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第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
11 声なき神と綴る者
しおりを挟む雨が降っていた。
細く、静かに、けれど、確かに谷の大気を濡らし、重たく染めていく。
忘却の谷の奥に残された神殿跡。その中心に、風を抱かぬ雷の神像はあった。
高く、広く、厳かに。
だが、風化により表面は崩れ、彫られた神像も輪郭を失っている。
ルカとハーリィは、神像の前に立っていた。
どちらも、言葉を持たないまま。
音は、なかった。風も鳥も、地を這う虫の気配すら感じられない。
ただ、雨の粒だけが確かに降っていた。だがそれすら、耳には届かない。
ハーリィがゆっくりと、周囲を見回す。
神像の足元、半ば埋もれた石碑が、雨の中からその姿をわずかに覗かせていた。
二人で手分けして泥を払い、文字を読み取ろうとする。
ハーリィが筆談で短く書く。
「一部、綴言に似ている。でも……途中で消えてる。」
ルカはその断片を見て、思い出した。
祖父が遺した神話の写本。その中に、似たような文言が記されていた。
鞄の中から、丁寧に包まれた一冊を取り出す。
雨に濡れぬよう気をつけながら、ページをめくる。
そこにあった一節。
雷と雨を授ける神、声を奪われし後、忘れられし谷に眠る
その名は記されず。ただ“呼びかけ”の時を待つ
祖父が記したのは、まだ“語られる前の神話”だったのか。
あるいは、どこにも綴られなかった物語の“記憶の残り香”だったのかもしれない。
ハーリィが写本を覗き込み、眉を寄せる。
「まるで、語られることが呪いだったかのよう。」
ルカは頷く。
この谷に刻まれた神話は、声を発すれば壊れ、語れば縛られる運命にあったのだろう。
ふと、神像の背後に、半壊した封印の環が見えた。
そこにはかつて、語られた“祈り”の形があったのかもしれない。
けれど今は、それすら朽ちかけていた。
風も、声も、姿もない。
だが、それでも──
この神は、ここに居る。
「語られずに在る」ことの、静かな存在感。
ルカの胸元で、綴言の核が微かに光る。
それは音ではない。けれど、確かに“伝えたい”という祈りのようだった。
ルカは目を閉じ、心の中で静かに思う。
「あなたは……呼ばれるのを、待っていたんだね。」
雨は変わらず降っている。
言葉のないまま、それでも次の語りかけの瞬間が、静かに近づいていた。
ルカは、手のひらでページをそっと押さえた。
祖父の写本は雨に濡れないよう、丁寧に防水処理が施されていたが、それでもこの谷の湿気は重い。
紙の質感すら沈黙に沈み込むように、柔らかくなっていく。
「雷と雨を授ける神──声を奪われし後、忘れられし谷に眠る」
その一文が、胸の奥に深く染み渡る。
かつて、天を統べていたという存在。
雷を放ち、雨をもたらし、人々の祈りに応えていた神。
だが、語られ続けるうちにその姿は歪み、
やがて“語られることそのもの”が、神を縛る檻となった。
“声を失った神”。
それは力を失ったのではなく、「語ること」を禁じられた存在。
語る者がいなければ、神は存在しない。
だが、語りすぎた者たちが、神の輪郭を壊してしまったとしたら。
この谷は、その過ちを封印した場所なのだ。
ハーリィが石碑の欠片を手に取り、静かに視線を交わしてきた。
ルカは頷き、手元の写本を指差す。そこにはもうひとつ、記述があった。
語られるたびに、神は形を得る
だが語られすぎれば、神は名を失う
最後に残るのは、誰かを待つ声のみ
語り部としての祖父は、すでにこの“記憶の地”に触れていたのかもしれない。
その断片を、未来の語り部に託すように綴ったのだ。
ルカは目の前の神像を見上げた。
雷の神。
名も姿も曖昧な、けれど確かに呼びかけを待っている存在。
「……名も、語られず。記憶も、残らず。それでも、まだ……。」
声にはならない。
けれど、ルカの胸の内には、たしかに“語りたい”という想いが膨らんでいた。
自分が語らなければ、この神は再び誰の記憶にも触れられない。
そしてそれは、語り部としての使命でもあった。
雨が一瞬、強くなる。
神像の額に、細い一筋の水が流れ落ちた。
涙に見えた。
それはきっと、語り手の幻想にすぎない。
けれど、それでも構わない。
ルカは祖父の写本を胸に抱きしめ、静かに心の中で語りかけた。
「あなたのことを、誰かが語らなければ。だから、僕が……綴るよ。」
その瞬間、神像の台座に埋め込まれていた小さな綴言の欠片が、微かに光を帯びた。
雷鳴も風もないはずの谷に、どこかで、かすかな振動が生まれた気がした。
それは、記憶の中の雷神が、ほんのわずかに、応じた気配だった。
神像の前に立ったルカは、雨に濡れる石肌にそっと手を添えた。
冷たく、固く、黙したままの神。
けれど、その奥に、確かに“何か”がいる。
語れない神。
語れない語り手。
それでも、この谷に立つ意味を、ルカは知っていた。
ハーリィが静かに近づき、小さな羊皮紙に言葉を記す。
「語って。言葉じゃなくても。この神は、きっと待ってる。」
ルカはゆっくりと目を閉じる。
声にならない想いを胸の奥で編み上げるように、
祖父がそうしたように──いや、祖父の背中を見て育った自分自身が、
本当はもうずっと前から知っていたやり方で。
言葉は、声だけではない。
綴言だけでもない。
語りとは、相手を思い、伝えようとする心のすべてだ。
ルカは両の手を広げ、空をなぞる。
風がない谷で、存在しない風を思い出すように。
石碑に刻まれかけた祈りの律動を、体の動きでなぞるように。
指先が描く円。
胸元から肩へと流れる線。
どれも意味のない動きに見えるかもしれない。
けれどそのすべてが、ルカの“物語”だった。
彼は語り手だった。
言葉を失っても、語る者として立ち続ける者だった。
ふと、神像の奥の空に、遠くにうっすらと浮かぶ雷雲が、ひとつだけ光を灯した。
瞬間、神像の額が、かすかに震えたように見えた。
──聞こえた?
返答はなかった。
だが、ルカの中には奇妙な“手応え”が残っていた。
何かが届いた。
まだ言葉にはならない。
けれど、神は完全には失われていない。
ハーリィが再び筆談を差し出す。
「語りかけた相手が誰かもわからないのに、君はそれでも語ったのね。」
ルカは微笑んで頷いた。
「それが……語り部だと思うんだ。」
この谷で誰もが言葉を失い、祈りを封じられ、
記憶をも忘れようとしていたとしても。
それでも、自分が語るかぎり、この神も、まだ存在している。
雨音だけが静かに降り続く。
その音さえ、やがて風とともに消えるだろう。
だが、語りの灯火はここに、ひとつだけ確かに残った。
ルカは神像を見上げ、胸の内でそっと名もなき雷神に呼びかけた。
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