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ハムレット&チェルル
君を忘れない
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始まりは、本当に些細な物忘れだった。
「ねえ、猫くん。診療鞄どこか知らない?」
「え? それならいつもの所にあるよ先生?」
「え? ……あ、れ? 本当だ」
「……」
歳なのはその通りだった。ショックな事もあった。大事なランバートの方が先に死ぬなんて、この人は想像もしていなかったんだ。
でも少しずつ、少しずつ……砂時計の砂がこぼれ落ちていくみたいに、先生の記憶は消えていった……。
◇◆◇
何でもない朝。一日の始まりは先生を起こす所から始まる。
綺麗にしている部屋で寝る先生は随分と歳を取っていて、栗色の髪はすっかり白くなった。食事もむずがって食べたり食べなかったりだから痩せてしまったし、筋力も落ちた。
それでも、俺にとっては大事な先生のままなんだ。
「先生、おはよう。朝だよ、起きて」
カーテンを開け、窓を開ける。新鮮な空気が部屋を満たしていく。
先生はゆっくりと目を開けて、こちらを見てしかめっ面をした。
「誰? なんで僕の部屋にいるの」
警戒する不機嫌な視線を受けて、痛まない部分がないわけじゃない。それでも、慣れた。もう先生の中に俺はいないんだ。
「先生の猫だよ。もぉ、拾ったの先生なのに酷いな」
「嘘だ。僕は猫なんて飼わない」
「それでも、先生が俺を拾ったんだよ」
そう言って、俺は首につけている首輪を見せる。ニアとお揃いだった赤い首輪にはこの人の文字で飼い主のところに署名がある。それを見ると苦い顔をしながらも認めなきゃいけないみたいだ。案外律儀なのだ。
「覚えてないのにな」
「拾った方はそうかもね。でも、拾われた方は覚えているよ。だって、嬉しいから」
そう、嬉しいんだよ。貴方に拾われて、楽しい時間も温かい気持ちも貰ったから。
ギュッと痛むのを、噛み殺した。あの時間はもう、先生の中にはない。忘れてしまったんだ、全部。今のあの人は十歳くらい。病弱な、昔の先生だ。
「ほら、起きたら朝ご飯だよ。食べたら少し散歩しよう」
「散歩なんてできないよ。僕は体が弱いから」
「それでもするの。体力つけないと!」
こうしてむずがる先生にご飯を食べさせて、散歩に連れ出す。入浴させたり、話をしたり。少しでも刺激を与えないとこの病気の進行は早いのだという。
きっかけは、些細な物忘れ。けれどそれは徐々に回数も深刻度も増していった。
先生は凄く荒れた。忘れていくことが怖いと。忘れたくないと。俺の事を、覚えていたいのにと泣いた。
俺も泣きたかった。忘れられて平気なわけがないんだ。でも……治らないんだ。止められないんだ。少しでも遅らせる事しかできなくて、治療方法も分からなくて……先生は徐々に子供になっていった。
それからは毎日、自己紹介から始まる。それはもう、数年続いているんだ。
唯一救いだったのは、ランバートの事も忘れてしまったことだった。
ファウストに先立たれたランバートは数年荒れた。でもある時を切っ掛けに嘘のように落ち着いた。まるで、縁が切れてしまったみたいに。
それでも騎士団には戻らず、自分達の身に起きた色々な出来事を本にした。
そしてそれが完成した年に亡くなった。肺炎だった。
先生は看取って……それでもランバートの前では泣かなかった。戻って大泣きして、泣きすぎて寝込んだくらいだった。「弟が先に死ぬなんて酷い!」と繰り返していた。
でももう、その記憶も感情もない。それだけは救いだったかもしれない。
「ねぇ、猫くん」
「ん? なに?」
「君はどうして、いつも僕の側にいるの?」
「え?」
それは、もう何年も同じ会話を繰り返してきた俺にとって予想していない質問だった。
「どうしてって……俺、先生の猫だし」
「人間じゃん」
「そうだけど」
「……これからも、側にいてくれる?」
寂しそうな表情でそう言われたら、嫌だなんて言えない。苦しいなんて言えない。言われなくてもいるつもりだし、そう誓いを立てた。けれどどこかでは辛くて逃げたくなっていたんだ。
「いるよ」
「どうして?」
「俺が、先生の事大好きだから」
これが全てだ。手がかかっても、苦しくても、泣きたくても好きなんだ。好きだから苦しいんだ。好きだから、見捨てるような事はしたくないんだ。
伝えたら、先生は赤くなった。そしてそっぽを向く。知っているよ、恥ずかしくて顔を見られないんでしょ? そういう所は昔から変わらないよ。
苦笑して、窓とカーテンを閉める。また、先生の記憶は消えてしまうんだ。
◇◆◇
翌日部屋に行ったら、カーテンが開いていた。億劫でベッドから出たがらない先生が窓辺に立っていて、こちらを見て笑った。
「おはよう、猫くん」
「!」
今、呼んだ? 猫くんって、呼んだの?
信じられなかった。初めてだった。忘れられてからずっと、ずっと……っ!
「猫くん、泣かないでよ」
「うっ……だって先生、俺っ」
嬉しくて潰れてしまいそうなんだ。幸せなのに苦しいんだ。息が上手くできないよ。
近づいた先生はそっと頬に手を伸ばして涙を拭って、昔みたいに笑った。
「猫くんって、案外泣き虫なんだね」
「っ!」
忘れていない。忘れなかった! 昨日の事は覚えている? もっと前は?
でもとにかく涙が止まらなくて、俺はずっと泣いていた。
それから、少しずつ変化が起こった。先生は五日に一回くらいは、前の日の事を覚えているようになった。
少し笑うようになった。会話を楽しむみたいだ。
でも、昔の事は覚えていない。本当に前日くらいまでを覚えているんだ。
俺は話し相手になって、庭に出て沢山色んな事を伝えた。昔の先生だったら知っている事だけど、今は知らないから楽しいみたいだ。
そうした時間を過ごすと、四日に一回は覚えているようになった。
三日に一回。二日に一回。
徐々に覚えている時間が増えたある日、先生は真剣な顔で手に花を持って俺の前にそれを出した。
「好きだよ、猫くん。僕のお嫁さんになって」
「え?」
信じられなくて目を丸くしたら、少しむくれた。顔は真っ赤だった。目は、真剣だった。
俺達は夫婦だった。性別とかはあるけれど、そこに新しい何かは生まれないけれど、それでも夫婦だった。
でも、もう何年もそうじゃなかった。その時間をこの人が忘れてしまったから。
「冗談じゃないからね」
「先生」
またドキドキする。嬉しさと幸せが込み上げて破裂してしまいそうだった。
涙が出て、苦しくて泣いたらまた頬を拭って、慰めるみたいに額にキスされる。昔もよくしてくれたものだった。
やりなおせる? 忘れたなら、また新しく。明日覚えていなくてもまた……また!
「猫くん、泣くほど嫌なの?」
「ちが……っ、嬉し、くてね……幸せ過ぎて苦しくて、涙が止まらないんだよっ」
好きだよ先生、今も昔も、これからも。ずっとずっと、大好きだよ。
その日、別荘の庭で小さな結婚式が開かれた。
花冠を付けた俺の隣には先生がいて、執事が立ち会って誓いの言葉を述べて、キスをした。先生はすごく照れて、なんだか可愛かった。
小さなケーキと、お祝いの料理と。二人でずっと居ようと、先生は言ってくれた。
その夜は、眠るのが怖かった。
凄く幸せだから、また忘れられるのが怖かったんだ。
眠れなかった。嬉しいから、明日起こしに行って「君、誰?」と言われるのは辛かった。
結局眠れないまま先生の部屋に行って、まだ眠っている先生を見ている。静かで、こうしていると面影はちゃんとあって。別人じゃないから苦しくて。
お願い、誰? なんて言わないで。俺は貴方の猫だよ。貴方が拾った黒猫だよ。好きだって、言ったじゃないか。今も好きだよ。一緒にいようって、言ったじゃないか。
俯いて、涙が落ちたその頬を、暖かな手が触れた。
「どうしたの、猫くん? 眠れないの?」
「! 覚えてる?」
「覚えてるよ。僕の猫くん、結婚式素敵だったね」
「っ!」
ふわっと笑った人を抱きしめて、俺は声を上げて泣いた。その背中を抱いて先生はよしよししてくれた。もうそれだけで、今この瞬間人生が終わればいいのにって思ってしまった。
◇◆◇
その日以来、先生は俺を忘れなかった。他は忘れたのに、俺の事だけは忘れなかった。
そして幸せな結婚式から半年後、先生は静かに息を引き取った。
葬式にはヒッテルスバッハの親族も来てくれて、皆で最後送り出した。先生はとても、静かな顔をしていた。
「先生、お疲れ様。ゆっくり休んでね」
執事と俺だけになった墓地で、俺はその墓碑を撫でて言う。思ったよりも心は静かだった。
「チェルル様」
「もう様なんていらないよ。俺は主じゃないから」
前にいた執事が病気で引退して、今はその息子。若い彼はそれでも静かに律儀に側にいて、そっと一通の手紙を差し出した。
「これは?」
「ハムレット様からです」
「先生から?」
でも、先生はもう随分前に字なんて書けなくなっていた。
疑問思って中を開けた俺は、その文字を見て固まった。
「まだ症状が出る少し前、異変が現れた頃に残されたものです。遺言だと」
「っ」
そこに綴られていたのは間違いなく先生の文字だった。綺麗な字を書くのに詰めるから少し読みにくい、小さな先生の文字だった。
『チェルルへ
これを読んでいるという事はきっと僕は死んだんだね。
ごめんね、君にはきっと凄く哀しい思いをさせたよね。それすら僕は覚えていないんだと思う。君を凄く泣かせているのにそれも分からないなんて、本当に最低な人間だ。
この病気は治らない。僕の記憶は新しい所からどんどん消えて行く。哀しい事も、幸せだったことも全部。
我慢しなくていいんだよ。見限っても恨まないよ。むしろ、忘れてしまって。君を泣かせるくらいなら、不幸にするくらいなら僕の事なんて憎んで恨んでいいから。
それでもね、僕は君と出会えた人生がとても幸せだった。君と過ごした時間は宝物だった。成人できない弱い体だと言われていたけれど、君と出会える未来があったなら頑張った甲斐があった。
これだけは、疑わないで。愛しているよ、僕の猫くん。大好きだよ、これだけは本当なんだ。
忘れたくないな、この気持ち。忘れてしまうのかな? そんなの、嫌だな……』
ここでインクは滲んでいた。涙が乾いて少しごわごわした紙。そこに、新しい涙が落ちた。
俺も、愛してるよ。今でも愛してるよ。
心配しないで、先生は忘れた後も俺の事を愛してくれたよ。好きでいてくれたよ。ずっと変わらず「僕の猫くん」って言ってくれたよ。
「チェルル様。遺言で屋敷と財産は貴方にと言付かっております」
「え?」
「残りの人生に不自由はないだろうと。私も変わらず側にいさせてください」
「だって、そんな!」
「それが、残せる形あるものだからと。不要な分はラーシャ医療学園へと寄付してくれと」
エリオットも随分前に亡くなった。それでも彼が残した学園は今や腕のいい医者を多く出している。それに、先生も関わっていた。
「……全部」
「それはいけません。貴方が幸せに余生を送る事が、ハムレット様の願いです」
こんな事を整えるくらいなら、もっと沢山話をしてよ。
でも、最後の心遣いだと言われたら受け取ろうと思う。なにより俺もそう長いわけじゃない。いい年だ。
帰り道、数日前から降り出した雪で随分寒くなっていた。
「冷えるね」
「冬の始まりですから」
そんな会話をしていた時、不意に大きな音がした。
「駄目だ! 避けてくれぇぇ!」
「!」
丁度広場へと通じる坂道の途中、凍結した道で制御を失った幌馬車がこちらへ向かってきていた。
悲鳴が上がる。そこにまだ小さな子が動けないままでいた。
「!」
ここに居れば俺は巻き込まれない。でもあの子は逃げられない。
気づいたら踏み込んでいた。昔ほど早くない。足元も悪い。完全に助けられるか分からない。それでも、やらずに見ている事はできなかった。
馬車が迫る。猛スピードだ。子供まで、あとほんの少し。あと、ほんの少しだから!
庇う事はできなかった。ただ、全部の力でその子を突き飛ばした。雪の交じる地面を滑るように転がった子は危険な場所から離れられた。
ほっとした。それと同時に、衝撃と痛みとでグチャグチャになっていた。
「チェルル様ぁぁ!」
……ぽつ、ぽつ……冷たい雪が頬に触れる。
ぼやけて掠れた視界は狭くて、遠くで悲鳴が聞こえる。体の感覚がない? 声も、出ない。
あぁ、死ぬんだな……。
思ったけれど、落ち着いていた。最後に一人、救えたかな?
子供が泣いている。色んな声が聞こえる。体が重たい。もう、目を開けていられない……。
猫くん――
声が聞こえる。知っている、少し楽しそうな優しい声。
「…………に? せ…………せ?」
ふわりと頭を撫でる優しい感触。お疲れ様って、言われているみたい。
ねぇ、すごく眠いんだ。先生、膝貸して? 昔みたいに、あったかい所で一緒に、お昼寝しよう?
Fin
「ねえ、猫くん。診療鞄どこか知らない?」
「え? それならいつもの所にあるよ先生?」
「え? ……あ、れ? 本当だ」
「……」
歳なのはその通りだった。ショックな事もあった。大事なランバートの方が先に死ぬなんて、この人は想像もしていなかったんだ。
でも少しずつ、少しずつ……砂時計の砂がこぼれ落ちていくみたいに、先生の記憶は消えていった……。
◇◆◇
何でもない朝。一日の始まりは先生を起こす所から始まる。
綺麗にしている部屋で寝る先生は随分と歳を取っていて、栗色の髪はすっかり白くなった。食事もむずがって食べたり食べなかったりだから痩せてしまったし、筋力も落ちた。
それでも、俺にとっては大事な先生のままなんだ。
「先生、おはよう。朝だよ、起きて」
カーテンを開け、窓を開ける。新鮮な空気が部屋を満たしていく。
先生はゆっくりと目を開けて、こちらを見てしかめっ面をした。
「誰? なんで僕の部屋にいるの」
警戒する不機嫌な視線を受けて、痛まない部分がないわけじゃない。それでも、慣れた。もう先生の中に俺はいないんだ。
「先生の猫だよ。もぉ、拾ったの先生なのに酷いな」
「嘘だ。僕は猫なんて飼わない」
「それでも、先生が俺を拾ったんだよ」
そう言って、俺は首につけている首輪を見せる。ニアとお揃いだった赤い首輪にはこの人の文字で飼い主のところに署名がある。それを見ると苦い顔をしながらも認めなきゃいけないみたいだ。案外律儀なのだ。
「覚えてないのにな」
「拾った方はそうかもね。でも、拾われた方は覚えているよ。だって、嬉しいから」
そう、嬉しいんだよ。貴方に拾われて、楽しい時間も温かい気持ちも貰ったから。
ギュッと痛むのを、噛み殺した。あの時間はもう、先生の中にはない。忘れてしまったんだ、全部。今のあの人は十歳くらい。病弱な、昔の先生だ。
「ほら、起きたら朝ご飯だよ。食べたら少し散歩しよう」
「散歩なんてできないよ。僕は体が弱いから」
「それでもするの。体力つけないと!」
こうしてむずがる先生にご飯を食べさせて、散歩に連れ出す。入浴させたり、話をしたり。少しでも刺激を与えないとこの病気の進行は早いのだという。
きっかけは、些細な物忘れ。けれどそれは徐々に回数も深刻度も増していった。
先生は凄く荒れた。忘れていくことが怖いと。忘れたくないと。俺の事を、覚えていたいのにと泣いた。
俺も泣きたかった。忘れられて平気なわけがないんだ。でも……治らないんだ。止められないんだ。少しでも遅らせる事しかできなくて、治療方法も分からなくて……先生は徐々に子供になっていった。
それからは毎日、自己紹介から始まる。それはもう、数年続いているんだ。
唯一救いだったのは、ランバートの事も忘れてしまったことだった。
ファウストに先立たれたランバートは数年荒れた。でもある時を切っ掛けに嘘のように落ち着いた。まるで、縁が切れてしまったみたいに。
それでも騎士団には戻らず、自分達の身に起きた色々な出来事を本にした。
そしてそれが完成した年に亡くなった。肺炎だった。
先生は看取って……それでもランバートの前では泣かなかった。戻って大泣きして、泣きすぎて寝込んだくらいだった。「弟が先に死ぬなんて酷い!」と繰り返していた。
でももう、その記憶も感情もない。それだけは救いだったかもしれない。
「ねぇ、猫くん」
「ん? なに?」
「君はどうして、いつも僕の側にいるの?」
「え?」
それは、もう何年も同じ会話を繰り返してきた俺にとって予想していない質問だった。
「どうしてって……俺、先生の猫だし」
「人間じゃん」
「そうだけど」
「……これからも、側にいてくれる?」
寂しそうな表情でそう言われたら、嫌だなんて言えない。苦しいなんて言えない。言われなくてもいるつもりだし、そう誓いを立てた。けれどどこかでは辛くて逃げたくなっていたんだ。
「いるよ」
「どうして?」
「俺が、先生の事大好きだから」
これが全てだ。手がかかっても、苦しくても、泣きたくても好きなんだ。好きだから苦しいんだ。好きだから、見捨てるような事はしたくないんだ。
伝えたら、先生は赤くなった。そしてそっぽを向く。知っているよ、恥ずかしくて顔を見られないんでしょ? そういう所は昔から変わらないよ。
苦笑して、窓とカーテンを閉める。また、先生の記憶は消えてしまうんだ。
◇◆◇
翌日部屋に行ったら、カーテンが開いていた。億劫でベッドから出たがらない先生が窓辺に立っていて、こちらを見て笑った。
「おはよう、猫くん」
「!」
今、呼んだ? 猫くんって、呼んだの?
信じられなかった。初めてだった。忘れられてからずっと、ずっと……っ!
「猫くん、泣かないでよ」
「うっ……だって先生、俺っ」
嬉しくて潰れてしまいそうなんだ。幸せなのに苦しいんだ。息が上手くできないよ。
近づいた先生はそっと頬に手を伸ばして涙を拭って、昔みたいに笑った。
「猫くんって、案外泣き虫なんだね」
「っ!」
忘れていない。忘れなかった! 昨日の事は覚えている? もっと前は?
でもとにかく涙が止まらなくて、俺はずっと泣いていた。
それから、少しずつ変化が起こった。先生は五日に一回くらいは、前の日の事を覚えているようになった。
少し笑うようになった。会話を楽しむみたいだ。
でも、昔の事は覚えていない。本当に前日くらいまでを覚えているんだ。
俺は話し相手になって、庭に出て沢山色んな事を伝えた。昔の先生だったら知っている事だけど、今は知らないから楽しいみたいだ。
そうした時間を過ごすと、四日に一回は覚えているようになった。
三日に一回。二日に一回。
徐々に覚えている時間が増えたある日、先生は真剣な顔で手に花を持って俺の前にそれを出した。
「好きだよ、猫くん。僕のお嫁さんになって」
「え?」
信じられなくて目を丸くしたら、少しむくれた。顔は真っ赤だった。目は、真剣だった。
俺達は夫婦だった。性別とかはあるけれど、そこに新しい何かは生まれないけれど、それでも夫婦だった。
でも、もう何年もそうじゃなかった。その時間をこの人が忘れてしまったから。
「冗談じゃないからね」
「先生」
またドキドキする。嬉しさと幸せが込み上げて破裂してしまいそうだった。
涙が出て、苦しくて泣いたらまた頬を拭って、慰めるみたいに額にキスされる。昔もよくしてくれたものだった。
やりなおせる? 忘れたなら、また新しく。明日覚えていなくてもまた……また!
「猫くん、泣くほど嫌なの?」
「ちが……っ、嬉し、くてね……幸せ過ぎて苦しくて、涙が止まらないんだよっ」
好きだよ先生、今も昔も、これからも。ずっとずっと、大好きだよ。
その日、別荘の庭で小さな結婚式が開かれた。
花冠を付けた俺の隣には先生がいて、執事が立ち会って誓いの言葉を述べて、キスをした。先生はすごく照れて、なんだか可愛かった。
小さなケーキと、お祝いの料理と。二人でずっと居ようと、先生は言ってくれた。
その夜は、眠るのが怖かった。
凄く幸せだから、また忘れられるのが怖かったんだ。
眠れなかった。嬉しいから、明日起こしに行って「君、誰?」と言われるのは辛かった。
結局眠れないまま先生の部屋に行って、まだ眠っている先生を見ている。静かで、こうしていると面影はちゃんとあって。別人じゃないから苦しくて。
お願い、誰? なんて言わないで。俺は貴方の猫だよ。貴方が拾った黒猫だよ。好きだって、言ったじゃないか。今も好きだよ。一緒にいようって、言ったじゃないか。
俯いて、涙が落ちたその頬を、暖かな手が触れた。
「どうしたの、猫くん? 眠れないの?」
「! 覚えてる?」
「覚えてるよ。僕の猫くん、結婚式素敵だったね」
「っ!」
ふわっと笑った人を抱きしめて、俺は声を上げて泣いた。その背中を抱いて先生はよしよししてくれた。もうそれだけで、今この瞬間人生が終わればいいのにって思ってしまった。
◇◆◇
その日以来、先生は俺を忘れなかった。他は忘れたのに、俺の事だけは忘れなかった。
そして幸せな結婚式から半年後、先生は静かに息を引き取った。
葬式にはヒッテルスバッハの親族も来てくれて、皆で最後送り出した。先生はとても、静かな顔をしていた。
「先生、お疲れ様。ゆっくり休んでね」
執事と俺だけになった墓地で、俺はその墓碑を撫でて言う。思ったよりも心は静かだった。
「チェルル様」
「もう様なんていらないよ。俺は主じゃないから」
前にいた執事が病気で引退して、今はその息子。若い彼はそれでも静かに律儀に側にいて、そっと一通の手紙を差し出した。
「これは?」
「ハムレット様からです」
「先生から?」
でも、先生はもう随分前に字なんて書けなくなっていた。
疑問思って中を開けた俺は、その文字を見て固まった。
「まだ症状が出る少し前、異変が現れた頃に残されたものです。遺言だと」
「っ」
そこに綴られていたのは間違いなく先生の文字だった。綺麗な字を書くのに詰めるから少し読みにくい、小さな先生の文字だった。
『チェルルへ
これを読んでいるという事はきっと僕は死んだんだね。
ごめんね、君にはきっと凄く哀しい思いをさせたよね。それすら僕は覚えていないんだと思う。君を凄く泣かせているのにそれも分からないなんて、本当に最低な人間だ。
この病気は治らない。僕の記憶は新しい所からどんどん消えて行く。哀しい事も、幸せだったことも全部。
我慢しなくていいんだよ。見限っても恨まないよ。むしろ、忘れてしまって。君を泣かせるくらいなら、不幸にするくらいなら僕の事なんて憎んで恨んでいいから。
それでもね、僕は君と出会えた人生がとても幸せだった。君と過ごした時間は宝物だった。成人できない弱い体だと言われていたけれど、君と出会える未来があったなら頑張った甲斐があった。
これだけは、疑わないで。愛しているよ、僕の猫くん。大好きだよ、これだけは本当なんだ。
忘れたくないな、この気持ち。忘れてしまうのかな? そんなの、嫌だな……』
ここでインクは滲んでいた。涙が乾いて少しごわごわした紙。そこに、新しい涙が落ちた。
俺も、愛してるよ。今でも愛してるよ。
心配しないで、先生は忘れた後も俺の事を愛してくれたよ。好きでいてくれたよ。ずっと変わらず「僕の猫くん」って言ってくれたよ。
「チェルル様。遺言で屋敷と財産は貴方にと言付かっております」
「え?」
「残りの人生に不自由はないだろうと。私も変わらず側にいさせてください」
「だって、そんな!」
「それが、残せる形あるものだからと。不要な分はラーシャ医療学園へと寄付してくれと」
エリオットも随分前に亡くなった。それでも彼が残した学園は今や腕のいい医者を多く出している。それに、先生も関わっていた。
「……全部」
「それはいけません。貴方が幸せに余生を送る事が、ハムレット様の願いです」
こんな事を整えるくらいなら、もっと沢山話をしてよ。
でも、最後の心遣いだと言われたら受け取ろうと思う。なにより俺もそう長いわけじゃない。いい年だ。
帰り道、数日前から降り出した雪で随分寒くなっていた。
「冷えるね」
「冬の始まりですから」
そんな会話をしていた時、不意に大きな音がした。
「駄目だ! 避けてくれぇぇ!」
「!」
丁度広場へと通じる坂道の途中、凍結した道で制御を失った幌馬車がこちらへ向かってきていた。
悲鳴が上がる。そこにまだ小さな子が動けないままでいた。
「!」
ここに居れば俺は巻き込まれない。でもあの子は逃げられない。
気づいたら踏み込んでいた。昔ほど早くない。足元も悪い。完全に助けられるか分からない。それでも、やらずに見ている事はできなかった。
馬車が迫る。猛スピードだ。子供まで、あとほんの少し。あと、ほんの少しだから!
庇う事はできなかった。ただ、全部の力でその子を突き飛ばした。雪の交じる地面を滑るように転がった子は危険な場所から離れられた。
ほっとした。それと同時に、衝撃と痛みとでグチャグチャになっていた。
「チェルル様ぁぁ!」
……ぽつ、ぽつ……冷たい雪が頬に触れる。
ぼやけて掠れた視界は狭くて、遠くで悲鳴が聞こえる。体の感覚がない? 声も、出ない。
あぁ、死ぬんだな……。
思ったけれど、落ち着いていた。最後に一人、救えたかな?
子供が泣いている。色んな声が聞こえる。体が重たい。もう、目を開けていられない……。
猫くん――
声が聞こえる。知っている、少し楽しそうな優しい声。
「…………に? せ…………せ?」
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Fin
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