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第一章
嘘と真実 7
しおりを挟むクリフが最初から、口を挟むつもりが無い事は分かっていた。
生真面目で職務に忠実な彼は、今はダ・ブラッドという王家縁の人間につき従う護衛。前日に「黙っていてね」なんて約束させなくとも、ただ役目を全うするだけに控えていた事だろう。
俺が無茶な作戦を立てても、否も言わない。質問もしない。ただ少し困ったようにも呆れたようにも見える表情を浮かべて、「かしこまりました」と一も二も無く頷いた。
それでも空気に徹する事が出来ないのは、彼の気質なのか未熟さ故なのかは分からない。
俺の一方的な会話に微かながら息を呑んだり、ため息をつきそうになったり、戸惑うように視線で訴えてきたりと、あえて無視をしていても目の端に映るクリフが、若干煩わしい。
そんな挙動不審なクリフだが、ルークさんの目には入っていないらしい事に、途中で気付いた。
ルークさんからしてみれば真正面の俺の斜め後ろに控えているクリフだから、確実に視界に映ってはいるだろう。それでもその挙動に頓着している様子が無い。
余裕がない自分を隠そうと、平静を装おうとしている。時々遠くを浮遊するような視線には、そんな気配がある。
俺が揶揄するように投げかけた言葉に虚を突かれたように目を見開いて、ルークさんは数秒固まった。
は、として取り繕うように微笑みを浮かべた所でもう遅い。
「ああ、いいよ。分かってるから。否定するポーズなんて、取らなくていい」
俺はにこにこ機嫌よく笑いながら、ルークさんの言葉を先回りする。
「ルークさんはさ、何時も通り女の人を引っ掛けただけでしょ? それが王女殿下で、彼女が思いの外貴方にのめり込んじゃったから、後に引けなくなっただけ。分かってる、分かってる」
何が楽しいのだろう。傍から見たらそんな風に訝しくも思える態度で、俺は嬉々として話し続けた。
ルークさんの瞳に僅かに窺える不快感。それを認識しているからこそ、殊更に。
「でも国王陛下が貴方を赦す筈が無いのは、最初から分かってたことだろうし。何ていっても貴方は、クラウディ家の一員だしね。家柄しか誇る所のない貴方でも喉から手が出る程欲しい人は多いだろうけど、国王陛下からしたら厄介でしかない。貴方は最初から、この関係が続かない事なんて百も承知」
もし今対峙していたのが高志であったものなら、最初の二言三言で殴りかかられているだろう事必至。
それなのにルークさんは自嘲気味に苦笑して、まるで「痛い所をつきますね」とでも言いたそうに視線を俯かせて、まだ体裁を崩さない。
初対面の人間に言いたい放題言われても、表情を大きく崩すことが無い。
天晴れ。
まだ二十一歳だというのに、その外面の良さには脱帽だ。
「もう少し大人しくしていれば後腐れなく、貴方も元の生活に戻れるんだもん。王女との火遊びは、新鮮でそれなりに楽しめたんじゃない? 少しぐらい窮屈な生活送った所で、プラスマイナスゼロだよね、うん」
俺もその気持ち分かるなぁ、なんて、大きく頷いてみる。
それからルークさんと顔を見合わせ、もう一つ満面の笑顔を見せる。
「――とまあ、ちょっと話が脱線しちゃったけど……うん、貴方が俺の脅威にはならなそうって分かったから、その件はもういいや。
俺がわざわざこんな辺鄙な場所まで貴方に会いに来たのにはね、も一個理由があるんだ」
どうやらルークさん本人を卑下しても、激昂して本音を漏らすなんて事にはならないようだから、俺は脳内で計画をプランAからプランBに書き換えた。
「もう一つの理由、でございますか」
言うルークさんに、にんまり。
「そう。貴方がティアの話通りの人だったらそれまで。牽制して帰る気だったんだけどね」
もったいぶる様に間を置いて、少なくなった紅茶を飲み干す。それをソーサーに戻す動きも緩やか。ついでに足を組み替えれば、正面からはほんの僅かに焦れた気配。
こういう微かな機微を感知するのは慣れたものだ。剣道の試合では常にタイミングの取り合いだから。
「ルークさんが噂通りの人だったら、仲良くなれそうだなと思って。同類として、色々聞きたい話があるんだよ」
「……同類?」
「そうだよ」
想定外の事態が起こっても無表情を保てるのは、国王陛下ぐらいのものなのだろう。
冷静な仮面が崩れかけて内側の感情がぼろぼろと表れだしたルークさんは、好きだ。元々すこぶる好感度の高い人だったけれど、その表情や態度が嘘くさいと気付いてしまえば、やはりいい気ではいられない。
本音が見えない人とは話していても無駄だと思うんだよね。
だからその点、ルークさんらしからぬ事なのかもしれないけど、こちらの思惑につられてくれるのは有難いのだ。
って言ってもそれとは比例して俺が本音を偽っているという矛盾はあるけれど。
「俺はね、楽しい事と気持ちよい事が何より好きなの。あちらの世界での生活振りは貴方と似ているんじゃないかと思う。女の子とは片っ端から付き合って来たし、法律違反だけど賭け事に夢中になったりね? 勉強嫌いで遊んでばっかし、喧嘩も日常茶飯事でさ。ま、こんなの自慢出来る話じゃないけどさ」
当然どれもこれも嘘。確かに勉強嫌いで高校も推薦じゃなければ危うかったけど、剣道漬の毎日で遊ぶ時間なんてないし、早寝早起きの健全生活を送ってきた。第一性別が女だから女の子と付き合うなんて、した事がない。――勿論男ともないが。
「本来なら結婚なんてしたくないけど、事情が事情だし、それは諦めたよ。だから我慢して王女とは結婚するし。王族の生活っていうのは金銭的にもかなり魅力かなとは思うしね」
貴方を見習ってしばらくは大人しくするけど、基本遊んで暮らしたいから。
そう付け加えて、テーブルの中央に鎮座したティーポットに手を伸ばす。空になったカップに注ぐのを、ルークさんは黙って見つめている。
本来の彼なら自分からそれをしてくれそうなのに、そうしないのは――多分、それ所じゃないからで。
「それで考えたんだけどね? 俺が自由を満喫するには、ティアを懐柔しておく必要があると思うわけ。俺が何をしても許してくれるように、要は手懐けたいなって」
相槌を打つ事無く無言のルークさんの表情は、それでも笑顔。瞬き一つしない瞳の中だけ、確かな嫌悪感が見え始めていた。
膝の上に置かれた両手は無意識にか何時の間にか拳を作っており、それが僅かに震えていた。
そろそろ俺のダメ男振りに気付いてくれたかな?
もし俺の兄弟が選んできた相手がこんな事言おうものなら、もう家から叩き出して、塩を撒いてる頃だ。ほとんど話をする事もない、良いとはけして言えない兄弟仲でも、こんな相手は選んでくれるなよと泣いて懇願したいくらい御免な相手を装ってるつもりなんだけど。
ルークさんも、そんな気分になってくれたかな?
内心ではヒヤヒヤしながらも、言葉を紡ぎ続ける。
「俺は貴方に成り代わってティアを幸せにする事にする。その代わり、自由を謳歌したい。だから、貴方がティアを誑かせた技をぜひ俺に伝授して欲しいんだ」
悪意ある言葉を邪気の無い笑顔で叩き付ける。
「本当、残念だよね。貴方もクラウディ家の一員じゃなければ、王女殿下の夫っていう地位を確立出来たのに」
――クラウディ家。それが王家にとって、どれだけ重要なのか、俺には良く分からない。アレクサを出発する前夜、ライドが「あいつもクラウディ家じゃなければもうちょっと選択の余地もあったのに」とルークさんを語った時、その家柄について説明してくれたけれど、それがどれだけの問題なのか俺にはちっとも分からなかった。
散々家柄なんて結婚相手に関係ない、と言っていたのにと矛盾に首を捻ったが、「ティアを幸せに出来るって大前提が抜け落ちている」なんて苦笑交じりに言われても、やっぱり理解出来なかった。
何故『クラウディ家』のルークさんでは、ティアを幸せに出来ないというのだろう、と。
そう聞けば最後には「ルーク・クラウディだからだ」なんて、答えにならない返しがくるばかり。
でも、少しだけ。
今ルークさん本人を目の前にして、彼らの不安がほんの少しだけど、分かる気がするのだ。
何と言ったら適切なのか分からないけど、危うい。吹いた風に何の抵抗もなく浚われてしまう紙人形のように、ルーク・クラウディという人は心許ない。
瞳にだけ確かな敵意を潜ませた笑顔のルークさんの、ティアへの愛情は恐らく本物だ。どんなにルークさん本人を貶めても感情を揺らさない代わりに、ティアを蔑ろにする俺の発言には瞳の奥の敵意を鋭くする。それを見る限り、ティアへの真摯な感情は誰の目を見ても明らかだろう。
けれど、それだけ。
腹の内で何を考えていても、それが行動に移らなければ、思考など全く意味を成さないのだ。
くすり、と小さく笑みを佩く唇から漏れるのは、優美で柔らかい声音。
「……シゼルは、本気でそのような事を仰っているのでしょうか?」
「ん?」
「そのようなお気持ちで、王女殿下とご結婚なされると?」
何処となく非難するような言葉でありながら、彼の笑顔には敵意の一欠けらも見出せない。一瞬たりとこちらを不快にさせないのは、彼の持つ空気の故か一つ一つの挙動故か。言葉と同時に傾げられた小首や、それに合わせてさらりと流れた前髪や、笑みを作る口角のどれを取っても、作り上げられた様に完璧に、人の目にすんなりと好意的に映る。
何をしても、何を言っても冷徹にしか見えない国王陛下とはまさに対極。
「そうだけど?」
何か? と目を瞬かせた俺に、待ってましたとばかりにルークさんは苦笑する。
「王女殿下お一人に、愛を注いで欲しいと私は思うのですが……」
それが出来る筈の貴方が、そうしないのに? 一瞬飛び出そうになった思いを俺は押し殺す。
「王女殿下の幸福も、きっとその先にこそありましょう」
俺はそこで考えるよりも先にそうだよね、と頷いてしまいそうになった。妙な説得力を持ったルークさんに、俺の意図は正反対に働いていた筈なのに、自然にこくりと首肯しそうになった。
その瞬間、俺の背筋を走ったのは悪寒だ。
ぶるり、下から競り上がったそれに、服の下で鳥肌が立つ。
瞳を細めるルークさんの表情は先程とちっとも変らないのに、その動作の一つにもおかしい所は無いのに、どうしようも無い程の違和感を感じて、俺の脳が奇妙な警鐘を鳴らし始めた。
「きっともう少し王女殿下のお傍でお過ごしになられれば、今までの価値観が無用になる程、シゼルも殿下の素晴らしさにお気づきになられるでしょう。私がこのような事を申し上げるのもおかしいとは存じますが、シゼルもすぐに王女殿下を愛しく思われる筈ですよ」
ルークさんが言葉を紡ぐ程に、違和感が強くなる。
ごくり、今度唾を飲み込んだのは俺だった。
自分の求める結果に向けてルークさんを追い詰めていた筈なのに、何時の間にか形勢が逆転しているのだと気付いたのは、またしても知らず頷きかけていた自分を認識したからだ。
「ですが私を牽制しにいらっしゃるくらいですから、本音では既に、王女殿下を愛しておいでなのでしょう?」
なんて、有り得ない問い掛けに、「そうだね」なんて無意識に答えそうになっているなんて、おかし過ぎるのだ。
嘘でも「愛してます」なんて答えようものならば計画が台無しの上、性別の垣根も越えてティアを愛してますなんてこれっぽっちも思う筈が無い。そもそも愛とか恋なんて興味無く生きてきた俺が、「そうだね」?
再度の悪寒は全身に走ったようだった。
先程まではまるで自分自身に言い聞かせるように、動揺を隠しながらこちらに対峙していた筈のルークさん。のらりくらり曖昧に明言を避けながら、真意をひたかくしていたルークさん。
それなのに『何か』を境に切り替わった。
切り替わった矢先、ルークさんの望む方向で話が収束するように、まさに、『仕向けられた』。
それも、有り得ないやり方で。
まるで超能力か何かで、思考や行動が乗っ取られて、勝手に動き出したとしか思えない。
それによく似た感覚を知っている。
二人いる兄の内三つ違いの下の兄貴は、時々やれあれが欲しいこれが欲しいと、俺をコンビニまでパシらせる事があるのだが、俺もただ黙ってパシられるわけでも無く、「お前が行け」「ツカサ行ってこい」などの問答の末、じゃんけん勝負に行き着く。俺は毎回パーを出して負けるのだが、パーで負ける事は分かりきっているのだからその度にグーを出そうと思うわけだ。思うわけだが――結果何故かパーを出し、負ける。兄貴は「パーを出すように仕向けている」と言って嘲笑うのだが、その原理は分からない。
後者のように今、糸も容易く、予定外の選択肢を引っ張り出された。
目を見開いて沈黙した俺を、ルークさんが不思議そうに窺っている。
「……シゼ・ブラッド?」
返事の変りに、喉元で息を飲む音が乾いた吐息となって零れた。
背後に控えていたクリフも異変に気付いたのか、
「シゼル?」
と問いかけを寄越すが、俺には答える余裕が無い。
視線の先のルークさんは何事もなかったかのように――自分が何をしたかも分かっていないかのように――目を瞬かせて困ったように笑っている。
全てが無意識なのだとしたら、これほど恐ろしいものは無い。
これがクラウディ家が誇る外交術の一種だとしたらたまったものでは無いと思う。
ルークさんは今までも、容易く人の心に入り込み己の意志とは裏腹に簡単に人を操ってきたのかもしれない。
何かの組織の指導者にでもなったら、不思議なカリスマで、周囲を簡単に悪意にも善意にも染める事が出来るんじゃないだろうか。
ルークさん本人がそれを望んで、叶え様とするのなら。
唐突にそんな空恐ろしい考えを起こしてしまってから、ああ、そうかと奇妙に納得した。
クラウディ家の名を持ってそんな事をされたら、国は簡単に傾く。
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