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第2章 氷に封ぜし祝詞と温もりなき女神
3 祭祀の回廊と返されぬ願い
しおりを挟む階段を下りきった先、二人の前に姿を現したのは、静寂に包まれた細長い回廊だった。両脇の壁には等間隔に石碑が並び、その一つ一つに古びた祝詞が彫り込まれている。だが、それらの言葉はどれも、途中で唐突に終わっていた。
「……祈りの途中で、止まってる。」
ハーリィの声が微かに震え、風が彼女の肩先をなぞって過ぎる。空気は冷たく、言葉の欠片が未練のように漂っていた。まるで、その場に込められた祈りの余韻が、まだこの空間に棲んでいるかのようだった。
「ここには語られた言葉が、たくさんあった。でも……返されなかった。」
ルカは手のひらで壁をなぞり、途切れた文の断面に指先を置く。
「神に向けて送られたはずの言葉が、応えを得られずに、ここに止まってる。」
ハーリィは歩を進めながら、ひとつの石碑の前で足を止める。その碑には「我が願いは」と書かれた直後、まるで手を止めたような空白が広がっていた。
「祈りの孤独って、こういうことかも。」
呟いたその言葉は、回廊の天井に届くこともなく、足元に落ちるように消えた。
ここは、かつて人と神とが言葉を交わそうとした場所。その名残は静かに残っているが、そこにあるのは返されなかったという事実。祈る声はあった。だが、神の返答はなかった。いや、もしかすると──返せなかったのかもしれない。
風がまたそっと吹き抜ける。その音は、誰かの小さな嗚咽にも似ていた。
祭祀の回廊を進むごとに、空気はさらに重く、静謐というより沈黙に近いものへと変わっていった。壁に並ぶ石碑はどれも風化しながらも、その一文字一文字がかつて確かに刻まれた声のように感じられる。
だが、異様なのはそのすべてが途中で止まっているということだった。
「どうかこの願いを……で、終わってる。」
ルカが指差した碑文には、願いの導入だけが刻まれ、その先が空白になっていた。隣の石にも「この子の病が癒えますよう……」とあり、その先は岩肌が砕けたように欠けている。
「……まるで、言葉ごと崩れたみたい。」
ハーリィが手を添えた瞬間、わずかに風が揺れた。彼女の周囲を巡る気流が、碑の奥に潜む語りかけの残響に触れたのだ。まるで、語られなかった想いが、息を吹き返すかのように。
「これ……ただの風じゃない。語りかけた心が、まだ奥にある。」
ルカは腰に提げた綴言板を取り出し、碑文に浮かぶ微かな文字の輪郭を追うように筆を走らせた。古語の断片を照らし合わせ、欠けた意味を探ろうとする。だが──
「……読めない。意味が、断片でしか見えない。語の接続が……切れてる。」
「きっと、祈りの途中で何かがあったの。」
ハーリィの声は、まるで自分の胸の奥を覗くように沈んでいた。
「祈る人は言葉を紡いだけど、その先が……届かなかった。もしくは……止められた。」
壁際の一角に、特に古く、深く刻まれた碑があった。他と違って、明確な文の“断絶”が見て取れる。書きかけの文字が途中で筆を折られたように、そこから先の石肌は滑らかに途切れている。
「これは……“断絶碑”。」
ルカの目が細くなった。断絶碑──神と人の祈りが最も鋭く交錯し、語りかけがそこで凍結した証。その存在が示すのは、ただ届かなかっただけではなく、語りかけが拒まれたという事実でもある。
「言葉が遮られた……否、祈りそのものが断たれた瞬間。」
静かにそう言ったルカの声が、回廊の奥で反響した。だがその反響すらも、どこか途中で吸い込まれるように、音を失って消えていった。
「……届くはずの声が、消されていたんだ。」
ハーリィが呟いたその言葉は、断絶碑の奥深くに沈んでいた何かを、微かに揺らした。
ハーリィが風を送った。細く、繊細で、しかし確かに存在する語らう風。その気流は断絶碑の表面をなぞるように巡り、碑の奥に残された想念の痕跡を探っていく。空気の粒子がわずかに震え、石肌の間で何かが共鳴を始めた。
「……聞こえる。ささやきみたいに。」
ルカが目を閉じた。耳ではなく“綴言の感覚”で、古の声を受け取ろうとする。風が碑の隙間を撫でるたび、祈りの断片が浮かび上がってくる。
「……どうか、もう一度……。」
「……この子の痛みを……代わってください……。」
「……神様……返事を……。」
それらの言葉は不完全で、断続的だった。それでも、ただの願いではないとルカにはわかった。これは、生きるか死ぬかの境にある者たちが、最期にすがるように発した、切実な呼びかけだった。
「届いていたんだ……これ、確かに届いてた……。」
ハーリィはそっと手を胸に当てた。風の動きが、胸の奥に小さな痛みを残していた。それは自分の痛みではない。ここに祈りを捧げた誰かの、深い悲しみが共鳴した証だった。
「……でも、返ってこなかった。これだけの想いがあったのに。」
「祈りを拒んだんじゃない。応えられなかったんだ……。」
ルカが静かに言った。綴言で再構成した祈りの断章の一つに、明らかな応答の空白が存在していたのだ。書きかけの文は、神への問いかけの形で止まり、そのまま何の返答も得られぬまま終わっている。
「こんなにも……真剣に、誰かを想って、願って……。」
ルカは碑に触れた。石の冷たさの奥に、人の温度が残っている気がした。書いた人の手の熱が、声が、今もこの回廊に残っている。
「きっと、神様も……。」
ハーリィが言いかけ、言葉を切った。そして、もう一度風を起こした。今度はもっと柔らかく、祈りを撫でるように、愛おしむように。
「……応えてあげたかった。でも、それができなかった神様も……ここで泣いてた気がする。」
風が揺れ、ひとつの断絶碑が微かに光を帯びた。まだ、誰も踏み込んでいない深層がある──ルカとハーリィは同時に、それを感じ取っていた。
静けさの底で、微細な音が生まれた。それは風が碑文の隙間をくぐり抜ける時の震え──けれど確かに、そこに言葉の萌芽があった。
ハーリィは軽く息を吸い、ゆっくりと掌をかざした。風は彼女の意志に応えるように舞い上がり、舞踏のように回廊を巡る。石碑の影に潜んでいたものたちが、まるで目を覚ましたかのように揺れた。
「……ルカ、いくよ。」
「うん。」
風が祈りの残響をかき混ぜるように空間を旋回し始めた。そこへルカが一歩踏み出す。彼の唇が綴言の旋律を紡ぎ出し、ハーリィの風と重なった瞬間──光がひとつの断絶碑からこぼれ落ちた。
碑文が震え、崩れかけていた文字が再構成されていく。綴言の力が、風と共鳴しながらかつて語られ、そして忘れられた瞬間を呼び戻す。
光の中に浮かび上がる情景──
それは、古びた神殿だった。内陣の石の床に少女が跪いている。両手を合わせ、震える声で祈りを捧げていた。声は掠れ、涙は乾かず、けれどその眼差しは何よりも真剣だった。
「どうか……この子の痛みを、わたしに……わたしの命で、あの子を……。」
彼女の声に応えるように、祭壇の奥に佇む女神の像が揺れる。いや、それは像ではなかった。そこには神が確かに居た。だがその姿は薄く、揺らぎ、触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。
神は少女を見つめていた。答えたかった。呼びかけに、応えたかった。だが、返せば、世界が歪む。均衡が崩れ、祈りの代償は、少女一人の命では済まなかった。
だから──沈黙した。
「……ごめんなさい。」
神の心の中で、その言葉だけが響いていた。けれど、誰の耳にも届かぬまま、それはただ、空間に沈んでいった。
共鳴は止んだ。断絶碑の光がすっと消え、また冷たい石の表情に戻った。
ルカは肩を落としながらも、しっかりと碑に視線を注いでいた。
「……届いてたんだ。あの祈り。神様は、ちゃんと聞いてた。」
「でも、返せなかったんだね。……自分を壊してでも、黙ってしまうくらい……。」
ハーリィがそっと呟いた。風は静かに、回廊をなでるように吹き抜けていた。彼女の風と、ルカの綴言は、初めてひとつの記憶を掘り起こした。
そしてその記憶は、祈られる者の苦しみを、確かに伝えてきたのだった。
風が静かに遠ざかり、回廊は再び沈黙へと還った。けれど、そこにはもう、かつての無音とは異なる余韻があった。微かに震える石の表面、掠れた文字の一節に宿る、誰にも返されなかった想い。それが、確かにこの場に生きていた。
ルカは断絶碑に手を添えた。ひんやりとした石の感触が、掌に冷たい傷のように伝わってくる。
「……こんなにも、傷ついていたんだね。返せなかったことだけで。」
言葉の主は祈る者ではなかった。応えられなかった者──神。その痛みが、碑の震えの中に、確かにあった。返事を拒んだのではない。返せば壊れるとわかっていたから、沈黙するしかなかった。
「祈られるって、幸せなことだと思ってた……でも、それが呪いになることもあるんだね。」
ハーリィが小さな声で呟いた。彼女の風は、今はもう吹かない。代わりに、胸の中で渦巻く思いが、まるで凪の水面に落ちた小石のように広がっていく。
「でも……それでも誰かは、祈らなきゃいけなかった。返されないって分かってても、願うしかなかった。」
ルカの声は、柔らかく、それでいて決意に満ちていた。祈ること。応えること。どちらも一方通行であってはならない。それが断絶の始まりだったのだと、今は分かる。
──だから、自分は語り部なのだ。
ルカはゆっくりと立ち上がった。肩に掛けた古びた鞄がわずかに音を立てる。彼の視線が、回廊の奥へと向いた。
そこにあった。回廊の尽きる先に、小さな台座のような石盤が浮かび、そこに古の地図がゆっくりと姿を現していた。氷の膜に包まれた空間が、その奥で眠るように静かに揺れている。
「……地図が、次の場所を示してる。」
「“眠りの部屋”……?」
ハーリィがその名を口にした瞬間、石盤の周囲に薄氷の結晶が舞った。それはまるで、眠りと記憶を包む繭のように静謐で、凍れる静けさの中に何か深い感情を秘めていた。
「ねえ、ルカ。祈るって、何だと思う?」
ハーリィの問いに、ルカは少しだけ考えて、そして言った。
「……きっと、誰かの痛みを知ろうとすることだよ。そして、知られた痛みに応える責任を受け止めること。」
その言葉に、ハーリィは小さく頷いた。風の巫子と語り部。二人の歩みが今、共に神の心へと踏み込もうとしていた。
まだ、その心は完全には語られていない。だが──彼らは確かに、その扉の前に立っていた。
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