妻の名は・・・

Ak_MoriMori

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妻の名は・・・

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 『キヨコ』・・・それが、私の妻の名だ。

 キヨコは・・・もうすぐ死ぬ。
 今日、死ぬかもしれない。明日、死ぬかもしれない。
 少なくとも、死を免れることは出来ない。
 あの日・・・突然、キヨコが倒れてしまったあの日から、そのように運命づけられてしまったのだ。

 原因不明の病だった。
 一度は通院して回復したものの、すぐにまた倒れてしまった。
 その病は、キヨコの命を少しずつ削り取っていく類のものだった。
 外見からはまったくわからず、体力的に衰弱しているわけでもない。
 担当の医師の説明によると、血栓のようなものが次から次へと発生し、血液の流れを悪くしているらしい。血栓の発生を抑える治療法はなく、血栓の発生が自然に止まるまで、なんとか薬物治療でしのぎ切るしかないが、血栓が発生するスピードが早くなっているらしい。残念ながら・・・医師は表情を変えずに・・・「いつお亡くなりになってもおかしくありません」と、宣告された。

 キヨコは、入院することになった・・・血栓の発生が自然に止まるまで、もしくは・・・まで。

 私は、二日に一回のペースで、キヨコの身の周りの世話のために病院に通うことにした。
 辞表を握りしめながら、キヨコの入院の期間がわからないが、しばらくの間、定時で退社できないかどうかを職場の上司と相談した。

 上司は、気の毒そうな顔をしながら、「会社のことは気にしなくていいから、しっかり、奥さんのサポートをしてくれ。」と、快諾してくれた。

 しかし、私は知っている・・・実際のところ、私という存在は、この会社にとって無用の長物なのだということを。
 だから、こんな簡単に・・・まあ、それは私の考えすぎなのかもしれない。

 私は、ありがたくその言葉に甘え、定時退社のみならず、場合によっては有給休暇を取得したり、早退させてもらった。もちろん、そうした場合は、病院に行かない日に残業することで相殺するようにした。


 キヨコが入院してから二カ月ほどたったある日・・・。

 その日は休日だった。
 休日は、できるだけキヨコと一緒に過ごすようにしている。
 とはいえ、ほんの一時間か二時間くらいである。
 キヨコは、私と長時間過ごすことを嫌がっているからだ。

 理由は、なんとなく察しがついた。
 私の表情を見るのが、嫌なのだ。
 私は、意識しているわけではないが、憐れむような目つきでキヨコを見てしまっているのだろう。そんな目つきで見られると、気が滅入ってしまうからだと思う。
 だから、無理に明るく振る舞える数時間だけ、キヨコと過ごすようにしている。

 その日は、気持ちのいい天気で、絶好の散歩日和だった。
 しかし、病院に向かう私の足取りは重い。
 いつもそうだ・・・死にゆくキヨコを見るのが、つらくてしょうがない。

 キヨコは、いつも笑顔で私のことを迎えてくれる。
 病気でつらそうな顔など一切しない。
 本人曰く、「痛みはまったくなく、少しだるいだけ」なのだそうだ。
 変わらぬ笑顔ではあるが、その顔は昔に比べ、間違いなく青白い。
 どことなく幽霊を思わせる顔を見ていると、キヨコの行く末を痛感させられ、ひどくつらい気持ちになるのだ。

 私は、キヨコの病室の前に立つと、いつもの儀式を行った。
 威勢よく右手で自分の右頬、左頬と叩き、その右手を自分に向ける。
 そうすると、自分の心の中に巣食う弱い心が、ヒューッと私の中から飛び出していくような気がするのだ。そして、左手の親指と人差し指でしっかりと自分の口角を押し上げる。

(よしッ、これで、数時間だけ・・・明るい気持ちでいられる。)


「調子はどうだい?」

 明るい声で、キヨコに声をかけながら、私は病室に入った。
 キヨコは、ベッドに腰かけていた。

「今日は、なんて神頼みしたの?」

 キヨコは、私が来るたびに「パンッ、パンッ」と威勢の良い柏手が聞こえるので、私が神頼みをしているのだと勘違いしているのだ。
 初めの頃は、真面目に「キヨコの全快」などと答えていたものだが、キヨコの反応を見るうちに真面目に答えるのを止めてしまった。

「・・・おととい、キヨコ様に生えた角がなくなっていますようにって。」

「なによ、それ? わたし、おととい、怒ったっけ?」

「いや、怒らなくてもキミには角が生えるんだ。キミは気づいていなかったかもしれないが、結婚した時から定期的に角が生えては抜け、生えては抜けを繰り返していたんだよ。きっと、角は何かのシンボルで・・・。」

「ふふふ、もういいわ。
 あなたって、本当に・・・想像力が豊かって言うか・・・くだらないことばかり思いつくのね。」

と、呆れるような顔をしたあと、弾けるような笑顔を浮かべ、

「まあ、そこがあなたの良いところなんだけどね。」

 ほんのり紅くなった笑顔は、まぶしかった。
 血色はいつもより良く・・・いや、元気な頃のキヨコの顔色そのものだった。

「今日は、ものすごく調子がいいの。全然、だるくないし・・・。
 ねえ、お願いがあるの。わたし、外に出て、散歩したい。」

 私は、キヨコの外出許可の手続きを行い、キヨコと共に病院の近くにある公園に向かった。キヨコは、体力の維持と気分転換のため、定期的に看護師とこの公園で散歩をしているらしい。

 キヨコは、体調が本当に良いのだろう、軽い足取りで私の先をどんどん歩いていく。私はキヨコに置いていかれないよう、後につづく。

「今日は、本当に調子が良さそうだね?」

「うん、きっと、今の状態・・・風前の灯ってやつね。」

「ば・・・馬鹿なことを・・・。」

「うふふ、冗談よ・・・じょうだん・・・。」

「・・・。」

 私は、呆然として立ち止まってしまった。
 キヨコは、自分の悪ふざけが度を越してしまったことに気づいたのか、私の目を見ずに私の手を取ると、私を近くのベンチに座らせた。
 そして、自分も私の隣に座ると、伏し目がちに話し始めた。

「こんなこと言うと、怒られちゃうかもしれないけど・・・わたし、もう十分生きたよ。あなたを残して、先に逝くのがちょっと申し訳ないかな・・・ごめん、変なこと言って。
 でもね、残されて悲しみながら余生を過ごすよりかは、先に逝ったほうが幸せかもって思っちゃったりもする。勝手ね、わたしって・・・。」

 キヨコは、ここまで話すと、寂し気に微笑み、空を見上げた。
 青すぎる空だった。キヨコは、そんな空をまぶしそうに見上げながら、しばらく考え込んでいるようだった。何かを思いついたのか、キヨコは軽くうなずくと、私の目をじっと見つめた。その目は、何かの決意を秘めたような目つきだった。

 私が「ごくり」と唾を飲み込んだ時、キヨコは口を開いた。
 
「実は・・・わたし、本当はもう・・・一回死んでるんだ。」

「えっ?」

「やだっ、そんな顔しないでよ・・・あはは。」

 キヨコは、ハトが豆鉄砲を食ったような顔をしている私がおかしいのだろう、私の顔を見ながらニヤニヤしていたが、すぐに笑うのを止め、真面目な顔で話を続けた。

「でもね、嘘じゃないんだよ。証明しろって言われても証明できないけどさ。
 わたしね、実は別の世界からやって来たの。」

「えっ・・・別の世界って・・・本当に大丈夫かい? キヨコ・・・。」 

「もうっ、大丈夫よ。妄想なんかじゃないよ。
 わたしは、別の世界で事故に遭って、この世界にやって来たの。
 といってもね、気がついたら、この世界にいた。
 この世界のわたしの家のベッドで寝てた・・・。
 あれっ? 事故に遭って、確か・・・死んだはずじゃって感じ。」

「ふーん・・・。」

 私は、キヨコが私のことをからかっているのだと思った。
 キヨコは、私のことを想像力豊かなくだらない人間だと思っているが、私から言わさせてもらえば、どっちもどっち、キヨコもまた、くだらない人間、いや・・・くだらないことを連発する人間なのだ。
 だからこそ、私たち二人は、今までくだらない・・・いやいや、幸せな結婚生活を送ってこれたのだと思う。

「ふーんって・・・わたしの話、信じてないでしょ!
 まあ、いいわ。信じられないのはわかってる。
 わたしも信じられなかったんだから。
 ただね、わたし、鏡に映った自分の顔を見て驚いた。だって、本当にわたしなんだもん。別の世界のわたしが、この世界のわたしになった。中身が入れ替わったのかもしれないし、上書きされたのかもしれない。そう思うと、この世界のわたしに申し訳ないのよね。」

 キヨコは、その時の出来事を思い出しているのか、遠い目つきで空を仰いだ。
 私は、やはり、キヨコの話を真に受けることが出来なかった。
 キヨコ自身、「信じられないのはわかってる」と言っていたし、とりあえず、聞き流すことにした。 
 
「ふーん・・・。」

「もうっ、少しは信じてよ!
 ただね、わたしは別の世界の人間なんだけど、この世界とわたしの世界、まったく同じなんだよね。
 異世界転生とかってさ、だいたい元の世界とまったく違う世界に行っちゃうはずなのに・・・まったく同じなんだよ。なんか・・・拍子抜けしちゃった。
 少しは期待したんだけどな・・・あっ、でもね、一つだけ違いがあった。すごく小さな違いだったけど。」

 キヨコは、興が乗って来たのか、やや興奮気味に話すようになってきた。
 やはり、体調が良いのだろう、作り話をつくるため、脳がフル回転しているのだ。
 それはそれで良いことなのかもしれないが、しかし、どこまでこの話につき合えばいいのだろう・・・と、私は思った。

「ふーん・・・。」

「もうっ、つまらないわね。少しは興味を持ってよ!
 異世界転生したはずなのに、この世界は、まったく平凡な現実世界だった。
 特に変わったイベントみたいなのは起きなかったし、起きたのは・・・あなたとの結婚、幸せな結婚生活・・・そして、これから起きるわたしの最期。」

「キヨコ・・・。」

 私は、悲し気な顔をしたキヨコを見ながら、少し後悔していた。
 キヨコの作り話が、こんな方向に向かうとはちっとも思わなかった。
 そして、私もまた、逃れられない現実を突きつけられたような気がした。
 キヨコは、そんな私の手を軽く握りしめ、話を続けた。

「キヨコ・・・か。
 それ、この世界のわたしの名前。本当のわたしの名前じゃないんだ。
 わたしの本当の名前は○○○。
 せめて・・・あなたに本当の名前で呼ばれたかったな。」
 
 キヨコは、寂し気な顔で私のことを見つめていた。
 その顔を見ていると、この件に関しては、作り話ではないような気がした。
 しかし、私には、キヨコの言う本当の名前が良く聞き取れなかった。
 普通に『キヨコ』と聞こえたが、私の発音とは少し異なる感じがした。
 『キヨコ』ではないのであれば、『キウコ』か『キユコ』なのかもしれない。

「ごめん、もう一回言ってくれるかな?」

「○ウコ・・・。」

 キヨコは微笑みながら、もう一回、ゆっくりと発音してくれた。
 しかし、やはり、私にはよく聞き取れない。

「えっと・・・キウコ?」

「違う、違う・・・けど、しょうがないね。
 たぶん、ここの世界の人たちには発音できないと思う。」

「?」

 発音できない・・・キヨコは、いったい何を言っているのだろう。
 キヨコの本当の名前・・・これもまた、作り話なのだろうか?
 だが、キヨコの寂し気な顔を見る限り、作り話とは到底思えなかった。
 それに、名前をうまく聞き取れなかったことも不可解だった。

「ごめん。変な思いさせちゃったね。もう、帰ろう・・・。」

 キヨコは、私が深く考え込んでいることに気づいたのだろう、そう声をかけると、私の手を取り、立ち上がった。
 私たち二人は、互いに肩を寄せ合い、無言のまま、病室に戻った。


 病室に戻ってから、私はキヨコに言った。

「ねえ、キヨコ。さっきの名前の件だけど・・・。紙にカタカナで書いてよ。
 なんだか気になっちゃってさ・・・。」

「うん・・・。」

 キヨコは、メモ帳とボールペンを取ると、本当の名前を書いて私に寄こした。

 そこには、『キョウコ』と書かれていた。
 なぜかはわからないが、『ヨ』が小さく書かれていた。

「『キヨウコ』か・・・。」

「ううん、違う。これは○ウコって読むの。」

「?」

 やはり、私にはうまく聞き取れなかった。
 どうしても『キウコ』か『キユコ』としか聞こえなかった。

「ごめんね、あなた。もう、忘れて。変なこと言っちゃって・・・ごめんね。」

 しかし、私は、なんとかキヨコの最後の願いを叶えたかった。
 うまく、キヨコの本当の名前を呼ぶことが出来るかはわからないが・・・。

「そうだ! もう一度、本当の名前を言ってくれ。
 こいつに録音して、何度も聴き直して、何度も発音して、キミの本当の名前を呼べるようになるからさ。」

 私は、ズボンの後ろポケットからスマートフォンを取り出し、音声メモのアプリを起動すると、キヨコの方に向けた。

「ありがとう。その気持ちだけで、もう十分よ。」

「いやいや、次に来るときには、キミのことを本当の名前で呼びたいんだ!」


 私は家に帰ると、早速、メモを見ながら、音声を聴きながら、キヨコの本当の名前『キョウコ』の発音練習を始めた。

 しかし、『キヨコ』の本当の名前『〇ウコ』の〇の部分がどうしても聴き取れなかった。『〇ウ』の箇所が、『キヨ』もしくは『キオ』、『キユ』としか聴こえないのだ。何度も繰り返し聴き、『キユ』ではなく、『キヨ』か『キオ』に近い発音であることがわかった。
 『キヨコ』でないことは確定しているので、『キオコ』が近いのだろう。しかし、音声と聴き比べると『キオコ』ではないようだ。

 発音される言葉は三文字なのは間違いない。
 頭は『キ』、最後は『コ』であることも間違いない。
 問題は、真ん中の言葉だった。私には『ウ』もしくは『オ』としか聴き取れなかった。両方を合わせた『オゥ』なのかもしれない。
 『キオゥコ』の発音は、かなり近く感じるものの、間延びした感じがするし、キヨコの音声の発音とはまるで違った。

(困ったな・・・降参するつもりはないが、まったく発音できない。
 一度、発音の仕方から教えてもらわないとダメそうだ。
 明日の仕事を早く切り上げて、病院に押しかけるか・・・。)

 そう決心すると、私はベッドに潜り込んだ。
 目をつむり、頭の中で『キョウコ』の発音方法について考え込んでいるうちに、いつの間にか眠り込んでいた。


 誰かの息遣いを感じた。
 特にニオイは感じなかったが、心地よい春風を思わせる息遣いだった。
 ゆっくりと目を開くと、そこにはキヨコがいた・・・。
 キヨコは、私の顔を覗き込むように見つめていた。

「ごめんなさい、あなた。起こしちゃった?」

 暗闇の中、なぜ見えるのかわからなかったが、キヨコは寝間着のままだった。

「なんで・・・ここに? ダメだろ、病院を抜け出しちゃ・・・。」

「うふふ、そんなはずないでしょ!
 わたしね、もうダメみたい・・・あなたの顔を最後に見たいと思ったらね、ここにいたの。きっと、神様が導いてくれたのね。わたし、無神論者だけど・・・。」

 私は、特に驚きもしなかった。
 なるほど、よく見ると、キヨコの体は、ぼんやりと白く光っている。 
 そういう奇跡がよくあるという話は、いろいろと聞いたことがある。
 まさか、自分の身に起こるとは思ってもいなかったが・・・。

「そうか、無神論者に対しても、神様は情けをかけてくれるんだね。
 わざわざ会いに来てくれてありがとう、『キョウコ』。」

「えっ、今・・・なんて言ったの?」

「『キョウコ』って・・・キミの本当の名前だろ? って・・・。
 あれっ、あんなに何度も練習しても、まったく言えなかったはずなのに・・・。  
 なんで?」

 私は、自分の口を押さえた。
 これも、神様が起こしてくれた奇跡に違いない。
 神様は、もう一人の無神論者に対しても、情けをかけてくれたようだった。

「あなたに言えるはずがないの・・・。
 だって、この世界には小さい『ヨ』がないんだもん・・・。」

「『キョウコ』か・・・美しい響きだ。
 キミの異世界転生の話、あれは本当の話だったんだね・・・。」

 キョウコは、弾けるような笑顔を浮かべると、こくんと頷いた。

「ありがとう、あなた。最後に本当の名前で呼んでくれて・・・。
 わたし、本当に幸せだった。
 つまらない異世界転生だったけど、あなたに出会えて、本当に良かった。
 もう、わたし、行かなくちゃ・・・あなた・・・今までありがとう。」

 キョウコは、私の顔を両手で包み込むと、その柔らかい唇を私の唇に押し当てた。
 キョウコの生命が、私の中に流れてくるのを感じた。
 キョウコの姿が、だんだんと薄れてく・・・。 

「待って・・・『キョウコ』!」


 自分の声で目を覚ました。まだ、深夜だった。
 私は、自分の胸に手を添えた。キョウコの温もりを感じた・・・。

「ボクのほうこそ、今までありがとう・・・キョウコ。」

 電話が慟哭するかのように鳴り響いた・・・私の心の内を代弁するかのように。
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