黄泉帰りの妃  愛されない平民妃は離婚を決める

オレンジ方解石

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 十日と経たずに田舎娘のルディは王都行きが決定し、生まれ育った小さな家に立派な身なりの使者たちが迎えにきて、馬車に乗るよう、勧められる。
 母は泣いた。この世の別れのように。
 いや。実質、今生の別れだった。
 いかに血がつながっていようと、平民が王族と面会できる機会は皆無に等しい。
 母は、お腹を痛めて産んだ我が子を娘と呼ぶ権利を放棄する誓約書に署名サインさせられ、法的にはジェラルディンと赤の他人となる。
 ルディジェラルディンも涙がこらえられなかった。
 ただ一つの幸いは、王太子殿下が母の面倒をみることを約束してくださったこと。

「形式的にはどうあれ、ルディジェラルディンの母上なら、私の母上も同然だ。できる限りのことはしたい。王宮から医師を派遣して、もっと療養に良い場所もさがさせよう」

「本当ね? ルディルドルフ。約束してね」

 田舎娘のルディは何度も王太子のルディに確認し、そのたびにルディは優しくうなずく。
 この時ばかりはルディジェラルディンも(求婚をうけて良かった)と心から安堵した。
 ルディは一介の平民でありながら王太子殿下と同じ馬車に乗り、生まれ育った町を離れる。
 ちなみに叔父一家も引っ越した。
 期待していた貴族位や貴族との縁談がなかった叔父は、だいぶ不満をもらしていたものの、平民には一生稼げない大金を下賜されると、大喜びで姪との縁を切る書類に署名し、さっさと一家で大きな街へ移ってしまった。
 田舎娘のルディは、名前しか聞いたことのなかった街の、大きな館に連れて行かれる。
 そこは王太子殿下の乳母を務めていた子爵夫人の館で、夫人は今も殿下の信頼が厚く、身元不詳の田舎娘の一時的な受け入れ先になってくれたのだ。
 館について夫人への挨拶と紹介が終わると、王太子殿下はどこかに行ってしまった。戸惑うルディには軽食が出され、食べ終わると浴室に連れて行かれて、着ていた一張羅を脱がされる。
 石造りの広い部屋で何度も熱い湯をかけられ、やわらかい絹で体中をこすられ、髪も全部抜けてしまうのではないかというような強さで、ごしごし洗われる。
 薪を山ほど消費する熱湯も絹も、田舎娘には祭りの時くらいしか許されない贅沢だ。無造作に消費されるのを目の当たりにし、罪悪感すら覚えたが、子爵夫人も召使いの女たちもまったく頓着しない。
 全身をなにやら香りよい油でマッサージされて、ようやく入浴が終わり、濡れた体を拭き終えると肌触りの良い薄い服を一枚だけ着せられ、しつこいほどブラシで髪を梳いて乾かす。それが終わると薄い服を脱がされ、ようやく下着をつけさせてもらえた。
 着ていた一張羅ではなく、用意されていた室内用の肩のふくらんだドレスを着せられ、もう一度髪を梳いて整える。まんざらお世辞でもなさそうな一言が、子爵夫人の口から放たれた。

「まあ、可愛らしい」

 実際、大きな鏡の前に立ったルディは、十五年間の人生で一番可愛いと、自分でも思った。
 肌はきれいさっぱり洗われて瑞々しく、やわらかい髪はよく梳かれてつやつや輝き、湯上りの唇は紅を塗らなくとも赤い。ドレスの深緑色が、淡紅色の髪も琥珀色の瞳も、どちらも引き立てていた。

「おぐしの色合いといい、春の野のひなげしポピーのようですわ」

 召使いの誰かが言ったそれは、もしかしたら「雑草のような野の花程度」という嫌味だったかもしれない。
 けれど、だとしてもこの時のルディは舞いあがっていた。
 子爵夫人と召使いたちがいったん退室して一人になると、鏡の前でくるりと回る。
 ゆったりした裾がふわりとひるがえり、それだけで心がはずんだ。
 こんなにきれいで高価なドレスを着たのは、生まれてはじめてだ。
 布は高価で作業の邪魔にもなるから、ルディに限らず、一般的な町娘のスカートはふんわりひろがるような布のゆとりはない。床まで届くこともなく、踝より上が普通だ。
 この時ルディが着たドレスは、王侯貴族のものとしては普通の素材だったし、デザインも簡素なほうだった。
 けれどこの時の彼女にとっては、人生でもっとも贅沢で洗練された一着だった。
 右に、左に、何度も回って深緑色の裾をひるがえす。
 同性とはいえ、何人もの召使いに付き添われての入浴はびっくりしたし、恥ずかしくもあった。けれどドレスはすばらしいし、その前の食事だって絶品だった。町ではお祭り用のごちそうである白いパンに、チーズが何種類も添えられて、スープの具は腸詰肉ソーセージと野菜が山ほど。卵料理までついていた。
 これだけで充分、王太子殿下についてきた甲斐があると思う。
 当の王太子殿下からも、

「見違えたよ、ルディ。やはり私の目に狂いはなかった、君はとても魅力的な少女だ」

 と絶賛され、

(こんな毎日が送れるなら、王妃さまも悪くないかも)

 一瞬、そう本気で考えてしまうほど、この時のルディは舞いあがっていた。
 この時は。




 それから一ヶ月ほどかけて、ルディは生まれてほぼ初めての勉強をした。教育をうけたのである。
 言葉遣いを直すのはもちろん、普段の姿勢や歩き方、座り方、ドレスの長い裾のさばき方など、基本から徹底的にたたき込まれる。スプーンしか知らないので、ナイフとフォークの使い方を一から教わったし、挨拶の仕方にも様々な種類と決め事があると、くりかえし復習させられた。
 自分と母親の名前しか書けなかった田舎娘は、最初の五日間ですべての文字を覚えさせられ、基本的な単語の綴りや文法を習って、簡単な詩なら読めるようになったし、朗読も教わった。
 手紙が書けるようになると「故郷の母に送りたい」と頼んだが、これは却下された。

「お嬢様は、もうロアーの町娘ではありません。その方もお嬢様の母君ではありません。手紙を出す理由はございません」

 というのが、その理由だ。
 基礎的な計算を習い、ロディア史の概要を習い、王太子殿下をパートナーにダンスを習って、数々の肖像画を並べて王宮の主要な人物たちの顔と名前と肩書、簡単な経歴を暗記させられる。
 毎日が目まぐるしく、気が休まる時のない日がつづいたが、おかげで一ヶ月後にはどうにかこうにか、最低限の形は整えることができた。と思う。
 ルディはふたたび馬車に乗せられ、さらに大きな都、王都へと連れて行かれた。
 そして王都に着くと、王太子のルディがもっとも信頼する侍従兼幼なじみのテオドール・カーターの館に案内されて、今まで以上に上等な外出用ドレスに着替えさせられると、ふたたび馬車に乗せられて王宮へと連れて来られたのだ。
 このあとのことは、すべて夢見心地だった。
 豪奢で贅沢な、悪夢に等しかったといえよう。
 磨かれた大理石の床に、広い通路と高い天井。陽光がさんさんと射し込んでくる大きなガラス窓には、分厚いカーテンがかかっている。あちこち花が飾られ、それを活ける花器は高価な白磁だった。
 これまでルディは子爵夫人の館を豪華と思っていた。けれど王宮は、あそこをはるかに上回る壮麗さ、豪奢さだった。
 言葉を失ったまま呆然とテオドールについて行くと、椅子とテーブルだけ置かれた小さな一室に案内されて、しばらく待つよう指示される。
 言われたとおり椅子に座ってじっと待っていると、ほどなくして王太子のルディが現れた。
 田舎娘のルディが胸をなでおろしたのもつかの間、王太子のルディは彼女の手をとり、真剣な口調で念を押す。

「今から君を父上に紹介する。大臣たちがあれこれ言うだろうが、君はなにも心配しなくていい。すべて私に任せて、じっと黙っているんだ。いいね?」

 それでいいのか? と疑問に思いつつも、高貴な方との会話なんて生まれてはじめての田舎娘は(そのほうが失礼がなくていいかも)と、素直に考えてうなずく。
 王太子のルディも安心したように口元をほころばせ、彼女を抱擁した。

「君は、私が守る。私の妃となるのは君だけだ、ルディ。必ず君とのことを陛下に認めていただくから、私を信じてついてきてくれ、ルディジェラルディン

「わかったわ、ルディルドルフ

 恋人からのはじめての抱擁に励まされて、田舎娘のルディは不安と緊張を覚えつつも、彼への信頼と希望を胸に、王太子殿下にエスコートされて控え室を出た。
 そしてたどりついたのは――――重臣一同が勢ぞろいした、国王の広い会議室だった。
 黒光りする長いテーブルをぐるりと囲んだ、重厚な装いの男たちの目が一斉に田舎娘に集中する。ルディはびくり、と肩をふるわせ、室内に満ちた重い空気に萎縮した。

「お待たせしました、父上」

 王太子殿下はかまわずに、男たちの中でも中央に座していた、黄金の冠をかぶった白い髭の男性の前へと進み出て、ルディを紹介する。

「私の選んだ婚約者、ジェラルディンにございます」

 ロディア国王の鋭いまなざしがルディに刺さった。
 その時はじめて、片田舎の町娘の胸に強い疑問が生まれる。
 自分は場違いなところに来てしまったのではないか、自分がここにいること自体が間違いなのではないか…………。
 けれどルディのそんな気持ちに気づくこともなく、王太子殿下は田舎娘にうながす。

「ジェラルディン嬢、陛下にご挨拶を」

『ジェラルディン』という本名で呼ばれるのは珍しい。まして『嬢』をつけられるなんて。
 王太子だというルディが『父上』『陛下』と呼んだからには、この白い髭の男性が国王陛下なのだろう。
 ロアーの町のルディは卒倒しそうな気持ちで、昨夜、子爵夫人にさんざん復習させられたとおりに、裾をつまんで膝をかるく折る。

「お初にお目にかかります。ロアーの町の亡きダレルの娘、ジェラルディンと申します」

 声はふるえていた。
 王は「うむ」とかなんとか言っただけで、すぐに息子へ顔をむける。

「この娘が、そなたの選んだ娘というわけだな、ルドルフ」

「はい。私は彼女こそを唯一の妃に望みます」

「お待ちください!」

 男の声が飛んできた。
 国王の向かい側で、大臣たちとはやや異なる趣の装いをした中年の男が腰を浮かせている。男のうしろには、落ち着いた灰色の、洗練されたデザインの外出用ドレスに身を包んだ少女が立っていた。きらきら輝く長い髪がまぶしい。

(銀色の髪…………初めて見たわ、お月さまみたい)

 一瞬、ルディは状況も忘れて少女に見惚れる。
 それくらい飛び抜けた美貌だった。
 声をあげた男は、その少女を示して訴える。

「ルドルフ殿下の婚約者、未来の王太子妃は、我が娘パトリシアであったはず! 十年前に、ほかならぬ陛下御自身の意向で、お決めになられた事実ですぞ!?」

(え?)

 ルディは聞き間違えたかと思った。

「落ち着け、フェザーストン公爵。それを今から話し合うのだ」

(え? え? え?)

 ルディはまばたきして王太子殿下や国王陛下、『公爵』と呼ばれた男とその背後の令嬢へ視線を走らせる。困惑と疑惑が胸にこみあげる。
 王太子のルディ――――ルドルフ殿下は堂々と主張した。
 自分とロアーの町のルディがいつ、どのように出会ったか。
 自分がどれほど彼女に惹かれ、愛しているのか。
 王太子殿下の熱弁に、一介の田舎娘は恥じらいと居心地の悪さを味わいながらも、疑念は晴れない。
 彼女の困惑をよそに、ルドルフ殿下は凛々しく宣言する。

「ゆえに、パトリシア・フェザーストン嬢! この私、ロディア王太子ルドルフは、貴女との婚約を破棄する!」

 国の重鎮が集まった重厚な会議室で。
 会議用の正装に身を包んだ王太子ルドルフは、ロアーの町のルディのきゃしゃな肩を抱きよせた。

「え、あの?」

 ルディが琥珀色の目をみはってルディルドルフの横顔を見あげると、名指しされた灰色のドレスの令嬢が淑やかに王太子殿下の前に進み出る。

「ご乱心にもほどがございます、ルドルフ殿下。王族とは国の顔。王族が迎える妃も、同じく国の顔にございます。そこに、なんの教養も功績もない平民の娘を据えるなど、国王陛下はもとより、民も納得しないでしょう。どうぞ、短慮はおひかえくださいませ。今なら皆さまも聞かなかったことにできましょう」

 フェザーストン公爵令嬢パトリシアが、凛とした表情でルドルフを諫めるが、恋の神の黄金の矢に胸を貫かれたルドルフの心は動かない。

「乱心ではない、パティ。いや、パトリシア嬢。私は貴女との婚約を破棄し、このジェラルディンと結婚する。私が今、真実、心から愛しているのは、ジェラルディンなのだ!」

 威厳すらただよわせて、王太子ルドルフは会議室中に宣言する。
 ロディア国王は困惑に太い眉をしかめ、王妃は扇で口もとを隠して視線を伏せ、大臣たちは顔を見合わせて、フェザーストン公爵は怒りと屈辱に今にも卒倒しそうだ。
 パトリシアも表面上は落ち着いて見えたが、重ねた両手はふるえている。
 ルドルフの横顔を見あげる田舎娘のルディも、今すぐ問いただしたかった。

(いったいどういうことなの? 聞いていないわ、ルディルドルフ。婚約者がいたなんて――――!)
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