alexandrite

なち

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第一章

幕間 宿屋にて

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 時計の針は、朝の四時を過ぎた辺りだった。
 空にはまだ薄っすらと星が瞬き、東の方角に、いまだ太陽は昇らない。
 早朝特有の冴えた空気が、室内でも感じられる。少年は暗がりの中で息を詰めた。
「……」
 耳を澄まし、下階の音一つ逃すまいと意識を集中させる。
 窓の下には、何頭かの馬の気配。微かな鳴き声に、宿の主人の控え目な声が混じる。
 数分を置いて、馬が嘶く。蹄の音が響いて、遠ざかる。
 宿に宿泊していた一行が旅立っていく――その、音だった。
 恐らく宿主が室内に戻ったのだろう、扉が軋み閉じる音で、少年は潜めていた息を吐き出した。
 出窓の下で同じ様に沈黙していたもう一人の少年が、立ち上がってゆっくりとカーテンを引く。細い隙間から階下を見下ろして、振り返った。
「……行った?」
「……ああ」
 顔を見合わせた二人は安堵の吐息を、深く吐き出す。
 窓辺からベッドサイドへ移動した少年がそこで燭台に火を灯せば、寝台の足元に腰を下ろしていた少年は大きく背を伸ばした。
「肩凝ったー」
 その様子を見て、片の少年はクスリ、小さく笑った。細まった黄土色の瞳は、まるで夜空に浮かぶ月の様に輝いている。
 寝台に仰向けに倒れこんだ少年は、響いた笑い声に僅かに唇を突き出した。
「笑い事じゃないよ、ラシーク」
 少年特有の高い声に不穏な陰りを見てか、ラシークと呼ばれた少年は降参するように両手を挙げた。赤銅色の長い腕には、蔦と何かの模様が絡み合うような優美な刺青が彫られている。何時見ても、片の少年はそれに見惚れる。
 ラシークの暮らすバアル王国は、熱砂の国である。肌を焦がすような炎天下の国で、その住民は身を防護する為に常に長衣を纏っていた。特に彼らの国では手は神聖な部位で、刺青はその神聖さの証であり、人の目に晒される事は滅多にない。
 その刺青は指の先までを埋め尽くし、指の二関節分程もある長い爪へと続いていた。驚く事にバアルの国民は指で何かに触れる事は無い。その長い爪を駆使して、食事をし、筆を持つ。直に触れるものは、彼らが奉るエスカーニャの顔の一つ、戦神バアルの象徴たる武器と、人の温もりだけだ。
 禍々しくも映る黒い爪で、ラシークは前髪を掻き揚げる。
「それにしても、彼らの目当ては君ではなかったみたいだね、ユージィン」
 年頃はそう変りがないように見える二人だが、ラシークの声は既に変声期を終えた青年の声だった。
 名を呼ばれ、ユージィンは微かに頷く。
「うん。でもまさか、あの人自ら探しに来るなんて事ないだろうし、」
 今朝方旅立った一行の内の一人を眼裏に浮かべ、ユージィンは俄かに顔を顰めた。
「連絡が行くにしちゃ、ちょっと早過ぎだ」
「それはそうだけど、」
 鷹揚に頷いたラシークが続けるのは、嘆息。
「制裁が遅いか早いかの違いだろう?」
「……ラシークだって付いて来たくせに」
「わたしは君と違って恐れるものはないからね。それより君を一人で帰したなんて知れたら、君のお父上に面目も立たないし、わたしも父に叱られる」
 言いながらラシークは、裸身に衣を纏っていく。バアルの国民は外では厚着であるくせに、寝る時は下着程度の薄着なのだ。ラシークに至っては腰布だけで寝る。
 その彼の美しい刺青が隠されていく様を眺めながら、ユージィンはまたしてもため息をついた。
 二人の少年は母国を離れて留学中の身である。グランディアの隣国の一つである学術国家ラングルバードには、勉学の為に多くの国から青少年が集められる。規則の厳しい寮暮らしに、頭の固い教員に、プライドの高いだけのつまらない貴族の子息――はっきり言ってユージィンには退屈な生活だった。その中での唯一の救いはラシークの存在ではあったが、娯楽の少ない留学生活に飽き飽きしたユージィンは、勝手に学院を抜け出して来たのだった。
 終えるべき留学期間は間近に迫っていたものの、学院から親元へ連絡が入る事は必至である。そしてユージィンの親に関しては、確実に雷を落とす。
 そう分かっていても、ユージィンは自由を求めた。
 それが例え数日の事だったとしても、だ。
 だからこそ自由を謳歌している最中に、辛くも遭遇を免れた事は僥倖だった。
「それにしても、あの方々は何用だったのだろうね」
 手早く着替えを終えたラシークは、腰まである長い黒髪を編み始める。
「昨夜遅くにやって来たかと思えば、数時間後に出立された。一体どこから来て、どこに行かれるのか。何を、急いでおられるのか――」
「……さあ」
「気にならないのか?」
 一行が宿についてからというもの、神経を研ぎ澄ませていたユージィンは徹夜である。緊張から解き放たれたユージィンがまどろみ始めるのとは反対に、しっかりと睡眠を取ったラシークは着々と朝の準備を終えていく。
「例えば、あの不思議な連れの事とか……」
長い爪に鑢をかけ、そのなだらかな曲線に満足げに息を吹きかけた後、囁くように告げながら寝台の主を見つめるものの――欠伸を噛み殺すユージィンは、その楽しげな視線には一切気付けなかった。

 幼い友の寝顔を見下ろしてから、ラシークはゆっくりと窓辺に寄った。
 柔らかな陽光に背を向け、両の手に視線をやる。交差した長い爪の上には、滑らかな肌触りの紐飾り。
 細く編みこまれた黒い紐の中に一房、青い色が混ざる。それを器用に解きながら、ラシークは笑った。
「ウージの額飾りを持つ、異境の住人か」
 昨晩宿屋にやって来た五人組、その内の一人はラシークとユージィンの顔見知りであった。身分に不相応な少数の従者だと不思議に思って観察していれば、その内の一人は明らかに毛色が違う事に気付きもする。
 別段珍しい事ではない、と分かっていた。
 彼の人の交友関係は幅広く、隔てが無い。顔立ちがグランディアの国民と異なろうと、然り。どのような凡人でも、才人でも、傍に居ておかしくない。
 それでもラシークの興味をそそる要素が、その人間にはあった。
 宿の廊下ですれ違った時、ラシークの肩と触れ合った。その瞬間「すみません」と頭を下げた彼が、バアルに縁があるとも思えない彼が、話したバアルの言葉。その彼が落としたるは、ウージの額飾り。
 成程山の民であれば、珍しい顔立ちでもおかしくないとは思いながら、閉鎖的な彼らがバアルの言葉を解すとは信じられなかった。
 それに彼はラシークの顔を見て、酷く驚いていたのだ。まるで物珍しいものを見つめる瞳で。
 バアルの言葉を知りながら、バアルの人間に驚く。
 何とも奇妙な話である。
 ラシークは、ウージの額飾りがしばし友愛の証として他人に贈られる事を知っている。そしてその額飾りには、持ち主の記録がある事も知っていた。
 解け切った額飾りは、数百本に及ぶただの毛糸。けれどその中に一つ、芯を成す黄金色の針が現れた。
 その針を爪先で掲げ、太陽に透かせば、ウージの文字が浮かび上がる。
「……アッシャー・ナムン……母なる大地の申し子……」
 はっきりした事は、その額飾りの本来の持ち主が、ナムン族のアッシャーである、という事。そうして名とともに刻まれた生まれ年から見て、落とし主の彼本人とは異なるという事。
 ラシークは目を眇め、薄く微笑んだ。
「一体、何者なのだろう……?」

 ユージィンは緩慢に過ぎ行く毎日に飽きていた。
 しかしそれ以上にまた、ラシークも、単調な日々に飽きていた。
 ユージィンが放浪という自由の中に楽しみを見出すように、ラシークは不可思議の解明に楽しさを見出す。
 彼の興味が向いた先は、どんなものでも、正体を暴かれる。
 その対象は今、一人の人間になった――。




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