夢見客人飛翔剣

解田明

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魔宴の響き

傷無しの血

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 暇人たちは、品川近くの旅籠はたごに上がり、方策を練っていた。
 この頃は飯屋もそう多くなく、外に出て腹を満たそうとなると宿に上がって何かを頼むことになる。鍋料理を出す居見世いみせがちらほらある程度だ。
 すぐに酒を入れた銚釐ちろりと、かつおの刺身が出てくる。
 旬の走りの初物で、かなりの値が張るが、晴満が主人と馴染みで、とっておきを用意してくれたという。
 払うのは、客人まろうどが担当することになる。
 江戸っ子なら女房を質に入れてでもという初鰹を、煎り酒で食わすというのは、なかなかの趣向だ。
 無論、鰹には欠かせない辛子もつく。煎り酒というのは、梅干しと削り節を酒で煮詰めた調味料である。醤油で刺身を食うようになるのは、もっと時代が下って銚子の醤油が出回るようになってからだ。この頃、刺身を食うのには、蓼酢たです、酢味噌、これに山葵わさびを使った。
 これに、豆腐汁と大根と人参の紅白なます煮蛤にはま、煮豆、その他いろいろつく。生姜飯もある。
 まずは刺身からだ。さっぱりとした味わいに、独特の血の香りが広がる。これにねぎ茗荷みょうがの薬味と煎り酒がまた合う。七五日寿命が伸びるというのも、うなずける。

「では、あの傷無しの血に関わりがあると」
「いかにも。あれこそが類稀なる瑞兆ずいちょうなのだ」

 客人が猪口の酒で口を湿らし、想庵に問うた。
 逆卍党の隠れ家は落雷で燃え落ちたが、どうにか瞳鬼ともども逃れ、こうして晴満とも落ち合っている。その瞳鬼は傍らにいる。膳の上に並ぶ者は、彼女の身分ではまず味わえないものばかりで戸惑っている。
 話題は、逆卍党が狙った千鶴のことである。
 まず、想庵は富士行者たちのある特徴に気づいていた。彼らは、ラテン人の人種的特徴を持っていたのだ。

「富士行者に扮してはいたが、イスパニア……南蛮の国からやってきた伴天連バテレンであろう」
「その伴天連が、盗賊とつるんでいやがるのか?」
 
 天次郎は、うずらの焼き鳥を豪快に頬張っている。
 炙って滲み出す肉汁と振った塩の味がなんとも言えず、酒が進む。

「切支丹の教えは宗派が分かれておってな、正統を巡って争っておる。旧来の教えの側が、巻き返そうと天竺まで広めてきておるのだ」
「天竺と言ったら、お釈迦様の生まれた国じゃねえか。そこから日の本にやってくるとは三蔵法師も顔負けだな」
「本朝に仏の教えが伝来したように、切支丹の天主デウスの教えも世に広まっておる。新たな教えの側が一揆を起こしたことを契機とし、旧派を掲げる国と新派を掲げる国の戦が続いておるのだ」

 ヨーロッパは、多数の国が争う三十年戦争のさなかにある。ヴェストファーレン条約によってドイツ国内のカルヴァン派が承認され、信仰の自由が確認されるのはもう少し先のこととなる。

「それと千鶴姫がどう関係しているのでおじゃる?」
「やむなく秘密を話すが、姫は隠れ切支丹であろう――」

 猪口を取る客人の手が止まった。
 隠れキリシタンとなれば、改宗せぬかぎり重罪となる。
 藩のお取り潰しも十分にあろう、重大な秘密だ。

「ふうむ、そうでおじゃるか」
「切支丹の宗祖は衆生を惑わしたととがを受け、鞭打ちのうえ、はりつけ柱を刑場まで運ばされた。このとき頭に茨の冠を被せられ、手足に釘を打って晒しになったという。この宗祖が受けた傷と同じ箇所から血を流すのを、聖なる傷として崇める例がある」
 
 想庵が語るのは、聖痕現象のことである。
 イエス・キリスト受難の際に受けた傷と同じ箇所から血を流すというこの現象が歴史上初めて言及されるのは、修道士アッジシのフランチェスコの身に起こったことに関する報告書においてである。
 カトリック教会は、この現象を奇蹟と認定してしている。前述のフランチェスコを始め、聖痕を宿した修道士の多くが死後聖人に列せられている。

「すると、お姫さんは切支丹の聖女ってわけか」
「左様、伴天連の聖人というものは、没したのちに厳正な合議によって定められる特別なもの。宗派が分かれておる今、生きた聖人を得るのは大きな意味を持つであろうな」

 日本にキリスト教が布教されたのは、宗教改革によって勃興したプロテスタント運動への対抗の影響であった。
 新勢力の台頭によってカトリック教会は腐敗と堕落を自省するようになり、内部から刷新されるようになったことで宗教的情熱が高まり、大航海時代によって獲得した海外植民地、未教化地域への布教活動へと発展した。
 特に、旧教勢力は聖痕という奇蹟を宿した聖女が顕現したとなれば、大きく結束を強めることもできよう。

「どうするよ、夢さん」
「何やら大事のようだが、千鶴姫を助け出さねならんことには変わりはない」
「ならば、卦が出たでおじゃるよ、夢見殿」
「ほう、さすがは土御門つちみかどの陰陽師でござるな」

 土御門家は安倍晴明の嫡流であり、幕府は陰陽道宗家とした。
 全国の陰陽師へ免状を出す家元となり、一旦は陰陽頭の座を賀茂氏の流れである幸徳井友景こうとくい ともかげに明け渡していたが、以降は隆盛を誇ることとなる。陰陽道が栄えたのは、江戸期のことだ。
 芦屋晴満もまた、その流れを組んでいる。
 なのに、安倍晴明にやり込められた道摩法師どうまほうしの姓を名乗るあたりが晴満に事情があるところだ。

「麿も術くらべで一杯食わされたままでおじゃる。このまま引き下がってはおれん」
「では、姫はいずこへ?」
「やはり、富士の麓でおじゃる」

 晴満は千鶴の形代により謀られたが、式神を遣わしてその足取りをすぐに追ったのだ。

「いくか、夢さん?」
「ああ、甲州街道を行くことになる」
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