語り部旅譚─頁牢に眠る神話たち─

御歳 逢生

文字の大きさ
20 / 20
第2章 氷に封ぜし祝詞と温もりなき女神

3 祭祀の回廊と返されぬ願い

しおりを挟む

階段を下りきった先、二人の前に姿を現したのは、静寂に包まれた細長い回廊だった。両脇の壁には等間隔に石碑が並び、その一つ一つに古びた祝詞が彫り込まれている。だが、それらの言葉はどれも、途中で唐突に終わっていた。

「……祈りの途中で、止まってる。」

ハーリィの声が微かに震え、風が彼女の肩先をなぞって過ぎる。空気は冷たく、言葉の欠片が未練のように漂っていた。まるで、その場に込められた祈りの余韻が、まだこの空間に棲んでいるかのようだった。

「ここには語られた言葉が、たくさんあった。でも……返されなかった。」

ルカは手のひらで壁をなぞり、途切れた文の断面に指先を置く。

「神に向けて送られたはずの言葉が、応えを得られずに、ここに止まってる。」

ハーリィは歩を進めながら、ひとつの石碑の前で足を止める。その碑には「我が願いは」と書かれた直後、まるで手を止めたような空白が広がっていた。

「祈りの孤独って、こういうことかも。」

呟いたその言葉は、回廊の天井に届くこともなく、足元に落ちるように消えた。

ここは、かつて人と神とが言葉を交わそうとした場所。その名残は静かに残っているが、そこにあるのは返されなかったという事実。祈る声はあった。だが、神の返答はなかった。いや、もしかすると──返せなかったのかもしれない。

風がまたそっと吹き抜ける。その音は、誰かの小さな嗚咽にも似ていた。


祭祀の回廊を進むごとに、空気はさらに重く、静謐というより沈黙に近いものへと変わっていった。壁に並ぶ石碑はどれも風化しながらも、その一文字一文字がかつて確かに刻まれた声のように感じられる。

だが、異様なのはそのすべてが途中で止まっているということだった。

「どうかこの願いを……で、終わってる。」

ルカが指差した碑文には、願いの導入だけが刻まれ、その先が空白になっていた。隣の石にも「この子の病が癒えますよう……」とあり、その先は岩肌が砕けたように欠けている。

「……まるで、言葉ごと崩れたみたい。」

ハーリィが手を添えた瞬間、わずかに風が揺れた。彼女の周囲を巡る気流が、碑の奥に潜む語りかけの残響に触れたのだ。まるで、語られなかった想いが、息を吹き返すかのように。

「これ……ただの風じゃない。語りかけた心が、まだ奥にある。」

ルカは腰に提げた綴言板を取り出し、碑文に浮かぶ微かな文字の輪郭を追うように筆を走らせた。古語の断片を照らし合わせ、欠けた意味を探ろうとする。だが──

「……読めない。意味が、断片でしか見えない。語の接続が……切れてる。」

「きっと、祈りの途中で何かがあったの。」

ハーリィの声は、まるで自分の胸の奥を覗くように沈んでいた。

「祈る人は言葉を紡いだけど、その先が……届かなかった。もしくは……止められた。」

壁際の一角に、特に古く、深く刻まれた碑があった。他と違って、明確な文の“断絶”が見て取れる。書きかけの文字が途中で筆を折られたように、そこから先の石肌は滑らかに途切れている。

「これは……“断絶碑”。」

ルカの目が細くなった。断絶碑──神と人の祈りが最も鋭く交錯し、語りかけがそこで凍結した証。その存在が示すのは、ただ届かなかっただけではなく、語りかけが拒まれたという事実でもある。

「言葉が遮られた……否、祈りそのものが断たれた瞬間。」

静かにそう言ったルカの声が、回廊の奥で反響した。だがその反響すらも、どこか途中で吸い込まれるように、音を失って消えていった。

「……届くはずの声が、消されていたんだ。」

ハーリィが呟いたその言葉は、断絶碑の奥深くに沈んでいた何かを、微かに揺らした。


ハーリィが風を送った。細く、繊細で、しかし確かに存在する語らう風。その気流は断絶碑の表面をなぞるように巡り、碑の奥に残された想念の痕跡を探っていく。空気の粒子がわずかに震え、石肌の間で何かが共鳴を始めた。

「……聞こえる。ささやきみたいに。」

ルカが目を閉じた。耳ではなく“綴言の感覚”で、古の声を受け取ろうとする。風が碑の隙間を撫でるたび、祈りの断片が浮かび上がってくる。

「……どうか、もう一度……。」
「……この子の痛みを……代わってください……。」
「……神様……返事を……。」

それらの言葉は不完全で、断続的だった。それでも、ただの願いではないとルカにはわかった。これは、生きるか死ぬかの境にある者たちが、最期にすがるように発した、切実な呼びかけだった。

「届いていたんだ……これ、確かに届いてた……。」

ハーリィはそっと手を胸に当てた。風の動きが、胸の奥に小さな痛みを残していた。それは自分の痛みではない。ここに祈りを捧げた誰かの、深い悲しみが共鳴した証だった。

「……でも、返ってこなかった。これだけの想いがあったのに。」

「祈りを拒んだんじゃない。応えられなかったんだ……。」

ルカが静かに言った。綴言で再構成した祈りの断章の一つに、明らかな応答の空白が存在していたのだ。書きかけの文は、神への問いかけの形で止まり、そのまま何の返答も得られぬまま終わっている。

「こんなにも……真剣に、誰かを想って、願って……。」

ルカは碑に触れた。石の冷たさの奥に、人の温度が残っている気がした。書いた人の手の熱が、声が、今もこの回廊に残っている。

「きっと、神様も……。」

ハーリィが言いかけ、言葉を切った。そして、もう一度風を起こした。今度はもっと柔らかく、祈りを撫でるように、愛おしむように。

「……応えてあげたかった。でも、それができなかった神様も……ここで泣いてた気がする。」

風が揺れ、ひとつの断絶碑が微かに光を帯びた。まだ、誰も踏み込んでいない深層がある──ルカとハーリィは同時に、それを感じ取っていた。


静けさの底で、微細な音が生まれた。それは風が碑文の隙間をくぐり抜ける時の震え──けれど確かに、そこに言葉の萌芽があった。

ハーリィは軽く息を吸い、ゆっくりと掌をかざした。風は彼女の意志に応えるように舞い上がり、舞踏のように回廊を巡る。石碑の影に潜んでいたものたちが、まるで目を覚ましたかのように揺れた。

「……ルカ、いくよ。」

「うん。」

風が祈りの残響をかき混ぜるように空間を旋回し始めた。そこへルカが一歩踏み出す。彼の唇が綴言の旋律を紡ぎ出し、ハーリィの風と重なった瞬間──光がひとつの断絶碑からこぼれ落ちた。

碑文が震え、崩れかけていた文字が再構成されていく。綴言の力が、風と共鳴しながらかつて語られ、そして忘れられた瞬間を呼び戻す。

光の中に浮かび上がる情景──

それは、古びた神殿だった。内陣の石の床に少女が跪いている。両手を合わせ、震える声で祈りを捧げていた。声は掠れ、涙は乾かず、けれどその眼差しは何よりも真剣だった。

「どうか……この子の痛みを、わたしに……わたしの命で、あの子を……。」

彼女の声に応えるように、祭壇の奥に佇む女神の像が揺れる。いや、それは像ではなかった。そこには神が確かに居た。だがその姿は薄く、揺らぎ、触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。

神は少女を見つめていた。答えたかった。呼びかけに、応えたかった。だが、返せば、世界が歪む。均衡が崩れ、祈りの代償は、少女一人の命では済まなかった。

だから──沈黙した。

「……ごめんなさい。」

神の心の中で、その言葉だけが響いていた。けれど、誰の耳にも届かぬまま、それはただ、空間に沈んでいった。

共鳴は止んだ。断絶碑の光がすっと消え、また冷たい石の表情に戻った。

ルカは肩を落としながらも、しっかりと碑に視線を注いでいた。

「……届いてたんだ。あの祈り。神様は、ちゃんと聞いてた。」

「でも、返せなかったんだね。……自分を壊してでも、黙ってしまうくらい……。」

ハーリィがそっと呟いた。風は静かに、回廊をなでるように吹き抜けていた。彼女の風と、ルカの綴言は、初めてひとつの記憶を掘り起こした。

そしてその記憶は、祈られる者の苦しみを、確かに伝えてきたのだった。


風が静かに遠ざかり、回廊は再び沈黙へと還った。けれど、そこにはもう、かつての無音とは異なる余韻があった。微かに震える石の表面、掠れた文字の一節に宿る、誰にも返されなかった想い。それが、確かにこの場に生きていた。

ルカは断絶碑に手を添えた。ひんやりとした石の感触が、掌に冷たい傷のように伝わってくる。

「……こんなにも、傷ついていたんだね。返せなかったことだけで。」

言葉の主は祈る者ではなかった。応えられなかった者──神。その痛みが、碑の震えの中に、確かにあった。返事を拒んだのではない。返せば壊れるとわかっていたから、沈黙するしかなかった。

「祈られるって、幸せなことだと思ってた……でも、それが呪いになることもあるんだね。」

ハーリィが小さな声で呟いた。彼女の風は、今はもう吹かない。代わりに、胸の中で渦巻く思いが、まるで凪の水面に落ちた小石のように広がっていく。

「でも……それでも誰かは、祈らなきゃいけなかった。返されないって分かってても、願うしかなかった。」

ルカの声は、柔らかく、それでいて決意に満ちていた。祈ること。応えること。どちらも一方通行であってはならない。それが断絶の始まりだったのだと、今は分かる。

──だから、自分は語り部なのだ。

ルカはゆっくりと立ち上がった。肩に掛けた古びた鞄がわずかに音を立てる。彼の視線が、回廊の奥へと向いた。

そこにあった。回廊の尽きる先に、小さな台座のような石盤が浮かび、そこに古の地図がゆっくりと姿を現していた。氷の膜に包まれた空間が、その奥で眠るように静かに揺れている。

「……地図が、次の場所を示してる。」

「“眠りの部屋”……?」

ハーリィがその名を口にした瞬間、石盤の周囲に薄氷の結晶が舞った。それはまるで、眠りと記憶を包む繭のように静謐で、凍れる静けさの中に何か深い感情を秘めていた。

「ねえ、ルカ。祈るって、何だと思う?」

ハーリィの問いに、ルカは少しだけ考えて、そして言った。

「……きっと、誰かの痛みを知ろうとすることだよ。そして、知られた痛みに応える責任を受け止めること。」

その言葉に、ハーリィは小さく頷いた。風の巫子と語り部。二人の歩みが今、共に神の心へと踏み込もうとしていた。

まだ、その心は完全には語られていない。だが──彼らは確かに、その扉の前に立っていた。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

最弱弓術士、全距離支配で最強へ

Y.
ファンタジー
「弓術士? ああ、あの器用貧乏な最弱職のことか」 剣と魔法が全てを決める世界において、弓は「射程は魔法に及ばず、威力は剣に劣る」不遇の武器と蔑まれていた。 若き冒険者リアンは、亡き叔父から譲り受けた一振りの弓「ストーム・ウィスパー」を手に、冒険者の門を叩く。周囲の嘲笑を余所に、彼が秘めていたのは、世界をナノ単位で解析する「化け物じみた集中力」だった。 リアンの放つ一矢は、もはや単なる遠距離攻撃ではない。 風を読み、空間を計算し、敵の急所をミリ単位で射抜く精密射撃。 弓本体に仕込まれたブレードを操り、剣士を圧倒する近接弓術。 そして、魔力の波長を読み取り、呪文そのものを撃ち落とす対魔法技術。 「近距離、中距離、遠距離……俺の射程に逃げ場はない」 孤独な修行の末に辿り着いた「全距離対応型弓術」は、次第に王道パーティやエリート冒険者たちの常識を塗り替えていく。 しかし、その弓には叔父が命を懸けて守り抜いた**「世界の理(ことわり)」を揺るがす秘密**が隠されていた――。 最弱と笑われた少年が、一張の弓で最強へと駆け上がる、至高の異世界アクションファンタジー、開幕!

なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め

イニシ原
ファンタジー
ダークスローライフで癒しに耐えろ。 孤独になった勇者。 人と出会わないことで進む時間がスローになるのがダークスローライフ。 ベストな組み合わせだった。 たまに来る行商人が、唯一の接点だった。 言葉は少なく、距離はここちよかった。 でも、ある日、虹の種で作ったお茶を飲んだ。 それが、すべての始まりだった。 若者が来た。 食料を抱えて、笑顔で扉を叩く。 断っても、また来る。 石を渡せば帰るが、次はもっと持ってくる。 優しさは、静けさを壊す。 逃げても、追いつかれる。 それでも、ほんの少しだけ、 誰かと生きたいと思ってしまう。 これは、癒しに耐える者の物語。 *** 登場人物の紹介 ■ アセル 元勇者。年齢は40に近いが、見た目は16歳。森の奥でひとり暮らしている。 ■ アーサー 初老の男性。アセルが唯一接点を持つ人物。たまに森を訪れる。 ■ トリス 若者。20代前半。アーサー行方不明後、食料を抱えて森の家を訪れる。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活

シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

MP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

処理中です...