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第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
13 雨の調律
しおりを挟む雨は、止まなかった。
だがその雨音は、どこかおかしかった。
滴るはずのしずくが、谷の空間に吸い込まれるように消えていく。
まるで音が濾過され、沈黙に還っていくかのようだった。
神像の前。
ルカは地面に膝をつき、息を整えていた。
綴言も声も届かぬまま、それでも物語を綴ったその身に、微かな疲労が漂う。
ハーリィがそっと寄り添うように座る。視線だけが、交わされた。
そして、神像に揺らぎが起きた。
ゴリッ、とも、ヒビッ、とも呼べぬ音が、沈黙の空気を裂く。
雷と雨を司る神の胸元に、ひとすじのヒビが走ったのだ。
音のない亀裂。
それは、ただ視覚でしか感じ取れないものであったにもかかわらず、確かに二人の胸に強い震えをもたらした。
雨が、一瞬だけ止んだ。
その刹那、谷全体に別の律動が走る。
それは風でもなく、雷でもなく、けれどどこかで聴いたことのある拍子だった。
——否、それは、記憶の奥にしまわれていた音の予感だった。
「……風の舞だ。」
ハーリィが口を動かしながら、かすかに両手を上げた。
彼女の手の動きは、舞うように空をなぞっていく。ゆっくりと、風の旋律を思い出すように。
それは、かつて風の神に教わった“調律の舞”。
風と雨、雷と空気。そのすべてを和らげ、整えるための儀式。
だが今は、風も、言葉も、封じられている。
——それでも、踊らなければならない。
ルカは、胸元の書をそっと撫でる。
そこに記されていた祖父の詩のひとつを、心の中で呼び起こす。
風と雨は、いつも語り合っていた
一滴が、ひと振りに
ひと息が、一閃に
それは、語るというより、“響かせる”詩だった。
ルカは声を持たぬまま、指で空をなぞり、手の平を開いて、風と雨の言葉なき対話を再現しようとする。
ハーリィの舞と、ルカの無言の詩が、空中で交わる。
雨が再び降り出す。
ただし、それは先ほどまでの無機質な雨とは異なり、まるで何かを聞いているような優しい雨だった。
その雨粒が、神像の肩に触れる。
ヒビの隙間から、かすかに光が漏れ出した。
それは、神が聴こうとしている兆し。
失われた記憶が、雨音の中で目覚めかけていた。
雨が降り続ける中、谷を包む空気が少しずつ変わっていった。
まるで神が呼吸を始めたように、湿った風が揺れ、雲の奥でひとつ、低く雷が鳴った。
神像の胸元。そこに走ったヒビの隙間から、淡く浮かび上がる“古代の文様”。
それは文字ではなく、律動そのもののようだった。
波紋のような光の刻印が、神の腕、肩、額へとゆっくりと広がっていく。
ルカは、その光景に見覚えがあった。
祖父が残した古い神話書。
そこに記されていた、雷神が持っていた「名の断片」。
彼は胸元の書を開き、風に濡れないよう慎重にページをめくる。
そこにあった、かすれて読めなかった綴言の一節が、不意に思い出された。
「らゐ──……て……おう……。」
名の断片。
それは、雷のように切れ、雨のように消えた音だった。
ハーリィがその光景を見つめながら、ゆっくりと指先で空気をなぞる。
彼女の指が示す先に、雷が一閃。
空に一瞬、古代語の印章が浮かび上がる。
その印章は、読み取ることすらためらわれるような、崩れかけた綴言の残響。
けれどルカの胸には、不思議と理解が生まれていた。
これは、言葉ではなく、「記憶」そのものだ。
神は語れない。
だが、神の記憶は語っていた。
かつて空を駆け、雨を降らせ、雷の音で人に警告と祈りを与えていた存在。
だが神話の戦火に巻き込まれ、その名も力も奪われ、谷の底に沈められた。
ルカの足元に、再び震えが走る。
土の中から、ひとつの小さな石碑が現れ始める。
それは、「風の調律者」だったころの神に捧げられた碑。
けれど、文字は削れ、綴言は消され、名だけが記されていない。
「……語られていないんだ。……最初から。」
声にはならなかったが、ルカの中でその想いが熱を持った。
そのとき、空がわずかに晴れる。
分厚い雲の隙間から、淡く射し込む光。
その光が神像に触れ、今度は胸元に“二つ目の紋様”が浮かび上がる。
その形は、雷ではなく、雨。
天と地をつなぐ「雨の印章」。
それが浮かんだ瞬間、神の周囲を取り巻く気配がふっと変わった。
記憶が、風と雨を通して戻りつつある。
神像の全身に浮かび上がった印章は、雨と雷、それぞれの記憶を表すように淡く脈動していた。
ルカとハーリィは、そこに確かに返事を感じていた。音にはならず、言葉にもならない。
それでも、それは確かに神の世界の応答だった。
ふと、風が止まる。
さっきまで緩やかに揺れていたハーリィの髪が、ぴたりと静止する。
雨の滴りも、まるで天からの意志であるかのように、一拍ごとにその数を減らしていった。
「……もうすぐ終わる。」
そう、誰かが言ったような気がした。けれど実際には、何の声も発せられていない。
ただ、谷全体が呼吸を止めたような沈黙の中で、調律の“最後の一音”が訪れようとしていた。
ハーリィが立ち上がり、再び両手を広げる。
舞ではなく、祈りでもない。ただ、風と雨と共にある者としての、最後の所作。
彼女の指先から、かすかに風の流れが戻り始める。
ルカはそれを見つめながら、胸元の綴言の書をそっと開いた。
そこには、まだ記されていない頁が一枚、まるで“書かれる準備をしている”かのように空白で、微かに震えていた。
神像が、天を仰ぐ。
その動きはごくわずか。石が軋む音もなく、ただ雲のほうへ顔を向ける。
口が、開く。
しかしそこから発される声はなかった。
代わりに——風が吹いた。
それは谷全体に満ちた沈黙を、ゆるやかに撫でるように通り抜けていく。
言葉の代わりに、風そのものが“語った”のだ。
その瞬間、ルカとハーリィは、理解した。
これは神の語り。
音ではない、記憶でもない、ただそこに在る存在としての“返事”。
一筋の光が、天から降りる。
それは雷でも雨でもない、まるで“雫”のような光だった。
ひと粒の、それはルカの手のひらに舞い降りると、胸元の綴言の書へと吸い込まれていった。
パタン、と書がひとりでに閉じる。
そして、震える。
新たな頁が、静かに開かれようとしていた。
それは、おそらく物語の一部ではなく、“神そのものの残響”だった。
ルカは目を閉じる。
静かになった空を感じながら、自分の中にある物語を見つめる。
神像は再び動きを止める。
だがその顔には、これまでにはなかった表情があった。
穏やかに、微かに、口角が上がっていたのだ。
沈黙は終わっていない。
けれどそれは、もう語れぬ痛みではなく、語られた後の安らぎだった。
ハーリィが、そっと言葉を書き記す。
「……語れたのね、あの神さまも。」
ルカは静かに頷いた。
――そして、空の彼方で、何かが動き始めていた。
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