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11章:森を越えて
4話:前線砦
とにかく急ぎたい。コナンの体を毛布にくるんだアルブレヒトが自身の馬に大切に乗せ、コナンの馬には捉えた捕虜二人を拘束して乗せ、コンラッドの馬に繋いだ。
そうして取るものも取りあえず馬を走らせている。
走るランバートの更に先をゼロスとボリスが走り、敵の姿がないかを気にしながら進んでいる。
ランバートの隣に並走するようアルブレヒトが馬をつけた。様子が違えばすぐに馬を止める事になっている。その為、クリフも側についた。
気持ち悪い感じだ。毒が塗られていた事は間違いがないのに、毒の特定ができていない。更に本人に自覚できる症状が今はない。現状、検査もできないのだからどんな毒でどんな症状が出るか分からない。
毒はバカにできない。一気に致死量を煽れば急激な中毒症状がその場で出る。だが急性中毒を起こさなくても侮れば死ぬのだ。むしろ、遅効性の方が厄介かもしれない。いつ毒を受けたのかも分からず、初期治療もできず、症状が出た時には手遅れの時もある。
今回は毒を受けた可能性が高いのが如実だった。だから本人の意識があるうちに活性炭を飲んでもらった。本来は経口摂取による毒の吸着に力を発揮して体外排出をするものだが、血中の毒素も吸着させて外に出す事が軍医の研究で分かってきている。
何よりもまず、治療できる環境につれて行く事が先決だ。
そうして馬を走らせていると、不意にアルブレヒトの手が上がり隊列が止まった。
「コナン?」
声をかけるアルブレヒトに僅かな反応を示したコナンは、必死で息をしている様子だった。
「どうしたコナン?」
気持ちは焦ったが、穏やかに聞いた。声が小さい可能性もある。馬を降り、脇の草地に横にして、クリフも側にきた。
「なんか、ね、苦しい」
「他は?」
「目が、回る……胸の辺りが、へん……」
本人に自覚のある症状はこのくらいなのか、それとも辛いのか。だが、口角が上がりきらず唇が震えている。指先も違和感がある。
「馬を走らせている間、僅かですが嘔吐く感じもありました」
クリフがすぐに脈を測り始め、すぐに異変に気付いた。
「脈の触れ方がおかしい。一定に触れない」
「事件から二時間経つか経たないかだ」
毒の事ならと側にいたチェルルが時間を確認する。
不整脈、嘔吐感、胸部不快感、唇の痺れ、動悸、めまい、毒を受けて二時間程度での自覚症状。
「ランバート、多分」
「俺もそうだと思う。多分、トリカブトだ」
それを聞いてクリフは直ぐさま自分の荷物を持ってきて中を開ける。その間に、コナンの意識は混濁していく。
「これ!」
クリフが出したのは局部麻酔に使う麻酔薬。それを注射して、再び脈を測り始めた。
「ハムレットさんが教えてくれたんだけど、最近一部の局部麻酔薬に不整脈症状の改善が見られるって。まだ臨床段階だけど、トリカブトならこのまま症状進むと心臓が止まっちゃう」
細かく状態を見ながらクリフは冷静に判断していった。とにかく安静に、足を荷物で上げさせ、体を冷やさないようにして脈拍が落ち着きを見せるまで待っている。
「彼は頼もしいですね」
「アルブレヒトさん?」
隣りに来たアルブレヒトが感心したように言う。その目は真剣に、クリフへと注がれていた。
「私は加護を与え、人の持つ可能性を高めてあげることしかできません。直接の医療知識はないのです。けれど彼は仲間が倒れて冷静さを欠くような状況でも、こうして頑張ろうとしている。私にはできない事です」
「頼もしく、強い仲間ですよクリフは。彼がいるから俺達は力を発揮して恐れずに進めるんです」
ランバートの言葉に、アルブレヒトも強く頷いた。
やがて意識はないものの落ち着いてきて、移動となった。砦まではあと少し。先に砦まで走ってもらったチェルルとゼロスが状況を伝えに行ってくれた。
空が僅かに明るくなる頃、一行は無事に前線砦に到着した。
待ち受けていたエリオットはとにもかくにもコナンを治療するために処置室に引きこもった。
一同はとりあえず砦の中に入り、捕虜二人は牢に幽閉した。何もないか口の中まで全部チェックをして、服は下着まで没収して着替えさせ、爪も深爪気味に切った。こうした部分に毒を仕込んでいた場合、自害の可能性があったからだ。
そうしてバタバタしたのだが、予想に反して人数が少ない。状況がまた変わったのだろう。
一時間程度してエリオットが穏やかな表情で戻ってくる。この顔を見ると、もう大丈夫なのだという気持ちになった。
「彼はエイルの加護を強く受けていますね」
アルブレヒトがエリオットを見た瞬間の言葉がこれだ。なんて心強い。医療府の長に送られる称号は『エイル』という。最良の医者と呼ばれる女神の名だ。
「エリオット様、コナンは」
不安そうにしていたクリフの頭を、エリオットは柔らかく笑って撫でる。そして確かに頷いた。
「初期治療が適切で早かったので、今は落ち着いていますよ。頑張りましたね、クリフ」
「! よかった」
嬉しさと安堵から瞳を濡らしたクリフに笑いかけたエリオットがこちらを向く。そして静かに頷いて、会議室へと全員を促した。
この砦は現在、エリオットが預かっているらしい。それというのも、本来砦を預かるファウストとアシュレーが前線を更に引き上げた事にあるようだ。
「状況が変わったのは今から四日ほど前です。毎日のように兵士とは思えない者が砦から出されていたのですが、それも途絶えたので密偵を入れてラジェーナ砦を捜索、無人であることを確認し、罠がないかも確認して入りました」
敵砦の占拠は本来ならばよいことだ。前線を上げ、敵国に攻め入る足がかりができる。
だがエリオットはここにいる。ラジェーナ砦に本来はいるはずだ。
「ラジェーナ砦占拠後一時間で、状況は変わりました。井戸の水を飲んだ馬二頭が突如泡を吹いて倒れ、死にました」
「な!」
会議室の中が騒然となった。それは、ランバートだって同じだ。
「井戸に毒を混ぜたのですか」
「全ての井戸を早急に調査した結果、相当量の毒が入っていました。死亡被害は馬二頭、重篤な中毒を起こした隊員が一名、軽度中毒の者が五名。どれも馬の世話をしていた者で、水を口にしていました。ある意味馬が犠牲になったことで人的な被害は軽微でしたが、流石にこの砦に入る事に躊躇いを感じました」
苦々しい顔をしたエリオットの気持ちは分かる。そして、これは通常考えたくないことだ。
井戸の水を汚染することは、絶体絶命の状況以外では考えたく無い。それというのも戦況が変わり、砦を取りもどした時に相手もこの井戸を使えなくなるからだ。
井戸を汚染するのは砦を完全に捨てる事。自害すらも覚悟した籠城状態ならば分からない事はないが、こんな序盤で使う手ではない。
アルブレヒトの目はとても怖い。トントンと、机を打つ音が響くのみだ。
「取るに足らない駒がどれだけ減ろうと構わない。そういうやり方ですね」
「ファウストもそれに怒りを感じていました」
「前線は、今どこに?」
「ラジェーナ砦を引き払う寸前、前方の荒野に一団が出現し戦闘が始まり、第一部隊とファウストは野営を張って現在も応戦中です。場所はラジェーナ砦から数百メートル先です」
「現状、どのような対応を?」
「日に数回、こちらから安全な食料や水を運び入れると同時に、重傷患者が出た場合はこの砦まで運び入れています。ラジェーナ砦は他にどんなものがあるか分かりませんから、医療の場として使用するのも気持ち悪いので。ただ、これ以上前線が上がる場合には野戦施設に切り替えて砦を後続隊に任せるつもりです」
現状、攻め入っているのは帝国だ。だが追い詰められているのも、帝国のようだった。
「気持ちの悪い戦だな」
ゼロスの言葉を全員が肯定する。それほどに、この場には嫌な気配が漂っていた。
その後、コナンは意識も回復して話もできた。これにはほっとする。
だがその夜、井戸水を飲んで重篤な中毒を起こした隊員は亡くなった。砦にいる全員で祈りを捧げ、最後の食事や世話をして荷馬車に乗せ、王都へと送った。
やるせない気分だ。戦って死んだのとはまた違う、暗く沈んだ気持ちだった。
更に翌日、ランバートとチェルル、クリフがラジェーナ砦へと入り井戸の水を改めて調べた。毒性が高い事は分かったが、何かが分からない状態だったからだ。
封を解いた途端、酷い異臭がして思わず三人はもう一度蓋をしてしまった。酷い吐き気のするものだ。
だが同時にこの臭いだけで、何をしたのか理解もした。
奴等は死体を井戸に投げ込んだのだ。しかも、大量に。
動物には多くの潜在菌、寄生虫、病気がある。腐敗すれば人間だって分かりはしない。水の量が豊富なのをいい事に、奴等は動物や人間の死体を投げ入れていたのだ。
「これじゃ、この下の水源もやばい。下流の川も調べよう」
砦から下流に下った湧き水は、小さな泉となっていた。だがそれはもう、生き物が生きられない場所だった。小魚が浮き上がった泉を見て、全員がそれを悟ったのだった。
「この付近に港はないし、漁場もないのが幸いかな……。でも、海にこれが流れているとすると水質汚染もヤバイかも」
「報告だけど、井戸の中は今どうしようもない。抜いた水を地に撒く事もできないし、土で埋める事も水量があると効果がない。早く中のものを浚ってしまうのが一番だけれど……」
もう、それ以上の言葉がなかった。
砦に戻り報告すると、アルブレヒトの視線は更に厳しいものになった。完全にイライラしているが、考えはランバートと同じだ。今は井戸を封じ、周辺の下流の泉に人を近づかせない事で被害を減らす事しかできない。
肉体的には疲れていないのに、精神的な疲弊は酷い。ぐったりしてしまったが、その中でも吉報があった。
捉えた二人の捕虜が、自分達の身の上をぽつりぽつり語り始めたのだ。
地下の牢へ向かうと、ハクインがとても真剣に女性弓兵の話を聞いていた。彼女は泣いていて、切々と何かを話している。表情にも目にも光があって、真っ当なんだと分かった。
「彼はとても優秀だな」
コンラッドとゼロスが苦笑してボリスを見るが、ボリスの方は不機嫌に視線を逸らし、「時間なかったし」と言い訳をした。
牢に入ると彼女は怯え、ハクインは穏やかに宥めている。そして彼女の口から直接、ここに至った経緯を聞いた。
「私は、ラン・カレイユで冒険者をしていた者です。一緒に捕まったのは、同じく冒険者をしていた夫です」
彼女はまず、そこから話し出していた。
「結婚して一年、ラン・カレイユの戦が激化して私達も参戦する事になったのですが……結果は見てのとおり。囚われた私達には、選べる道は一つでした」
「それは?」
「……私には、年の離れた弟がいて……その子をジェームダルの宰相を名乗る男に囚われてしまったのです。弟を惨たらしく殺されたくなければ、帝国を攻撃する手駒となれと」
ブルブル震えた彼女の目から涙が落ちていく。心中を察するに、なんともやるせない気分になる。
「私だけじゃありません。あの森にいた者はみんな、人質を取られて命令されて! どうしよう……私が囚われたと知ったらあの子、きっと殺されてしまう」
顔を覆って泣いた女性からはもう、敵対の意志も何も残っていないように見えた。
アルブレヒトにその事を報告するのは、とても怖く思えた。それでなくても最近は機嫌がすこぶる悪い。ついでに気分も悪いらしい。
それでもエリオットとアルブレヒトに報告しないわけにはいかない。溜息をつきながら、ランバートは彼女から聞いた話を伝えた。
「その子、既に死んでいますよ」
「え?」
アルブレヒトの言葉に、エリオットもランバートも言葉を飲んだ。嫌な空気が辺りを包んでいく。
「彼女の周りに、ずっと男の子がいましたが……そう、弟でしたか。あまりに存在が弱くて、話ができなかったのですが」
「一体、いつ……」
「数日しか経っていません。彼女が帝国へ向かった後、すぐといった感じですか」
「酷い……なんて惨いことを」
エリオットまで睨むように体を震わせている。ランバートにも怒りが湧いてくる。まるでスラム時代の苦しい思いが戻ってきたようだ。
「ランバート、憎しみに呑まれては大義を見失います。貴方の大切な人が悲しむ事は、すべきではありませんよ」
やんわりと言われ、思いとどまる。剣に触れ、気持ちを落ち着かせた。
この剣は背負った十字架。過去を背負い、同じ過ちを繰り返さないための戒めでもある。そしてこの剣で未来を切り開いていく。そうすることで、過去を清算するのだ。
「敵の宰相、ナルサッハは手に入れたラン・カレイユを兵を供給するための道具としているようです。自国から犠牲を多く出せば批判が強いから」
「占領地を私物化し、関係のない人々を捕らえては戦場に投入しているということですか?」
「えぇ。捕らえられたという他の捕虜も大陸公用語をあまり分かっていませんでした。ランバートに確認を取ると、ラン・カレイユの言葉だとか。彼らはラン・カレイユの田舎などで暮らしていた人です」
確信を持つアルブレヒトは、更に恐ろしい事を口にした。
「ラン・カレイユから兵を投入し、こちらの疲弊を待っているかもしれません。彼の国をどうにかしなければ、兵を削ぐことができません。あいつはきっとラン・カレイユから人が消えてもなんとも思わない」
どうにかしなければ、このままでは前線維持も危うい状況になりかねない。
「ラン・カレイユを早急に落とす必要も、出てきたかもしれません」
これ以上の闘いの拡大は気にもかかる。だが、そうも言っていられない状況なのは明らかだった。
そうして取るものも取りあえず馬を走らせている。
走るランバートの更に先をゼロスとボリスが走り、敵の姿がないかを気にしながら進んでいる。
ランバートの隣に並走するようアルブレヒトが馬をつけた。様子が違えばすぐに馬を止める事になっている。その為、クリフも側についた。
気持ち悪い感じだ。毒が塗られていた事は間違いがないのに、毒の特定ができていない。更に本人に自覚できる症状が今はない。現状、検査もできないのだからどんな毒でどんな症状が出るか分からない。
毒はバカにできない。一気に致死量を煽れば急激な中毒症状がその場で出る。だが急性中毒を起こさなくても侮れば死ぬのだ。むしろ、遅効性の方が厄介かもしれない。いつ毒を受けたのかも分からず、初期治療もできず、症状が出た時には手遅れの時もある。
今回は毒を受けた可能性が高いのが如実だった。だから本人の意識があるうちに活性炭を飲んでもらった。本来は経口摂取による毒の吸着に力を発揮して体外排出をするものだが、血中の毒素も吸着させて外に出す事が軍医の研究で分かってきている。
何よりもまず、治療できる環境につれて行く事が先決だ。
そうして馬を走らせていると、不意にアルブレヒトの手が上がり隊列が止まった。
「コナン?」
声をかけるアルブレヒトに僅かな反応を示したコナンは、必死で息をしている様子だった。
「どうしたコナン?」
気持ちは焦ったが、穏やかに聞いた。声が小さい可能性もある。馬を降り、脇の草地に横にして、クリフも側にきた。
「なんか、ね、苦しい」
「他は?」
「目が、回る……胸の辺りが、へん……」
本人に自覚のある症状はこのくらいなのか、それとも辛いのか。だが、口角が上がりきらず唇が震えている。指先も違和感がある。
「馬を走らせている間、僅かですが嘔吐く感じもありました」
クリフがすぐに脈を測り始め、すぐに異変に気付いた。
「脈の触れ方がおかしい。一定に触れない」
「事件から二時間経つか経たないかだ」
毒の事ならと側にいたチェルルが時間を確認する。
不整脈、嘔吐感、胸部不快感、唇の痺れ、動悸、めまい、毒を受けて二時間程度での自覚症状。
「ランバート、多分」
「俺もそうだと思う。多分、トリカブトだ」
それを聞いてクリフは直ぐさま自分の荷物を持ってきて中を開ける。その間に、コナンの意識は混濁していく。
「これ!」
クリフが出したのは局部麻酔に使う麻酔薬。それを注射して、再び脈を測り始めた。
「ハムレットさんが教えてくれたんだけど、最近一部の局部麻酔薬に不整脈症状の改善が見られるって。まだ臨床段階だけど、トリカブトならこのまま症状進むと心臓が止まっちゃう」
細かく状態を見ながらクリフは冷静に判断していった。とにかく安静に、足を荷物で上げさせ、体を冷やさないようにして脈拍が落ち着きを見せるまで待っている。
「彼は頼もしいですね」
「アルブレヒトさん?」
隣りに来たアルブレヒトが感心したように言う。その目は真剣に、クリフへと注がれていた。
「私は加護を与え、人の持つ可能性を高めてあげることしかできません。直接の医療知識はないのです。けれど彼は仲間が倒れて冷静さを欠くような状況でも、こうして頑張ろうとしている。私にはできない事です」
「頼もしく、強い仲間ですよクリフは。彼がいるから俺達は力を発揮して恐れずに進めるんです」
ランバートの言葉に、アルブレヒトも強く頷いた。
やがて意識はないものの落ち着いてきて、移動となった。砦まではあと少し。先に砦まで走ってもらったチェルルとゼロスが状況を伝えに行ってくれた。
空が僅かに明るくなる頃、一行は無事に前線砦に到着した。
待ち受けていたエリオットはとにもかくにもコナンを治療するために処置室に引きこもった。
一同はとりあえず砦の中に入り、捕虜二人は牢に幽閉した。何もないか口の中まで全部チェックをして、服は下着まで没収して着替えさせ、爪も深爪気味に切った。こうした部分に毒を仕込んでいた場合、自害の可能性があったからだ。
そうしてバタバタしたのだが、予想に反して人数が少ない。状況がまた変わったのだろう。
一時間程度してエリオットが穏やかな表情で戻ってくる。この顔を見ると、もう大丈夫なのだという気持ちになった。
「彼はエイルの加護を強く受けていますね」
アルブレヒトがエリオットを見た瞬間の言葉がこれだ。なんて心強い。医療府の長に送られる称号は『エイル』という。最良の医者と呼ばれる女神の名だ。
「エリオット様、コナンは」
不安そうにしていたクリフの頭を、エリオットは柔らかく笑って撫でる。そして確かに頷いた。
「初期治療が適切で早かったので、今は落ち着いていますよ。頑張りましたね、クリフ」
「! よかった」
嬉しさと安堵から瞳を濡らしたクリフに笑いかけたエリオットがこちらを向く。そして静かに頷いて、会議室へと全員を促した。
この砦は現在、エリオットが預かっているらしい。それというのも、本来砦を預かるファウストとアシュレーが前線を更に引き上げた事にあるようだ。
「状況が変わったのは今から四日ほど前です。毎日のように兵士とは思えない者が砦から出されていたのですが、それも途絶えたので密偵を入れてラジェーナ砦を捜索、無人であることを確認し、罠がないかも確認して入りました」
敵砦の占拠は本来ならばよいことだ。前線を上げ、敵国に攻め入る足がかりができる。
だがエリオットはここにいる。ラジェーナ砦に本来はいるはずだ。
「ラジェーナ砦占拠後一時間で、状況は変わりました。井戸の水を飲んだ馬二頭が突如泡を吹いて倒れ、死にました」
「な!」
会議室の中が騒然となった。それは、ランバートだって同じだ。
「井戸に毒を混ぜたのですか」
「全ての井戸を早急に調査した結果、相当量の毒が入っていました。死亡被害は馬二頭、重篤な中毒を起こした隊員が一名、軽度中毒の者が五名。どれも馬の世話をしていた者で、水を口にしていました。ある意味馬が犠牲になったことで人的な被害は軽微でしたが、流石にこの砦に入る事に躊躇いを感じました」
苦々しい顔をしたエリオットの気持ちは分かる。そして、これは通常考えたくないことだ。
井戸の水を汚染することは、絶体絶命の状況以外では考えたく無い。それというのも戦況が変わり、砦を取りもどした時に相手もこの井戸を使えなくなるからだ。
井戸を汚染するのは砦を完全に捨てる事。自害すらも覚悟した籠城状態ならば分からない事はないが、こんな序盤で使う手ではない。
アルブレヒトの目はとても怖い。トントンと、机を打つ音が響くのみだ。
「取るに足らない駒がどれだけ減ろうと構わない。そういうやり方ですね」
「ファウストもそれに怒りを感じていました」
「前線は、今どこに?」
「ラジェーナ砦を引き払う寸前、前方の荒野に一団が出現し戦闘が始まり、第一部隊とファウストは野営を張って現在も応戦中です。場所はラジェーナ砦から数百メートル先です」
「現状、どのような対応を?」
「日に数回、こちらから安全な食料や水を運び入れると同時に、重傷患者が出た場合はこの砦まで運び入れています。ラジェーナ砦は他にどんなものがあるか分かりませんから、医療の場として使用するのも気持ち悪いので。ただ、これ以上前線が上がる場合には野戦施設に切り替えて砦を後続隊に任せるつもりです」
現状、攻め入っているのは帝国だ。だが追い詰められているのも、帝国のようだった。
「気持ちの悪い戦だな」
ゼロスの言葉を全員が肯定する。それほどに、この場には嫌な気配が漂っていた。
その後、コナンは意識も回復して話もできた。これにはほっとする。
だがその夜、井戸水を飲んで重篤な中毒を起こした隊員は亡くなった。砦にいる全員で祈りを捧げ、最後の食事や世話をして荷馬車に乗せ、王都へと送った。
やるせない気分だ。戦って死んだのとはまた違う、暗く沈んだ気持ちだった。
更に翌日、ランバートとチェルル、クリフがラジェーナ砦へと入り井戸の水を改めて調べた。毒性が高い事は分かったが、何かが分からない状態だったからだ。
封を解いた途端、酷い異臭がして思わず三人はもう一度蓋をしてしまった。酷い吐き気のするものだ。
だが同時にこの臭いだけで、何をしたのか理解もした。
奴等は死体を井戸に投げ込んだのだ。しかも、大量に。
動物には多くの潜在菌、寄生虫、病気がある。腐敗すれば人間だって分かりはしない。水の量が豊富なのをいい事に、奴等は動物や人間の死体を投げ入れていたのだ。
「これじゃ、この下の水源もやばい。下流の川も調べよう」
砦から下流に下った湧き水は、小さな泉となっていた。だがそれはもう、生き物が生きられない場所だった。小魚が浮き上がった泉を見て、全員がそれを悟ったのだった。
「この付近に港はないし、漁場もないのが幸いかな……。でも、海にこれが流れているとすると水質汚染もヤバイかも」
「報告だけど、井戸の中は今どうしようもない。抜いた水を地に撒く事もできないし、土で埋める事も水量があると効果がない。早く中のものを浚ってしまうのが一番だけれど……」
もう、それ以上の言葉がなかった。
砦に戻り報告すると、アルブレヒトの視線は更に厳しいものになった。完全にイライラしているが、考えはランバートと同じだ。今は井戸を封じ、周辺の下流の泉に人を近づかせない事で被害を減らす事しかできない。
肉体的には疲れていないのに、精神的な疲弊は酷い。ぐったりしてしまったが、その中でも吉報があった。
捉えた二人の捕虜が、自分達の身の上をぽつりぽつり語り始めたのだ。
地下の牢へ向かうと、ハクインがとても真剣に女性弓兵の話を聞いていた。彼女は泣いていて、切々と何かを話している。表情にも目にも光があって、真っ当なんだと分かった。
「彼はとても優秀だな」
コンラッドとゼロスが苦笑してボリスを見るが、ボリスの方は不機嫌に視線を逸らし、「時間なかったし」と言い訳をした。
牢に入ると彼女は怯え、ハクインは穏やかに宥めている。そして彼女の口から直接、ここに至った経緯を聞いた。
「私は、ラン・カレイユで冒険者をしていた者です。一緒に捕まったのは、同じく冒険者をしていた夫です」
彼女はまず、そこから話し出していた。
「結婚して一年、ラン・カレイユの戦が激化して私達も参戦する事になったのですが……結果は見てのとおり。囚われた私達には、選べる道は一つでした」
「それは?」
「……私には、年の離れた弟がいて……その子をジェームダルの宰相を名乗る男に囚われてしまったのです。弟を惨たらしく殺されたくなければ、帝国を攻撃する手駒となれと」
ブルブル震えた彼女の目から涙が落ちていく。心中を察するに、なんともやるせない気分になる。
「私だけじゃありません。あの森にいた者はみんな、人質を取られて命令されて! どうしよう……私が囚われたと知ったらあの子、きっと殺されてしまう」
顔を覆って泣いた女性からはもう、敵対の意志も何も残っていないように見えた。
アルブレヒトにその事を報告するのは、とても怖く思えた。それでなくても最近は機嫌がすこぶる悪い。ついでに気分も悪いらしい。
それでもエリオットとアルブレヒトに報告しないわけにはいかない。溜息をつきながら、ランバートは彼女から聞いた話を伝えた。
「その子、既に死んでいますよ」
「え?」
アルブレヒトの言葉に、エリオットもランバートも言葉を飲んだ。嫌な空気が辺りを包んでいく。
「彼女の周りに、ずっと男の子がいましたが……そう、弟でしたか。あまりに存在が弱くて、話ができなかったのですが」
「一体、いつ……」
「数日しか経っていません。彼女が帝国へ向かった後、すぐといった感じですか」
「酷い……なんて惨いことを」
エリオットまで睨むように体を震わせている。ランバートにも怒りが湧いてくる。まるでスラム時代の苦しい思いが戻ってきたようだ。
「ランバート、憎しみに呑まれては大義を見失います。貴方の大切な人が悲しむ事は、すべきではありませんよ」
やんわりと言われ、思いとどまる。剣に触れ、気持ちを落ち着かせた。
この剣は背負った十字架。過去を背負い、同じ過ちを繰り返さないための戒めでもある。そしてこの剣で未来を切り開いていく。そうすることで、過去を清算するのだ。
「敵の宰相、ナルサッハは手に入れたラン・カレイユを兵を供給するための道具としているようです。自国から犠牲を多く出せば批判が強いから」
「占領地を私物化し、関係のない人々を捕らえては戦場に投入しているということですか?」
「えぇ。捕らえられたという他の捕虜も大陸公用語をあまり分かっていませんでした。ランバートに確認を取ると、ラン・カレイユの言葉だとか。彼らはラン・カレイユの田舎などで暮らしていた人です」
確信を持つアルブレヒトは、更に恐ろしい事を口にした。
「ラン・カレイユから兵を投入し、こちらの疲弊を待っているかもしれません。彼の国をどうにかしなければ、兵を削ぐことができません。あいつはきっとラン・カレイユから人が消えてもなんとも思わない」
どうにかしなければ、このままでは前線維持も危うい状況になりかねない。
「ラン・カレイユを早急に落とす必要も、出てきたかもしれません」
これ以上の闘いの拡大は気にもかかる。だが、そうも言っていられない状況なのは明らかだった。
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※ 第12回BL大賞では、たくさんの応援をありがとうございました!
ユリウスが暮らすシャマラーン帝国では、平民のオメガは18才になると、宮廷で開かれる選定の儀に参加することが義務付けられている。王族の妾となるオメガを選ぶためのその儀式に参加し、誰にも選ばれずに売れ残ったユリウスは、国王陛下から「第3王弟に謀反の疑いがあるため、身辺を探るように」という密命を受け、オメガ嫌いと噂される第3王弟ラインハルトの従僕になった。
無口で無愛想な彼の優しい一面を知り、任務とは裏腹にラインハルトに惹かれていくユリウスであったが、働き始めて3カ月が過ぎたところで第3王弟殿下が辺境伯令嬢の婿養子になるという噂を聞き、従僕も解雇される。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまの第2回BL小説漫画コンテストで『文が癒されるで賞』をいただきました。応援してくださった皆さまのおかげです。心から、ありがとうございます!
表紙は、ぱくたそ様よりsr-karubi様の写真をお借りしました。ありがとうございます!