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3章:雲外蒼天
3話:悲劇の前夜・後編
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▼レヴィン
その頃、レヴィンは部屋で待っていた人物に生まれて初めて素っ頓狂な悲鳴を上げていた。
「シリル! どうして、王都にいるんじゃ!」
「あの、来ちゃいました」
「来ちゃいましたって……」
大抵の事には動じないレヴィンだったが、これには床に力なく崩れ落ちた。扉を開けていきなりこれだ。中にいたシリルは苦笑したが、悪びれる様子はない。何がどうなっているのか分からない状態だ。
「ユリエル様が知ったら怒るよ」
「それは平気です。兄上の許可は取りましたし、そもそも僕は王都から離れる方がいいと言われていましたから」
苦笑したシリルの言葉に、レヴィンは鋭い視線を向けた。
ユリエルが王として即位した事で、現在政権を担っている重臣たちが荒れているのは知っていた。奴らにとってユリエルは扱いづらく、敵対の図が出来上がっている。そうした者がシリルを支持しているのも知っている。おそらく王都を離れるようにユリエルが言ったのは、こうした者の手からシリルを守る為だ。
だからって、どうしてわざわざここに連れてきたんだ。こんな力のない子を戦場に、しかも最前線に。いくらこの子が望んだ事でも。人不足……というわけでもあるまい。
「もしや!」
ふと思った事があって、レヴィンは血の気が引けて走り出した。向かったのはユリエルの部屋。主の部屋にこんな時間に、しかも無断で入れば普通は首が飛ぶだろう。だがこの時のレヴィンは色んな悪い可能性が浮かんで気が立っていた。
ノックも無しに扉を乱暴に開け、眠っているユリエルの上に馬乗りになる。抵抗される前に細い腕をつかみ上げ、レヴィンは彼を睨み付けた。
「何事です」
「どうしてシリルがここにいる。答えによっちゃこのまま犯すぞ」
「やれるものならやってみろ」
低い怒気を含む声は怖い。ユリエルの瞳が氷のような冷気を含む。だが、それ以上の怒気をもってレヴィンはユリエルを見ていた。
「シリルがどうしてここにいる」
「王都に一人残していくよりも安全だからです。それに、あの子の望みでもありました」
「だからって危険なんだぞ! 力のない奴がいるべき場所じゃないのは、あんただって分かっているはずだ!」
「では、彼の気持ちは無視すると?」
冷静で冷たい声が問う。それに、レヴィンは声を詰まらせた。シリルがどんな気持ちでいるかなんて考えたことがない。思い出したのは、嬉しそうにレヴィンを迎えたあの笑顔だった。
「考えていないようですね。あの子は貴方を前線で見送り、迎えたいと望みました。誰でもない、貴方を」
その言葉に、胸が僅かに痛む。こんな風に誰かに思われた事などないから、考えた事がなかった。
「王都奪還の時、よほど歯がゆい思いをしたのでしょうね。いくら王都に置くのが危険だからって、私がここにあの子を置くのを良しとすると思いますか? 聖ローレンス砦にいるように言ったのに、あの子はここまで来ると言った。危険だと言っても聞きはしませんでした。何故だと思います」
「それは」
「何も知らないまま、離れた場所で不安を抱える事が苦しいと言ったのですよ。何もできずとも、送り出し、迎えたいと。お前はそんなあの子の健気さを理解していないのですか?」
途端に募るのは、罪悪感のようなものだった。聖ローレンス砦を離れる前夜、確かにシリルはそんな事を言っていた。何もできなくても傍にはいたい。そんな気持ちを汲んでやる余裕が、レヴィンにはなかったのかもしれない。
ユリエルは溜息をつく。レヴィンも、ユリエルの上からどいた。
「戻りなさい。そして、シリルと向き合ってきなさい。お前にとってもシリルにとっても、大切な事だと思いますよ」
レヴィンは頷いて、素直に部屋を出て行く。このお叱りは明日の働きで帳消しにしてもらう。それだけを心に誓って、レヴィンは自室へと戻っていった。
部屋に戻ると、シリルは落ち込んだ顔でベッドの上に座っていた。悪い事をした子供のようだ。悪いのはシリルではなく、レヴィンだというのに。
「シリル」
「ごめんなさい。迷惑……ですよね。こんな子供が、貴方みたいな大人の傍にいたいと願っても分不相応で。力もないから、心配ばかりかけるし」
シリルは自分の力の無さを自覚している。同時に、歯がゆくも感じている。それを、レヴィンは知っていた。
落ち込むシリルの前に膝をついて、落ちている手に躊躇いながら触れる。新緑の瞳は、今にも濡れてしまいそうだった。
「僕、明日になったら聖ローレンス砦に戻ります。王都にはいないようにと言われていますから」
不器用に泣き笑って、そのままどこかに行ってしまいそうなシリルをレヴィンは抱き寄せた。強く、離さないように。
「ごめん、考えなしは俺の方だ。俺はただ、戦場の危険を知っている。巻き込まれたらと思うと怖くなったんだ。シリルが邪魔な訳じゃない」
ここが落ちれば、シリルの身柄はどうなるのか。殺されるか、捕虜となるか。どちらにしてもいい扱いは受けないだろう。その時、レヴィンはきっと傍にいられない。もしも生きているなら、彼を攫いに行っているはずだ。それができないなら、もうこの世にいないだろう。
「戦場には出ません。僕に戦う力がない事は分かっています。僕は、兄上のように強くありませんから」
「それで、いいんだよ。あの人みたいに強くならなくていい。あの人みたいに、一人で生き抜こうとしなくていい。守りがいがないしね」
ユリエルは仲間を必要としている。それは確かだ。けれどその心には誰も入れていない。最後には一人で生きていこうとしているように思う。それはとても強いけれど、苦しくて寂しい道だ。
シリルにはそんな道いらない。愛される王子であってもらいたい。
「明日はここにいるんだよ。守る理由にもなるし、生きる張り合いが出るしね」
この砦にシリルがいるなら、守らなければならない。この砦ごと、この場所とこの子を。
「あの、今日はここに泊めてもらってもいいですか?」
「部屋の用意くらいあるだろ?」
「あの、兄上が。これがレヴィンへの褒美だって」
あの兄貴、自分の弟を男の部屋に泊めさせるのか!
なんだか最後まで謀られた気がする。しかも、とても嫌な感じで。
それでも、レヴィンは曖昧に笑って頷いた。何をするでもないけれど、他人の温もりはこういう夜にはいいと思えたのだ。
「しょうがないな。じゃあ、隣においで」
招いた小さな体はとても温かくて柔らかい。だからといって変な気を起こしたりはしない。戦いの前夜、興奮しきった昂ぶりを鎮め、優しい眠りに連れて行ってくれそうだった。
◆◇◆
▼戦士の夜
戦いの前夜ともなると戦士の昂ぶりは仕方のない事。それはグリフィスほどの猛将でも同じこと。眠れなくて、剣を片手に修練場へと出る。そして、素振りをしていた。
「そんなに頑張ると明日に響くぞ」
「ロアール先生」
背後で声がした。そこには酒を片手にしたロアールがいる。汗を軽く拭いて剣を置くと、グリフィスはそちらへ向かう。
「お前はよく戦場に出る気になるな」
苦笑して迎えたロアールに、グリフィスも同じように苦笑する。
「何を言うのです。貴方だって昔は戦場で剣を握っていた。それは綺麗な、戦場の舞姫と呼ばれるほどの使い手だったのに」
「何年前の話をしてるんだよ、お前は。俺は戦場が怖くなって逃げだした、駄目人間だ」
酒を飲み、遠い過去のような口ぶりで言うロアールに向かって、グリフィスは力なく笑う。彼の心が既に戦場にない事は知っている。だがそれでも、その才は失うのが惜しいものだった。
ロアールはかつて一万の兵を率いる将兵だった。華麗で的確な戦い方は、まるで剣舞を舞うような姿だった。まさに正確無比な剣。
だがそんな彼がある日、突然と剣を置いてしまった。そして、軍医になったのだ。たまたまそちらの才能もあったから今があるが、そうでなければ何をしていたのか。
「どうして、剣を置いたのですか」
グリフィスの問いに、ロアールは口を閉ざして考えた。遠くを見る目は、してグリフィスをみようとはしない。だが、逃げる様子もない。とても不思議な存在に思えた。逃げないけれど、近づかせない。掴みどころがなかった。
「グリフィス、お前は家族を殺された子供の顔を、見たことがあるか?」
「それは……」
不意の問いに、グリフィスの表情は曇る。グリフィスにも覚えがある。仲間を、友を、家族を殺された人の顔は鬼のようだ。本当にこのまま殺されるかもしれないと思えるくらいの、憎しみの顔だ。
「俺は、生きてる人間が好きなんだ。人ってのは生きて笑ってる姿が一番綺麗でいいんだよ。俺はその為に戦っていると思っていた。だが……そうじゃないんだよな」
「言いたい事は、分かります」
戦は人が死ぬ。笑う人間もいる。だが、泣く人間もいる。憎しみが生まれる。この先に笑って暮らせる世界があるというけれど、時々それが見えなくなる。奪い尽くし、殺しつくすまで終われない。そんな思いを抱いた事がグリフィスにはあった。
「グリフィス、お前は何の為に戦う? 利権を貪る狸どもと戦って、若い王を立てるその先に、本当に未来は見えるのか?」
ロアールは絶望したのだろう。終わりの見えない戦いの日々に疲弊し、見ていた未来を見失ったのだろう。ならば、剣を置いた理由も頷ける。
だがグリフィスは違った。まだ大きすぎて見えない未来を捉えるのは容易ではないが、ユリエルという王を通してならば見えるように思えた。
「俺は、笑って剣を置いて暮らせる世界を見ています」
「くると思うのか?」
「信じなければ何も得られないと思いますが? 俺は、信じる事にしたのです。ユリエル様はそれを叶えるために力を尽くしている。支えるのが、俺の役目です」
信念は貫かなければ叶わない。叶えなければならないのだ、犠牲になった全ての者の為にも、自分の為にも。これまでを無駄にはできない。
ロアールが深く瞳を閉じる。そして、ぽつりと呟いた。
「俺は今でも覚えている。たった十二の子供が、母親の墓前で涙を流す事もできずに黙っていた。倒れてしまいそうな程幼いのに、倒れないと意地になっていた姿を」
「それは……」
ユリエルの幼い頃の話はグリフィスも知っている。ロアールはユリエルの剣の師だ。ユリエルの今の剣は、ロアールのそれを引き継いでいる。
「あの姿を見ると、俺は可哀想に見えた。人はあいつを強いと言うが、俺には今でも強がりに見える。グリフィス、あいつの強さは脆さがある。大きすぎる期待を背負い、毒を抱えたまま無茶をする。一人にするなよ」
「勿論、一人になどしません」
誓うように言うと、ロアールは頷いて背を向ける。ひらひらと手を振って、その場を後にしてしまう。
残されたグリフィスは頭をかいて剣を納め、自室へと戻っていった。
◆◇◆
▼ルーカス&ユリエル
遠く、ルーカスは空を見ていた。薄い雲が月を隠し、その姿を見る事ができない。それはまるで今の心のように思えた。
一人の室内はとても静かで寂しく、人恋しい。ルーカスは布団に潜り込み、手繰り寄せるように抱きしめる。自分一人の体温が虚しい。傍にいて欲しい人の姿はない。あるのは影だけ。思い描く幻像だけ。
「リューヌ」
君はこの空をどう見る。悲しく思うだろうか。俺には、心を映したように思える。戦など、君は嫌うだろう。それを今、行おうとしている。軽蔑するだろうか。
次に会う時、どんな顔をしていいか分からない。だがそれも、明日生きていればの話だが。
そんな事を考えながら、ルーカスはぶつりと思考を止めた。これに何の意味もないと分かっている。こんな事を今思っても彼が傍にいてくれるわけでもなく、苦しくなるばかりだ。
諦めて瞳を閉じる。けれどこの日、なかなか眠りは訪れなかった。
◆◇◆
ユリエルもまた、眠れぬ夜を過ごしていた。レヴィンに起こされ、すっかり眠れる気がしなくなっていた。
仕方なく窓際に移動し、空を見る。けれどそこに月はなかった。
「今夜は、月が出ていませんね」
彼は今、どこにいるだろう。同じように、空を眺めているだろうか。
「エトワール」
貴方の知らない所で、貴方の知らない私はどんどんこの手を血に染める。敵も味方もなく。この穢れを、どう洗えばいい? どんなに飾っても、偽っても、どんどん貴方に似合わぬ者になっていく。
ユリエルは考えるのを止めて、布団の中に潜り込んだ。眠りなど訪れないだろうが、それでも起きている意味がなかった。ならば、少しでも体を休める事にしたのだ。
その頃、レヴィンは部屋で待っていた人物に生まれて初めて素っ頓狂な悲鳴を上げていた。
「シリル! どうして、王都にいるんじゃ!」
「あの、来ちゃいました」
「来ちゃいましたって……」
大抵の事には動じないレヴィンだったが、これには床に力なく崩れ落ちた。扉を開けていきなりこれだ。中にいたシリルは苦笑したが、悪びれる様子はない。何がどうなっているのか分からない状態だ。
「ユリエル様が知ったら怒るよ」
「それは平気です。兄上の許可は取りましたし、そもそも僕は王都から離れる方がいいと言われていましたから」
苦笑したシリルの言葉に、レヴィンは鋭い視線を向けた。
ユリエルが王として即位した事で、現在政権を担っている重臣たちが荒れているのは知っていた。奴らにとってユリエルは扱いづらく、敵対の図が出来上がっている。そうした者がシリルを支持しているのも知っている。おそらく王都を離れるようにユリエルが言ったのは、こうした者の手からシリルを守る為だ。
だからって、どうしてわざわざここに連れてきたんだ。こんな力のない子を戦場に、しかも最前線に。いくらこの子が望んだ事でも。人不足……というわけでもあるまい。
「もしや!」
ふと思った事があって、レヴィンは血の気が引けて走り出した。向かったのはユリエルの部屋。主の部屋にこんな時間に、しかも無断で入れば普通は首が飛ぶだろう。だがこの時のレヴィンは色んな悪い可能性が浮かんで気が立っていた。
ノックも無しに扉を乱暴に開け、眠っているユリエルの上に馬乗りになる。抵抗される前に細い腕をつかみ上げ、レヴィンは彼を睨み付けた。
「何事です」
「どうしてシリルがここにいる。答えによっちゃこのまま犯すぞ」
「やれるものならやってみろ」
低い怒気を含む声は怖い。ユリエルの瞳が氷のような冷気を含む。だが、それ以上の怒気をもってレヴィンはユリエルを見ていた。
「シリルがどうしてここにいる」
「王都に一人残していくよりも安全だからです。それに、あの子の望みでもありました」
「だからって危険なんだぞ! 力のない奴がいるべき場所じゃないのは、あんただって分かっているはずだ!」
「では、彼の気持ちは無視すると?」
冷静で冷たい声が問う。それに、レヴィンは声を詰まらせた。シリルがどんな気持ちでいるかなんて考えたことがない。思い出したのは、嬉しそうにレヴィンを迎えたあの笑顔だった。
「考えていないようですね。あの子は貴方を前線で見送り、迎えたいと望みました。誰でもない、貴方を」
その言葉に、胸が僅かに痛む。こんな風に誰かに思われた事などないから、考えた事がなかった。
「王都奪還の時、よほど歯がゆい思いをしたのでしょうね。いくら王都に置くのが危険だからって、私がここにあの子を置くのを良しとすると思いますか? 聖ローレンス砦にいるように言ったのに、あの子はここまで来ると言った。危険だと言っても聞きはしませんでした。何故だと思います」
「それは」
「何も知らないまま、離れた場所で不安を抱える事が苦しいと言ったのですよ。何もできずとも、送り出し、迎えたいと。お前はそんなあの子の健気さを理解していないのですか?」
途端に募るのは、罪悪感のようなものだった。聖ローレンス砦を離れる前夜、確かにシリルはそんな事を言っていた。何もできなくても傍にはいたい。そんな気持ちを汲んでやる余裕が、レヴィンにはなかったのかもしれない。
ユリエルは溜息をつく。レヴィンも、ユリエルの上からどいた。
「戻りなさい。そして、シリルと向き合ってきなさい。お前にとってもシリルにとっても、大切な事だと思いますよ」
レヴィンは頷いて、素直に部屋を出て行く。このお叱りは明日の働きで帳消しにしてもらう。それだけを心に誓って、レヴィンは自室へと戻っていった。
部屋に戻ると、シリルは落ち込んだ顔でベッドの上に座っていた。悪い事をした子供のようだ。悪いのはシリルではなく、レヴィンだというのに。
「シリル」
「ごめんなさい。迷惑……ですよね。こんな子供が、貴方みたいな大人の傍にいたいと願っても分不相応で。力もないから、心配ばかりかけるし」
シリルは自分の力の無さを自覚している。同時に、歯がゆくも感じている。それを、レヴィンは知っていた。
落ち込むシリルの前に膝をついて、落ちている手に躊躇いながら触れる。新緑の瞳は、今にも濡れてしまいそうだった。
「僕、明日になったら聖ローレンス砦に戻ります。王都にはいないようにと言われていますから」
不器用に泣き笑って、そのままどこかに行ってしまいそうなシリルをレヴィンは抱き寄せた。強く、離さないように。
「ごめん、考えなしは俺の方だ。俺はただ、戦場の危険を知っている。巻き込まれたらと思うと怖くなったんだ。シリルが邪魔な訳じゃない」
ここが落ちれば、シリルの身柄はどうなるのか。殺されるか、捕虜となるか。どちらにしてもいい扱いは受けないだろう。その時、レヴィンはきっと傍にいられない。もしも生きているなら、彼を攫いに行っているはずだ。それができないなら、もうこの世にいないだろう。
「戦場には出ません。僕に戦う力がない事は分かっています。僕は、兄上のように強くありませんから」
「それで、いいんだよ。あの人みたいに強くならなくていい。あの人みたいに、一人で生き抜こうとしなくていい。守りがいがないしね」
ユリエルは仲間を必要としている。それは確かだ。けれどその心には誰も入れていない。最後には一人で生きていこうとしているように思う。それはとても強いけれど、苦しくて寂しい道だ。
シリルにはそんな道いらない。愛される王子であってもらいたい。
「明日はここにいるんだよ。守る理由にもなるし、生きる張り合いが出るしね」
この砦にシリルがいるなら、守らなければならない。この砦ごと、この場所とこの子を。
「あの、今日はここに泊めてもらってもいいですか?」
「部屋の用意くらいあるだろ?」
「あの、兄上が。これがレヴィンへの褒美だって」
あの兄貴、自分の弟を男の部屋に泊めさせるのか!
なんだか最後まで謀られた気がする。しかも、とても嫌な感じで。
それでも、レヴィンは曖昧に笑って頷いた。何をするでもないけれど、他人の温もりはこういう夜にはいいと思えたのだ。
「しょうがないな。じゃあ、隣においで」
招いた小さな体はとても温かくて柔らかい。だからといって変な気を起こしたりはしない。戦いの前夜、興奮しきった昂ぶりを鎮め、優しい眠りに連れて行ってくれそうだった。
◆◇◆
▼戦士の夜
戦いの前夜ともなると戦士の昂ぶりは仕方のない事。それはグリフィスほどの猛将でも同じこと。眠れなくて、剣を片手に修練場へと出る。そして、素振りをしていた。
「そんなに頑張ると明日に響くぞ」
「ロアール先生」
背後で声がした。そこには酒を片手にしたロアールがいる。汗を軽く拭いて剣を置くと、グリフィスはそちらへ向かう。
「お前はよく戦場に出る気になるな」
苦笑して迎えたロアールに、グリフィスも同じように苦笑する。
「何を言うのです。貴方だって昔は戦場で剣を握っていた。それは綺麗な、戦場の舞姫と呼ばれるほどの使い手だったのに」
「何年前の話をしてるんだよ、お前は。俺は戦場が怖くなって逃げだした、駄目人間だ」
酒を飲み、遠い過去のような口ぶりで言うロアールに向かって、グリフィスは力なく笑う。彼の心が既に戦場にない事は知っている。だがそれでも、その才は失うのが惜しいものだった。
ロアールはかつて一万の兵を率いる将兵だった。華麗で的確な戦い方は、まるで剣舞を舞うような姿だった。まさに正確無比な剣。
だがそんな彼がある日、突然と剣を置いてしまった。そして、軍医になったのだ。たまたまそちらの才能もあったから今があるが、そうでなければ何をしていたのか。
「どうして、剣を置いたのですか」
グリフィスの問いに、ロアールは口を閉ざして考えた。遠くを見る目は、してグリフィスをみようとはしない。だが、逃げる様子もない。とても不思議な存在に思えた。逃げないけれど、近づかせない。掴みどころがなかった。
「グリフィス、お前は家族を殺された子供の顔を、見たことがあるか?」
「それは……」
不意の問いに、グリフィスの表情は曇る。グリフィスにも覚えがある。仲間を、友を、家族を殺された人の顔は鬼のようだ。本当にこのまま殺されるかもしれないと思えるくらいの、憎しみの顔だ。
「俺は、生きてる人間が好きなんだ。人ってのは生きて笑ってる姿が一番綺麗でいいんだよ。俺はその為に戦っていると思っていた。だが……そうじゃないんだよな」
「言いたい事は、分かります」
戦は人が死ぬ。笑う人間もいる。だが、泣く人間もいる。憎しみが生まれる。この先に笑って暮らせる世界があるというけれど、時々それが見えなくなる。奪い尽くし、殺しつくすまで終われない。そんな思いを抱いた事がグリフィスにはあった。
「グリフィス、お前は何の為に戦う? 利権を貪る狸どもと戦って、若い王を立てるその先に、本当に未来は見えるのか?」
ロアールは絶望したのだろう。終わりの見えない戦いの日々に疲弊し、見ていた未来を見失ったのだろう。ならば、剣を置いた理由も頷ける。
だがグリフィスは違った。まだ大きすぎて見えない未来を捉えるのは容易ではないが、ユリエルという王を通してならば見えるように思えた。
「俺は、笑って剣を置いて暮らせる世界を見ています」
「くると思うのか?」
「信じなければ何も得られないと思いますが? 俺は、信じる事にしたのです。ユリエル様はそれを叶えるために力を尽くしている。支えるのが、俺の役目です」
信念は貫かなければ叶わない。叶えなければならないのだ、犠牲になった全ての者の為にも、自分の為にも。これまでを無駄にはできない。
ロアールが深く瞳を閉じる。そして、ぽつりと呟いた。
「俺は今でも覚えている。たった十二の子供が、母親の墓前で涙を流す事もできずに黙っていた。倒れてしまいそうな程幼いのに、倒れないと意地になっていた姿を」
「それは……」
ユリエルの幼い頃の話はグリフィスも知っている。ロアールはユリエルの剣の師だ。ユリエルの今の剣は、ロアールのそれを引き継いでいる。
「あの姿を見ると、俺は可哀想に見えた。人はあいつを強いと言うが、俺には今でも強がりに見える。グリフィス、あいつの強さは脆さがある。大きすぎる期待を背負い、毒を抱えたまま無茶をする。一人にするなよ」
「勿論、一人になどしません」
誓うように言うと、ロアールは頷いて背を向ける。ひらひらと手を振って、その場を後にしてしまう。
残されたグリフィスは頭をかいて剣を納め、自室へと戻っていった。
◆◇◆
▼ルーカス&ユリエル
遠く、ルーカスは空を見ていた。薄い雲が月を隠し、その姿を見る事ができない。それはまるで今の心のように思えた。
一人の室内はとても静かで寂しく、人恋しい。ルーカスは布団に潜り込み、手繰り寄せるように抱きしめる。自分一人の体温が虚しい。傍にいて欲しい人の姿はない。あるのは影だけ。思い描く幻像だけ。
「リューヌ」
君はこの空をどう見る。悲しく思うだろうか。俺には、心を映したように思える。戦など、君は嫌うだろう。それを今、行おうとしている。軽蔑するだろうか。
次に会う時、どんな顔をしていいか分からない。だがそれも、明日生きていればの話だが。
そんな事を考えながら、ルーカスはぶつりと思考を止めた。これに何の意味もないと分かっている。こんな事を今思っても彼が傍にいてくれるわけでもなく、苦しくなるばかりだ。
諦めて瞳を閉じる。けれどこの日、なかなか眠りは訪れなかった。
◆◇◆
ユリエルもまた、眠れぬ夜を過ごしていた。レヴィンに起こされ、すっかり眠れる気がしなくなっていた。
仕方なく窓際に移動し、空を見る。けれどそこに月はなかった。
「今夜は、月が出ていませんね」
彼は今、どこにいるだろう。同じように、空を眺めているだろうか。
「エトワール」
貴方の知らない所で、貴方の知らない私はどんどんこの手を血に染める。敵も味方もなく。この穢れを、どう洗えばいい? どんなに飾っても、偽っても、どんどん貴方に似合わぬ者になっていく。
ユリエルは考えるのを止めて、布団の中に潜り込んだ。眠りなど訪れないだろうが、それでも起きている意味がなかった。ならば、少しでも体を休める事にしたのだ。
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