The Blood in Myself

すがるん

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第1部 茜の時

26 三景①

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 右手首にチクリとした痛みを感じ、陸はゆっくりと目を開けた。
 すると、白衣の看護師が、横たわる自分の傍らに立ち、手首に針を射し込んでいるようだった。その側には点滴スタンドがあり、透明な液体の入ったパックがぶら下がっているのが見える。
「……おれは……」
 一体、ここはどこなのか。そして、自分はなぜここにいるのか。
 陸の掠れた呟きが耳に入り、若い女の看護師ははっと陸の顔を確認した。
「陸くん、気がついた? 今、先生やご家族を呼びますからね」


 陸がいるのは、どうやら病室らしい。ベッドと保冷庫付きのテレビ台、奥にはロッカーやトイレもある個室だった。
「陸!」
 間もなく奥の扉が開き、母が駆け込んできた。その後ろには、心配そうな顔をした妹の海と空もいる。
「お母さん、おれ、どうしてここに……?」
 ベッドに寝かされたまま、訊ねる陸に、
「あんた、学校から帰る途中に自転車で転んだのよ。覚えてないの?」
「は……?」
 陸は、耳を疑った。
「あそこ、何町だったか忘れたけど、十字路の手前であんたが倒れてたって。近くの家の人が気づいて、声かけたけど反応がないから救急車呼んでくれたそうよ。電話があった時、本当にびっくりしたんだから」 
「……」
 母の言葉を聞くうちに、陸の記憶が徐々に戻ってきた。だが、それは話の内容とあまりに違うものだった。
(だって、おれは、あそこで車にぶつかりそうになった後……)
 銀の蜘蛛の『領域』に引きずりこまれた。そして、三景や一羽が現れ――。
 そこで、陸は二人の姿がどこにもないことに気づいた。
「山那は……? お母さん、山那はどこっ!?」
 自分を守って巨大な蜘蛛と戦った三景は、怪我をいくつか負っていたはずだった。
「ヤマナ? 誰よそれ、クラスの子? でも、その場にはあんたしかいなかったって……」
 しかし、母は首を傾げながら、そう答えるのみだった。
(そんな……)
 陸は困惑を隠せなかった。三景たちは一体どうなったのか。さらに、その後のことも数珠繋ぎで思い出した。自分は三景を庇って、蜘蛛の脚で腹部を刺し貫かれたことを。
「お腹!!」
 陸は突然起き上がって叫ぶと、手首に点滴の針が刺さっているのも構わず、検査着を両手でがばっと開く。
 ところが、腹部には傷ひとつなかった。
「……え……?」
 陸は絶句した。
「ちょっと陸、何してんのよ!?」
 その行動に驚いて、声を上げる母に対し、
「おれ、蜘蛛に刺されたんだ! お腹を思いっきり刺されて、血とかすごい出たんだよ! でも傷がない、何で!?」
 陸も同じくらいの勢いで動揺していた。
「陸、あんた何言ってんの!? 一体どうしちゃったのよ!?」
 その時、再び病室の扉が開いて、
「転倒の衝撃で、記憶が少々、混乱しているのかもしれません」
 年配の男性医師が、先ほどの看護師を伴ってやって来た。
 医師は陸の顔を見ながら、
「君は自転車で転倒した際、脳震盪を起こしていた。だから、一時的に夢と現実がごっちゃになっているんだろう」
 冷静な口ぶりで、そう言い聞かせた。
「……夢……?」
 納得のいかない陸を尻目に、医師は母に一礼して向き直った。
「息子さんの脳の画像を確認しましたが、幸い、異常ありませんでした。打撲や擦り傷も大きなものはありません。微熱があったので点滴を打ちましたが、一晩様子を見て、熱が下がれば退院できますよ」
 陸の母はその説明に安心し、胸を撫で下ろす。だが、陸は未だ不可解な思いを拭いきれぬまま、医師と母のやりとりを眺めていた。


 点滴が終わり、母たちが帰る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
 病室に一人残った陸は、窓辺に立つと、母が閉めていった白いカーテンをそっと開け、夜の町を見下ろした。雲でぼやけた丸い月のもと、あちこちでビルや家の明かりが輝いている。陸は自分の住む社宅や高校を探してみたが、方角が違うのか、それらしい建物は見つけ出せなかった。
 微熱のせいか、喉の渇きと気だるさを感じる。陸は深いため息をついて、視線を室内へ戻した。
(制服、どこも破れてない……)
 入口近くのロッカーに、陸の制服がかけられている。蜘蛛の脚に刺された体験が現実であれば、ブレザーの真ん中には大きな穴が開いているはずだ。しかし、確認したところ、制服はズボンや腕の裾などが少し汚れているだけで、穴や血痕などはどこにも見当たらなかった。
「本当に、夢だったっていうのか……?」
 陸は窓辺にもたれたまま、呻くように呟いた。
 陸は、太い杭のような脚が刺さった感覚も、三景たちと話したこともありありと覚えており、夢とは到底思えなかった。だが、それらの体験を示す痕跡が、現実には何一つ見つからない。
 もし夢なら、一体どこからが夢なのか。銀の蜘蛛、岡湊斗の姿をした『影』、そして三景や一羽とのこと。それら全てが、夢なのだろうか?
(そうだ、携帯――)
 陸は閃いたように顔を上げたが、すぐに力なく頭を垂れた。三景に連絡したくても、番号など聞ける間柄ではなかったのだ。健太なら、三景の連絡先がわかるかもしれないが、
(もし、山那とのことも、全部夢だったら――)
 社宅での出会いも、交わした言葉も、夕暮れに自転車で二人乗りしたことも、幻覚に過ぎなかったとしたら。そう考えた途端、陸は言い知れぬ不安に襲われた。
 その時、ふいに、病室の扉が軽くノックされる。そして、再びあの看護師が顔を出した。
「陸くん、何してるの? まだ熱があるんだから、安静にしないと」
 看護師は室内へ入るなり、母親みたいな口調でそう言った。うんざりした顔でベッドへ潜る陸に、
「今、あなたに面会の方がいらしているの。中に入ってもらってもいい?」
 やや改まって言った。
「面会?」 
 陸は不思議そうに聞き返す。出張帰りの父だろうか。
 看護師は扉の方へ向かうと、
「こちらです」
 と廊下に声をかけるのが聞こえた。
 すると、看護師に案内され、一人の女が陸の前に姿を見せた。
「あ――!」
 黒いビジネススーツにハイヒール。そして胸まで伸びた黒髪と、理知的な面立ちに、陸は驚いて目を見開いた。
「篠田くん、具合はどう?」
 女――一羽は気遣わしげな表情で、陸にそう問いかけた。
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