」
と、青年。

しかし、素早く開けるおじさん。

中を改めると、現金書留は…50万円くらいだ。
一般書留の中には…
桔乃の住民票やマイナンバーカード(桔乃の写真付き)、健康保険証、私立高校の入学手続き、学生証、学生総合保険など
生活に必要なあらゆる書類が封入されていた。

住民票を読む伊礼だが、桔乃の苗字と続柄の所に驚く。

「桔乃の苗字が『伊礼』になってるぞ!」
と、言うと、
桔乃は顔を赤らめて、
「ええ~~~~っ!」
と、大きな声を上げる。

「桔乃さん喜んでるけど落ちがありそうだなぁ~」
と、橙士朗の予想は当たり、

「『妹』になってるよ。ははは、変な感じー」

「…えっ」

紙をふんだくると、目を見開いて読もうとするが理解できない。

「??????」

橙士朗も覗き込み、
「あー、本当だ。ふーん、どうせだったら僕も伊礼さんの弟にして欲しいなぁ~」
と少しガッカリしていた。

「………これだと…さんと、結婚できない…」
小さな独り言で顔を曇らせる桔乃。

「おいおい、ぐしゃぐしゃにするなって。大事な書類なんだから」
と住民票を取ろうとした伊礼の手が少女の手に触れると、
「わっ!!」
と、桔乃は顔を真っ赤にして、飛び退る。

「あっ悪い。…ていうか、そんなに嫌がらなくても…その内、洗濯物も一緒に洗濯されるの嫌とか言われるんだろうなぁ…」
と、後ろ頭を掻く伊礼を見て、

二人のすれ違いがウケてしまい、大爆笑する橙士朗。

「あははははははっ!!!!」


●其の拾、


薄暗い深夜の自室で、険しい顔の伊礼。

机に並べられた桔乃の書類から、『得体の知れない者たちからの脅迫』を感じ取っていた。

…桔乃は『人質』にされたのだ。

本格的な歴史調査はまだだが、先の見えない不安が渦巻く。

書類の横に置いた時空移動懐中時計に目をやり、手に取る。

「……ツケが回ってきたのかもな。色んな事から逃げて来た」

簡易照明を消し、ベッドに横になり、目を閉じる。

ひょんなことから、新しい家族が二人も出来た。

頼りになる弟・橙士朗。
可愛い妹・桔乃。

出会ったばかりなのに、心を許せる不思議な感覚。
ガキの頃から警戒心の強い自分が見ず知らずの人間と1週間過ごしても、違和感がない。
しかも、この1週間が楽しかった。




「やるしかないんだったら、楽しもうぜ」
と、笑って眠りについた。
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